第十一節:往生際の悪さ
第十一節:往生際の悪さ
ラヴに肩を揺すられて、イシャナはゆっくりと目を開けた。どうやら昨夜、ベッドに倒れ込んだまま眠ってしまっていたらしい。
「おはよう、ラヴ」
「イシャナ様、おはようございます。昨晩は大変お疲れだったようでしたので、そのままお休みいただきました。それと……ひとつ、ご報告がございます」
ラヴは声を落としながら告げる。
「本日早朝、大臣たちがイシャナ様の婚約を正式に発表いたしました」
「……そう」
一拍だけ、短く返してから、イシャナは視線を窓の方へと移した。
「ねぇ、ラヴ。手紙を書きたいの」
「かしこまりました。ご準備いたします。一通でよろしいでしょうか?」
「えぇ。一通——ヴァステン帝国宛に」
ラヴが一礼して部屋を出ていくと、イシャナはゆっくりと立ち上がり、書き机へと向かった。
机に手を置いたその指先に、ほんの少しだけ力がこもる。
(私も、タダでやられてあげない)
手紙には短く——だが確かに、こう記した。
「本状をもちまして、エラシア王国はヴァステン帝国から譲渡された鉱石採掘権を正式に破棄いたします。
以後の権益につきましては、王国として一切の関与を断ち、貴帝国の裁量に委ねます」
それは、ヴァステン帝国との“取引”を断ち切るという意味だけではなかった。
譲渡の理由となった「不当逮捕の贖罪」さえも、もう不要だと言っているに等しい。
ロゼル連邦が欲しがっていた鉱石。
その供給源であるヴァステンとの繋がりを、自らの手で断つ。
(本当に“空っぽ”になった王国を、ロゼルがどう立て直すか見せてちょうだい)
それは、イシャナなりの——最後の抵抗だった。
手紙を封筒に収め、封を押すとき、ふと脳裏に浮かぶ顔がある。
リュール。
(……これを彼が見たら、どう思うのだろう)
彼が“王として認めた”意志は、まだ生きていると受け止めてくれるだろうか。
それとも、下った。そう思われてしまうだろうか。
けれど、たとえどちらであっても——
イシャナは、震えることなくその手紙を差し出した。
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婚姻式まで——残り四日。
リュールからの手紙は、とても簡素なものだった。封蝋こそ帝国王印が押されていたが、中身はたった一行——
「了承した」
それだけ。
癖のない筆致。感情も余白もなかった。まるで何もかもを拒絶するような、あるいは——失望そのもののような。
(……期待してくれていたんだろうな)
無意識のうちに、そう感じていた。
私が、ロゼル連邦に屈したことへの——“答え”を、彼はきっと、待っていたのだ。
けれど、あのとき私は“選んでしまった”。仲間を、家族を、騎士を守るために。国を差し出す道を。
……でも。
「私、往生際悪いんだよね」
ぽつりと漏らした声は、自嘲と、どこか乾いた笑いが混じっていた。
執務室の扉が開く。泥にまみれた作業着の一団が、ゆっくりと頭を下げて入ってきた。採掘局の面々だった。
本日をもって、全員帰国。
ヴァステン帝国での採掘許可は破棄され、残されたわずかな鉱石だけが“お土産”のように積まれていた。
彼らのひとりが、一枚の報告書を差し出した。握りしめられていたそれは、皺だらけで、湿った指先の跡が残っていた。
目に、光はなかった。
誇りを奪われたと感じているのだろう。職を失い、自分たちの手が“国に見捨てられた”と告げていると、思っているに違いない。
けれど——心配はいらない。
一週間後。すべて明らかになる。
他国の商会、他国の市場、そのどこからも交易が再開されないまま、ただ“静かに”時間だけが過ぎる。
彼らはきっと気づき始める。
ロゼル連邦がエラシアに介入した“直後”から、鉱石の流れが止まったことを。
その裏で、エラシア王国がすべての輸出を凍結し、ロゼル“だけ”に流しているように見えることを。
——つまり。
「“あの国”が独占してると見せかけるの。何も渡してないのに、勝手に“責任”を抱えてくれるわけだから……便利よね」
曇った眼で笑った。
次の交易は、一週間後。
「七日間で、鉱石を集めて輸出してごらんなさい? できなければ、どうなるかは……ね」
すでに仕込みは終わっている。誇りを失った彼らも、いずれまた取り戻すだろう。
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婚姻式まで——残り二日。
ロゼル連邦が、我が国に乗り込んできた。
表向きは、婚姻式の準備。
だが本当は——鉱石の確認。
ロゼル式の婚姻式を王宮で執り行うという。
馬車が連なり、式典を飾る装飾品を次々と運び込んでいた。
さすが加工と意匠に長けた国。精緻な意匠は目を引くが、それも見せかけだ。
(つまり、あちらが“主導する”つもりということ)
私はロゼル連邦の侍女に連れられ、着付け用の部屋へと向かっていた。
途中、曲がり角の向こうで、大臣とロゼルの使者が言葉を交わしているのを見かける。
聞き耳を立てることはしなかった。
けれど、内容は明白だった。
——鉱石のことだ。
ヴァステンとの採掘権協定は、数日前に私の手で破棄された。
けれど、その事実は大臣たちには伏せたままだ。
当然、発掘局が全員帰国していることも彼らは知っているはず。
報告は届いている。あとは“何が起きたか”を認識するだけ。
(ようやく、気づいたのね)
だが、もう遅い。
ロゼルは「輸入が止まっている」と言っている。
それが本当なら——備蓄はゼロのはず。
私たちには、もう鉱石はない。
そしてロゼルにも、ない。
その上で彼らは、王宮に足を踏み入れた。
まるでこの国を“受け取る”ために来たかのように。
だが今、彼らの手には“何もない”。
私が破棄した協定を、ロゼルはまだ知らない。
この国が、“鉱石を出せない”状態にあることだけは知っていても、
“出させないようにしたのが私自身”だとは気づいていない。
あと五日。
もし、その間にロゼルが輸出を再開できなければ——
各国は“その理由”をロゼルに問うことになる。
(そのとき、誰が信用を失うのかしら)
ふっと、口角がわずかに上がった。
笑ってはいない。ただ、理解しただけ。
「……ざまあみろ」
声は静かで、鋭くて、どこまでも冷たかった。