王道
夏が死に、台風が空を洗い、冷たい風がゆっくりと吹く秋。
閑静な住宅街と、手入れの行き届いている林のちょうど間のあたりに、黒い屋根に白塗りの壁。洋装の一軒家が建っている。
その家の、カチカチと時計の秒針の音がなり響くリビングで、物語ははじまる。
淡い緑色のカーテンから差し込む朝日。
鳥のさえずりと、テレビのニュースキャスターの声を、テーブルに座る少年は、聞くともなく聞いている。
今年で十五になる、東 新二郎は、母親が作り置きしていた朝ごはんの目玉焼きを眺めていた。
姿勢は良く、カッターシャツはシワひとつない。髪の毛は眉毛にかからない程度に切り揃えられ、いかにも純朴で誠実そうな少年である。
東は、少しして息を吐き、ゆっくりと箸を手に取り、丁寧に押し切り分け、そして小さな白身を口に運ぶ。
その白身を奥歯ですり潰し、唾液と混ぜ、舌の上に乗せる。
「味がしない」
カチカチと、規則正しく時計はなっている。
鳥のさえずりも、ニュースキャスターの声も、いつもと何も変わらず、そしてどこにでもあるような日常だった。
この空間の中で異常なのは、東の味覚だけだった。
どれだけ医者に見せても、どれだけ調べようとも、東の舌に問題は見つからなかった。
医者が苦し紛れに出した結論は、精神的な問題による味覚不良、だそうだ。
東は目玉焼きを口に運ぶ。作業のように。
白飯を口に入れ飲み込み、味噌汁を飲んだ。
いずれも味がしない。
食事は作業。幼い頃から変わらない、心臓を動かすための仕事だった。
それなのになぜ、東が毎回のように食事に対して、味を感じるのかどうかを確認しているかというと。
東は知っていたのだ。
美味しいという感覚を。感動を。
幼い頃から、いや、赤子の頃から東に味覚はなかった。
けれど知っている。美味しいが存在すると言うことを。
これは存外な矛盾である。
知らないはずなのに知っている。
この例えをだして不快に思わないでほしいのだが、目の見えない男や女が、色を知らないように、東も味を知れるはずがないのだ。
途中まであり、取り上げられたのならまだしも、はじめから無いのであれば、憧れでもしない限り求めない。
しかしながら東は求めていた。
憧れでも、周りからの同調圧力からでも、普通でありたいと言う可愛らしい、少年らしい願いでも無い。
ただ、美味しいを何故か知っていて、いつかそれが自分の舌に訪れてほしいと思って、探していたのだ。
「……」
食事という名の作業が終わり、幾ばくか無言の時間が流れる。
落胆の時間だ。
また、見つけられなかった。東はそう思った。
心にあるはずの何かが抜けていて、そこをひどく冷たい風がひょうひょうと吹き抜けている。そんな心持ちだった。
母親の今晩の帰りをメモで確認し、少し重たいカバンを持ち上げ、そして革靴を足にはめて玄関を開ける。
冷たい風が体に当たった。
前途のある少年であれば、心地よいと感じたであろうその風も、東にとっては先程の落胆を思い出させる事象に過ぎなかった。
電信柱が等間隔に並ぶ道を、トコトコと少し余りのある革靴を鳴らし、歩いていく。
ふと、視線の先の違和感に気づく。
住宅街と林の境目。
道の先、右折すれば、林の方へ入っていく畦道。
三十メートルほど先のその道に、東は違和感を見つけた。
白い、大きな何かを、太った大男が、ずりずりと引きずっているのである。
一瞬目が止まる。
日常とはかけ離れた光景に息を呑んだ。
東は、この瞬間ほど、自分の視力の良さを呪ったことはないだろう。それほどまでに不快なものが見えたのだ。 いや、ただ不快というのは、すこし語弊があるかもしれない。 不快であるが、それは清潔感の話であり、大男が行っている異常な行動に関しては、東にとって、さして疑問はなかったのである。
大男の髪の毛は脂切り、かけているメガネは曇っているように見え、口の周りには無精髭、ピンク色のニキビ、白のTシャツは幾重にも黄ばんでおり、履いている短パンもTシャツのような有様だった。
そんな大男の容姿よりも、彼が引きずっている物に視線が釘付けになる。
女だ。
肌が透き通るように白い女だ。
口はだらんと空いており、乳房には青い血管が見え、股からは僅かばかり血を垂らしている。
女というより、人形のようだった。 人間という生物が、動かなくなり、物になる過程を経た、ヒトガタであった。
「……ぁ」
あまりの非現実に、東は渇いた小さな喘ぎ声を漏らす。
その声を聞いたかどうかは定かではないが、大男は、その喘ぎ声と同時に、東の方へと顔を向けた。
「……」
「……」
両者の間に流れる静寂。
どうしていいかわからない東と、東をじっと見つめる大男。
ふと、鼻から空気を吸うと、微かに良い匂いがした。
「おい、お前」
「……ぇ……ぁ」
野太い大男の声に、あたふたとしている東。
不思議と怖さはない。
見知らぬ人に話かけられるという緊張と、裸の女に対する恥じらいと、汚い男の見た目に引いて、動けない。東はそういった状態だった。
「お前も、そうなんだろ」
「……へ?」
「いいから、こっちに来いよ」
お前も、そうなんだろ?
大男の言葉を、東は心の中で反芻する。
小綺麗な東と、汚い大男にまるで接点はないが、何故か東は、奇妙な親近感を大男に覚えた。
そしてようやく、自分自身の心に、恐怖という感情がないことに気付く。
普通であれば、午前七時半に、大男が真っ白な女を引きずって林に入ろうとしていれば、怯えるだろう。
しかし東に怯えはない。
あるのは初めての人に話しかけられたという緊張感と、それに近い感情だけだった。
このまま大男についていき、林に入ったらどうなるんだろう。
東はそう思った。
踏み込めば、戻れない。
何がかはわからないが、そう思った。
時間にして数秒、悩んでいると。
くぁっこー、くぁっこー。と、カッコウの鳴き声が聞こえる。
見上げると、電信柱の上で、カッコウが赤色をした何かを咥え、東を見つめていた。
「うまいぞぉ?」
東には、カッコウがそう言ったように聞こえた。
地面には白線が見える。歩行者の進むべき道と、車が走るべき道を区切るための白線だ。東にはそれが、人間の道と、化け物の道を隔てる結界のように見えた。
その白線は、つーっと、大男と裸の白い女の方へ続いている。
「早くしろよぉ、これ重いんだから」
東は、白線をはみ出さないよう、慎重にその上を歩き、大男の元へ向かう。人間と、化け物と、間の道だ。
東は思った。というより、理解した。自分はきっと托卵されたのだ。化け物が人に、自分を育てさせたのだ。でなければ、あの物になった女を見て、舌の根元からこんこんと唾液があふれ出るわけがない。
びゅう、と、冷たい風が吹いた。
頬をなぜるその風は、とても、とても、心地が良かった。