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翅(はね)の夢

作者: センリリリ

後宮。ひとりの貴人と、若き宦官。彼らにはふたりだけの秘密があった

【 - 壹 - 迎えを待つ】


 もうすぐ、(しょう)煕佑(きゆう)が迎えに来る。


 瑯鑽宮(ろうさんきゅう)の最奥、待機の間で、(かい)貴人である(よう)綉葩(しゅうは)は椅子に腰かけ、夜気に震えていた。


 身につけているのは、透ける薄衣(うすぎぬ)一枚だけ。


 皇帝の寝所に繋がる廊下への扉はすでに開けられているので、暖房はほとんど役にたっていない。


 部屋の隅には侍女たちもかしずいているが、誰も近づこうとはしなかった。


 沐浴を済ませた後は自分たちの女主人ではなく、あくまで慶邁(けいまい)帝ただひとりのものとされるので、彼以外の人間が触れることは許されないのだ。


 ただ、ひとりだけ例外があった。


 皇帝の住む主宮の寝室まで、后妃を送り届ける役目の宦官だ。


 綉葩の場合、それを担当しているのが、煕佑だった。


 昔なら、皇帝が后妃たちそれぞれの住む宮へと、表の路を輿(こし)(かよ)ったそうだ。


 しかし三代前の寛治帝の時に待ち伏せ事件が起こり、死にかけるほどの大怪我を皇帝が負った。


 それ以来、用心のために后妃たちのほうから、裏の廊下を使って帝の寝所へと参じる方式に変わったという。


 しかし、それにはひとつ問題があった。


 実は后妃たちは、自力でまともに歩くことができない。

 後宮へ入るときに通過儀礼として、足の前半分の部分を切られてしまうせいだ。


 そのため后妃たちが移動するときには、必ず他人の力や専用の道具が必要だった。


 小さな足が美しいとされるうえ、移動に輿や人を使う者こそ高貴だとされるので、自分で歩くための足は必要ない、という理論だった。


 だが本当は、後宮から逃げ出すことができないようにするためではないのか。


 綉葩はそんな風に考えたこともある。


 実際のところ、たしかに後宮に入った后妃の生活は、(おのれ)自身でする事など、たかが知れていた。


 日々の細々(こまごま)としたことや身の回りの世話はすべて女官が取り仕切っている。

 綉葩本人がすることといえば、せいぜい凝った刺繍をすることか、窓辺に座って庭を眺めることだけ。


 そして、たまに求められる夜の伽。


 なお、書物を読むことは禁じられていた。后妃に皇帝の機嫌を取る以外の知性は必要ない、という理屈だった。


 豪勢な料理も、華美な衣装も、はじめこそ心が揺さぶられたものだが、そんな時期はあっという間に過ぎ去った。


 あとに残されたのは、退屈を持てあますだけの膨大な無為の時間。


 貴人、という地位は、後宮の后妃としては決して高くはない。

 つまり皇帝からの覚えも特にめでたいというわけではなく、伽を申しつけられる機会も少ない。


 そんな存在なのに、一度後宮に入ったなら、もう一生ここから出られることはない。


 なんとも虚しい人生だと、綉葩は思う。


 他の后妃たちは権勢争いに夢中なようだが、自分はどうにもその手のことは苦手だ。


 しかし、この足では逃げ出すこともかなわない。

 ここで生き続けていくことを、受け入れるしかなかった。




【- 貳 - 砂漠の端の国】


 綉葩はもともとは西方の砂漠の(はた)にある、この国とは違う民族の住む小さな国の王女だった。


 綉葩という名前も、後宮に入るときにこの国風につけられた名前に過ぎない。


 素朴な作りの服を好んで身につけ、砂地を裸足で駆けまわり、人々が集うオアシスの沐浴場にふざけて服のまま飛び込むような活発な娘で、おとなしい性質の兄の王太子より、よっぽど勇猛な武人になろうとまで言われていた。


