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ひねくれ魔術師と契約少女  作者: 水迅
序章 ――人による、人が為のラグナロク――
6/14

まるで神話を幻視する(Ⅱ)

 今になって種明かしをしよう。ユーゲンのとった策とは、つまりこういう事だ。

 彼はそもそも落下地点からほとんど動いていない。下手に動けば察知されるからだ。しかしその場に留まっていても当然見つかってしまう。なれば、偽装する。先ず店内を甘い匂いで充満させる。嗅覚を麻痺させるのが狙いだ。そしてカキ氷用のイチゴシロップ――カキ氷のシロップはどれも味が同じらしい、定かではないが――を魔術により浮かせる。上手くシロップを地面に垂らすことにより、血痕のように見える。おそらく現代人は引っかからないだろう。だが、神話世界の住人相手には通じうる。これに透明化の魔術を合わせれば、一先ずのその場しのぎは可能。但しこれも相手が彼と同郷の者でないからこそ取れた策であり、透明化の魔術などは強力ゆえに対策方法はいくらでも存在する。

 ところで、電力と魔力とは決して相容れぬものではない。寧ろある程度の互換性を有しているといっていい。そこで、次にとった策は電気文明の利器によるかく乱だ。付近の電線を魔術で繋げ、電気が行きかうようにする。明かりがつくようになればその光度を魔術で引き上げればいい。簡単なこと! 付近の明かり全てを付けているのは、どこにいても照らせるようにするため。だが、視界を奪っただけではまだ不十分、音で把握される危険がある。しかし幸運なことに、音の出る機械というのはどこにでも転がっている。そして魔術により音を増大し、反響させる。そうすれば、まるで爆音のヘッドフォンを着けているような感覚へと陥れることができるだろう。それによって生まれた隙をつき、切り札たる上級魔術により一気に勝負を決めることができるのだ。

 まあ、そうならなかったが。


 「い……つ……何があった! 奴と言えどもここまではやれ――!」


 瓦礫の中から這い出たユーゲンは、天変地異を知る。絶句。魔術に詳しい彼だからこそ、その魔術の恐ろしいところを理解する。

 隕石落とし。ただそれだけの魔術だが、それができてしまうことが何よりも恐ろしい。人が一人、一体どれ程の準備をすれば天道に干渉することができるというのか。見た目ほどの威力がないだけ幸運である。


 「召喚者め、要らんことを」


 良好になった視界、彼とそう離れていない場所にて彼女もまたいた。加えて、五感は正常に戻っているようで、すぐさまその双眸はユーゲンを捉えた。屋外に居た彼女はより大きな衝撃を受けたようで、その特徴的な兜は砕け散っていた。

 だけれども、それよりも懸念すべきことが彼にはあった。それは、少女古詠にかけた結界が融けているということ。


 「クソ、契約少女……!」


 「さて、思わぬ横やりが入ったせいで、死にはしないが手痛くなったな。互いに」


 彼の目前に際して、まるで気の置けない仲であるかのように話しかける。


 「何を……!」


 「ほら見ろ、身体に力が入らなくなってきている。まあ、かくいう私も、力の半分は使ったかな」


 ユーゲンはふらり、力なく膝を落とした。原因は魔力の循環不調にある。


 「オーバードが解けてきている……参ったな。お前、今なら俺を消せるぞ」


 彼は弱々しくも挑発的な笑みを投げかけたが、流石にその程度に乗るほど相手は小物ではなかった。


 「それでは英雄足らんな。よし、決めた」


 彼女はある一点、遠くを指差して幼子のように笑う。


 「試練の時間だ」


 「まさか……!」


 それは、隕石落下の爆心地。古詠がいた場所。フッと笑って、彼女は姿を消した。ユーゲンの身体はまだ安定せず、ただ引きずって進むほか無かった。


 「なるものか……決して……もう二度と……!」



 ●



 生きて地獄を知る。少女にとって、それはそこまで重い事ではない。ただ、認識を改める時が来た。夢見心地から去る時、現実を突きつけられる瞬間。


 「ごめんなさい、ユーゲン・ハートマン」


 地獄とは、ただ燃え盛る炎や無秩序さには無い。究極的に言えば、純粋に人が嬲られること、それこそが地獄なのである。それを少女は知った。落つる星よりその身を守り切った結界に、消えゆく最後まで注がれていた思いを知った。そのまま少女のことを気にしていなければ、あるいはもう少し気にかけていなければ勝っていた男の思いを。圧倒的に強い相手を前にして、それでも常に少女から遠ざけようとしていた男の事を。

