第16話 軍旗の下で 《称賛イベント:成功》
その朝、軍務代行の顔が最初から険しかった。
「今日は小競り合いじゃない」
「辺境伯の視察が入る。軍旗も出す」
「勝ちを見せる戦だ。押し返すぞ」
俺は嫌な予感しかしなかった。
軍旗が出る戦は、空気が変わる。
兵が並ぶ。声が大きくなる。
勝てば、その場が“お祭り”になる。
そして、そういう場ができた時に――あれが来る。
俺は言った。
「旗なんか立てたら、騒ぎになる」
「勝てばいいだろ」
「兵は数字じゃ動かん」軍務代行は短く返した。
(怖い時ほど、旗や号令が必要だ。そういうことだろう)
俺はアニエスの方を見た。
彼女も小さく頷く。分かっている、という顔だ。
「やり方は変えない」俺は言った。
「俺は前に出ない。目立たない」
「勝っても騒がせない」
「はい」アニエスは答えた。
「私も同じです。声を張らない。目立つ祈りはしない」
「……でも今日は、人数が多いです。抑えきれないかもしれません」
それが一番怖かった。
俺たちが抑えても、周りが勝手に熱くなる。
前線の丘に着くと、本当に軍旗が立っていた。
長い布が風に揺れて、旗竿がきしむ。
いつもより兵の数も多い。槍の列が長い。盾の壁が厚い。
その後ろに、鎧のいい連中がいた。
視察団だ。伯の側の人間だろう。
その時点で、もう兵の顔が違った。
「見られてるぞ」
「手柄だ」
「勝てば褒美も出る」
余計な声が増える。
空気が温まる。
視界の端に、嫌な文字が出た。
《注目度:上昇》
《称賛イベント:準備》
……準備。
つまり、最初から“盛り上がる予定”で組まれている。
角笛が鳴り、戦が始まった。
敵は猿型だけじゃなかった。
角のある獣型が混じっている。突進して盾を割るやつだ。
獣型が一体、盾列に突っ込んだ。
盾が弾けて、兵が後ろに転ぶ。
「崩れるぞ!」
誰かの叫びで、他の声も一気に大きくなる。
ここで俺が前に出て、でかいことを言えば、皆は落ち着くだろう。
でも、それをやったら終わりだ。
俺は言葉を飲み込んだ。
代わりに、後ろから手だけ出す。
盾列の隙間から獣型の足を見る。
短く止める。ほんの一瞬だけ。
止まれ。
獣型の動きが鈍る。
その隙に槍が刺さる。兵が体勢を立て直す。
俺は同じことを繰り返した。
一瞬ずつ。回数を絞って。目立たないように。
……なのに、戦況が持ち直した瞬間、兵が沸いた。
「押せる!」
「いけるぞ!」
「旗の下だ、前へ!」
声が大きい。
叫びが増える。
勝っているのに、嫌な汗が出る。
後ろでは負傷者が増えていた。
投石や爪で裂かれた兵が運ばれてくる。
アニエスは天幕の前で、淡々と回復していた。
声を張らない。短い祈り。手は止めない。
でも人数が多いと、それだけで目立つ。
「司祭様、こっちも!」
「助かった……!」
「まだいる!」
呼び声が増える。
人が集まる。
場ができる。
俺は嫌な予感のまま視界を見る。
《注目度:上昇》
《称賛イベント:成立条件:達成》
だめだ。
今ここで成立したら――。
その時、前線で獣型がもう一体暴れた。
盾列がまた歪む。
俺はとにかく止め続けた。
兵が耐える時間を作る。
派手な一撃じゃなく、耐えるための一秒を作る。
そして――耐え切った。
敵の先頭が倒れ、残りが引いた。
軍務代行が叫ぶ。
「追うな!」
「撤収! 負傷者回収! 列を整えろ!」
追撃しない。正しい。
でも視察団がいると、列を整えるだけで“見せ場”になる。
案の定、後ろから声が上がった。
「見事だ!」
「よく耐えた!」
「これぞ辺境伯軍!」
その一言で、兵の顔が一斉に上がった。
疲れが吹き飛んだみたいに、目が光る。
「うおおお!」
「勝ったぞ!」
「やった!」
――しまった。
俺の視界が、はっきり光った。
《称賛イベント:成功》
《均衡徴収:準備》
成功。
準備。
勝利が“盛り上がり”として成立した。
そして、次に来るものが決まった。
俺はすぐにアニエスを探した。
天幕の前で、まだ負傷者の腕を支えている。立っている。生きている。
でもログが言っている。
準備が始まった、と。
軍務代行が寄ってきて、低い声で言った。
「……お前の名は出してない」
「だが兵が騒ぎ始めてる。勝った戦だ。止めにくい」
「止めろ」俺は即答した。
「集めるな。並ばせるな。騒がせるな」
「勝ったのに?」と軍務代行が眉をしかめる。
「勝ったからだ」
「勝った直後が一番危ない」
軍務代行は意味が分からない顔をした。
それでも、現場の人間らしく口を閉じる。
「……分かった。今日は引かせる」
「余計な式典はやらん」
野営地に戻る。
兵は勝利の顔をしている。
でも俺はずっと落ち着かなかった。
天幕の中で、アニエスが道具を洗いながら言った。
「……今日の勝ちは、大きすぎました」
「私たちのやり方でも、止めきれませんでしたね」
「明日は抑える」俺は言った。できるだけ具体的に。
「撤収を早くする」
「人を集めない」
「勝っても騒がない」
アニエスは頷いた。
それから少し間を置いて言った。
「もう一度、約束を」
「言葉で言ってください。忘れないように」
俺は喉が鳴った。
大きい言葉は言えない。
でも、言わないと伝わらないこともある。
だから、これだけ言った。
「一緒に帰る」
「明日も、その次も」
アニエスは小さく笑った。
「はい」
「一緒に帰りましょう」
視界の端に、静かに文字が出た。
《信頼値:上昇》
信頼。
それ自体は悪くない。
でも俺は、もう知っている。
勝利が盛り上がった。
信頼も上がった。
こういう時に、世界は残酷になる。
天幕の外は暗い。
遠くで兵がまだ話している声がした。
俺は息を吐いて、視界のログを睨んだ。
《均衡徴収:準備》
――やめろ。
次は、誰も持っていくな。
そう思った直後、冷たい文字が追加された。
《悲劇補正:実行準備》
心臓が、嫌に強く鳴った。