 決して豊かでもなく、最先端の文化もなくても、おおらかでのんびりとした自分の国の生活を、心から愛していた。


 しかし、慶邁帝の派遣した軍を何度も押し返し武名を轟かせた父王が亡くなると、運命は一変した。


 王位を継いだ兄には、戦の才能はまったくなかった。


 本気で討伐に来るというよりは、辺境を任された将軍が義理を果たすためだけに進軍してくるような、やる気の薄い相手でも度々苦戦し、結局、臣従同盟を結ばされることになった。


 そのための貢ぎ物として揃えられた物品のなかに、綉葩もいたのだ。


 慶邁帝はかなりの高齢にも関わらずまだまだ性欲も旺盛で、その上非常な異国好み。後宮に世界じゅうの各民族出身の美女を取り揃える予定だという、悪趣味な噂は有名だった。


 そしてこの大国の最高権力者の機嫌を取るために、こぞって自分の民族出身の娘を差し出すのは、どこの周辺国家もあたりまえにやっている、あくまで外交手段のひとつに過ぎなかった。


 だから綉葩自身でさえ、貢ぎ物を積んだ隊商とともに不毛な砂漠をはるばる越え、二度と出ることのない自分の宮に入るまでは、(おのれ)の境遇に疑問を持つことはなかった。


 翌日さっそく、足を切られる処置を施されるまでは。


 激痛と、自分で歩く力を奪われた屈辱は、今でも忘れることはできない。


 彼らにとっての『見栄えのよさ』だけのために、肉体を損傷されたことにも怒りを覚える。


 聞けばこの処置に失敗して、後宮に入った早々、命を落とす者までいるという。


 そんな事例があってもなお、この慣習が連綿と続いていることに、自分たちは人間ではなく玩具として扱われているのだと、すぐに理解した。




【- 参 - 夜の熱】


 肌の粟立ちがひどくなった頃、ようやく煕佑が姿を現した。


 まだ男としての名残のある、体格の良い若い宦官だ。


 略敬礼をしたあと、綉葩の椅子の前に背を向けてしゃがむ。


 広い背に身体を預けると、慎重にゆっくりと持ち上げられた。

 薄衣しか身につけていない綉葩には、彼の若々しい肉体の熱がじんわりと伝わってくる。


 すっかり冷えきっていた身体には、まるで吸い取ってでもいるように煕佑の体温が染み渡っていった。

 皮膚が一枚増えただけに過ぎないような、薄い布しか隔てるものがないからこそだ。


 実はこれを身に着けて運ばれていくのにも、意味がある。


 以前、心を病んだ后妃のひとりが、胸元に小さな刃物を忍ばせて寝所に入り、皇帝に切りつけたという事件があった。

 それ以後、なにも隠し持っていないことを証明するために、必要な処置となったのだ。 


 おぶわれて皇帝の寝所へ続く廊下を進む。


 外から見えぬよう左右と天井は木の板で囲われ、足もとに小さな灯りがぽつりぽつりと点在するだけの長く薄暗い空間は、洞窟を思わせた。


 その閉じられた場所を行くあいだ、煕佑は独り言を呟く。


「また軽くなられた」


 寵妃と宦官がここで言葉を交わすなど、あってはならないことだ。


 ゆえに独り言である(てい)が必要で、煕佑の声は本当に小さかった。


 だが、音の響きにくい、だだっ広い砂漠の近くで育った綉葩は、ことのほか耳がいい。

 だからその声は充分に聞こえた。


 トン、トン。


 掴まるために首に回していた指先で、煕佑の襟もと、鎖骨近くの肌を綉葩は軽く叩く。


 言葉を聞いている、という合図だ。

