第1話
世の中、つまらないことばかりだ。飯を食べる、仕事をする、寝る。平日はこれを繰り返すだけ。つまらない。休みの日に映画を見たり、漫画を読んだりすると、その時は面白いと感じる事もある。でも、家で一人で過ごしているとその感情もすぐに薄れて消えてなくなる。昼夜も忘れるくらい熱中して打ち込むほど面白かったことなんて、25年間生きてきて出会ったことがない。自分は何のために生きてるんだろうか。大学を卒業して働き始め、仕事にも慣れ始めた今日この頃、急に残りの人生もそんなつまらない日々の繰り返しで終わるのではないかと不安を覚え始めていた。
「こら、中田君。ぼーっとしてないで働いて」
突然、上司の呆れたような声で現実に引き戻される。
「あ、はい。すみません。ちょっと考え事をしてしまっていて」
俺の名前は中田 康介。中学、高校はそこそこの成績で、そこそこの大学に入った。そしてそのままそこそこの企業に就職した、まさに平凡という言葉の似合う男だ。
「課長、大丈夫ですよ。中田はぼーっとしてなくても大して仕事してませんから」
隣のデスクから茶化すような声色で男が話しかけてくる。その男の名は北原 涼。俺と同期入社で嫌味な奴だ。俺よりちょっと仕事が出来るからって、周りからチヤホヤされていつも舞い上がっている。
「あっはっはっ、そうだったな。こりゃ一本取られたわ」
その嫌味に乗ってくるこの上司は高橋 晃。いつも細かいことをグチグチ言ってくるうるさいオヤジだ。こんな感じで、俺の職場には残念な奴が多い。こいつらのおかげで、つまらない仕事がよりつまらなく感じる。
「なんだ? なにか文句があるのか? 文句があるなら一度でも営業成績で北原君に勝ってから言ってほしいものだな」
「……いえ、なんでもないです」
存外、ぶすっとしていたのが顔に出ていたらしく、上司にまた小言を言われてしまった。反論したところで、どうせ追加でグチグチ言われるだけだ。そんな面倒を避けるために適当に誤魔化してその場をやり過ごす。
「お前も少しは頑張ってみろよ。まあ、俺の成績を超えるのは一生無理だろうけどな!」
北原は俺の肩をバンバン叩き、笑いながら馬鹿にしてきている。心の中にドス黒い感情が湧き起こるのを必死で抑える。これ以上この場に留まっていたら頭がおかしくなりそうだ。勢いよく立ち上がり、席から離れる。
「中田君、どこに行くつもりだ?」
「ちょっと煙草吸ってきます」
背中に聞こえる上司の声に振り返らずに答え、そのまま居室を後にした。
この会社の喫煙所はいくつかあるが、俺がいた居室から一番遠い屋上の喫煙所へ向かった。少しでも長く、あの退屈で嫌な空間から遠ざかりたかったからだ。屋上の喫煙所に着くと、すぐに上着の内ポケットから煙草を一本取り出し、火をつける。それを口に含み、ゆっくりと大きく息を吸うと、体の隅々までニコチンが染み渡っていくのを感じた。イライラがほんの少し解消された気がする。空を見上げながら吸った息を大きく吐く。
「曇り空か。気持ちだけじゃなく、天気も晴れないな」
「何いってんの? あんた?」
急に背後から声を掛けられる。喫煙所に入ったときには誰もいなかったので油断した。驚きのあまり、のけぞって変な体勢になってしまう。
「あははっ! 変な格好っ!」
振り向くと腹を抱えてゲラゲラ笑っている黒髪でショートボブの女性がいた。女性の名前は早乙女 優里。高校時代から付き合いのある友人だ。何の因果か、同じ大学に入ったかと思えば、なんと就職先まで同じだったという始末だ。俺が営業、彼女が経理という、働いている部署は流石に異なるが、ここまで同じ進路を辿る友人などそうそういないだろう。
「うるせぇなあ、ほっとけよ」
「なーにが、『曇り空か。気持ちだけじゃなく、天気も晴れないな』よ。仕事サボってかっこつけてんじゃないわよ」
