第五節:出会いにしては、突然すぎ!。
第五節:出会いにしては、突然すぎ!。
ゆっくりと揺れていた馬車が、カタンと小さく跳ねて停まった。
その反動で私は目を覚ました。……どうやら、眠っていたらしい。
身体を起こして大きく伸びをしながら、窓の外に視線を向ける。
見慣れぬ石造りの街並み、重厚な壁、そして赤い旗。どうやら、ヴァステン帝国の市内には無事入れてもらえたようだ。
私は御者に感謝の言葉を告げ、宿代とあわせていくつかの金貨を手渡す。そして、たった一人で街の通りに足を踏み出した。
市場では、濃厚な肉の香りが空気を満たしていた。
「……別に、気になるわけじゃないんだけど。」
調査のため。そう、自分に言い聞かせながら、私は露店で数本の串焼きを購入する。
幸い、金貨は共通通貨として両国間で使用可能だったため、特に問題はなかった。
「……あああ、ほっぺが落ちる~っ」
串を咥えたまま、口の中いっぱいに肉の旨味を感じながら歩く私。
観光に来たわけではないはずなのに、はたから見れば——ただの子どもが買い食いして喜んでいるようにしか見えないのだろう。
何人かの市民が微笑ましげにこちらを見ていて、私は思わず赤面した。
「恥ずぅぅぅ!」
叫ぶように呟き、串を咥えたままその場から走って逃げ出す。
——気を取り直して。私はまっすぐ、ヴァステン帝国の宮廷を目指した。
到着した宮廷には、意外なことに門番の姿がなかった。
内部へと進み、受付と思われる場所にいた人物へ声をかける。
「エラシア王国から来た者です。名前はイシャナ・エラシア。急な訪問で連絡はできていませんが……リュール・ロン・フォール皇太子に、お会いしたくて参りました。」
受付の男性は、目を見開いて私を見つめたあと、何も言わずに階段を駆け上がっていった。
確認に行ったのだろう。会えるかどうかは、あちらの判断に任せるしかない。
(……最悪、断られたら——侵入してでも会ってやるんだから)
そんな物騒な決意を胸にしながら待っていると、階段の奥から足音が近づいてきた。先ほどの受付の人物だ。
そして——私は意外にも、あっさりと中へ案内されたのだった。
案内された部屋に入り、私は彼を見た。
私より三十センチは背が高い。すらりとしているが、決して細いわけではない。しっかりと鍛えられた筋肉が、衣の下でも輪郭を浮かび上がらせていた。
青髪は肩にかかるほどに伸びており、表情は……やけに、優しい。
(うん……悪人だ。多分、優しさの仮面を被ったタイプ。貼りついた笑顔。絶対あやしい)
心の中でそう毒づいたとき、彼は静かに「こちらへ」と手を差し出した。
導かれるままに来客用の椅子に腰を下ろすと、執事風の男がすぐに紅茶を運んできた。
ふわりと香る茶葉の匂いに、思わず目を細める。
一口飲んで、私は小さく目を見開いた。
——おいしい。
うちの国のものよりも、ずっと、深くてまろやかで、舌に残る香りの層が多い。
ラヴが一生懸命調べてくれて、何度も失敗して作ってくれたあの味より、正直すごい。
口には出さなかったが、表情には出てしまっていたのだろう。
私がカップを見つめながら小さく唸ったそのとき、彼——リュールが口を開いた。
「それは、ヤマトカ皇国から取り寄せた茶葉です。三か月かけて運ばせています。……驚かれましたか?」
「……っ」
彼は私の考えていたことを——いや、私が“考えていたことの奥”を察知して、それをあえて茶葉の話として出してきたのだ。
「舌は正直ですね。……それに、誰かの努力を思い出した顔をされていた。」
ドキリとした。
ラヴのことだ。きっと私の表情の中に、その記憶が滲んでいたのだろう。
「……なるほど、優しさの仮面って、案外……見透かしてくるのね。」
呟きは口から漏れ、けれど彼は微笑んだまま何も言わなかった。
私は姿勢を正し、彼の瞳を正面から見据える。
「……お願いがあります。」
カップを置いて、はっきりと口にする。
「エラシア王国の騎士、カールの免罪と釈放をお願いしたくて——ここに来ました。」