 いつのまにか、二人のあいだの暗黙の約束ごとになっていた。


「ちゃんとお食事されてるのだろうか」


 トン、トン。


「もっとお太りになればいいのに」


 スゥ。


 今度は、爪の甲で軽く撫でるようにする。

 否、もしくはこの話題は終わり、という合図だ。


 煕佑は小さなため息をひとつだけつき、黙った。


 やがて寝所に着き、絹の布団が積み上げられた寝台へと降ろされる。

 退室の略敬礼をすると、煕佑は顔を伏せたまま、部屋の戸のすぐ脇に垂れている飾り紐を引き、去っていった。


 紐の先は担当の宦官の部屋へと続いていて、これを合図に皇帝が寝所へとやってくるのだ。


 寄り添われ、太く短い指が肌を這うと、寒さではない原因で肌が粟立つ。


 煕佑の身体の熱はあんなに心地よかったというのに、慶邁帝の吐く息のそれは、不快でしかなかった。


 長年の飽食のせいでブヨブヨと肥え太った身体は、肉塊と呼ぶにふさわしく、さらに奇妙な冷たさもある。


 優しい触れ合いも、心を(ほど)く言葉もないまますぐにのしかかられ、綉葩はただただ押し黙って吐き気をこらえ続けるしかなかった。




【- 肆 - 思いがけない寵】


 次の日の夜も、綉葩は寝所へと呼ばれた。

 続けてなど、初めてのことだった。


「綉葩さまは近頃いっそう美しくなられましたから、皇上もお気づきになられたのでしょう」


 筆頭侍女の(こう)汐諾(せきだく)が言う。


 後宮でもかなり古参の女官だが、この国の習慣に不慣れな綉葩の教育係兼お目付け役として、側仕えに抜擢された中年の女性だ。


「美しく……?」


 ぴんとこない綉葩が鸚鵡(おうむ)返しに訊くと、頷いた。


「愛されることで、女性としての華がお開きになられたのでしょう。肌をよりお磨きになられるよう、新しい薬湯を調合させましょう」


 あの爺のために肌を磨くなど……と言いかけ、やめた。


 もしも薄衣で隔てていたとしても、皮膚の感触を煕佑が感じてくれているのなら。

 心地よい肌触りを彼に与えるためなら、そうするのも悪くないように思えた。


 なにが気に入られたのか、それから一週間は、毎晩寝所へと呼ばれ続けた。

 つまり、煕佑とも毎日会うことができた。


「今日はずいぶん、お顔の色がいいようだ」


 トン、トン。


「いつもこんな風に、お身体の調子が良ければいいのになあ」


 トン、トン。


「皇上もさぞかしお喜びだろう」


 スゥ。


 そんな他愛もないやり取りが繰り返される時間が来ることを、いつしか綉葩は、何時間も前から楽しみにするようになった。


 しかしそうなってくると反面、続く後の時間がいよいよ苦痛になってくる。


 やがて、食はどんどん細くなり、椅子に座っているだけでも疲れるようになっていた。


 結局、小さな透かし窓が寝台横にひとつあるだけの薄暗い寝室にこもりきりになり、ほとんどの時間を横になって過ごすようになった。


 硝子(ガラス)の代わりに、精巧な葉の透かし彫りの木枠が全面に施された窓は、その隙間から庭が見えるようになっている。


 手の込んだ物なのはわかるが、今の綉葩には、この狭まった世界の象徴であるようにしか思えない。


 いつでも夢に見るのは、故郷の広い空。

 満天の星。

 砂漠から吹く、乾いた風。


(ああせめて、この窓の向こうの庭を、自分の足で歩くことができたなら)


