泡
「カイリス、わたしね」
「結婚することになったの、海の王様のお嫁さんになるんですって」
リディアという少女はカイリスの幼馴染でした。
カイリスもリディアも、特別親しかったわけではありません。幼い頃は互いの家を行き来して遊んだり誕生日を祝ったりしていましたが成長するにつれ関わりは薄まっていきました。
だからカイリスには何と答えるべきなのかわかりませんでした。
「…正直ね、ほっとしてる。恋とかよくわからないし、泡になって消えるいい機会だもん。だけどね、わたしのかわいいネリーはどうなるのかな」
ネリーはリディアの幼い妹です。
俯き、刺繍の手を止めリディアは囁くように呟きました。
不安げに揺れる瞳は空のように青く澄んでいて、カイリスはなぜだかいつも緊張してしまいます。
「おっ、おれ、が…」
「うん…?」
「俺がまとめて面倒みるから」
「あはは、どうしたの、もう。いーんだよ、カイリス」
何もよくない、と言ってしまいたいのに上手く言葉が出てきません。
「ネリーは薬師のおばさまが面倒をみてくれるって。ごめんね、側にいてあげられないって思ったらつい」
「…逃げよう、海からずっと離れたところに」
リディアはぱちりと瞬いて淡く微笑むと「カイリスがそんなこと言えるようになるなんてね」とカイリスの顔を覗き込みました。
「強くなったんだなあ。というか、わたしが君に弱いままでいて欲しかっただけなのかも」
曖昧にはぐらかしカイリスの視線なんて気にもとめずに刺繍を再開したリディアは、もう話すことはないとばかりに一針一針に集中してしまいました。
海の王様の花嫁とは、簡単に言ってしまえば生贄でしかありません。カイリスはそのことを十二分に理解しています。
カイリスが生まれてくる前いたという姉が、そうだったからです。カイリスの両親はこの辺りの出身ではありませんでしたから、最初に目をつけられたのはそこだったのでしょう。
リディアは4年ほど前に両親を亡くし、きっとそれで。
「……」
部屋を出る直前、囁くように「投げる花はね、スイートピーがいいな」と聞こえてきたことを、カイリスは無視しました。
投げる花などありはしないからです。
花嫁の為に海に投げる花なんて、ぜったいにないからです。
それでも、日々は変わらず過ぎ、日は昇り沈み海荒れと快晴は迫ってくるもの。
刺繍を完成させたリディアは村の女達に連れられて着飾り、男達に連れられて海へ出ようとしていました。
真珠のネックレス、銀の冠とヴェール、まっしろのドレス。
快晴の空の下、金色の髪が日を浴びて輝き青い瞳は海のように揺らめいていました。ネリーを見つけたリディアは穏やかな仕草で手招いてネリーを抱き寄せ、額にキスを落として頬を撫でています。何かをその耳元に囁き、自らの首元を飾っていた真珠のネックレスをつけてやると、いっとう美しく鮮やかに笑いました。
「ネリー、きれいだよ!」
「おねーちゃ、いっしょ!」
「うんうん、いっしょ。ねぇ、ネリー。お家の、お姉ちゃんの刺繍道具のしまってある棚のなかにね、ネリーへの贈り物を用意したの」
「なにー?」
「なんだろうね?帰ったら忘れず確認するんだよ」
辺りを見回し、カイリスを見つけると手を振ります。
カイリスは村の男達の位置を確認してリディアに近づきました。
「ネリーのことお願いしてもいいかな」
「なんで俺が」
「むかしカイリスがおねしょしたの、隠してあげたじゃん」
「なっ、おま、」
こんなときに、こんなふうに、なにも変わらないみたいに話していることが可怪しいのに、まるでこれからもこの日々が続くかのようにリディアは笑っていて、カイリスはやがてため息を吐き絞り出すように言いました。
「逃げるぞ」
きょとんとしたネリーの頭を撫で、旅支度を整えて顔を出した村の薬師のもとへネリーを送り出しリディアはカイリスを抱きしめ耳元で答えます。
「だめだよ、 」
とても穏やかで、凪いだ声でした。
ぱっと身を離した時には明るく無垢な少女の姿で身にまとった衣服を自慢するように回ってはしゃいでみせ、村の男の手を取って船へと歩みだしていきます。
「ね、カイリス!」
蝶が羽ばたくような軽やかさで、風になびく髪に目を細めて。
