一節:兄妹
日が傾く六限目の授業。開けた窓から吹き込む風に、少しばかりの肌寒さを感じた。
教室の中には、先生の言葉が響き、時たまチョークで黒板を叩く音が聞こえる。
俺はそこに書き並べられた文字を見る事なく、ただ外の景色を眺めていた。今、頭の中では麻祁に言われた言葉だけが埋め尽くしていた。
それは昼休み……正確には五時限目が始まる前の事だった。
昼食を食べ終えた後、次の授業が始まる為、俺は席へとついた。周りの生徒も時間に合わせ、それぞれが自分の席につき、そして先生が来るの待つ。
そのほんの僅かな時間の中、突然麻祁が話しかけ――いや、言葉を放った。
――今日の帰り、付き合ってもらうぞ。
その言葉の意味を俺は自然と理解した。始まったのだ、またあの奇妙な依頼が……。
俺はすぐさま聞き直そうと麻祁の方へと向いた。しかし、口を開いた瞬間、チャイムが鳴り、何も言えずにその一瞬が終わってしまった。
仕方なく、六限目前の休み時間になった時、俺は後ろを振り向き聞こうとした。だが、返って来たのは麻祁の言葉ではなく、この紙の束だった。
ため息が溢れ出る。ふと視線が机に置かれた数十枚の紙の束に向けられた。
一枚を捲り、並べられた文字に目を通す。……頭が痛くなるような言葉ばかりだ。
横に並べてある教科書と比べると、そのページ数は少ないものの、文字の多さでは圧倒的にこの紙が勝っている。
読んで理解せずとも、時たま現れる写真でその内容を理解しようと思い、写真に目を通してみるも、どこかの室内の通路に緑の景色と、全く意味が分からないものだった。
やはり、直接聞いたほうがいいな……。
俺はその時間が来るまで、上の空の時間を過ごした。そして、帰り道――。
「なに? 読んでなかったのか?」
さっきまで普通に話していた麻祁の口調が、飽きれたものへと変わった。
「い、一応、目は通したんだけど、何を書いているのかが全く分からなくて……」
「全部に目を通したのか? そう難しい言葉は書いてないはずだ。書かれた言葉のすべてが理解出来ずとも、その一部を切り取って自分が理解出来る範囲での言葉に直せば、分かるだろ? ……まあ、いい。向こうに着くまで距離もある、説明はするが、次からは資料を読め。情報の有る無しでこれからの生き死に左右する場合もあるんだ」
部屋に戻ると、麻祁は押入れからポーチとザックを取り出し、制服のまま体に付け始めた。俺は学生服のままで汚れたら困るのでは? と思い聞いてみたところ、
「動きやすい服ならなんでもいい」
と一言。俺は着替えようかと一瞬思ったが、麻祁の言う動きやすいならと、制服のまま部屋を後にした。
人が行き交う駅を通り過ぎる最中、麻祁が今回の事に関して話し始めた。
「今回の依頼は、ある研究所にて作られた物のデータ回収だ」
「データ? 何のデータなんだ?」
「渡した資料を見れば分かるだろ? 添付してあった写真には何が映っていた?」
麻祁に言われ、俺は記憶からその映像を思い出させる。
どこかの通路に、緑の背景。例えるならそれは、ゲームの世界でよく見る、苔などで覆われた通路のような場所だ。
「なんか通路みたいな場所に緑のなにかが一面にうわ……って」
「そうそう、それだよ。分かっているなら、もう説明はいいだろ? それに関するデータだ。で、だ」
麻祁が言葉を止め、「だ」の部分を強調する。
「そのデータの回収が依頼としての目的なのだが、私達の目的はそれではない」
「ん? どういう意味なんだ? 依頼としていくんじゃ……」
「私達の目的は、生存の確認及び救出だ」
「生存って……誰かが行方不明になったのか?」
「そうだよ。消息不明になった椚高等学校の生徒の一人を探しにいくのさ」
「えっ!? そ、それって……」
「前も話したが、学校内で何かの能力を使える者は私一人だけではない。他の生徒にも、当然、何かしら力がある。それぞれがそれぞれの事情をもっていて、色々な理由で依頼を受ける。で、今回行方知らずになったのも、その一人だ」
駅を過ぎ、坂を上り、門を開け、校舎へと目指す道を歩く。