優里は煙草をぷかーっとふかすジェスチャーをしながらきざったらしい話し方で俺の真似をする。それを見て頬に熱を帯びるのを感じた。誰もいないと思ってつぶやいた独り言が聞かれていたときの恥ずかしさのなんたるや。せっかく気持ちを落ち着けられるかと思った矢先にこれだ。今日は運が悪いようだ。
「かっこつけてたつもりなんてねーよ。お前こそ、煙草吸わないのにこんなところ来てサボるなよ」
「サボりじゃないわよ。あんたが暗い顔してるの見かけたから心配してついていってあげたんじゃない」
「そんなの頼んでませんー」
余計なお世話だと伝わるように、口を大きく開き、抑揚をつけて返答する。
「あー、そうですか。じゃあ勝手にすれば!」
優里はその言葉を聞き、眉を寄せてしかめっ面をしており、今ばかりはその綺麗な顔立ちが台無しになっている。彼女はそのまま俺に背を向け、喫煙所の出入り口に向かう。その途中、何かを思い出したように急に立ち止まり、またこちらへ振り返った。
「あ、あのさ、私さ、北原さんに今度ご飯誘われちゃったんだよね。こ、康介、どう思う?」
「は? なんで俺にそんなこと聞くんだよ。行きたきゃ勝手に行けばいいだろ。あんな奴のことなんか知らねーよ!」
気分が悪くなった原因の名前を出されてつい大きな声を上げてしまった。しまったと思ったものの、時既に遅し。そこには先程よりもむすっとした顔の優里がいた。
「あっそ、本当にあんたなんかもう知らない! それじゃあね!」
そう言いながら勢い良く喫煙所の出入り口から出ていった。
「はあ、何だか頭痛くなってきた」
大気圧変化によるものなのか、ストレスによるものなのか不明だが、急に頭痛に襲われた。頭を片手で押さえながら時計を確認すると、思っていた以上に時間が経っている。ゆっくり煙草を吸いたかったが、とんだ休憩時間になってしまった。これ以上喫煙所にこもっているとまた上司にどやされてしまう。戻りたくない気持ちを抑え、とぼとぼと喫煙所からデスクのあるフロアへと戻って行く。
「お、やっと戻ってきたか。サボり魔」
デスクに戻ると、隣の席の北原が嫌味を言って来た。戻った途端これだ。また屋上に行きたくなる気持ちをぐっと堪えて仕事に戻る。北原の事は無視して営業先に持って行く資料をまとめ始める。
「おいおい、無視かよ」
無視されたことに腹を立てたのか、少し声色が強い。このままずっとウザ絡みされたらたまったものじゃないので、仕方なく相手をしてやることにする。
「なんだよ。なんか用か?」
嫌々顔を北原の方に向けて話す。北原は少し眉間にしわが寄っていて苛ついていたように見えたが、すぐに何か思いついたようにニヤニヤとした表情に変わった。
「あのさ、俺、早乙女狙ってるんだけどさ、さっき飯の誘いオッケーって返事もらったわ。お前、早乙女と仲良いみたいだけど、早乙女ほどの美人はお前にはもったいねーよ。早乙女とはこれ以上関わるなよ」
さっき屋上で優里が話していた件だ。分かっていたことだが心がモヤモヤする。優里はいわば幼なじみで友人として仲は良いが、女として好きな訳では無い。でも、嫌いな奴と男女の仲になられるのは正直不快だ。
「俺から近づいてんじゃねーよ。世話焼きな性格だからか、あっちから来るんだよ。いちいちそんな下らないことで話しかけんな!」
机をバンと叩きながら声を荒げてしまった。北原は俺が声を荒げると思っていなかったのか面食らっている。周囲を見回すと皆俺を見ていて視線が痛い。いたたまれなくなった俺は適当に理由をつけてその場から去ることにした。
「お、おい、中田君。今度は何処に行くんだ?」
立ち上がり、カバンにノートパソコンやタブレット端末をしまっていると、俺の動きを察知した上司が話しかけてくる。
「午後に予定してた外回り行ってきます。今日は営業終わり次第直帰するのでよろしくおねがいします。それじゃ、失礼します」