「約束ね」
出ようとする船の上で伸ばされた手にカイリスは必死に声をあげます。
もう届かないのでしょう。
それでも、伝えずに終わりにするには鮮やかすぎるその声を、言葉を、願いを、感情を。
「結婚なんてするなよ!!!」
村の男達が集まってきてカイリスを取り押さえます。
「リディア!!」
やれやれ、またか、というような慣れた様子で。
「…っ好きなんだ、ずっと、ずっと…まえから!」
珍しくもない、ありふれた話の一つ。
海の王様との結婚は喜ばしいことなのだからと村の女達がカイリスに言い聞かせ、呼ばれてきたカイリスの両親が抱きしめて宥めてきます。
仕方のないことなのだと。
新しい門出を喜んであげなさいと。
喜ばしいことなのだからと。
何が喜ばしいことなのか、脳裏に浮かぶ数多の言葉はどれもリディアに言うなと釘を差されたものばかり。
両親の手を振り払い、カイリスは家へと走り出しました。
もうカイリスの両親はあの忌まわしき風習を受け入れてしまったようでしたから、彼らはカイリスと袂を分かつのでしょう。
理由は知りません。
家から必要な物だけを取り道を迂回して海へ出て、カイリスはかつてリディアと見つけた海の秘密基地に向かいます。
洞窟、祠。
海の王様に身を捧げるに相応しい岩礁がよく見える、幼い頃は人魚がいるんだよなんて囁きあったその場所に向かって走りました。喉から血の味がしても、肺が悲鳴を上げても。
「っリディア!」
すっかり暗くなった空の下、荒い波が呑み込まんとするその岩礁の上で、リディアは星をみていたようでした。
濡れた髪、肌に張り付いたドレス。
「逃げてって言ったのに」
洞窟からはどうやってもリディアの元へは辿り着けません。
それでもカイリスは手を伸ばします。
「逃げるぞ」
「やぁだよ」
ちっとも危機感を覚えさせない温度で、蝶のように軽い少女は波を掬って、波がたてる泡のようにゆらゆらと足を揺らします。
「むかしみた人魚の正体、わかっちゃった。でも、夢がないからカイリスには教えてあーげない」
張り付くドレスを鬱陶しそうにしながらも、何が楽しいのかリディアは笑っています。
白いドレスについた貝の飾りが月明かりで鱗のようにきらめき、濡れていることもあってその光は揺らめいてみえました。
「約束、まもってくれないの?」
「した覚えが」
「泣いて家出してきたカイリスを家に泊めてあげたのは誰だっけ?」
「それはお前のおじさんとおばさんっ」
「もう、居ないでしょ」
有無を言わせぬ強い瞳は、辺りが暗いせいか光っているようで。
なにか、人ではないもののようで。
「明日は海が荒れるよ」
あの日、この秘密基地には二度と来ちゃいけないと言った時と同じ様子のリディアに圧倒されてカイリスはたたらを踏みました。
「わたしはね、カイリス」
バツが悪そうにカイリスから目を逸らし。
「海の王様のお嫁さんになったんだよ」
ざぁーっと、荒い潮風が吹き付けカイリスの髪をくしゃくしゃにしていきました。
「明日には、海が荒れる。逃げてって、言ったでしょう」
誰かに撫でられた気がして頭を押さえたカイリスはぱちりと瞬き、あっけらかんとして。
「リディアを置いてくわけないだろ」
きっとその言葉は予想通りで。
きっとその言葉は予定と違って。
「カイリスのばーか」
ざぶんっと後ろ向きに海に落ちていったリディアはもう、いくら待っても陸に上がってきませんでした。
リディアの言った通り荒れた海は村を飲み干す勢いでしたが、カイリスのいた洞窟だけは多少塩水が入ってきたくらいで流されたりもせず、2日後、カイリスは村と呼べなくなった土地を出ていき、薬師とネリーに再会し旅に加わり。
「カイにぃ!」
「ん、旦那はどうした」
「置いてきた!あ、そういえばミリアがカイにぃに相談があるって」
「いつでもいい」
「ふぅん、ね〜カイにぃ、カイにぃはさ、い・い・ひ・と、いないの?」
あの少女によく似た、すっかり大人になったちびっこの言葉に彼は苦く笑います。
「俺はいーんだよ、誰かと生きられるほど強くねぇから」
海辺の高台で、スイートピーを育てている理由は誰にも言いませんが、それはあの日の人魚だけが知っていることでしょう。