「そいつが依頼を受諾し、目的地に向かったのは四日前の事だ。それ以降一切連絡が無くなった」
「四日前なら、まだそこにいる可能性もあるんじゃないのか? ほら、まだ終わってないから連絡しないとか?」
「……生き物に害する何かが埋め尽くすその場所で、お前は四日も居られるのか?」
「え……それは……」
麻祁の言葉に、俺の頭の中では自然とその環境内のシミレーションが行われる。……二日目で虚ろに彷徨う姿が浮かび上がってきた。
「資料にあった写真を見ただろ? あれは、そいつからの連絡が遅れていたから、私個人が内部の状況を確認する為に雇った調査隊からのものだ。あの状態の中では何が起きてもおかしくはない。もし生存していたとしても、食料の問題もある。飲まず食わずで動けずに、仕方なくその場に留まっている可能性もある。私達はそれを確かめに行く」
「なるほど……っで、俺はその手伝いと……」
「――それ以外もあるけどな」
「……えっ?」
確かに聞こえた小さな声。もう一度聞きなおそうと声を出すも、麻祁の背は止まらずに、そのまま靴箱の方へと歩いていった。
俺はその背中を少しの間見つめた後、左端にある靴箱へと向かい、スリッパへと履き直すため、それを廊下に置いた。しかし、
「そのままその場所に向かうから、スリッパは履かなくていい。そのまま上がってこい」
掛けられる麻祁の言葉に、俺は動きを止め、スリッパを戻し、気迷いながらも廊下に足を付けた。
初めて土足で歩く廊下。妙な違和感になんだか後ろめたさを感じる……。
麻祁と合流し、そのまま靴箱の左側にある階段を目指す。その際、ふと目にある光景が入り込んだ。
それは、数日前に俺が歩き、そして、学校から出ようとした時に起きた――あの場所。散らばる窓の破片に黒いミミズ、あの映像が鮮明に浮かび上がる。
しかし、今見た光景には全くその面影を残してなかった。右の窓から射し込む光が、何人もの生徒達を照らし、そこにはただの日常を映していた。そう、あれは俺の夢の中の出来事だったように……。
俺は階段を上る最中に、あの出来事の事を聞いてみた。
「一階の廊下、元に戻ってるんだが……あれだけの事があって数日で綺麗になるようなものなのか?」
「数日と言わずとも、一日閉鎖した後は元通りさ。窓以外はな」
「速いな……」
「何事も隠すには速い方がいい。まあでも、掃除は大変だったけどな。ちなみに、屋上は完全にぶっ壊されていて、今は風除けに階段手前に木の板を当てている。あれは一日では直らない。……それもこれもあのミミズはせいだ。本当にロクでもない」
頭の中で思い出される映像。黒く蠢く何かの物体、人の上半身を包み、そしてそれが倒れた瞬間、風船に入った水を叩きつける様に廊下で弾けた。今思い出しても気味の悪いものだ……。あれはいったいなんだったのか……?
「あれ……その……何なんだ? なんかミミズみたいに見えたけど……?」
「ミミズという認識で大体あってる。もぞもぞ動いて、捕食となる対象に接触した時、内部を一気に食い散らかすんだ」
「うえっ……」
麻祁の言葉により更にその映像が強調されて浮かび出される。始めて出会った時、階段から転げ落ちてきたそれは、人の頭部を包み無数に蠢いていた。つまりあれは、喰い散らかしていたのか……。
「まだそこまでなら、自然を逞しく生きるただの生物になるんだが、一番迷惑なのは、食事中に更に別の物に接触した場合は、それと融合するようになっている」
「えっ、それじゃどんどん集まると……」
「どんどん大きくなっていくな。人間で言えば、頭と足に口があって、それぞれが独自に活動しているから、そういう現象が起きる。ちなみに面白い特性があって、群がっていたミミズがもう一つの対象に群がっているミミズと重なり合った場合、お互いが噛み合うらしい。言わば共食いだよ」
「なんでそんなものが……一体何の目的で?」
「理由は分からないよ。運んでいたのは国が管理する機関だが、発生原因は自然による突然変異だろうな。もしあれを人工物だと仮定しても、利用する手立ては私には分からない」