上司のポカンとした表情を背中に、いそいそと居室から離れる。俺の働いている会社は、敷地内に駐車場とオフィスビルを持っている。駐車場はオフィスビルと隣接しており、建物から出ると歩いてものの数十秒で辿り着く。無事に居室から抜け出すことに成功して駐車場に着くと、俺が利用している営業車に乗り込んだ。
「ふう」
やっと一人の時間ができた。そう思うと思わず安堵の息が出てしまった。もちろんこのまま車でぼーっとするつもりはない。俺にも生活があるから、本当にサボって仕事をクビになるわけにはいかない。駐車場に行く途中で買ったブラックコーヒーを一口飲んで心を落ち着かせた後、エンジンをかける。
「さあ、行くか」
声を出して気合を入れると、徐行しながら駐車場を抜けて営業先へと向かった。
職場から数十分ほど車を走らせると、郊外の駅から少し離れた場所にぽつんと建っている建物に着く。この建物に入っている会社が今日の営業先だ。飛び込みではなく、事前に約束は取り付けてある。なので建物に隣接している来客用の駐車場に車を停めさせてもらった。かばんを手に車から出るとその建物の一階の入り口へと向かう。
「あっ、どうも、こんにちはー」
鈴木食品と書かれている入り口を開き、腰を低くしながら、はっきりとした声で挨拶をする。先程まで無表情だったが、しっかり笑顔になることも忘れない。フロア内には社員が複数人おり、それぞれテキパキと仕事を進めていた。それら社員とは別に、挨拶をしてすぐに奥の方の椅子から立ち上がって近づいてくる人が見えた。
「どうもどうも、わざわざありがとうね、中田さん。さあ、奥へどうぞ」
そう言ってもてなしてくれたのはこの会社の社長の鈴木 三郎だ。鈴木食品は食品卸売業で、学校給食や介護施設に食品を卸売している地域に根ざした中小企業だ。鈴木社長は、この会社の二代目の社長で気の良いおじいさんだ。禿げ始めている白髪頭で、顔の皺も目立ってきている。年齢をはっきり聞いたことはないだ、六十代後半くらいだろうか。最近は小学校に上がった孫が可愛くてたまらないらしく、訪問する度によく写真を見せて自慢されている。鈴木社長はフロアの奥にある、周りより少し大きめの自分のデスクの前まで俺を連れてくると、余っていた椅子を持ってきて俺に掛けるように促す。鈴木社長も自分の椅子に座ったところで彼が口を開いた。
「今日は、えーっと何だっけ?」
鈴木社長は頭を掻いて今日の予定を忘れていることを誤魔化している。
「社長、御社が利用中の在庫管理ソフトウェアのクラウドサービス移行の提案を持ってきたんですよ」
俺、中田 康介はフューチャーソリューションという会社に営業として勤めている。フューチャーソリューションは、中小企業向けに業務用パッケージソフトやクラウドサービスの開発、販売を行う、そこそこの規模の会社だ。鈴木食品には、フューチャーソリューションが開発した在庫管理のパッケージソフトウェアを販売し、利用してもらっていた。しかし、そのパッケージソフトウェアの開発、保守の終了に伴って、自社で新たに展開予定のクラウドサービスへの移行をお願いに来ているのだ。
「ああ、そうだった。それなんだけど、まだ先延ばしに出来ないかなあ。新しいこと覚えるの大変だし……」
鈴木社長の言いたいことも分かる。自身の会社の売上に関係ないと思われるところで余計な手間がかかるのは、どんな経営者だって嫌だろう。しかし、そういったことは当然、事前に想定して説明資料を作ってある。
「弊社都合で申し訳ありませんが、先延ばしは少し難しいかと……我々もしっかりサポートしますので、移行の際の手間であればご心配いりません。また、移行して頂いた方がコストカットになり、御社の利益に寄与出来るかと思われます」
