第八章:一側性の侵入者
日が少し傾く昼下がり。
今朝通った住宅街は今や姿を変え、狭い路地を人と車が入れ違いに忙しく駆け巡っていた。
あちらこちらでは微かにテレビの喋り声や、掃除をしているような音などが聞こえてくる。
麻祁は一人その中を歩いていた。
背丈よりも少し小さめのザックの背負い、寝不足のような細い目のまま、黙々と足を進めて行く。
麻祁にとって、この時間帯でこの場所を歩くのは珍しいことだった。
日曜といえば、普段なら椚のいる学校へと行き、色々と話し合う曜日である。
色々というのは、以前受けた依頼の経過報告やそれの整理であったり、次に受諾する依頼への準備なども含まれている。
話し合いが終わった後、麻祁はその場所から動かず、いつもの世間話が始まる。
その為、事前の情報の整理の際、処理する数が多ければ、その日が終わり、少ない場合でも、世間話でお茶をしたりで、いつも終わる頃には夕刻辺りになるのが当り前だった。
しかし、今日に限って入ってくる依頼の情報はいつもより少なく、事後の経過に関しても、以前聞いたのと状況的に変化は見られず、さらには昼から椚が外出し、他にも話す相手が誰も見当たらなかった為、仕方なく帰る事にしたのだった。
今、数種類の資料を入れたザックを背負い、この場所を歩いている理由だった。
家までもう少し。麻祁は頭の中で昼食の段取りを考えていた。
龍麻と決めている食事当番の役割。今日は麻祁が担当の曜日だ。
しかし、日によっては外出をしなければいけない事が多く、例え担当の日であろうとも、家に居ない限りは作れない、作らないという暗黙のルールが自然と出来ていた。
その為、龍麻も外出理由を詳しくは知らずとも、その事を理解はしているので、渋々ではあるものの自炊の担当を変わっていた。
――つまり、役割など既に形だけでしかなかった。
だが、今日はかなり早めに帰っているため、麻祁が龍麻の分も作らなければならない。
麻祁にとってはそれは非常に面倒な事であり、出来る事なら避けたいもの……なのだが、幸いにも今日、家に龍麻は居ないことになっている。
友達とどこかに出かけたらしく、その話を今朝、麻祁は聞いていた。
頭の中で考える。
『何を一人で食べようか』『夜に備え、昼に作った自分の余り物を龍麻の夕食に回そうか』などを。
ブロック塀に挟まれながら歩くこと数分。右側に、車が数台止まれるほどの空き地が現れた。
空き地の右側には二階建てのアパート。白塗りのよく目にするその外見からも、家賃の安さが見て取れる。
鉄骨の階段をコツコツと鳴らしながら、麻祁は二階へと上り、ちょうど中央付近にあるドアへと近づいては、ポケットから鍵を取り出し、取っ手を握り締めた。
「…………」
麻祁の視線が取っ手へと向けられ、動きが止まる。
鍵を刺さず、握る手に力を入れる。
――回るドアノブ。
麻祁は静かに取っ手を戻し、背負っていたザックを置いては中からスタンガンを取り出す。
バチバチっと音を出した後、左手で再び取っ手を握り、静かに回し始めた。
開かれるドア。中を覗くようにして、隙間から眼を出し、辺りを見渡す。
いつもと変わらない玄関。右には台所があり、左側はトイレと風呂場になっている。
天井などを見た後、ふと視線を足元へと向けた。
そこには一足の黒い革靴が置かれてた。
靴のつま先は散ることなく、真っ直ぐとドアへと向けられ、揃えられている。大きさからも男のものではなく、少し小さめなので女性のものだと分かる。
視線を落していた麻祁は顔を上げ、正面の居間へと続く引き戸に目を向ける。
微かに開かれた戸。その隙間からは居間の様子がうっすら見えるものの、何かの影はない。
麻祁は音を抑えながら靴を脱ぎ、滑るように玄関を移動した後、引き戸に手を掛け、ゆっくりと開けた。
目に映る居間。灰色のカーペットに置かれた机の上でカチカチと動く時計。その横には色あせた蝶のヘアゴムが一つ置かれていた。
左には布団置き、兼、押入れ、兼、寝床へと繋がる襖はピッシリとしまり、正面の角にあるテレビには、微かに歪む麻祁の姿が映り出されている。
そして右側にあるベッド、そこには一人の女子生徒が――眠っていた。
凛とした表情に黒の長髪。まるでお城にいるお姫様のように、仰向けの状態で胸元に片手を置き、スゥースゥーと音を立てながら、眠りついている。
着ている制服は白の半袖シャツに紺のスカート。胸元には蝶型の赤のリボンが付けられ、その横には菖蒲の花を象った紋章が付けられいた。
その姿に麻祁が呟く。
「菖蒲高か……」
スタンガンを片手に、まるで時が止まったかのようにベッドの上にいる女子生徒を見続ける麻祁。それに対し、彼女は寝息を立て、見たままの姿で答えるだけだった。
麻祁は何も言わず外へと向かい、通路に置いてあったザックを回収する。
再び家に入ると、今度は普段帰ってくるのと同じようにドアを閉め、ザックを居間に置き、襖を開けては自分の寝ている押し入れへと、体を突っ込ませた。
何か探すように、ガサゴソと上半身だけを忙しく動かす。
押入れから体を出し、今度は足元に置いてあるザックの中から四角やら丸やら色々な型をした道具と、数十枚を一つにまとめた資料などを取り出しては、再び上半身を入れては、音を出す。
しばらくその動きを繰り返していると、麻祁の後ろから、声を絞り伸ばすような声が聞こえてきた。
「うぅ……うぅ……」
麻祁は気にせず、動き続ける。
「うう……ふぅ……」
起き上がる体。女子生徒は深く息を吐いた後、横へと首を動かし、時計に目を向ける。
時間を確認し、ベッドから立ち上がろうと力を入れた――その瞬間。
「キャッ!!」
声を上げ、壁に背中を叩きつけた。
口元に手を当てて、正面にいる麻祁の背をじっと見る。
その視線に気づいたのか、麻祁が振り向いた。
麻祁は何も言わず、ただ目を見開いて驚く女子生徒の顔に視線を返す。
「あ、あの……あ、あの……」
何を言うべきなのかを考えているのか、女子生徒の口から出される言葉はどれも途切れ途切れのもので終わり、最後までハッキリと喋れずにいた。
その姿に対し、麻祁はやはり何も答えず、ただ視線のみを返すだけだった。
互いにとっては、小さな密室に突然現れた初対面の人。そんな異様な空間の中で、時計の針だけがカチカチと忙しく走り続ける。
「ご、ごめんなさい! 私……部屋間違ったみたいで……あ、あのほんとごめんなさい!」
女子生徒は顔を伏せるように小さく顔を下げ、立ち上がると同時に、ベッドの足元に寄り添わせていたスクールバックを手に取った。
バタバタと慌ただしく足音を震わせ、続けざまにドアが開閉する音を部屋中に強く響かせる。
嵐が現れ、突如過ぎ去った後のような静寂が訪れる。
一人佇む麻祁は、出て行く女子生徒を背を黙って見送った後、
「あってるけどね」
誰にも届かない言葉を呟き、再び上半身を押入れに入れた。