三階に辿り着き、話しながら長い廊下を歩き、そしてある扉の前に辿り着いた。
ドアを開け麻祁が中に入る。そこには奥の机でノート型のパソコンに目を向ける椚さんの姿があった。
麻祁はそのままズカズカと歩いては、机の右端を間に挟むようにして椚さんの横に立った。
「それじゃ行ってくる。……もう近くまで来てるのか?」
「ああ、連絡ではもう少しでたどり着くらしい……ほら、来たぞ」
椚さんの言葉に合わせるように、窓が微かに震え、外から風を断続的に切る様な音が小さく聞こえてきた。
「それじゃ行ってくる。あれから状況に変化は?」
「――ない。……準備はしなくていいのか?」
椚さんはパソコンから目を逸らす事無く、マウスを動かす。
「準備は出来てるさ。それに今回は特殊だからな、あくまでこれは私のアイデンティティー」
「ふっ、そうだったな」
一瞬緩む椚さんの表情を背にし、麻祁は机から離れるとそのまま廊下へと出た。俺は椚さんに頭を下げ、麻祁の後を追った。
部屋から出ると、今度は角を右に曲がり、再び長い廊下を歩いてはヘリが待つ屋上へと向かう。その階段の手前、そこに一人の女子生徒が立っていた。
立てかけられた大きな木の板の横で、壁に背をつけて誰かを待つようにして立っていた女子生徒は、俺達の姿を目にした瞬間、こちらに向き直るとジっと見てきた。
麻祁はその姿に気に留める事もなく、壁に立てかけられた木の板をどける。現れた階段に吹き込む風、麻祁と女子生徒の髪が靡く。
階段を上がろうとしたその瞬間、女子生徒が口を開いた。
「兄を……お願いします」
深々と下げられる頭に対し、麻祁は何も言わずに階段を上り始めた。その光景に俺はどうしていいのか分からず、ただ流し目でそれを見過ごした。
大きく聞こえる風切りの音が、階段を踏みしめる度に吹き込む風と共に流れてくる。
屋上へと続く階段の先は、以前とは大きく姿を変えていた。あの薄暗い部屋やドアなどはなく、オレンジ色の光がその場所を照らし、焼き焦げたような黒い模様を浮かび上がらせていた。
階段を上がると、目の前には俺達の搭乗を急かすように、ヘリが風切りを音を上げ続けている。
ヘリへと続く道へ踏み込む前に、先程居た女子生徒が気になり、俺はふと後ろに目を向け、そして、すぐに顔を戻した。――女子生徒がそこから顔を覗かせていた。
一瞬だけ合う視線。それは、今から向かう俺達を心配そうに見送るような目ではなかった。まるで、恨みでもあるかのように、ジッと睨みつけている感じだった。
俺はその視線から逃げるように麻祁の背中に出来るだけ近寄り、ヘリに飛び込むように乗り込んだ。
向かい合うように座り、扉を閉めると同時にヘリが飛び立つ。
狭い空間の中、俺の頭の中で今だ浮かび上がるあの視線が気になり、麻祁に聞いてみた。
「さっき階段の所にいた人は誰なんだ? なんかお願いされたみたいだけど……」
ザックを横に置き、胸元に手を置いては椅子にもたれていた麻祁が、気だるそうに話を始めた。
「紫藤えみ、今から生存の確認をしにいく、紫藤ゆうきの妹だ」
「兄妹……」
「兄が行方不明と聞かされて、居ても立ってもいられずに私達に会いにあそこで待っていたんだろう。気持ちは分かるが、願われた所で向こうの状況が分からないのに、どうしようもない」
「妹さんにも何か能力みたいなのはあるのか?」
「ない。力があるのは兄だけだ。紫藤ゆうきは中学の時に自宅火災に見舞われた。妹は、外出していたから助かったが、兄とその両親はその火災に巻き込まれ、両親は死亡、兄だけが焼き焦げた木の屑の中から発見された。その時に、能力に目覚めている」
「どんな力なんだ?」
「――燃えない体だよ。多分、自己防衛として無意識に働いたんだろう。で、原理は分からないが、ついでに火も出せたりする」
「そんな力があるなら、今回は大丈夫そうな気がするけど……」
「まあ、そこら辺の無能とは違うからな。それに今までにそういったような危険な場所の依頼や経験も少なからずある事だし、そう易々とは倒れないはずさ。私達が向かう理由はあくまで確認だけ」
「経験って……どうしてこんな事を? 何か理由があるのか?」
