始まり
閉め切りの室内はたち籠もった湿気のせいでより一層カビ臭い匂いが鼻につくものの、傾きかけた陽だけを頼りに動いているからいつもは目につく床の凹みや傷が気にならずに稽古に集中する事ができた。
稽古場として借りている町の公民館は普段は町のお年寄りの憩いの広場だったり、地区の役員さん達の会合が行われたりしている。近所の人達のコミュニティ広場になっているが、ほとんど使われていないためありがたく使わせてもらっている。
とは言え一人での稽古なんだから、家でもできるだろう?とよく言われるが。
家とここでやるのでは全く違ってくる。元々不器用な性格と言うのも災いして、本番により近いとこで無いと稽古に集中できない。セリフの暗記でさえ家ではできないぐらいだ。
この劇団に入って初めての主演舞台。
そのためにずっと稽古をしていた自分にとってそれは何より非常に嬉しい出来事ではあるが前売り券は全く売れてないようで集客の見込みは難しいときている。
それはこのカンパニーにとって一昔前では考えられない状況だ。
一昔前全盛期だったこのカンパニーは名のある劇場からスカウトされて舞台をした結果、連日満席は当たり前だった。
大人気の舞台、講演される度にマスコミが飛びつく。
そんな大評判のカンパニーだったが舞台中のある事件をきっかけに、バラバラになってしまい、今では少人数の劇団員しか残っていない。
今年18歳のオレは全盛期の事は噂でしか聞いた事が無いので当然講演を見た事は無いが、見た事が無いからこそ、日増しに想像が膨らむ。
当時の講演は全てビデオに収められている筈なのにオーナーが全て管理しているため見ることは叶わなそうだ。
ステージの中央を想像し息を吸い、深く目を閉じて自分の心に暗示をかける。
ここはオン・ブロードウェイのステージ。老若男女地位も名誉も関係なく様々な人この舞台を……自分を見に来てくれている。
体全体が脈打つのが分かり呼吸が早くなる。
ありもしない観客席から人の熱、呼吸を感じるようになってきたらオレの舞台稽古の始まりだ。
「紳士淑女の皆様ご機嫌よう。今宵お見せするのは昔々ある国で生まれ育った身寄りも無いしがない一人の少年が演劇界に足を踏み入れてゆく……、よく聞く物語ではあると思いますが見た目もいまいち演技経験ゼロのこの少年がどんな形で演劇の扉を開けるのか?果たして夢破れそのまま変わらず生きていくのか?物語の結末はぜひ皆様の目でお確かめください。さぁ、幕が上がります」
自分の容姿がとにかく嫌いだった。ぷてっとした下膨れした顔に大きく腫れ上がった両目。丸っこい鼻。ひ弱そうな唇。おまけに顔中ソバカスだらけと来ている。それら全てのパーツを隠すような圧倒的毛量の多い赤毛のチリチリ髪の毛も大嫌いだった。
この容姿のせいで街を歩けば石を投げられる程の嫌われよう。
オレが何をしたって言うんだ?
お前達に何かしたか?
オレだって好きでこんな容姿で産まれてきた訳じゃない!
変われるモノならとっくに変わってる。
お前等は所詮弱い人間を叩くしかできないんだろう?
虚しさを感じながら行く宛も無く歩を進めると、突風が吹き薄い紙が顔に張り付いた。
くそ!こんな世界無くなってしまえばいいのに!
くちゃくちゃに丸めて投げ捨ててしまおうと思ったが見出しの大きな太く赤い文字が気になり広げてみた。
『キミは誰にでもなれる!』
空想的で生ぬるいそんな言葉。
どこかの劇団員応募のパンフレットに書かれたその言葉は勧誘のための安い言葉だった。
だけど。
そんな言葉に胸を打たれてしまった。
例えば偉人の手記と一般の名の無い人の書いた手記の中に同じ言葉が書いてあるとして心に響くのは一般の名の無い人間が書いた方だったりする。
足跡だらけのこのボロボロの紙に書いてある言葉は鋭い切っ先が全身を刺すように刻み続けた。
オレも………、違う誰かになれるのか……?
膝から崩れ落ち体から何かがこみ上げてくるのを感じうずくまったままの姿勢で動けなくなった。
「また一人で練習してるの?」
自分の世界に誰かが問答無用で入ってきた。それこそ、土足のまま入ってきたものだから対応が遅れる。
更に部屋の明かりがこの場所を壊してゆく。
足元から崩れ落ちる感覚。さっきまで自分のいた場所が土砂になりオレを埋めてゆく。
ここはどこだ?オレは誰だ?
「また戻れないでいるの?」
小柄で細見の女がオレの頬に触れた。
ひんやりとした感触が徐々に現実の世界に戻してゆく。
目が慣れてきて、床の汚れが気になり始めた。
「リカ?……、オレ、また…」
オレが彼女の名前を呼ぶと、
「そう、あなたはカナタよ。よく戻ってこれました」
よちよちと言いながらオレの頭をポンポンと叩いた。