第八節:嵐の前の静けさの割にはうるさいわよ。
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第八節:嵐の前の静けさの割にはうるさいわよ。
王宮・執務室。午前の光が差し込む室内には、溜息と紙の匂いが漂っていた。
「探鉱局からの報告です。ヴァステン帝国内の掘削は、予定よりも順調だそうです。……今回は大臣を通さず、直接、陛下と私宛に届いております」
ラヴが書見台の前で淡々と告げる。イシャナは椅子に深く腰掛けたまま、うんざりした目で積まれた報告書の山を睨んでいた。
「……本物の報告はこっちで、あっちはまた“問題なし”の紙一枚ってことね」
山から一通の報告書を引き抜く。中身を見た瞬間、顔をしかめた。
「鉱石の流通表もなければ備蓄報告もゼロ。これは報告じゃなくて“虚偽”でしょ。……で、こっちは……猫探しの依頼? はあっ!?」
「随分とお忙しそうですね、陛下」
ふわりと紅茶の香りが漂い、声とともに横合いから現れたのは、ソファに悠々と腰掛けたリュールだった。
「なんでいんのよ、あんた!!」
「陛下が“この前の紅茶がまた飲みたい”と私に連絡されたので、持って参上しました」
「それを持ってくるのが皇太子ってどうなのよ!!」
詰め寄るイシャナに、リュールは悪びれる様子もなく一口紅茶を啜る。その様子にラヴがそっと口元を押さえて笑った。
「……懐かしいですね」
「なにがよ?」
「まるで、昔のカール様と陛下を見ているようで……」
その言葉に、一瞬空気が止まる。
——と。
「生きてるわ!!」
バンッと扉が開き、力強い声とともにカールが仁王立ちで現れる。
「……ほんと、騒がしいのよこの宮殿は」
イシャナがぼそりと呟くと、カールは「何か問題でも?」と片眉を上げる。
「ところでリュール、最近うちに入り浸りすぎじゃない? あんた、帝国の執務は?」
「部下に任せてあります」
即答するリュールの顔には、満面の笑み。
「……鬼かよ、こいつ」
◇ ◇ ◇
ヴァステン帝国・内政局。
「帰ってきてください、リュール殿下……!」
執務官の女性が、書類の山の前で項垂れたまま呻いていた。眉間には深い皺が刻まれている。
「ほんともう……なんでこの国の皇太子が、エラシアで茶を淹れてるのよ……」
◇ ◇ ◇
ふたたびエラシア・執務室。
カールとラヴとリュールが、紅茶片手に談笑している。その輪の中に入らず、少し離れた席に座るイシャナが、静かに目を細める。
(あの男と出会って、変わったこと……多いな)
ふと、昔のやり取りを思い出す。
——最初は儀礼的な書簡のやり取りだった。完璧な文体と、必要以上に硬い敬語。だが、やがて互いの近況や冗談が交じるようになり、今ではほとんど“文通”と呼べる関係になっていた。
「でも……こっちの冗談にも真面目に返してくるのよね……ほんと、女に免疫ないわ、あの人……」
そう呟きながら、にやりと笑みを浮かべるイシャナ。
「……なら、ちょっとくらい、揺さぶってもいいでしょ」
◇ ◇ ◇
リュールが書類を届けに来たその日。
イシャナは事前に“ちょっとした罠”を設置していた。
執務室の扉を静かに閉めたリュールは、手に書類を抱えたまま部屋の中央まで進み、イシャナの前で礼を取る。
「陛下、本日の分の文書をお届けに参りました」
その瞬間。
足元に細く張られた糸に引っかかり、リュールは後方へ倒れる。
「うわっ!?」
背中から床に倒れ込んだ彼の上に、勢いのままイシャナが跨るように覆いかぶさる。
リュールが目を見開いたまま固まっていると、イシャナが彼の耳元に顔を寄せ、囁いた。
「このあと、どうする♡?」
リュールの顔がみるみる真っ赤になり、鼻血を噴きながらその場で気絶した。
「ちょ、ほんとに気絶してるじゃない!」
イシャナは慌てて彼の肩を揺さぶり、胸倉を掴んで起こそうとする。
「リュール! 起きてよ! 起きなさいってば!」
その叫びが響いた瞬間、執務室の扉が再び開く。
「殿下、なにかご用で……——」
入ってきた部下が見た光景。 床に倒れるリュール。その上に跨る女王陛下。
「エラシア……オワッター……タミゴメンヨ……」
イシャナ自身も、その言葉を内心で呟いていた。固まりながらギロチン台の光景が脳裏をよぎる。
そのとき——リュールがふと目を覚ました。
「……あれ? 私……?」