彼の肩が、ほんのわずかに跳ねた。
「……なるほど。」
その一言のあと、彼は静かに目を伏せた。少しの間を置いて、改めて顔を上げる。
「——ですが。皇太子の力だけで、罪を取り消し、釈放までもっていくのは……なかなか骨が折れそうですね。」
「見返りは?」
彼の声には、かすかに圧があった。
優しかった目は鋭さを帯び、まるで全てを見透かすようにこちらを射抜く。
(嘘も誤魔化しも、通じない)
私は、小さく息を吸い、そして言った。
「……こちらがお願いしている立場です。そちらの要求を、呑みます。」
彼は腕を組み、しばし考えるように視線を落とす。そして、穏やかな口調で言った。
「実は……あなた宛に、以前一通、正式な文書を送っています。覚えておいでですか?」
——その言葉で、私はすぐに理解した。
(……結婚の申し込みのこと)
静かな怒りが、胸の奥で泡立つ。拳を膝の上で握りしめながら、それでも顔には出さなかった。
私はゆっくりと顔を上げ、真っ直ぐに彼の目を見た。
「——結婚の申し込みの件ですね。」
彼の目が、わずかに揺れる。
「了承はします。ただし、ひとつ条件があります。」
私は息を吸って言葉を続けた。
「私はエラシア王国最後の王族です。私が他国に嫁いでしまえば、法的にも、象徴的にも、エラシアは“空位”になります。……国ではなくなるんです。」
沈黙。
そして、はっきりと告げる。
「だから——あなたが、エラシアに来てください。婚姻を望むなら、あなたが“エラシアに入る”形でなければ、私は国を捨てることになります。」
彼は、私の条件を呑んだ。
——それだけのことなのに、心の奥で何かが崩れ落ちていく音がした。
(……これでいいんだ)
自分にそう言い聞かせるように、私はゆっくりと頷いた。
カールの件についても、正式な釈放の確約をもらえた。明日の正午、留置所へ向かえばよいとのこと。
「婚姻書類は、エラシア王国へ送っておきます。……大臣たちへのご説明に、少しでも時間を差し上げられれば。」
そう言った彼の声には、感情がなかった。配慮とも取れるし、ただの処理にも思えた。
私は礼を言って部屋を辞し、街へ出た。先ほど買っておいた串を口に運ぶ。
——なのに、味が、しない。
(ああ……宿、決めてなかったな)
こんなときに限って、すべてが抜け落ちていく。
今はとにかく、横になりたかった。
何も考えずに、ただ目を閉じて眠りたい。
……それでも、自分を少しだけ誇りに思っていた。
一つの問題を、確かに解決できたのだから。
たとえそれが、自分を“差し出す”形だったとしても。
(あ……鉱石の件、どうしよう)
頭をよぎったその一言で、現実が戻ってきた。
カールを救っても、財政破綻は着実に迫ってきている。
これは、私ひとりではどうにもならない。
(もし、リュールが鉱石の枯渇に気づいたら……)
——結婚の話は、すべてなかったことになる。
つまり、カールは有罪のまま、処刑台に立つ。
それだけは、絶対に避けなければならない。
(どうにか……籍だけでも、早く)
国のため、仲間のため、私は嘘をつかなければならなかった。
ようやく見つけた宿で、部屋の鍵を受け取る。
二階の角部屋。古びた木の階段を一段ずつ上りながら、思考がまた巡り始める。
(リュールって男……最初から、大臣と繋がってるんだよね)
(私が結婚できる年齢になるまで待ち、文書を送ってきて。
私が断りの手紙を返すと、今度はカールを使って。釈放と引き換えに、結婚を迫る。)
……筋は通っている。
けれど——
(そこまでして、私と結婚したい理由って……何?)
その問いだけが、夜の静けさに溶けていった。
部屋の鍵を回し、扉を開ける。狭い部屋に、ベッドが一つ。
靴だけを脱ぎ、私はそのまま倒れこむように横になった。
(……もういっそのこと、リュールに鉱石の枯渇の処理、丸投げしようかな)
(……なんとかしてくれるでしょ。頭いいだろうし)
少し不貞腐れたように小言を吐きながら、私は静かに落ちていった。