一節:青いシュシュ
「え? なにこれ? どうするの?」
俺の目の前に、四つの長方形の青い物が突然投げられた。それはドサっと重たい音を上げ、形をそれぞれ崩す。よく見るとそれはリストバンドのようだった。一つを手に取り、持ち上げる。
「……重ッ!!」
その圧し掛かる重量を思わず床に落とした。砂の塊が落ちる音が鳴る。
「それを付けて今日は学校に行くぞ。校則には反してないはずだ」
横に立つ麻祁は少し離れ、自分の制服を見渡す。
「これ重り? ……どうして付けなきゃ行けないんだ? 学校に着く前に倒れるぞ?」
もう一度持って重さを確かめる。ズシっと圧し掛かるこの重さ……。大体二キロぐらいはある気はする。それはまるで、二リットルのペットボトルを持ち上げているようだった。
「普段から運動してないようだからな、まずは筋肉を付けないと。とっさの時に何かが起きてからは遅い。普段での訓練の成果が、自身の可能性を伸ばすものなんだよ」
そういいながら、麻祁は開いていた押入れに体を入れた。
朝、起きた初っ端からこれだ……。俺は一瞬何かの悪い冗談かと思った。だが、その言動から、そうは取れない。しかし、朝からこの重りを付けて学校まで歩くのは、さすがに考えるだけでも疲れてくる。俺は断ることにした。
「やっぱ、キツイって……家に帰ってから、運動とかじゃダメなのか?」
「…………」
麻祁は何も言わず、体を押し入れに入れたまま、ガサガサ何かをしている。そして、顔だけを覗かせた。
「いいよ、付けなくて。――どうなっても知らないけどな」
最後の所だけ少しだけトーンが変わる。それは冷たく捨てるような言い方。俺にはそれが凍りついた尖ったナイフのように、心に突き刺さった。なんだかひどく見捨てられた気がして、瞬時に動揺が走る。
「分かった、付けるよ、付ける!」
俺は渋々、その重りを両足に付け、そして両手にも付けた。まだ、立ち上がっていないのに、まず両腕を持ち上げる気にならない。
しかし、このまま居ても、永久に学校には行けないため、立ち上がるしかない。俺は両足に力を入れ立ち上がった。もしかすると、歩いているうちに慣れて、軽くなるかも……と、思ったが、やはりそれは重たかった。
両腕が自然と垂れ、そして頭も釣られて落ちる。ふと視界に入る、腕に巻かれた青。やはりどう見てもこれは目立つ。
「これ結構目立つんじゃないか? 少し恥ずかしいんだけど……」
麻祁が押入れから体を出し、今度はリュックの中を開ける。
「シュシュって知ってるか?」
「シュシュ……」
その言葉に、俺の頭の中で、言葉が途切れ途切れ再生され、忍者が手裏剣を投げ始めた。……絶対に違うだろうな。
「聞いたことないな……」
「学校でも流行っているものだ。見たことないのか? 昨日も学校で付けていのを見たぞ」
「え、付けていたって、腕に?」
「ああ、腕だよ。腕以外のどこにつけて歩くんだ? ……他にもう一箇所あったか……まあ、学校ではそのシュシュは認められているから、大丈夫だろ。もし聞かれたときは、そう答えたらいい」
「シュシュね……」
「よし、行くぞ。準備はいいか?」
麻祁がリュックを背負い、外へと足を進める。俺もそれに合わせ、鞄を持ち、急ぎ外に出た。
ドアの近くには麻祁は居らず、鳥の鳴き声と階段を降りる音が耳に入る。俺は鍵を閉め、すぐに階段を降りた。
「はぁ……結構キツイなこれ……」
少し走っただけで、ため息が出る。
階段下で立ち止まっていた麻祁は空を見上げた後、前に伸びる道路を見つめ、そして言い放つ。
「それじゃ走ろうか」
「えっ?」
麻祁が突然走り始めた。
「ちょ、ちょっと待ってくれよ!」
俺の言葉はすでに届かないのか。麻祁の背中が徐々に遠ざかっていく。
「……クソッ! マジかよ……」
誰も聞いてはくれない悪態をつき、俺は走った。付けた重りの重量が更に増した。
――――――――――――――――――
「はぁ、はぁ……くそ……なんで……」
心臓が今にも胸から飛び出そうなぐらい鼓動が耳に届く。体中に熱が走り、汗が絶え間なく顔を伝い、下に落ちていく。
俺は死ぬ思いで、体と鞄を引きずりながら廊下を歩き、教室へと入り――倒れた。
視界にいくつもの椅子の足が立ち並ぶ。もうダメ、動けない……。
諦めかけた時、細い群れの中に人間の足が現れた。
「龍麻君大丈夫?」
掛かる声。それは霧崎。顔は見えず、靴下を履いた足しか見えないが、心配そうに俺を見つめる、いつものあの表情が頭に浮かぶ。
――情けない。
そう思った瞬間、少しだけ腕に力が入る。俺は最後の力を振り絞るつもりで、腕に力を入れ、体を起こした。
顔を上げるとそこには、思ったとおりの霧崎の顔があった。
「だ、大丈夫、ちょっと疲れて……すぐに席に着くよ」
霧崎に無駄な心配は掛けさせたくない。その一心が俺の体を動かす。俺は体を引きずりながら自分の机を目指した。
が、ある光景に心を砕かれた。――俺の席にあのアホがいた。しかも、椅子の背もたれに手を置いて、後ろの席にいる麻祁と楽しそうにお喋りをしている。
――脱力。一気に力が抜け、膝が折れる。だが、ある感情がすぐに力として加わる。それは……。
「……でさ! 俺、その時思ったわけよ。ここで……」
ニクを、もぐイキオいで、カタをエグる!