そう話しながらタブレット端末に作った資料を用いて説明を始める。途中、質疑応答を交えながら話を進めていくと思っていたよりも好感触だった。資料の最後に、鈴木食品に当てはめた例で、どれだけの金額が節約できて利益に寄与出来るかのシミュレーション結果も書いてある。それを見せられればきっとこの商談も決めてもらえるはず。そう思い、資料の最後のページを開くと、そこには白紙のスライドがあるだけだった。
「あっ」
しまった。シミュレーション自体は終わっているが、まだ資料への落とし込みだけ終わっていなかった。ここへの訪問前にまとめておく予定だったが、北原と上司の嫌味な態度から避けることを優先して忘れてしまっていた。
「んー、これはまだ作成途中? ってことかな? まあ、そういうこともあるよね」
鈴木社長は、年の功なのかこの程度のことでは声を荒げるようなことはなかった。俺の失敗を優しい声でフォローしてくれる。
「でも、ちょっと具体的に数字見えないとまだ判断できないね。時間なくなってきてるのにごめんね」
しかし、彼も経営者だ。どれだけ表面上優しく取り繕っていても、お金の関わる部分では厳しい判断を下してくる。今回はこれ以上は聞く耳持ってくれそうにない。北原と上司に沸々と怒りが湧くと同時に、こんな凡ミスをしてしまった自分にも怒りが湧いてきた。
「中田君、残念なのは分かるけど……顔、ちょっと怖いよ」
「あ、大変申し訳ありません。失礼しました」
やり場のない怒りが顔に出ていたようだ。鈴木社長の指摘でそれに気付かされ、俺は慌てて謝罪した。今日はもう何をしても駄目な日なのかもしれない。ため息をつきたくなる気持ちを抑え、鈴木社長にまた出直す旨を伝えようとしたが、先に鈴木社長に話しかけられた。
「中田君、最近性格変わった? ちょっと怒りっぽくなったかな?」
「え? そ、そうでしょうか?」
「私の気のせいかもしれないけどね。ちょっと働き過ぎて疲れてるんじゃないの? ゆっくり休むのも大事だよ」
「あ、はい。ありがとうございます」
自分の性格など自分ではわからないものだ。周りから見たらそのように見えてしまっている事に少々驚きつつ、心の中で反省した。鈴木社長の言う通り、もしかしたら少し働き過ぎているのかもしれない。今日中に商談をまとめられなかったのは心残りだが、家に帰って早く休もう。そう思ったとき、鈴木社長が続けて話しかけてきた。
「疲れてるなら、うちの孫たちの写真と動画見てきなよ。かわいいから癒やされるぞー」
鈴木社長はニヤニヤしながらスマホの画面を俺に見せてくる。そこには鈴木社長の孫の写真が映っていた。
「わあ、いつもかわいいですね」
しまった。こうなってしまっては話が終わるまで長いぞ。しかし、その気持ちを表に出して機嫌を損ねるわけにもいかない。苦虫を噛みつぶしたような表情は心の中にしまっておき、全力でスマイルを作る。その後は、ひたすら鈴木社長の孫自慢の話が続いた。
「ただいまー」
俺は一人暮らしだ。なので家に誰もいないことは分かっているが、つい実家に住んでいたときの癖で帰ったときに出てしまう。乱暴に靴を脱ぎ捨てて玄関に上がり、ベッドへ向かう。1Kタイプの間取りなのでキッチンを抜けたらすぐにベッドルームだ。ベッドルームに足を踏み入れると、カバンを投げ捨てベッドにダイブした。
「あー、疲れた」
結局あの後、鈴木社長の話は一時間ほど続いた。他の社員の方が鈴木社長に仕事の相談に来たおかげで、何とかそのタイミングで切り上げて帰宅することが出来た。鈴木社長、人は良いのだが、北原や上司とはまた別の意味で厄介だと痛感させられた。しばらくベッドで倒れていると、ぐうとお腹から音が鳴った。時計を見ると既に午後七時半を回っていた。
「はあ、また外出るのも面倒くさいし、家にあるもの適当に食べるか」
家にあるカップ麺をあさり、適当に選んで準備した。
「いただきます」
