四節:像
麻祁は何も言わず、まるで睨むように龍麻を見ていた。
腰には緑のポーチが二つ巻かれ、そして右手には銃が一つ。
龍麻は麻祁の名前を口にした後、驚いた表情のままそれ以上は何も言わなかった。代わりに、麻祁が口を開く。
「なにをしてるんだ? 風呂? ここ家?」
その言葉に、龍麻が釣られるよう反応した。
「い、家……? ち、違う! 犬みたいなのに襲われて……!」
龍麻が勢いで立ち上がる。
滝のように体からは水が落ち、水面を激しく叩いた。
麻祁は表情を変えず、視線を少し上げては言葉を返す。
「犬? 野犬? 襲われるとか今時のアニメでもそんな展開は見たことがない。何をやったんだ?」
飽きれるような口調に、龍麻は少しカッとなり、言葉に熱が入った。
「何ってふざけんなよ! 俺だって分かるわけないだろ! 昨日もこんな感じだ! 俺は何もやってないってのに、何で俺ばっかり……」
「――で、その犬はどこ?」
麻祁が首をわざとらしく左右に振った。
「ええっと……、あった。これだよ、これ」
龍麻は足元の水面を見渡し、そして半分破れていた紙を摘み、麻祁にへと見せた。
黒く滲んだ髪からは、ぽたぽたと垂れ落ちている。
「紙じゃん」
飽きれたような口調に、再び龍麻の言葉に熱が入る。
「か、紙だよ! い、今は紙だけど……、さっきまで、犬だったんだよ! 水に入ったら紙に戻って、ほら、あの男がこの紙に何かを書いて、何かわんわんと言い出して、それで……あああッ!! もういい!!」
摘まんでいた紙を足下の水溜りに叩きつけ、麻祁を指さし払った。
「大体、俺の居場所をあいつに教えたのはお前なんだろッ!?」
あいつ。その言葉に麻祁は首を傾げた。
「誰? あいつって? 居場所を教えるだと?」
「ああそうだよ! あの犬を出す前に言ってたんだよ。ある方が今ここを通るって事を教えてくれたってなッ! ある方ってのはお前のことなんだろ!? 」
「よく分からないことを言う。仮に私がお前の場所を教えたとしても、一体何の得がある? 消すにしても、わざわざ雇って誰かにやらせるより、さっさとあの部屋で始末するか、後ろから殴って意識を飛ばした時に、記憶を全部消した方が早いだろ。何故わざわざ手間を掛ける必要がある?」
「それじゃ、本当に……っ!!」
龍麻が驚き指をさす。それに釣られるように麻祁も顔を向けた。そこにはあの男の姿があった。
二人から目を逸らさず、真っ直ぐと顔を向けたまま、徐々にその距離を詰めていく。
龍麻はすぐさま水の中へと体を落とし、怯えた子犬のように端を両手で掴んでは、目だけを覗かせた。麻祁は銃を握り締めたまま、ただ近づいてくる男の顔を睨むように見続けている。
男が立ち止まる。二人との間の距離はまだ遠いものの、その若々しい表情はハッキリと確認できる。
「反応が消えたので来てみれば、まだ生きていたとは……すでに食べられていてもう終わったと思ったのですが……残念です」
その言葉とは裏腹に男は表情を変えない。目だけ覗かせる龍麻から、横にいる麻祁へと、男が視線を移す。
「……それよりも一つ聞きたい事があるんですが、あなたは誰ですか?」
男の問いに麻祁は言葉を返した。
「……それよりも一つ聞きたい事があるんだが、お前は誰だ?」
突然向ける銃口。だが、男は表情を変えない。。
「そんな物騒な物、向けないでもらえます? そうでなければ……!」
男がズボンのポケットから一枚の紙を取り出した。
その紙は最初と比べて見ても表面は荒く、まるで和紙のようだった。
胸元のポケットから袋を取り出し、素早く親指に粉を付けては、何かを書き始める。
「ま、まずい! 撃てって、早く!」