「一発ガツンと言わないでぇッ!!!」
僚が大声を出し、飛び跳ねた。
「いってて……なにすんだ……」
態勢を直す前に、俺は一気に距離を詰め、汗だらけの頬を僚の顔面に押し付けた。
「何を一発言わないで?」
横目で顔を見つつ、喉からは唸るような声で俺は聞いた。僚は正面を向いたまま何も言わず、そっと横にずれては、紳士のような振る舞いで胸元に手を当て、腰を曲げる。
「お待ちしておりました」
僚の手に導かれ、俺は机の上に鞄を投げ、重い体を椅子へと崩した。背中にへばり付く壁が少し冷たくて気持ちいい……。
「遅かったじゃないか」
「遅かったじゃないか」
僚と麻祁の言葉がちょうどに重なる。
「ああ、お前のおかげでどえらい目にあったよ……もう二度と嫌だ……」
「それはお前が日頃運動してないから、そうなるんだよ。明日からは毎朝これだ。ついで感覚でいいだろ? どうせ学校には歩いて来なきゃいけないんだし」
「そうだ、龍麻お前は運動しろ!」
俺の横から僚が麻祁の後に続く。
「……麻祁は付けなくていいのか、重り。とっさの時に」
「私はいい。重りが無くともこの体はすぐに反応し動けるからな」
「そうだ、麻祁さんはお前と違いナイススタイルをしているんだ。ああ、そのスラリとしたボディーに魅惑の腰つきでひらりひらりと――」
横で僚が重ねた両手を頬に寄せ、体をくねくね動かす。
「うるさいって!」
思わず横っ腹を殴ろうとしたが、腕が重くて力が出せない。
「いつからお前はオウムになったんだよ」
「俺はオウムじゃない。麻祁様に仕える孤高の鷹だ! ……それより聞いたぞ、龍麻。お前も案外隅に置けないな。まさか、同じクラスメイト、しかも転校して一日目の美女を、自分の部屋に住まわすなんてよ! よっ、変態! 助平!」
「な、何言ってんだよ!!」
突然の大声に俺は焦った。それは俺の思い描いていた悪い結果の一つの流れだった。麻祁はあの時、大丈夫、と言ったのに、これでは本当に、ただの変態として俺の立ち位置が決まってしまう。
背中の汗が一気に干上がり、頬が一瞬で熱くなる。
「もう、やめなよ僚君。違うでしょ?」
そう言いながら、霧崎が歩いてきた。目にかかる前髪を払い、言葉を続ける。
「龍麻君は、帰る場所がない麻祁さんの事を思って泊めたんでしょ。ねえ、龍麻君?」
「え……」
一瞬意味が分からず、霧崎の言葉に少し悩むも、すぐに俺は合わせた。
「そ、そうだよ、麻祁から聞いたの?」
「うん、昨日聞いたよ。両親が遠くに暮らしていて、今は一人でホテル暮らしなんだけど、お金の工面からタダで泊まれる場所を探していたら、龍麻君が部屋を貸してあげたって」
「麻衣ちゃん、そりゃ嘘だよ、騙されちゃダメだって。嘘と邪はコイツの十八番だから。絶対に裏があるって」
「あ、あるわけないだろ、そんなの!」
「そうだよ僚君。龍麻君にそんな気持ちがあるなら、常に女子に話しかけていつも一緒にいるよ。僚君と毎日一緒にいるわけないよ」
「麻衣ちゃん、ちょっとそれ俺にも棘が飛んできてる……」
「それより聞いたよ龍麻君……屋上でその事話して帰ってくる時に、階段から落ちて顔傷つけたんでしょ? ……ここ大丈夫なの?」
霧崎の手が顔に伸び、細い親指が口元を擦る。俺の心臓が一瞬高鳴る。
「だ、大丈夫! 心配ないよ」
俺はすぐに腕を掴み、少し顔から放した。霧崎は少し間を空けてから、今度は俺の腕を見る。
「それは……?」
霧崎が言葉でさす。それは腕についた重りの事だった。
「ああ、これ? これはおも……りじゃなくて、シュシュ」
腕を前に出し角度を変えて何度も見せる。が、構えた腕が小刻みに震えだし、俺はすぐに下げた。
「シュシュって……」
「そうシュシュ。校則だとシュシュは大丈夫みたいだから付けてきた。中々似合ってるだろ? はは……」
俺は霧崎を安心させる為、笑顔で答えた。だが、その予想した反応とは裏腹に、霧崎の表情は唖然としていた。
少し心配するように、霧崎が小声で聞いてくる。
「龍麻君……どこに付けるのそれ?」
「えっ?」
「あのな龍麻、シュシュってのはな……」
飽きれた口調で僚が間に入る。しかし、その途中でチャイムが鳴り、音が声をせき止めた。
すぐさま僚は席へと戻り、霧崎も心配そうな表情で俺を見つめたまま、席へと戻っていった。
突然だだ広い荒野に一人だけ残された気分になる。俺は麻祁の方に顔を向けた。
「なあ、シュシュって何だよ……?」
「何って、シュシュはシュシュだろ?」
教室のドアが開き、山田先生が入ってくる。俺の心が一人モヤモヤとする中、ホームルームが始められた。