しっかり三分待ってカップ麺を食べ始める。それをすすっていると、鈴木社長が孫と一緒にご飯を食べに行った話を楽しそうに話していたのを思い出す。今、自分が家で孤独にカップ麺を食べている光景と比べてしまい、侘しい気持ちがせり上がってきた。
「孫ね、俺にもいつか出来るのかな」
その前に子ども、さらにその前に結婚しないといけないだろ、などと心の中でツッコミを入れつつ、一人寂しい夕飯を終える。食べ終わったカップ麺を片付けた後、ベッドに横になるとそのまま意識が遠のいていった。
陽の光を感じ、意識が覚醒した。起き上がってみると、既に次の日の朝を迎えていた。朝と言っても既に十一時手前といった具合だ。平日ならとんでもなく焦ったところだが、今日は土曜日で仕事はお休みだ。しっかり眠って、しかも今日は休みだ。清々しい気分で一日を始められると思ったが、どうにも頭が痛い。動けないほどではないため、手で頭を抑えながらベッドから這い出る。時間が経つにつれて頭痛がおさまってきたので昨日浴びそこねたシャワーを浴び、気分を変えることにした。シャワーを浴びて一通り髪を乾かした後、ベランダに出て一服する。
「はー、生き返る。ってまだ死んだことねーけどな」
また自分の発言に自分で突っ込む行為をしてしまった。家で一人でいることに妙な寂しさを感じる。予定はないが、どこか人のたくさんいるところに行きたい。そう感じて外出する支度をして新宿へ向かった。
電車に揺られて三十分しない内に新宿に着く。俺の住んでいる大井町は家賃こそ高いものの、新宿その他都心へのアクセスが便利で重宝している。たまにこんな風に一人でいることの寂しさを紛らわすために人の多いところに行くときには特に。新宿につくとその喧騒にいつも圧倒される。新宿駅東口方面でブラブラしていると映画館にたどり着いた。
「今って何が流行ってるんだろ。なんか見ていくか」
映画館に入り、ざっと気になるものがないか確認する。最近公開されたばかりの洋画が全面に押し出されていた。その洋画の原作はゲームソフトで俺もやったことがある。中々面白いものだった記憶があるので、これを見ることに決めた。放映スケジュールを確認すると、割と待ち時間無しで見られそうだった。すぐさま一番近い放映時間のチケットを購入する。すでに入場ができる状態になっているようなので急がなければならない。売店でポップコーンと炭酸を買うと、早歩きで上映するシアターへ向かった。
上映が終わり、暗幕が張られたように真っ暗だったシアター内が明るくなっていく。原作を知っている身からすると、それはないだろうという改変が色々あった。そういった改変があったせいで素直に楽しめなかった点はあるが、映画自体はそれなりに良かったので、事前準備なしに急に見たものとしては及第点をあげたい。
「さて、これからどうするか」
外は既に日が暮れていた。しかし、新宿という場所は光源だらけで、それほど暗さを感じないことに驚かされる。まだ田舎で育った感覚が抜けていないようだ。俺が住んでいた場所は、都内であるものの、田園風景が残る自然豊かな場所だった。そこでの夜はこんな明るかったことなどなかった。一人暮らしを始めて既に三年も経つのにまだ心は田舎者のままか。故郷を忘れたくない気持ちと、田舎という閉鎖的な場所に対する負の感情が交錯して複雑な気持ちになっていた。家に帰るとまた一人になってしまう。そう考えるとそのまま家に帰るのが嫌で、目的もなく新宿周辺をぶらぶらし始めた。
「腹、減ったな。何か飯でも食うか」
あてもなく歩いていたのが夕飯を食べるという目的が出来る。周囲の店など気にせずにいたが、良さげな飲食店を求めて徘徊し始める。少し歩いたところで見たことがある顔を見かけた。
「北原と優里!」