龍麻が叫ぶ。しかし、麻祁は指に力を入れようとしない。
男はスラスラと何かを書き上げると同時に、その紙を押さえつける様にして地面へと叩きつけた。
「お願い!」
男が叫び、手を退ける。その瞬間、そこから大きな像が現れた。
筋肉質の体、背が高く、全身は年期のある木材のような色をしている。
その姿はまるで木製の仁王像。横に並ぶ男と身長差を比べると、ゆうに数十センチの差はある。
顔には鬼のような兜が掛けられ、その表情は見えない。
像は左腕を前に出して、握りしめた右手を後ろに引いたまま、ジリジリと重量のある足を擦らせながら、二人との距離を詰め始めた。
引かれた拳が二人を狙うようにして、構えられる。
「まずいな……」
麻祁がそう口走った瞬間、引き金を引いた。
大きく乾いたような音が数発響く。しかし、撃たれたはずの像は怯む事はな――その瞬間消えた。
「しゃがめッ!!」
横に飛ぶと同時に麻祁が叫んだ――刹那。爆発にも聞こえる轟音が鳴り響いた。
「……いて、いて! っくしゅん!!」
龍麻の体に石つぶてが飛び、その後水しぶきが雨のように降り注いだ。
「なんなんだ……って……」
横を見上げた時、その光景に思わず目を見開かせた。
水の中で尻餅をつく龍麻の上に、あの像の右腕がいた。
左脇を締め、伸ばした拳が噴水の中心を砕く。
石のオプジェとしてあったその形は崩れ、そこから大量の水を噴き上げていた。
像が右手をゆっくり下げる。拳に乗っていた石は崩れ、下に落ちては水しぶきを高く上げた。
「うそ、うそうそうそ!!」
龍麻は像に向かい、右手を突き出し首を激しく振った。
――拒絶の意。しかし、腕を戻した像に、その思いは通じなかった。
濡れる体の向きを変え、再び左腕を構えては、龍麻に向かい拳を引く。
龍麻は咄嗟に両手に水を掬い、像の足元へと向かい浴びせた。しかし、濡れた体に新たな水滴を付かせるだけで変化は無い。
「くそっ!!」
悪態をつきながら体を返し、振り落ちるであろうその場所から避ける為、這うようにして離れた。
だが、予想外の事が起きた。龍麻が離れようともがく中、その場所には何も振り落ちては来なかった。代わりに数発の銃声が鳴り響く。
龍麻が立ち止まり、目を向ける。そこには、像の背中に向かい銃を撃ち込む麻祁の姿があった。
撃たれた像は首を後ろへと向けると同時に、腕ごと麻祁のいる方へと振った。
大きな風切りの音。それが耳に届く前に、麻祁は腰を屈め避ける。
すぐさま像の左側へと回り込み、向けられる背中に撃ち続けた。
撃たれた箇所には小さないくつもの穴が開けられるが、像の態勢には変化が無い。
「きりがない」
そう呟いた瞬間、麻祁はポーチを開け、中から液体の入った試験管を取り出し、穴の空いた部分へとそれを投げつけた。
ガラスの割れる音に、漂うオイルの臭い。
像は背にいる麻祁の方へと体を向ける為、左足を後ろへと一歩下げる。
その瞬間、空けられた穴からは液体が漏れ、足元のレンガへと垂れ落ちた。
麻祁はそれを確認すると、スカートのポケットから四角のライターを取り出し、走り出した。
蓋を開けると聞こえる金属の音。像は麻祁の方へと振り返ると同時に、拳を振り下ろした。
伸ばされた右腕と行違うかのように、麻祁が像の右側から背中へと回り込んだ。
鈍い音が響き、敷き詰められたレンガに穴が空く。
麻祁は噴水の端に足を掛け、背中に向かい飛び込んだ。
灯るライターの火。体が下へと落ち行く中、麻祁はそれを像の背中へと押し当てた。
一瞬にして火が燃え広がり、背中を覆いつくす。
像は胸元に手を当て、もがくように暴れまわった。