「私の知る限り、一つは妹の授業料の為。両親が居らず、残された兄妹は私達の学校が預かる事にしたんだ。事件の件で調査をしていた関係でな。一応、学校側からはその負担分は出されるが、妹の将来を考えてもあるのだろう。で、もう一つは――復讐」
「復讐?」
「紫藤の両親が火災に巻き込まれたのは、人為的な可能性があるからだ」
「そ、それって……」
「ああ、放火だよ。兄の証言では、夕暮れのある日。妹が外に出た後、家に居た兄と両親の所に、突然全身を布で包んだ見知らぬ人物が入り込んで来たらしい。家に入ったそいつは、まず台所に居た母親に近づいた。抵抗する腕を掴み、その部分を発火。腕の火を払おうともがいている時に、近くにある包丁を奪い腹部を数回刺して、刺殺。次に叫び声を聞いて駆け寄った父親に対して包丁を腹部に刺し込んで、横たわり燃える妻の姿を見せ付けた後、顔面を発火。その後、その光景を唖然として見ていた兄に気付いたそいつは、腹部に蹴りを入れ、動けなくなった所を数回にわたり暴行し、その後、返り血を浴びた布を捨て、家に放火して証拠を燃やしている。兄はその時の記憶をハッキリ覚えており、そして今も悩まされている。残っているんだとよ、その血に染まる光景に焼き焦がれた両親の臭い、それと布を剥いだ時に見えたそいつの姿と笑顔をな」
「……酷いな……何の目的で……」
「生き残った兄の証言から、そいつが特徴的な服装をしていたから、すぐに情報は集まった。どうやら、燃えている最中にも野次馬に紛れて見ていたらしい。その格好をした人を見たという報告が沢山入ってきた。が、あくまで見たというだけで、誰だとかまでは分からない。ただ、その残忍な手口から過去の事件を掘り下げればそれに該当する人物が出てくる可能性がある」
「犯人は見つけたのか?」
「ああ、何年か前も同じようなケースの火災が数件あったらしく、その断面的な情報をかき集めたおかげで、大抵の目星はつける事ができた。後はそいつの居場所についての情報だけだ。それを手に入れるには自分の足も大事だが、何よりもお金がいる。ゆうきにとって得られる金のほとんどが、そいつを見つけるための情報と引き換えられていた」
麻祁がふと外に目を向ける。
「この世はすべて金だ。何をするにも金が無ければ得られるものも、果たされるものもない」
「その事は妹は知ってるのか?」
「兄からは直接理由は聞いてないはずだ。しかし、度々どこかに出かける事と、その事件に対して執着している事から、こういう危険な仕事をしてるのは薄々ながら気付いているはずだ。私達はゆうきに記憶を消す方法を一つの選択しとして提案した。しかし、やつは犯人を捜す事を選んだ。その生き方を選んだのは本人の意思だが、それ教えたのは私達だよ」
外に目を向けたまま、麻祁はそれ以上何も言わなかった。頭の中であの時階段で目にした光景が再び浮かび上がる。
まるで何かを恨むように見る視線。その意味を麻祁の言葉で少し理解した気がする……。
妙に重苦しい空気の中、外の景色は流れ続ける。色鮮やかな街を過ぎ、道路、橋、そして森。しばらく飛び続け、そしてある場所で景色が立ち止まった。
緑一色に染まる森の中に、一際目立つ白の施設。広大な土地に見合った駐車場には大型の車が数台止まっているだけで、他はガラリと空き、それは異様な雰囲気を出していた。
地面に近づく度に、その施設の周りには複数の人影が忙しく動いているのが見える。――施設の人達だろうか?
不思議そうにその光景を眺めていると、突然、麻祁が話しを始めた。
「今、外にいる連中はこの施設で働いている人間ではない。全員部外者だよ」
ヘリが小さな衝撃を上げ、地面に辿り着く。前に座っていた麻祁はザックを手にとっては立ち上がり、ドアを開けた。風が一気に吹き荒れ、銀髪を激しく揺らす。
「生き残る為には金がいる。そう、何をしてもだ。これが私の使い方」
ザックを背負った麻祁が先に出る。俺もすぐに外に出た。
吹き荒れる風とふわふわと浮く感覚に足元が一瞬捕らわれるも、俺は確かめるように、地面を踏みつけた。