 魔力というのは人それぞれ全く異なる質感を持つ。色、と表現してもいい。そこには時として、その人の抱く思いが、あるいはその人の性質が現れる。それが何だったのか、というのは言うまでもない。


 「私、ずっともうこれで救われるんだ、って思ってた。でも違ってた。これは夢なんかじゃなかった。だって貴方は、私の代わりに傷ついて……! 悔しいよ……! ずっと自分の事しか考えてなかったんだ……」


 「であれば、少しは役立ってみるか? 小娘」


 「な──」


 黄金の眼。それが捉えるやいなや即座に少女は抱きかかえられる。しかし、微塵も古詠には興味がないようで、じたばたと暴れているのを気にも留めず、自身の召喚者と連絡を取ろうとしている。だが、いくら呼び掛けても反応が無いようで、いよいよもって我慢の限界値に達した。


 「もういい、どうせ聞こえているんだろう召喚者! いいかッ! これより先の戦いに一切干渉をするなッ! もし手を出してみろ下郎、何より先に自ら首を取ってやるッ……!」


 その怒気と殺意の恐ろしさたるや、周囲の火炎が圧により消え去るほどであった。それをすぐそばで浴びた古詠に至っては、気を失う程であった。


 「まったく聞こえているのか……と、ようやっと静まったな。()()()()()


 もはや爆心地に用はない、そう言い残して、戦乙女はその場を飛び去った。



 ●



 「ようやく……魔力が回ってきた……」


 即席の槍を杖代わりにして、どうにか過不足なく第一魔術を発動し続けられる状態にまで回復したユーゲンだが、如何せん負傷が激しいもので、まだ身体がふらついている。しかし彼にとってはさしたることではない。契約少女、古詠の身が無事かどうか、そのことが今一番彼にとって重要な事である。

 そしてその思考を吹き飛ばすかのように、突風と共に彼女は再びユーゲンの前に現れた。彼女はまるで荷物を扱うかのように少女を地面に落とす。古詠はその衝撃により、失った意識を取り戻した。


 「さて、試練といったが、私は一つ気にかかることがある。魔術師よ、これに答えよ。お前はどうしてこの娘を助ける?」


 率直に嫌な気分だ、と彼は思った。今、彼と対峙している超存在は、口角こそつり上がり笑みを浮かべているものの、その眼はこれっぽっちも笑ってやいない。もしここで場違いなことをすれば、即座に命を失くしてしまう。そう確信できるほどの圧。


 「それを知って何になるという。酒の肴にでもするのか? 言っておくが、こんなものは何の足しにもならんぞ。契約少女、そいつからとっとと離れろ。テメーが居たら奴を殴れんだろう」


 「ユ、ユーゲン……」


 「()()()()……ねえ。別にお前が契約しているわけじゃないだろう? 少なくとも、命を懸けるほどのものではないようだが」


 「だったら、何だ」


 確かな苛立ち。彼は支えに使っていた槍を捨て置いて、二本の足で地を踏み締める。それは原始的な威嚇行為でもあるが、相手には通じない。


 「理由がないだろう。こうして命を狙われて、そこまでするのはよほどの仕事人か、あるいは豪華な報酬に眼がくらんだか、それともよほどのお人よしか。お人よしなら救いようがないが」


 「ほざけ、俺は自分の利になる事しかしない。そいつがいなきゃ俺は元の世界に返れないだから守っている。これじゃ不足か?」


 「からっきしだな。通り道があるのだろう? そこを通って一人でに帰ればいい。召喚者曰く、ゲートは管理されているものの常に開いているそうだが? まさか探ろうとすらしていないのか、お前は」