状況を一瞬で察した彼は、体を起こしながら部下に向かって穏やかに言う。
「すまない。足を滑らせてしまって、イシャナ様を巻き込んでしまっただけなんだ」
部下は小さく頷き、そそくさと退室していった。
室内に静けさが戻る。
「……もう、やらないでくださいよ」
「今日は大人しくするってば」
いたずらっぽく笑うイシャナに、リュールはこめかみを押さえた。
「“今日は”って、今日“だけ”ですよね……?」
まるで、嵐の前のような静けさ。 でも、その中は、やっぱり騒がしい。
——エラシアの日常とは、そういうものだった。
「そろそろ、いいお時間かと……陛下、軽くでもお食事をされては?」
ラヴがそっと控えめに声をかける。
「うん……今日は、庭園で食べたいな」
イシャナが軽く伸びをしながらそう告げると、ふとリュールの方を見て口角を上げた。
「そっちの皇太子も、ついてきなさい」
「え、僕もですか?」
「当然でしょ」
——ということで、ラヴが即席でサンドイッチを用意し、一行は王宮の庭園へと移動することになった。
敷物の上に座って、みんなで輪になってサンドイッチを囲む。青空の下、穏やかな風に包まれながら、エラシアの女王も、帝国の皇太子も、ただの一人として笑い合っていた。
「これ、美味しいわ。ラヴ、やるじゃない」
「お褒めいただき光栄です、陛下」
食事を終え、やがてイシャナは木陰のベンチに腰掛け、そのままうたた寝を始める。
カールはそっと毛布を掛けてから、リュールに目配せした。
「……殿下、少し時間をいただけますか」
リュールは促されるまま、別のベンチへと向かう。
「殿下と初めてお会いしたのは、私が殿下の国で不当に扱われ、釈放されたあのときですね」
「ええ……あの件は、本当に申し訳なかったと思っています」
「ふ。出会いとしては不穏ですが……あの子が私を“騎士”に任じた時より、運命はすっかり変わってしまった」
カールの目が柔らかくなる。木陰で眠るイシャナに視線を送った。
「彼女の命令がなければ、今の私はありません。だから、命を懸けてでも、守る。それが私の在り方です」
リュールは真剣な眼差しでうなずいた。
「それは……素晴らしい誓いです。なら、僕も、彼女の“懐刀”としてありたい」
「……懐、ね」
カールの目がすっと細くなる。
「いや、あの、そういう意味じゃなくてですね。立場として、その、信頼される存在というか……」
「懐に収まりたいんだ」
「いや違います!? そ、そういう柔らかい意味じゃなくて……!」
「柔らかい懐……ふむ。深いな」
「いやいやいや、ちが……内側に寄り添うような──いや、それも語弊が! 補佐的な意味です!」
「内側で寄り添う、と。なるほど、ずいぶんと密着した支え方だ」
「密着じゃなくて! 精神的な、支えです!!」
「精神的に“懐”に潜って、内側から攻めてくスタイル?」
「いやもうそれ完全に誤解ですから!? 攻めとかじゃなくて、もっとこう……丁寧に、優しく──」
「丁寧に優しく……ふぅん。なるほど、ソフト系なのか」
「違う! 違いますってば!? なんでそんな方向に……!!」
その瞬間、リュールの背筋にぞくりと冷たいものが走った。振り向かずとも分かる。背後、枝の茂みの陰で何かがきらりと光る。
(……ラヴさん!?)
そう察したとき、確信が現実になる。
「鞘に、収まりたいですってぇぇぇぇ!?!?」
背後から雷鳴のような怒声が炸裂した。
「言ってません言ってませんッ!!」
リュールは必死に両手を振って否定する。だが時すでに遅く、ラヴは枝切りバサミを片手に、草むらを踏み鳴らして近づいてくる。
「殿下……いえ、リュール様。まさかあの純粋無垢な陛下にそんなっ……っ」
「いやほんとに違うんです!! 陛下が“懐刀”って呼んでくれたら嬉しいなって、それだけの話でっ!」
もはや視線が泳ぎっぱなしのリュールに、カールが肩を揺らしながら笑い始めた。
「ははっ、いやぁ、“収まる”って表現、すごくいいな。どこにとは言わないが」
「やめてくださいカールさん!? ほんとに燃料投下しないで!!!」
そんな修羅場のような庭園に、くすくすという小さな笑い声が混ざった。
「ふふっ……なにそれ、おかしすぎ……」
目を開けたイシャナが、ベンチの上で肩を震わせていた。
「ねぇ、でも……“懐刀”って、普通の意味よね?」
イシャナは、純粋であった。