立ち上がる火と煙に、麻祁はすぐにその場所を離れた。水の中で龍麻は茫然としたままその光景を見続けている。
声もなく、ただ自身の体を覆う炎を必死で振り払おうとするその姿は、人間そのものだった。
炎は上半身を包み、一つの火柱へと変わる。パチパチと火にくべられた枯れ木のような音が聞こえ始める。
徐々に体は墨のように黒くなり、数回腕を振るった後、像は跪き、地面へと沈んだ。
数十秒も立たないうちに、二人の前に残されたのは、ただの燃えカスとなった黒い塊と、その像の名残を見せる下半身、そして辺りに立ち籠る木の焦げた様な臭いだった。
水の中からゆっくりと龍麻が立ち上がる。
「紙じゃなかったのか……」
「噴水をぶっ壊した時に水がかかっても変化がなかっただろ。なのに何故水をかける? ……それより」
麻祁が男の方へと振り向いた。掛ける言葉もなく、両手で握り締めていた銃の引き金を数回引いた。
「――いっ!!?」
放たれた弾丸は、二人を見ていた男の足へと当たった。
逃げる間もなく男はその場で崩れた。
麻祁はすぐに駆け寄り、首筋を掴み無理矢理立ち上がらせ、噴水の方まで引きずるように連れてきた。
「な、何を……って!!」
先も見えず困惑する龍麻。しかし、この後に見せる麻祁の行動に驚いた。
首筋を掴んだ麻祁は、そのまま男の頭を水の中にへと沈めたのだ。
バタバタと苦しそうに両手足をもがかす男に対し、麻祁は冷たい表情のまま動きを変えない。
しばらくし、暴れていた男の動きが徐々に大人しくなり、そして止まった。
「殺したのか!? なんで!?」
龍麻の言葉に、麻祁が平然と返す。
「なんでって、私を潰そうとしたんだから当然だろ。野放しにするつもりか? それに見てみろ」
その言葉に合わせ、麻祁の視線が男へと向けられた。
釣られるようにして龍麻も同じ場所へと視線を向ける。そしてその目を見開いた。
男の顔が沈められた場所、そこには一枚の長方形の紙が浮かんでいた。
龍麻が恐る恐るそれを掬い上げる。
「変わり身だよ。本人はすでに逃げてる。足を撃った時に血が出てなかっただろ。よく見ておけ」
弾倉を抜き、残りの弾数を確認した後、麻祁が残された像の下半身に向かい数回発砲した。
ポーチから再び液体の入った試験管を出し、新たに穴の空けられたその場所へと、液体だけど振りかけた。
腰を屈め、火を点ける。
一瞬で燃え上がる焚き木の横で、麻祁は銃から弾倉を抜き、それをポーチへと入れた。残った空の銃身をスカート裏のふとももに隠していたホルスターへと収める。
何から何まで一瞬のように行われた出来事に、頭は追いつけずその場で停止している龍麻に麻祁が声を掛けた。
「いつまでそこで浸かってるんだ? 早く出て来い、もう少ししたら人が集まるぞ」
その言葉にふと龍麻が我に返る。
徐々に聞こえ始めるサイレン音。その音に気付かされ、手に持っていた紙を水の上へと落とした。
四方からも呟くような人の声が聞こえ始める。
「見つかると面倒だ、さっさと離れよう……こいつも邪魔だな」
先程まであった焚き火は収まり、ただの炭が残る。それを麻祁は蹴り崩した。
龍麻は濡れる体を水溜りから出し、レンガの上に足を着け、その部分の色を変えた。
「……家はどっちだ?」
水の中から出てくる姿を何も言わずにジッと見ていた麻祁が龍麻に問いかけた。
その言葉に、龍麻は前髪から肌へと落ちる水を拭い、左を指差した。
「行くぞ」
声と共に龍麻の前を通り過ぎる麻祁。
その背中に視線を送った後、龍麻はそれに続いた。
そっ気のない真っ直ぐとした背中と、少し寂しそうに少し腰を折る背中。
二つの背中を追いかけるようにして、濡れた足跡は公園の外まで続いていた。