 「ユーゲン……こんな状況だけど、私も知りたい」


 少女の震えながら、されども勇気を振り絞った声。その眼は真っ直ぐ、ただ純粋に、ユーゲン・ハートマンという人間を捉えていた。彼には大きな葛藤が有った。しかし、この場においてはそれを捨て去るべきなのだと考えた。心中を吐露するのは彼の好むところではないが、それでもこういった時ばかりは誠実であらねばならないと、彼自身の心情が告げている。

 

 「別に、大層なものがあったわけじゃない。ただ……ただ、右も左も分からない子供を都合で振り回して、挙句どうかしようなんてこと……俺は心底気に入らないだけだッ!」


 「そうか、分かった。いやなに皆まで言うものか。ともかくお前は試練へ挑むにふさわしいツワモノよ。ではこ──」

 

 言い切るより先に、第一魔術により滾った拳が彼女の腹を撃ち吹き飛ばす。間違いなく、先ほどより力や速度が上がっている。そしてあくまでも戦闘態勢のまま、少女の側に彼は立つ。


 「下手に遠くへ離したことが裏目に出たか……。やはり近い方が守りやすい。お前、さっきと真反対の事を言うが──俺から離れるなよ」

 

「うん……分かった!」


 ユーゲンは再び少女へ結界魔術を貼り直す。あくまでも最小限ではあるものの、それでも容易に吹き飛ばせない代物だ。


 「言っていることとそぐわないじゃない、言動不一致め」


 吹き飛ばされはしたものの、すぐさまひとっとびで場に戻ってきた。大きなダメージは無いのだが、彼女のこめかみからは確かな苛立ちがうかがい知れる。そこから飛び出た文句などというものは、ある程度調子を取り戻した彼にとっては格好のからかい相手である。


 「おいおい、俺はこれでもひねくれ者で名が知れてるんだ。召喚者からは教わらなかったのか? つまり俺の言葉を信じるのは間抜けなんだよ!」


 熾烈なる第二回戦が此処に始まる。但し両者ともかなりの負傷と消耗があり、それはこの勝負が長続きしないことを示している。

 激しくぶつかり合う超スピードの突撃戦。時々魔力弾が入り混じり、それはもう肉眼ではとらえきれない。


 「頑張って、ユーゲン!」


 結界の中、少女は応援の声を飛ばす。それはおそらく聞こえていないだろうが、それでも瞬間瞬間、垣間見える彼の顔には笑みが浮かんでいた。


 「随分な顔をしているじゃないか。血を流して、今もこうして殴打をうけているというのに、まだ勝ち目があるというのか」


 「お前のように戦いが好きな奴はこれだから、発想が直線的で困る。別に勝ち負けなんざ関係ないんだよ、これは」


 「そういうものか?」


 「そういうものだ」


 軽口を終えると再び激突。こういった戦いになると、魔術というのはとんと不利になる。というのも、やはり詠唱というのは隙がなければいけないもので、加えて発動できたとしても此度は相手が強すぎる。拳一つで破壊される防壁魔術を展開するために、大きな隙を要するというのは見合っていない。


 「おいおい、少しはそっちも魔術を使ったらどうなんだ。魔術戦をやろうって気はないわけ?」


 「使っているとも、しかし効力が無い。お前にはわからんだろうが、開戦の合図として投げた槍、あれにはルーン文字を刻んでいたんだ。しかし結果はこれ、どうにも呪いでは世界の壁は越えられんらしい」


 「ああそう。そいつはよかった。委細は令に下す。『汝鉄を打て(バロバレット)』」


 「それは……」


 丁度良くできた隙を突き、彼は程よい大きさの短剣を持つ。生成魔術によって作り出されたそれは、あくまでも魔力によって構成された()()()()にすぎない。しかし元々戦いのために考え出された魔術なので、その切れ味、耐久ともに普通の短剣と相違ない。

