六節:入れ違い
土のグランドに数人の女子生徒が一列に並ぶ。
紺のジャージにスパッツを履き、無機質な声に合わせ、腰を下ろし、両手を前へと置く。
正面を睨むように見つめる女子生徒。ほんの僅かの間の後、突然、破裂音が響いた。
――瞬間。構えていた生徒が一斉に走った。
地面を蹴り上げ、土埃を僅かに巻き上がらせながら、真っ直ぐ引かれたラインの両端に立っている数人の女子生徒に目指し、走る。
並んでいた列は乱れ、ライン端に立っていた女子生徒過ぎるとそれぞれは速度を落し、立ち止まっていく。
人が過ぎるたびに、両ライン端にいる二人の生徒が手にしていたストップウォッチを止め、その横で付き添う別の生徒がそこに残された時間を、クリップボードの紙に書き込んでいった。
時間を書き終えると、ボードとストップウォッチを持った四人は合流し、ボードを持った女子生徒が互いに内容を見せあう。
奥から先ほど通り過ぎていった女子生徒達が戻ってくる。
「何秒?」
女子生徒の問い掛けに、ボードを持っていた一人女子生徒が答える。
「佐藤先輩が十三秒三三、高橋先輩が十三秒四三……」
記入した時間を読み上げていき、全員分を読み上げると顔を上げた。
「……以上です」
「ああー、やっぱグランドはダメだね。もう少し早いと思ったんだけど……そっちも同じ?」
覗くようにして、もう一つのボードに目を向ける。
「同じです。誤差は一、二ぐらいです」
「そっか、それじゃ今度は交代ね」
「はい」
一斉に返事をし、四人の女子生徒は手にしていた道具を渡し、他の生徒と合流した。
話をする事なく、黙々とスタート地点へと向かい歩く。その中……、
「……あれ?」
あるモノが目に入り、前髪を青のピンで止めていた女子生徒の一人が立ち止まった。それはふと振り返った時、視野に飛び込んできた。
遠くにある校舎の裏から、灰色のスーツを着た一人の女性が走ってきた。
真っ直ぐとした背筋に、張りのあるズボン。その見た目は、会社員というよりも、テレビでよく見るような記者のようにも見える。
メガネを掛けたスーツの女性は、まるで獣にでも追われているように、後ろの髪を結んで作ったポニーテールを揺らしながら、歩く生徒の横を通り過ぎ、校舎の正門の方へと向かい走っていく。
「誰だろ……あれ?」
そう疑問に思っていると、今度は三島が校舎の裏から現れた。
熊のような巨体を揺らし、獲物を追うような表情で走る。
その最中、先ほど女性の横を通り過ぎた生徒と鉢合わせになった。三島は両手を広げ、何かを必死に喋り、そして生徒の一人が右手で正門の方を指差すと、首を縦に軽く振り、その方向へと走っていく。
青のピンをした女子生徒はその光景を、ただ不思議そうに眺めていた。
「紗希? 何してるの? 早く走るよ!」
紗希と呼ばれた女子生徒は、振り返りハッキリとした声で答える。
「う、うん、ごめん!」
顔を正面へと戻すと、そこにはすでに誰もいなかった。
首をかしげた後、結んでいたポニーテールを揺らしながら、紗希は白線の手前で待つ女子生徒の元へと向かった。
――――――――――――
走る麻祁は土足のまま校舎の中へと入った。
迷うことなく二階へと掛け上がっていく。
ドタドタとなる足音が消え去り、それから数分遅れて、今度は三島が校舎の中へと入ってきた。
忙しく辺りを見渡した後、軽く悪態を付きながらも、靴を脱ぎ、靴下のまま奥の廊下へと走っていった。
――――――――――――
「西岡先生!」
ジャージ姿の一人の男性が職員室に慌しく入ってきた。
その声に、深刻な表情で話し合う数人の男女の輪から、一人の男が動いた。
スーツ姿のその男がジャージ姿の男へと近づく。
「西岡先生、不審者が入ったって本当ですか?」
息を荒げながらも出される問い掛けに、西岡と呼ばれたスーツの男が落ち着いた様子で答えた。
「ええ、先ほど二年三組の西山君が……どうやら三島先生が見つけたらしく、警察を呼んでくれと言ってたそうです」
「三島先生が? ……三島先生はどこです?」
辺りをキョロキョロと男が見渡す。しかし、そこには三島の姿はなかった。
「今、直接不審者を追いかけているみたいです。警察には連絡をしましたが、一応生徒への危険を考え、今は外での部活を止めるようにと部活の担任へと連絡を回しているところです。不審者の事は伏せて……」
「野球部も部室で待機させてます。……警察はどれぐらいで来るんですか?」
「すぐに来てくれるとは思います」
西岡が夕陽の射し込む窓へと目を向けた。