思わず目をそらし、ビルの影に隠れてしまった。彼らが歩いている側面から道路を挟んで見つけたので、あちら側は俺に気付いていないだろう。焦ってビルの影に隠れてしまったことに段々と苛々がつのってきた。なんで俺が隠れなきゃいけないんだ。ビルの影から体を出すと、先程歩いていた歩道に戻り、何事もなかったかのように歩き始める。しかし、気になってしまい、目の端でちらっと彼らを見ると、おしゃれそうな飲食店に入っていた。入っていった店の名前をネットで検索してみると、女性が好みそうな幻想的な内観に、ちょっとお高めで美味しそうなディナーを出すところだとわかった。評価もかなり上々で、予約なしだと中々入れないようだ。
「ああ、ちくしょう! 見るんじゃなかった!」
思わず声に出してしまい、周囲からぎょっとした表情で避けられる。恥ずかしくなって直ぐにその場から離れると、夕飯のことも忘れて家にまっすぐ帰ってしまっていた。
家にあがると、キッチンにあるテーブルに思い切り拳を叩きつけた。優里は北原の横で笑顔で話していた。先程目の端で見てしまった光景が脳裏に焼き付いて離れない。優里のことが好きだから嫉妬しているとかじゃない。仲の良い友人が、嫌いな奴の女になるかもしれないなんて考えたくないだけだ。せっかく映画でそれなりの気分になれていたのに最悪だ。夕飯も食べそこねた。しかし、腹が減っていたはずだが、なぜか今は食欲がわかない。今度は朝起きたときに発生していた頭痛がまた忍び寄ってきた。頭を抑えながら服を脱ぎ捨てると、シャワーを浴びに向かう。雑に髪と体を洗い、あがった後はすぐにベッドに横になった。早めにベッドに入ったはずなのに、その晩は頭の中の光景が何度もフラッシュバックしてしまい、中々眠りにつくことができなかった。
目を覚ますと外はオレンジ色に染まり始めていた。昨日中々寝付けなかったせいか、起きてみたら既に夕方に指し迫ろうという時刻になっていた。相変わらず頭痛は収まらず、苛々がつのる。一方で、なぜ自分はこんなにも苛々しているのかという虚無感にも襲われる。そんな気分になってしばらくすると、段々と頭痛の方はおさまってきた。
「はあ、何やってんだ、俺。それにしてももう夕方か。今から出かけるのも気が引けるし、家で寝てるか」
昨日夕飯を食べそこねてから何も食べていない。何か料理する気にも、外に出る気にもなれないので台所に置いてあるカップ麺を漁って腹を満たす。ゴミを片付けると、冷蔵庫にあったブラックの缶コーヒーと煙草を手にベランダに向かう。
「ぷはー。あー、くだらねえ」
煙草の火を着け、大きく吸う。ニコチン摂取の合間にブラックコーヒーをはさみ、カフェインの苦味を味わう。すると段々苛々はおさまっていき、虚無感だけが俺の中に残った。幼馴染が誰とくっつこうが俺には関係ないじゃないか。優里が俺の嫌いなやつとつるむなら優里とも距離を置くだけだ。別にどうってことはない。一本目の煙草が終わり、そのまま二本目に火を着けた。今、この煙草とブラックコーヒーの味だけが俺にとっての現実だ。他は何もいらない。そう考えながら段々暗くなっていく空を眺めていた。
「ああ、くそっ……………………はあ」
それから何本煙草を吸ったかわからない。新しく煙草を取り出そうと箱に手を延ばすと、既に箱の中身は空になっていた。家に一人でいることに虚しさを感じ、溜め息が出てくる。
「やっぱり明日、優里に謝るか。なんか怒らせちゃってたみたいだしな」
金曜日、屋上で別れる際に優里が怒っていたのを思い出す。明日は月曜日で仕事なので、彼女に会って謝る機会くらいあるだろう。冷えてきたベランダから部屋に戻り、明日の仕事に備えて早めに眠ることとした。