 ユーゲンはその短剣を複数、宙に生成し飛び道具として使う。加えて、手持ちにある短剣は彼女からすれば一定の脅威として映る。結果として戦いのあり様は移り変わり、近距離戦ではなくなっていくのだ。

 

 「猪口才な……! まとめて消し飛ばしてやるッ!」


 「それを待っていた……意外と貴様、短気だものな」


 再び極光線が放たれんとする。彼は堂々迎え撃つと言わんばかりに、地に降り立ち、宙に立つ彼女を睨んだ。相手が力を装填している間、この大きな隙を彼が見逃すはずは無かった。宙にあった残りモノを足止め程度に飛ばし、少しでも時間を稼ぐ。狡い手だが、彼女のような手合いには中々効果がある。

 そこまで気を回し、盤面を握ったと思い込んだ彼に対し、かの戦乙女は嘲笑を返す。

 

 「私の残存する力を削り、そして一挙に消し去るなどという、ハンティングをしようとは随分と果敢に愚かではないか。いいだろう! 既に解析も終えた、お前を勇者とし、神話を見せてやるッ! さあこの試練を乗り越えてみろッ魔術師ィィィッ!」


 途端に彼女の背に五つの魔方陣、ユーゲンもよく知る異世界の魔術。更に恐ろしい高位の召喚術式、それはこのワルキューレを召喚したモノより、壮大で強大な絶対的魔力量。そして魔方陣は時計回りに回転し、高速、一つの大きな円を成す。それは空間を削る平面のドリルのようであった。


 「まさか、俺の使った魔術じゃない……奴はずっと自身に作用した召喚魔術を学習していたのか……! クソッ、契約少女! 今からお前を喫茶店へ転移させる! 俺の名を出して、そこの店主を頼れ、いいな!」


 「ちょっと待――!」


 「悪いが待てない……!」


 言い切るより先に、古詠を守っていた結界が収縮し弾けた。同じタイミングで、古詠は喫茶店前に転移し、驚いた勢いのまま店内へ流れ込むこととなる。それを見た店主が大層訝しんだのは少し別の話。

 差し迫った脅威。目の前の高エネルギーにどれほど身を粉にすれば対抗できるかと必死に彼は頭を回す。しかし、その必死さをあざ笑うかのように、彼女は恐怖の事実を告げる。


 「打算的なのは結構。黙りこくった今もあれこれ策を弄しているのだろう? 折角だ、簡単に負けられてもつまらんので教えてやろう。今から放つ魔術はな、結界の中のみでは収まらんぞ。あの落星などと比べ物にならない、結界などた易く破壊しそしてこの土地一帯、遠方に座す神殿をも含め尽くを消し飛ばす!」


 「な、あ、」


 その威力、その宣告。彼は絶句した。

 遠方に座す神殿、つまりは天虚空大社の事だが、空港から大社までの一円がすべて消し飛ぶというのは、即ちその射程圏内に喫茶秘花も含まれている。つまりこれを防げなかった場合、彼がこの地で出会った数少ない知り合いは皆死ぬ。ということだ。その恐怖その仮定が映像として彼の脳内を走る。


 「なるものかなるものかなるものか……ッ! させてなるもんかァァァァ!」


 絶叫が轟く。本来ならば第一魔術と併用しても問題が無い第三~五魔術のうち、どれかを使用して彼女を討つつもりだったのだが、相手は彼の想像を遥かに超えていた。ユーゲン・ハートマンには、もはや安定して、あるいはぎりぎり無事にかつ算段は無い。残っているのは、自壊自滅覚悟の一手のみ。

 彼女は、彼の絶望をもって勝利を確信する。ここにきて異世界にならい、詠唱を唱える。


 「九つの世界、訪れた滅び。

 儚くも華々しい、神々の()

 これなるは偽典、終わりの果て。収穫と終末の再生に待ったをかける。

 ありうべからざるエッダ。百のルーンを織りなして、勝利の槍こそを今此処に!」


 被さるようにして彼女の詠唱にユーゲンも対抗する。発動に一瞬でも遅れれば、それは即ち敗北を意味する。彼の前面に極大の魔方陣が展開、それは急速に、彼の右掌へと収束する。


 「それは、今は亡き龍の息吹。大いなる悲しみ。

 絶対の雷、あるいは鳴り止まない雨。災害への誅罰(ちゅうばつ)、偉大なるものたちの終わり。

 最後の龍は語りて告げる。汝が為、多くを成せと。大義の為、汝の敵を討てと!

