第17話 前線の約束 《悲劇補正:実行》
翌日も、前線は落ち着かなかった。
昨日の勝利で、敵の動きが変わった。
いつもなら引く場面で、引かない。
むしろ、こっちが油断したところを狙ってくる。
軍務代行が言った。
「今日は妙だ」
「向こうが、こっちを試してる」
俺は嫌な予感がしていた。
昨日、称賛が成立した。
《称賛イベント:成功》
《均衡徴収:準備》
あのログが出た。
つまり、世界はもう“支払い”を決めている。
だから今日は、余計なことはしない。
派手に勝たない。
盛り上げない。
約束した通り、「一緒に帰る」。
俺はアニエスに言った。
「今日も、昨日と同じだ」
「後ろで支える。前には出ない」
アニエスは頷いた。けど、顔が少し固い。
「……はい」
「でも、怪我人が増えたら……私は止まれません」
「仕事ですから」
それはそうだ。
止まれないのは分かっている。
だからこそ、怪我人を増やさないのが一番いい。
戦いが始まったのは昼前だった。
敵は森の端から出てきた。
数が多い。いつもより多い。
そして、奥に混じっていた。
でかい獣型。角のあるやつ。
昨日も出てきたが、今日は二体いる。
「来るぞ!」
「盾を固めろ!」
前線が緊張する。
でも昨日の勝利があるせいか、兵の目が少し強い。
――それが、逆に怖い。
強気になると、前に出る。
前に出ると、怪我が増える。
獣型が突進した。
盾列にぶつかり、盾が弾ける。
兵が転ぶ。
次の瞬間、もう一体が横から回り込んできた。
盾の外側を狙ってくる。
「左が崩れる!」
叫び声。
走る足音。
崩れたら、そこから雪崩みたいにやられる。
死者が出る。
俺は一歩、前に出そうになった。
いや、出ない。出ないはずだ。
でも、その瞬間、目の前で若い兵が転んだ。
昨日、俺に話しかけてきたやつだ。顔が浮かぶ。
獣型の足が、その兵を踏み潰そうとしている。
俺の体が勝手に動いた。
言葉じゃない。
英雄の台詞なんて、言ってる暇もない。
手を伸ばす。
止まれ。
いつもより強く。
いつもより長く。
獣型の動きが、目に見えて止まった。
突進が止まり、足が地面に縫い付けられたみたいになる。
「今だ!」誰かが叫ぶ。
兵が一斉に槍を突き立てる。
獣型がうめき声を上げて倒れた。
倒れた獣型の下から、若い兵が這い出してくる。
生きている。顔が青いが、生きている。
……助けた。
助けた、はずなのに。
俺の視界が、嫌な光り方をした。
《注目度:急上昇》
《称賛イベント:強制成立》
やめろ。
今、成立するな。
だがもう遅い。
「見たか! 今の!」
「獣が止まった!」
「助かったぞ!」
声が上がる。
兵が熱くなる。
そして熱くなった分だけ、戦は荒くなった。
前に出る。追う。突っ込む。
敵は引き際を読んで、投石を混ぜてきた。
石が飛び、アーマーの隙間を割る。
倒れる兵が増える。
死ぬよりはいい。
だが怪我人が増えれば、次に困るのは――。
「後方へ! 負傷者を運べ!」
「司祭を呼べ!」
その声が聞こえた瞬間、俺はアニエスを思い出した。
駄目だ。
増やすな。
これ以上、彼女に“仕事”を押し付けるな。
俺は戦場を見回した。
倒れている。呻いている。血が出ている。
しかも、助かった人間が多い。
俺が止めたせいで、踏み潰されずに済んだ人間がいる。
その分、半端に生き残って、傷だけが残る。
――治す人間が必要になる。
俺は歯を食いしばって、戦を終わらせにかかった。
派手に倒すんじゃない。
ただ、これ以上増やさないために止める。
止めて、止めて、止める。
敵の動きを鈍らせて、撤収の時間を作る。
軍務代行の号令で、なんとか引いた。
追撃はしない。今日はそれどころじゃない。
野営地に戻ると、すぐに負傷兵が運び込まれた。
担架。担架。担架。
「こっちも!」
「血が止まらない!」
「腕が折れてる!」
天幕の前に、アニエスが立っていた。
顔が一瞬だけ強張った。状況を見て、すぐに理解したんだろう。
「……来ましたね」
俺は言葉が出なかった。
来た。そうだ。来た。
アニエスはすぐに動いた。
包帯を巻く。止血。回復。回復。回復。
祈りの声は小さい。
でも今回は、そんなことを言っていられない。数が多すぎる。
俺は手伝った。水を運ぶ。担架を持つ。傷口を押さえる。
その合間に、視界のログが走る。
《悲劇補正:実行》
《均衡徴収:実行》