 自分の動きがままならないことを、綉葩はますます気に病むようになっていた。


 そうして、弱っていることが伝わったのか、皇帝からの夜伽の要請はぴたりと止んだ。


 つまり、煕佑にも、会えなくなった。


 綉葩の心はいよいよ内に籠り、身体は骨が浮くようになった。侍女たちなど、死期が近いのではないかと囁き合う始末だ。


 そんな折だった。


 真夜中、誰もが寝静まった時間。

 窓の向こうから、かすかな声が聞こえた。


「綉葩さま」


 煕佑の声。


 綉葩は飛び起きた。


 隣の部屋に控えている女官たちに気づかれてはならないと、声は出さず、窓の木枠を指先で二度叩く。


 トン、トン。


 すると彫物の隙間から、小さな紙片が差し込まれた。

 受け取り、月明かりを頼りに見てみると、そこには蝶の絵が筆で描かれている。


「特別な調合の墨で描かれた蝶です。それに一滴だけ血を垂らして染み込ませると、わずかのあいだではありますが、魂が蝶に化けます」


「蝶に……?」


「昔の偉い人が、夢で蝶になったという故事があります。それにちなんで『(はね)の夢』と呼ばれている、私の出身地の一部の人々だけに伝わる(まじない)です」


「なぜ、私に……?」


「綉葩さまがご自分で動いて出歩きたがっていると、私にはわかります。もしもお心からくる病ならば、気晴らしがあれば、またお元気になられるかと」


「そう、ありがとう」


「では私は、誰かに見つからないうちに戻ります」


「ええ」


 煕佑の言葉をそのまま信じたわけではない。


 ただ、声が聞けただけでも嬉しかった。


 綉葩は乗り出していた身体をまた戻し、窓から差し込むわずかな月の光を頼りに、複雑な文様の翅をした蝶の絵をじっくりと眺めた。




【- 伍 - 飛ぶ夢】


 後宮の人々は、咒や占いが好きだ。


 何をするにも、いちいち占いでお伺いをたてる后妃さえいるという。


 綉葩の出身国にもその手のものはあったが、どちらかというと過酷な自然の変遷を予測・予防しようという側面が強い。


 だからこういったことに、あまり傾倒したことはなかった。


 だが、誰より信頼する煕佑の勧めだ。試してみてもいい気がした。


 脇の卓に置いてある刺繍道具の箱から一番細い針を取り出し、先をよく拭き親指の先に、つぷりと突き刺す。


 かすかな痛みが走り、すぐに小さな血の玉ができあがった。

 それを蝶の紙片の上へ垂らす。


 紙の白、墨の黒。


 二色だけの世界に、鮮やかな赤が加わり、染み込んでいく。


 それを眺めていたはずだ。


 しかし次の瞬間気がつくと、己の後頭部を見下ろしていた。


 枕に顔を伏せ、身体がちょうど蝶の絵の上に覆いかぶさっている。


 さらには、今まで気づかなかった香りが、窓から流れ込んでいるのを感じた。


 甘い誘うようなそれに惹かれ、気がつくと、窓の隙間から外に出ていた。


 月明かりの下それを辿ると、早咲きの春告草が、かわいらしく一輪咲いていた。


 紅い花びらにとまり、そこで初めて、自力でここまで来たことに気づいた。


(飛べる!)