 閃光よ、極光を追えよ! そして世界の果てをも越えよ! 第二魔術――!」




「『勝利の槍、その偽りの矛(グングニル)先』!」「『ドラグゼオン・バルハート』!」


 


 空中から放たれたのは神話に名高き槍、勝利をもたらすという主神オーディンの武器。但し威力はそのままで、その権能を再現するには至っていない。何故なら、急ごしらえの魔術で招来できるほど伝説は安くないからだ。その槍は魔方陣と同等の巨大な槍として現れ、地へと向かって奔る。

 対するユーゲンの放つはバルハート。しかしただの攻撃魔術ではない。第一魔術、オーバードと同じように通常の魔術を超常の領域まで極めた、まさに切り札と呼ぶにふさわしい必殺の一撃。その威力たるや、その光の周縁を人の眼に納めることは出来ない程に膨大だった。


 それらが衝突するまでの時間は、少なくともユーゲンにとってはひどく長く感じられた。第二魔術を放ってより、既に彼から右腕の感覚は失われている。それだけでなく、彼の中にはもう魔力は殆ど残っていない。彼の中にあった膨大で且つ底知れない魔力は、ここにきてようやく底を尽きたのだ。加えて体力、精神ともに限界で意識も安定していない。それでもなお、魔術を撃ち続ける姿勢は少しも弱めていない。


 「――称賛しよう、異界の魔術師。お前は間違いなく神話に並び……そして超えたぞ」


 ここに、天秤はユーゲンの方へと傾いた。



 ●



 「全く末恐ろしい奴だ、お前は」


 彼女の半身が消し飛び、魔力で構築されていた身体は解けていく。ちなみに纏っていたコートはこの大魔術には耐えられず地に落ちていった。つまり、あの一発は妨害の利かない、純粋な全力だったのだ。彼女はボロボロになりながらも地に降り立つ。その柔和な表情には、戦闘の意思はない。

 対するユーゲンは血にまみれながら立ち尽くしていた。顔は俯いており、此方も戦闘の意思はない。


 「主神級の槍だというのに、それをひとたび消し飛ばして見せた。噴飯ものだぞ、こいつは」


 空、第二魔術が貫いた巨大なる孔。朽ち果てていく結界をよそに彼女は笑う。そして彼を慈しむように側により、頬に手を添えた。


 「なあ、私はお前をひどく気に入ったぞ。――ねえ、どこか遠くへさ、二人で逃げちゃおうか」


 返答はない。代わりに、地に落ちたコートを咥え遠くへ逃げ帰る『銀の狐』の姿があった。彼女はそれを見ると、途端に目を窄め、険しい表情をする。


 「ああそう、『()()()()』こと。難儀なものだ」


 溜息一つ。しかしもう俯いている暇もない。彼女の身体は段々と消えていっている。


 「さてと、勝者に報酬がないというのは面白くない、だからこれをやる」


 言うや否や、彼女はまだ残っている右手の人差し指で、彼の額にサッと一文字、ルーンを書いた。


 「ちゃあんと、よく使うんだぞ。……ああ、そうだ。聞こえているかはわからんが名乗っておこう。といっても私なんぞにちゃんとした名前はないけれど」


 彼女の身体は既に消滅しかかっている。消えゆくわずかな瞬間、彼女はこう名乗った。


 「希望を込めて――『ガグンラーズ』と……」


 一陣の風が吹いた後には、そこに女の姿は無かった。


 弾けたと思えばかすかな感触が頬をなぞる。五感は朧気であってないようなもの。なのに不思議と、いや、だからこそ理解できてしまった。

 ――ああ、まだ生きていたのかよ。

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