実行。
もう始まってる。
俺はアニエスの様子を見る。
彼女の手は速い。正確だ。
だが、回復を重ねるたびに、ほんの少しずつ顔色が落ちていく。
最初は気のせいかと思った。
だが、三人目、四人目で確信した。
治すたびに、アニエスから何かが削れている。
「アニエス、少し休め」
俺が言うと、彼女は首を振った。
「休めません」
「この人たちは、あなたが助けた人です」
その言葉が、胸に刺さった。
俺が止めた。
俺が助けた。
だから彼らはここにいる。
生きている。
だが傷ついている。
そしてそれを治すのは、アニエスだ。
次の負傷兵が運ばれてきた。
腹に深い傷。息が浅い。
「間に合わない!」誰かが叫ぶ。
アニエスが膝をつく。
祈りの手を組み、傷に手を当てた。
「……大丈夫。大丈夫です」
傷口が、ゆっくり閉じていく。
血が止まる。呼吸が戻る。
助かった。
助かったのに、アニエスの肩が小さく震えた。
俺の視界に、冷たい文字が出た。
《均衡徴収:対象:アニエス》
……やめろ。
やめてくれ。
次。
次。
次。
彼女は止まらなかった。
治して、治して、治していく。
そのたびに、アニエスの動きが少しずつ遅くなる。
顔が白くなる。唇の色が消える。
「もういい」俺は思わず言った。
「もう……十分だ。これ以上は――」
「十分じゃありません」
アニエスは、はっきり言った。
怒ってはいない。泣いてもいない。
ただ、現場の人間の目だった。
「助かった人を、助かったままにしたい」
「それだけです」
最後の担架が運ばれてきた。
若い兵だ。さっき踏まれかけたやつ。脚がぐしゃぐしゃだ。
「司祭様……」
彼は震える声で言った。「……すみません」
アニエスは首を振る。
「謝らないで」
「生きて帰るために、ここにいるんです」
彼女が手を当てる。
祈りは短い。息が乱れているのが分かる。
それでも光が走り、骨が整っていく。
血が引いていく。痛みが落ちていく。
若い兵の顔が、少しだけ楽になる。
「……助かった」
そう言って、彼は涙をこぼした。
その瞬間だった。
アニエスの手から、力が抜けた。
糸が切れたみたいに。
本当に、急に。
膝が折れて、彼女はその場に崩れ落ちた。
「アニエス!」
俺は抱き起こした。
軽い。驚くほど軽い。
彼女の目は開いている。
だが焦点が合っていない。
俺の視界に、決定の文字が出た。
《均衡徴収:完了》
《悲劇補正:完了》
……完了。
こんな形で完了するな。
こんな形で、物語を進めるな。
「アニエス、聞こえるか」
「まだだ。まだ終わってない」
俺は治癒を使おうとして、手が止まった。
ここで俺が派手にやれば、また空気が動く。
空気が動けば、支払いが増えるかもしれない。
でも、目の前で死にそうな人間がいる。
アニエスが、かすかに笑った。
「……レオンさん」
「手を、止めて」
声が小さすぎて、耳を近づけないと聞こえない。
「今日は……たくさん助かりました」
「あなたが……止めたから」
「だから……私は、仕事ができました」
仕事。
そんな言い方をするな。こんな時に。
俺の喉が詰まる。
言ってはいけない言葉が、口の先まで来る。
守る。救う。助ける。
アニエスは、それを読んだみたいに首を振った。
「……大きい言葉は、いりません」
「約束だけ……」
約束。
昨日、言った。
言い直した。
「一緒に帰る」
アニエスは、もう一度だけ笑った。
「……はい」
「一緒に、帰りたかった」
そのあと、彼女の瞳から光が消えた。
手が、完全に冷たくなっていく。
「レオンさん、あなたは悪くない…」
天幕の中が静かになった。
助かった兵の呼吸音だけが残る。
俺は、アニエスを抱えたまま動けなかった。
助けた人間は、生きている。
その代わりに、アニエスが死んだ。
俺の視界の端に、最悪の追加が走る。
《注目度:上昇》
《称賛イベント:再燃》
誰かが外で叫んでいる。
「司祭様が……!」
「命を削って、皆を助けた!」
「英雄だ!」
やめろ。
その言葉は、次の火種になる。
俺は立ち上がった。
アニエスを天幕の奥に寝かせ、外へ出る。
止めなきゃいけない。
これ以上、盛り上げさせるな。
……でも俺は知っている。
俺が止めようとするほど、世界は別の形で盛り上げる。
そしてまた、誰かが払う。
その仕組みの中で、俺は今日も目の前を助けた。
結果が、これだ。