 歩くことさえままならなかったのが、一足飛びに自由に動ける身になったと思うと、心と一緒に翅が震えた。


 まわりを窺うと、使用人専用の小さな木戸を開けて帰ろうとしている、煕佑の背中が見えた。


 花から飛びたち、その肩にとまる。


 煕佑は驚いて動きを止め、囁いた。


「綉葩さま?」


 トン、トン。


 蝶は二度、肩を弾くように飛んではとまり、を繰り返した。


「あまり身体から遠くまで行ってはいけませんよ。魂が帰れなくなります」


 トン、トン。


「ですから、ついてきてはいけません」


 スゥ。


 蝶は翅で煕佑の肩を撫でるようにする。


「どうぞお聞き入れを。万が一があってはいけません。なにごとも慎重に」


 蝶は翅をひとしきり震わせたあと、拗ねたのかなんの反応もしないまま、綉葩の寝室へと飛んで行った。


 それを見送りながら、煕佑はかすかな笑顔を浮かべる。


 きっと明日からは、綉葩の顔色はよくなるに違いない。




【- 陸 - 翅の心】


 蝶になれるのは、本当に短い時間だった。


 しかも人目をはばからないといけないので、機会もなかなか巡ってこない。


 それでも、綉葩の日々の張り合いは違ってきた。


 なにもかもがままならない肉体からも生活からも解き放たれて、飛び回ることができる。

 そう思うだけでも、心の慰めになった。


 だが皮肉にも、体調がよくなってきたことで、また夜伽に呼ばれるようになった。


 送り迎えの煕佑に会えるのは嬉しかったが、その後の長い夜は日に日に耐えがたくなってくる。


 しかたなく綉葩は、瑯鑽宮に戻ると、疲れたので昼寝をすると言って、日中は寝所にこもるようになった。


 もちろんそれは言い訳で、人払いをした後に蝶になり、庭を飛び回って鬱憤を晴らすためだった。


 その頻度が上がるにつれ、蝶の絵の紙は、血の紅さを増していった。


 綉葩はそれを小さく畳み、棚の引き出しの裏に貼りつけ隠しておいた。


(誰にも、知られてはならない)


 ふたりだけの秘密に、なぜか、心が躍った。


 そんなある日、瑯鑽宮の庭に汚物や小動物の死体が撒き散らされるという事件が起きた。


 犯人はわからない。


 しかし、このところ夜伽を独占している綉葩に嫉妬した、后妃の誰かの仕業に違いないと、宮じゅうが噂しあい、お互いに疑いの目を向けあうようになった。


 事態を重く見た慶邁帝は、瑯鑽宮を巡回する頻度を増やすよう、宦官たちに申しつけた。


 となると、担当する人員を増やす必要がある。そのなかには、煕佑もいた。


 それからは綉葩は、彼が巡回してくる時間を狙って、咒を使うようにし始めた。


 柱や開け放した扉、植え込みの陰などに不審な人や物がないか、二人ひと組で彼らが敷地をまわるあいだ、綉葩は蝶になって周りを飛ぶ。


 煕佑もさすがに話しかけはしなかったが、綉葩だとわかってはいるのだろう。好きにさせていた。


 そんな日が、永遠に続くと思えた。


 だがある夜、夜伽の迎えに来た宦官を見て、なにかが起きたことを綉葩は悟った。


 初めて見る者だったからだ。




【- 漆 - 炎】


 次の朝、瑯鑽宮に戻り、薬湯に花を散らした浴槽に浸かっているときに、綉葩は汐諾にさりげなく訊いた。


「昨夜の迎えに来た者、名前はなんと言う」


()(がく)にございます。なんでも宦官になったばかりとか」


 後宮では、宦官は男とは思われていない。実際、ほとんどの者の体つきは貧弱で、力強さとはほど遠い。


 だから煕佑もそうだったが、男性としての筋力がまだ残っている、なりたての者に力仕事が回される。


 長い廊下を后妃を背負って歩くのもそのひとつというわけだ。


「以前の者は、役目を終えたのか」


「それが」


 ここで、汐諾は声を潜めた。


()の者は火事で死んだそうです。なんでも、自ら住居に火をつけたとか」


「ど……、どういうことか」


 綉葩は自分の声が震えないよう気をつけた。


「噂では、なにやらおかしな符を使い、呪詛を行おうとしていたそうです。通報があり住居を調べようとした際、暴挙に出たようです」


「なんと……」


 宦官たちの住む宿舎は、瑯鑽宮からは遠い。


 そんなことになっているなど、知る由もなかった。


(しかし、呪詛……?)