窓から下を覗くと見える校門。そこには一人の先生が立っており、どこか落ち着かない様子でウロウロと辺りを気にしては、その場所を行ったり来たりを繰り返している。
「俺も校門へと向かいます。……三島先生の場所は?」
「それが分かりません。職員室にも戻ってはないですし、私達も詳しく話を聞きたいのですが……」
「……怪我が無ければいいんですが……」
「その心配はないと思います」
「……何故です?」
「西山君の話では、その不審者は女性のようです。それだから安全だとは言えませんが……。一度、三島先生が捕まえていたらしく、その時はナイフのようなものなどは、何も持ってなかったらしいので、生徒に危害を加える目的で入ったのではと思います」
「また盗撮ですか? この前もバレー部がされたと言うのに……」
「そろそろ大会も近いですからね……。より注意しないといけませ――」
突然、ある音が鳴り響き会話を裂いた。二人の視線がその一点に集まる。
西岡はその音を止めるため、すぐに動いた。
部屋の端に置かれた机の上にある電話を取り、対応する。
「もしもし……はい、はい。……えっ? それは……はい、はい」
頷くようにして何度か頭を下げた後、電話を切った西岡はすぐに名前を呼んだ。
「小林先生」
「は、はい!」
小林と名前を呼ばれ、一人の男性が西岡に駆け寄った。
「どうしました?」
「実は……」
小さな声で内緒話をするように耳打ちをした後、小林は小さく返事をし、壁に付けられていたキーボックスから一つの鍵を取り出した。
グッと握り締め、慌しく靴の音を響かせながら、飛び出すように職員室を出て、右へと曲がり走り去る。
西岡がジャージ姿の男の元へと戻る。
「どうかしたんですか?」
男の言葉に、西岡が人差し指で頭を掻いた。
「先ほど女性の方から電話があり、どうやら屋上に誰かがいたみたいです」
「屋上に? で、でも屋上は鍵が掛かっているはずですが……」
「ええ、そうなんですけど……一応今の状況もありますし……気のせいだとは思いますが、小林先生に頼んで見にいってもらいました」
「……そうですか、で、その女性の方と言うのは……?」
「それが聞く前に切られてしまったので、どこの誰かとは……近所の方か、もしかすると先生方の誰かかも知れません」
「……俺も向かってみましょうか?」
「ああ、いえ、大丈夫だと思います。不審者は三島先生が追っているみたいですし、襲われるような事はないでしょう。一応確認だけですから、その事は小林先生にも伝えてますし……それより、竹山先生は校門をお願いします。警察の方が到着したら、説明をして生徒達を早く帰らすように誘導の方の伝達も――」
「――分かりました、すぐに向かいます」
竹山と呼ばれたジャージ姿の男が、すぐさま身を返し、職員室を出た。
左へと体を向け、校門を目指し走る。
その背中、灰色のスーツを着たポニーテールの女性が、職員室の前を通り過ぎた。
――――――――――――
小林が駆け足で、屋上を確かめるために、階段を上っていた。
カツカツと靴の音を忙しく響かせながら、体をグルグルと回し、上を目指す。
そして、ダンボールなどが置かれた階段を上がり、その先にある扉のノブへと手を掛けた。
「小林先生?」
「は、はい?」
後ろから聞こえる女性の声。
小林が振り返るとそこには銀髪のスーツ姿に、メガネを掛けた女が階段下で立っていた。
スーツの女は後ろで結んだポニーテールを揺らしながら、階段を上がり、ドアの前にいる小林に近づいた。
「あの……えっと……」
何か言いたそうに、人差し指で小林を指し、小刻みに揺らしている。その姿に、小林の方から問い掛けた。
「あなたは?」
その質問に、女が笑顔を見せた。
「ああ、ごめんなさい。私、英語の指導助手でして……」
「指導助手? 真弓先生の?」
「そうですそうです。明日の授業に関してをお話しようかと思い、今来たんです」
「今って……、でも、確かそんな話は……」
「ああ、ごめんなさい。確か入るには事前に言っておかないとダメだったんですよね。……初めてだったもので、一応職員室には立ち寄ったのですが……」
「そうですか……、で、一体何の用事でここに?」
その言葉に、女が慌てた表情を見せる。
「す、すみません、言い忘れてました。あの、さっき職員室に立ち寄った時に、西岡先生から、小林先生を呼んできてくださいと頼まれまして……」
「西岡先生が?」
「はい。職員室に入った時には誰も居なくって、呼びたくても呼べないから私が代わりにと……外にも警察の方が見えていましたし……何かあったんですか?」