月曜日の朝、スマホにセットしてあるタイマーのけたたましい音で起こされる。普段であれば、行きたくないと感じつつも、すぐに朝食を摂り、スーツに着替えて職場に向かうところだ。しかし、朝起きたタイミングでまた頭痛に襲われた。働けないほどではないが、こう毎日だと心配になってくる。その日は念の為、会社へ休みの報告を入れ、病院へ向かうこととした。休みを知らせる電話をした際は、熱もなければ声もおかしくないので、俺の電話を受けた上司は仮病だと疑っていたようだ。月曜の朝から気分が悪くなってしまった。ちょっと本気で部署異動、もしくは転職を検討すべきかなと思い始めた朝だった。
頭が痛い場合は何科に受診すればよいのだろうか。スマホで調べてみると、どうやら脳神経外科や脳神経内科というところが良いらしい。近くのクリニックには内科しかなく、仕方なく脳神経外科や脳神経内科を探してみると、どうやら大井町駅から徒歩圏内に大きな病院があり、それらの科が外来を受け付けているようだった。そうとわかるとすぐにその足で病院へ向かうことにした。
病院に着くとやたら人が多いことにへきえきしてしまう。普段家で一人で過ごすとが虚しくて人が多い都心へ赴くこともあるが、こういったときの人の多さはごめんだ。どれだけ待たされるのかわかったものではない。そうはいっても待たないことには仕方ない。受け付けを済ませて受診までスマホをいじって過ごすことにした。
「八十九番の方、診察室にお入り下さい」
二時間は経っていないと思うが、かなりの時間待たされた。月曜日だから土日に受診を控えていた人がこぞって押し寄せでもしたのだろうか。やっとかという気持ちで重い腰を上げて診察室に入る。
「はい、こんにちは」
診察室に入ると、優しい雰囲気の男性医師が迎えてくれた。目尻に皺が出来始めているが、まだはっきりとしたものになっていない。おそらく四十代前半くらいだろう。そのまま医師の前の椅子に座ると診察が始まった。
「今日はどうなさいましたか?」
「ええ、ここ数日、朝起きると頭痛がすることが多くて。痛みに悶えるほどではないんですが、念の為受信させていただきました」
「そうですか。それならとりあえずレントゲン取って確認してみましょうか」
「あ、はい。よろしくお願いします」
「それじゃ、準備できたら呼びますので待合室でお待ち下さい」
待合室に出て、先ほどと同じようにスマホをいじって過ごしていると、すぐにレントゲン室の方に呼ばれ、レントゲンを撮った。その後、少しすると診察のために再び診察室に呼ばれた。診察室に入ると、優しそうだった先生の顔が少し強張っていた。
「あの、何かよくなかったですか?」
「いや、レントゲンだけだとまだ原因がわからないんだ。中田さん、最近周囲の人との人間関係ってどうかな? 何か変化あった?」
「人間関係ですか? うーん、特に何か変化はないと思うんですけど……」
変化か。変化といえば、鈴木社長から性格が変わったと言われたっけ。自分では全くそうは思わないが。
「最近、仕事関係の人から性格が変わったねって言われましたね」
それを聞いた先生の顔が更にこわばる。何か嫌な予感を感じ始め、心臓が高鳴り始める。
「中田さん、念の為MRIを撮りましょう。また準備出来たら呼びますので待合室でお待ち下さい」
待合室に戻った俺は、心配で呑気にスマホをいじっている気になれなかった。MRI、聞いたことはあるが受けたことなど人生で一度もない。何が俺に起きているのか考えるのが怖くなる。MRIを受けるために病院側が用意した薄着の服に着替えて順番を待つ。自分の順番になり、MRIを受けるが検査自体はあっさり終わった。その結果を聞くために待合室で待っていると、再度診察室に呼ばれる。待っている間は心臓の鼓動の高鳴りがおさまらなかった。診察室に入ると、そこには先ほどと同じく強張った表情の医師がいた。俺が座るのと確認すると、医師は重い口を開いて診察結果を伝えてきた。
「…………中田さん、原発性悪性脳腫瘍、おそらくグリオブラストーマという癌だと思われます。余命一年半程度だと考えて下さい」