(似合わない)


「もともと、前王朝の民族出身、都から追放された彼らが住む辺境の村から来たと聞きます。二心(ふたごころ)があったに違いありません」


 汐諾はそう断言した。


 『私の出身地』。


 さりげなく言っていたあの言葉には、そんな意味があったのか。


 最初から綉葩に同情的だったのも、異文化から来て皇帝に仕える姿に、親近感を覚えたからなのかもしれない。


 目頭が熱くなってきた。

 涙が出そうだ。


 それを悟らせまいと、綉葩は浴槽の湯を両手で掬い取ると、それを何度も顔にかけた。


 寝室に戻り、隠してあった蝶の紙を取り出す。


 今ではすっかり元の白色の部分はなくなり、赤黒い地になってしまっている。筆書きの黒い蝶が、まるで沈み込んでいるようだ。


(もう、煕佑の周りを飛ぶことはできない)


 それどころか、あの長い廊下を通う孤独な心の、唯一の理解者とも言うべき人間が、いなくなってしまった。


 また涙が出てくる。


 綉葩は紙片を脇に置くと、棚の上に置いてあった手巾を取り、目に押し当てた。


 ふわり。


 ふと、その手になにかが纏わりついた。

 見ると、一羽の蝶。


「なぐさめてくれるの」


 蝶になったことがある仲間意識からだろうか。

 つい、話しかけてしまった。


 すると、その蝶は手から飛びたった。


 驚かせてしまったかと悔やんだのもつかの間、その蝶は綉葩の肩に、二度、とまった。


 トン、トン。




【- 捌 - 最後の変化】


 よもや、と思った。

 それは、自分の願望に過ぎないのではないか、と。

 それでも、訊かずにはいられなかった。


「煕佑?」


 トン、トン。


(ああ)


 呪詛ではない。


 煕佑もまた、『翅の夢』の咒を使ったのだ。


 そして肉体は燃えても、魂は綉葩の元へと飛んできてくれたのだ。


 さっきまでとは違う涙が、目に浮かんでくる。


『あまり身体から遠くまで……』


『魂が帰れなくなります……』


 いつかの言葉を思い出す。


 そうだ。


 つまりは、この身体を失くしてしまえば、ずっと蝶でいられるということではないか。


(そうすれば、ずっと煕佑と一緒にいられる……)


 あまり、深くは考えられなかった。


 枕元の蝋燭に火を灯し、それを寝台の下に置く。


 それから紙片をふたたび手にし、咒を始めた。


 布の燃える匂いが下から立ち昇り始めたかと思うと、寝台はあっという間に熱さに包まれる。


 しかしそれが苦痛になるよりも早く、綉葩の魂は、蝶へと変化した。




【- 玖 - 塀の向こう】


 後宮の門の警備役は、ふと、顔をあげた。


 高くそびえる塀の内側から、なにやら騒ぎ立てる声と、焦げ臭い匂いが漂ってくる。


 ついこのあいだも火事があったらしい。またか、とだけ思い、あくびをひとつ。


 自分はあくまで出入りを監視するのが仕事で、そもそも男子禁制の後宮に入ることは許されていない。

 だいたい、内側には女官も宦官も、腐るほどいる。

 日ごろ贅沢な暮らしを享受しているのだ。自分たちの領域で起こる事件くらい、自分たちで始末すればいい。


 寒空の下、暖も取れずに黙ってじっと立っているのが仕事の警備役からすれば、彼らに分を越えた親切や同情など、する義理も趣味もなかった。


「おや」


 その時、門の反対側に立っている相棒が、軽く声をあげる。


 その視線を追うと、塀を越えて、一対の蝶がひらひらと飛んできたところだった。


 お互いの周りを、くるくると楽しげに飛び回っている。


 それはまるで、初々しい恋に浮かれている、若い男女のようだった。


 それはそのまま門の前の広場を通り抜け、やがて上空へと姿を消した。


「蝶が飛ぶには、季節が早すぎやしないか」


 警備役は首を傾げたが、折よく交代にきた同僚の姿が見えると、そんなことはすぐに忘れてしまった。








 新種の蝶が空を覆うほど大量発生したことで虫害による大飢饉が起き、食い詰めた民衆が圧政に蜂起して王朝が滅びるのは、それから、数年後のことである。




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