*寿々喜節句を超えるもの
寿々喜節句は架空の人物である。
この文章を書いているのは名義上、寿々喜節句だが、私の本名は寿々喜節句ではない。
寿々喜節句ではない人物が文章を書き、それを寿々喜節句に提供しているようなものだ。
つまりはプロデュース。
もちろん皆さまから頂いた感想やメッセージの中で、かたまっていったイメージや気づいた点なんかもたくさんある。
そうして固められていったものが今の寿々喜節句である。
私はその期待に応えたり、裏切ったりするように、言葉や文章を並べ、寿々喜節句に対する周りの反応を楽しんでいる。
寿々喜節句は操り人形ともいえるし、中身のない藁人形ともいえる。
そこに生命が宿っているように私が調整をしているだけに過ぎない。
そうやって寿々喜節句のアイデンティティの確立を試みただけだ。
寿々喜節句が寿々喜節句らしくなるためには、やはり私も身を削らなければならなかった。
その最たるものがエッセイだといえる。
そこには私の趣味を反映させているから。
となると、やはり寿々喜節句と私はかなり近い存在だといえるかもしれない。
小説を書く際、登場人物に自分の趣味なんかを反映させることがあると思う。
しかしだからと言って、その登場人物は自分と同一人物かと言われれば違うはずだ。
だからやはり身を削ったとはいえ、寿々喜節句は私ではない。
では私とはどういった人物なのか。
小説の登場人物にとってみたら、作者は神だ。その世界、その人物を作り上げたのだから。
しかし登場人物以外にとっては作者は神とはいえない。
それと同じようなものだ。
私は寿々喜節句にとってみたら神みたいな存在だといえよう。
しかし皆さんにとっては、寿々喜節句と私はイコールでつながっているはずだ。
私が寿々喜節句とは違うと言ったところで、電子の世界では、その名前とその名前から発せられるものは同一と見なされる。
だから、神だとはいえない。
強いて言うならば、私は寿々喜節句を超えるものだ。
寿々喜節句が寿々喜節句であるためには私なくしてはありえない。
しかし私の言葉や文章は、寿々喜節句を通してではないと聞くことも、見ることも不可能だ。
寿々喜節句を超えるものは、寿々喜節句なくしてもありえない。
たが、これは同一でない。
表裏一体とも違う。
寿々喜節句を超えるものが、寿々喜節句を通してメッセージを送る。
ただそれだけの行為。
ごくありふれた行動。
私にだけ許された仕業。
つまりこれが節句の言葉だ。