「あっ……いえ、ちょっと色々ありまして……そうですか……っと、少し待ってくださいね。ここを確認したらすぐに向かいますから」
小林がドアに鍵を挿そうとした時、ふと女が手を被せてきた。
「あ、あの?」
女性は手を被せたまま、首を振った。
「ここは私が見ておきます」
「えっ? で、でも……」
「大丈夫です。確認するだけですよね? 何かは分からないけど……でも、西岡先生、結構急ぎの用みたいでしたので、急いでそちらに向かってください」
女はメガネ越しの笑顔を見せ、そして細い手を小林の手に重ねたまま、鍵を引きぬいた。
「わ、分かりました……それじゃお願いします」
小林が鍵を女に渡し、階段を降り始める。
「多分何もないと思いますけど、もし何あったらすぐに閉めて知らせてください」
「わかりました」
下へと消える小林の頭を見送った後、女はすぐにドアの方へと振り返った。
手にした鍵の輪に指を入れては、クルクルと回し、そして器用にドアへと挿し込む。
「さてさて何がいるかな?」
そう呟いた後、鍵を外し、女はドアの奥へと消えた。
――――――――――――
「はぁ、はぁ……クソ! どこ行ったんだあの女は!」
額から汗を垂らしながら、三島は走っていた。
階段を駆け上り、二階にある職員室へと向かう。
廊下を右に曲がり、そして左側にその部屋が見えてきた。
「三島先生!」
狭い部屋の中に入ってくる巨体に、その場に居た教師の全員が気付き、一斉に駆け寄った。
小林が先に口を開く。
「三島先生! 不審者……の方はどうなったんですか?」
「すみません、まだ見つかってません。追いかけてはいたのですが、途中で見失ってしまって」
その言葉に、三島の前を囲む先生達が動揺の声を上げた。
「だ、大丈夫なのでしょうか?」
「心配ないと思います。ナイフのような凶器はもっていないと思いますし、女性ですので、多分、部活の内情を調べる為に入ったかと……西山は?」
「西山君は他の先生が部室まで連れて行きました。一応、それぞれの担任の先生に、警察が来るまでの間は外へ出ないようにと伝えています」
「そうですか、御迷惑をおかけしました」
深々と頭を下げる三島に、小林は両手を振った。
「いえいえ、突然の事ですので。……それより三島先生の方こそ、早く伝えていただき助かりました」
「……私が捕まえておけば、こんな事にはならなかったのですが……。先ほど一階を走っていたら、警察の方がお見えになっていたので、事情は伝えてください。まだ侵入者は学校内にいますし、校門からは出てないと思うので……私はもう一度校内をさがしてみます。どこかの部屋に隠れているかもしれません」
三島が職員室から出ようとした時、小林が慌てた様子で呼びとめた。
「ああー! 三島先生! 待ってください!」
「なんですか?」
「実は先ほど女性の方から電話がありまして」
「女性?」
「どうやら屋上に誰かの影みたいなものが見えたらしいのです」
「屋上ですか?」
「はい、鍵は閉まっているので誰も入れないとは思いますが……」
西岡の言葉に、三島が首を傾け、何かを考え始める。
「一応、小林先生に頼んで見てもらってます」
「そうですか……私もそちらに向かってみます」
「はい、気をつけて。警察の方には説明しておきますので」
「わかりました。生徒の下校の誘導をお願いします」
三島はそう言うと、職員室を飛び出し、右へと曲がった。
夕陽の傾く廊下を走り、屋上を目指す。その途中――、
「ああ、三島先生」
職員室に向かい走ってくる小林の姿があった。
「小林先生。屋上はどうでしたか?」
「屋上は今、別の先生に見てもらってます」
「別の先生ですか?」
「ええ、なんでも真弓先生が呼んだ英語の指導助手の方らしく、今しがた来たばかりだと……」
「今ですか?」
「はい、一応職員室にも受付は済ませたと言ってはいたのですが……」
「……その方は灰色のスーツにメガネを?」
「は、はい。よく御存知で……」
「クソッ! 屋上か!」
突然出される大声に、小林が驚いた。
「ど、どうしたんですか?」
「私はすぐに屋上へと向かいます! 小林先生、職員室に行って、不審者は屋上にいると伝えてください!」
そう言った後、三島は小林の返事を聞かずに走った。
一人残された小林は、野生のイノシシのように体を揺らしながら走る三島の背を不思議そうに見つめ、状況が飲み込めないまま、職員室へと向かい足を進めた。