やはり塩辛い
一時間くらい車は走ったのだろうか、二時間立っていたのかもしれない。トシは時間の流れがあやふやで把握できなかった。その間は声の側で目を閉じていた。
道中ずっと女は一人で喋り続けた。窓を開けると風が気持ちいいと言った。山の形がいい。思ったほど長くないトンネルだったわね。狐がはねられている、可哀想。あの自動販売機は全部百円なのかしら? 車を停めて見てくるわ。ペットボトルは違ったわね。詐欺みたい。ここわどこかしら? きっと迷ったのね、でも心配ないわ、大丈夫、なんとかなるわよ。
「おかしいと思わない? 国民がカルシウム不足だなんて? どうかしているわ。それに私に支給されたのはイクラよ。イクラってカルシウムの宝庫かしら? 馬鹿にされたみたいで気分が悪いわ。父には雲丹の瓶詰めよ。美味しそうだったから一口頂いたの。そしたら、驚かないでね、なんとスケトウダラだったのよ! 後ろに書いてあったもの。偽物よ! それを父は喜んで食べてたの。高いウィスキーを呑みながら。そんな父の姿を見たくなかったわ。私はイクラも偽物かと疑って原材料名を確認したわけ。すると、ちゃんとイクラと表示してあったの。訳がわからなくておかしくなりそうだったもの。ラベルに描かれてあったマスコットキャラクターが全てを見透かしたように笑っていたわ。咄嗟に爪でカリカリして一気にむしり取ってやったの。あなたならわかるでしょ? そうでしょ? ねぇ、寝てるの?」
女に共感しなかった。女はおそらくお金持ちの令嬢なのだろう。外国車なんて庶民には手が届くはずもない。少し困った、いかれたお嬢様だ。
国は納税額によって支給する品を変えているのか?
女は車から降りて伸びをした。トシはモリを持ってばたんとドアを閉めた。
「じゃあ、行きましょう」
女は瓶を取り出して太陽に透かした。そしてポケットにしまった。押して返す波の音、磯の匂い、海辺特有の粘度のある風があった。崖のような斜面にできた獣道を下り、女についていく。
「カモメが飛んでるわ、もうすぐ日が沈むから急ぎましょう」
女の目的地はすぐに分かった。それは変哲もない防波堤だった。遠目からも防波堤しかなかった。人の気配のない、波をせき止めるだけの存在。
防波堤の入り口は金網で外部からの侵入を簡素に遮断していたが、お構いなしに女は乗り越えてから手招きした。トシは金網の向こうにモリを投げてから金網を越えた。女の行く道には多量のフナムシがいた。フナムシは一斉に左右に散らばり道を開ける。女はモーセのようだった。
「カモメが海に浮いているわね」
トシは防波堤の内側に浮くカモメよりも無数に漂うキャベツが気になった。キャベツは防波堤の先端まで行列を作りながら不規則に波に揺れていた。時間をかけて着実に沖に向かうキャベツ。
不法投棄だろうか? 農家か? それとも八百屋の仕業だろうか?
「ウニが喜ぶわね」
女の一言はちょうど防波堤の終わりだった。トシは女の横に並びながらモリに巻いた黄色いハンドタオルを外した。狙いを定めてモリを投じた。ハンドタオルは風に煽られて飛ばされ、沖に着水する。
モリは波に揺れる一つのキャベツに深く突き刺さった。モリの刺さったキャベツは、海に浮くただのキャベツから特別なキャベツに生まれ変わった。
女は瓶の蓋を開けて中身のイクラを海に捨てていた。イクラは漂いながら沈んでゆく。小魚が集まって祭りのようにはしゃぐ。
「故郷に帰してあげたかったのよね、わかるでしょ? 今のあなたなら?」
声はトシに届かなかった。屈んで小魚の祭典を近くで見ようとして、海に落下した。
焦りも驚きもしなかった。海の水が口の中に入り込んでくる。それを吐き出す。想像よりも塩味がきつく感じた。ふと女に教えてやれば良かったと後悔に似た気分にさせられる。
こいつらの故郷はここじゃない、川だよ川。
女は欠伸をしながらもと来た道を歩いていく。
「そろそろ帰りましょう、夕日が沈む前に」
トシは黄色いハンドタオル一枚を失って呟いた。
「塩辛いぜ」
嗚呼、塩辛い。




