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空腹を満たすために、カビ臭い路地裏を通って墓地に向かった。

あそこには供え物がある。


とある教会裏の墓地にて、なにか食べれそうなものがないか漁っていると、突然、後ろから声をかけられて、驚いて首をすくめる。

その場に居た浮浪者達は一斉に逃げ去って、自分だけが取り残される。


「墓荒らしとは感心しませんね」


聖職者の白装束を着た、年は十六ほどの、水色の髪をおさげにした娘に、とうとう目を背けていた罪すらを自覚させられて、積み重なる罪の意識に耐えきれるはずもなく、膝を地面につけてひたすらに許しを乞う。


「どうか、許して欲しい。お腹が空いて死にそうだったんだ」


「はい、大丈夫ですよ。あの供え物は、私が勝手にやってるものですから」


「それで、いいのか?」


「貴方にだって事情というものがあるのでしょう?」


「与えられるべきは、罰だろう。だって、俺は......罪人なんだ」


本当に求めていたのは、裁きによる罪の精算だった。

罪人として冷徹な報いを受けることで、少しでもこの身を蝕み続ける罪悪感から解放されるだろうと思っていた。

そうして、懺悔を始めた。


職も帰る家もない惨めな生活を送るようになる前までは、切磋琢磨し、騎士となって、名誉を追いかけ、功名を立てて、それが称えられて、幸せ者のようにつつましく振る舞ってきたのだが、その代償が想像を絶するほどに悲惨であった。

祝福に添えられた羨望、降り注がれる期待、それら様々な想いが削り続けた身へと重くのしかかり、気付けば請われるばかりの人生。

いつか報われるだろうと信じていたが、そんなものはどこにもなくて、独りもがく日々に窮していた。


そんな日々を過ごしていたある日のこと、街に強力な怪物が襲来した。

騎士であった私は怪物と対峙し、激闘の末に生死に関わる重傷を負った。

意識を取り戻すと、見慣れない病院のベットだった。

それから見慣れぬベットの上で、身体に刻まれた数えきれない傷の痛みに呻吟し、あの怪物に怯える療養生活を送ることになった。

そして、必死の抵抗が怒りを買ってしまい、もうすっかり怖気づいて、次は凄惨な死に方をするんじゃないかと妄想しては恐怖で震えていた。


心配してくれる人々は、廃人一歩手前の私ではなく、その人自身の今後の生活なのだと悟って、見舞に来てくれた人に気を配るのも億劫になった。


寄る辺ない不安に呑まれてしまい、心身ともに追い詰められ、逃亡の衝動に駆られて窓を開けた。


真夜中の静けさと暗闇が漠然と広がる世界に無謀にも飛び込んだ。

振り返って、世話になっていた三階にある病室を一瞥し、空に浮かぶ月の灯りを頼りに彷徨った。


とにかく背負ったものを全て投げ捨てた先に待ち受けていたのは、より苛烈な地獄であった。

私がいなくなったことで、歯車が噛み合わなくなる世界を想像しては、罪悪感に溺れて、むしろ今までより上手に息ができなくなってしまった。


「もうどうすればいいのか......」


懺悔を終えその場で力なくうずくまる。

すると、頭に、人生で初めての、不思議な感触を得る。


「お可哀想に。こんなにボロボロになるまで、ずっと、ひとりで頑張ってきたのですね。さぞ、辛かったでしょう」


見上げると、女の子が憐れみと慈悲に満ちた表情を浮かべ、自分の汚れた頭を撫でていた。


「行き場がなくて困っているのでしたら、教会にいらしてください」


彼女の優しい心遣いに身を委ねた。




少女に手を引かれて教会に連れてこられる。

聖堂を抜けて、普段ここで生活してるであろうダイニングルームまでやってきた。


「座って待っていてください。食事を用意しますね」


指示に従い、小さなテーブルの席について待っていると、スープとパンを出される。


「お待たせしました。どうぞ、遠慮せずに食べてください」


女の子がにっこりとほほ笑んだ。

その下心のない微笑みを信用し、さっそく食事に手を付ける。

暖かい食事と親切心が、冷めきっていた身体と心に染み渡り、久しく忘れていた感動がこみ上がってきて、涙を堪え切れなかった。


「おかわりもありますからね」


数日ぶりのまともな食事を堪能し、それからお風呂も貸してくれるそうで、脱衣場に案内される。


「お洋服はこのカゴに入れといてください。後で洗濯しときます」


「あぁ、すまない」


「それではごゆっくり」


女の子が脱衣場から出ていった後、土や泥で汚れて小汚くなった白色のガウンを脱ぐ。それから血が滲んだ包帯をほどく。


深くえぐれた切り傷、焼け焦げた火傷の跡、変色して腫れ上がった痣など、あの日の死闘を残像として語るかのような無数の傷が露わになる。

どれもが完璧に癒えているのか曖昧な状態で、それらにシャワーのお湯や石鹸の泡が触れて痛みを覚える。


身体を綺麗に洗い終え、清涼感を取り戻す。

脱衣場にあった服は無くなっており、バスタオルの他に、毛布が二つ用意されていた。

毛布を腰に巻き付け、もう一つの毛布を羽織り、リビングに向かう。


女の子は暖炉の前にあるソファに座っていて、膝には赤い救急箱が置かれている。


「怪我をなされているのですか?」


羽織っていた毛布を取り払うと、女の子は傷だらけの身体にギョッとして、怪我を心配してくれる。


「......なんて酷い怪我。お手当しますので、こちらに」


女の子は救急箱から新しい包帯を取り出して傷口を巻いてくれる。


「これでよし。とりあえず、怪我が治るまでは安静にしていたほうが良いでしょうね」


感謝を告げ、それからふかふかのソファで横になると、疲弊による強烈な眠気がやってきて、その日は昏々と眠った。



目を覚ますと、知らぬ間に毛布がかけられていて、さらに枕も用意されている。

壁に掛けられた木製の時計の針を見ると12時を過ぎている。

昼下がりまで熟睡していたようだ。

気怠い身体を起こし、部屋に漂う香ばしい匂いを辿ると、外に出た。

教会の外では、女の子が用意した炊き出しで浮浪者達が溢れ返っていた。


「おや、おはようございます。昨日はよく眠れましたか?」


「おかげさまで、ぐっすり眠れたよ。ありがとう。ところで、これはいったいどうしたんだ」


「今日は恵まれない人達の力になりたくて、パンをたくさん作ってみました!」


周りを見渡すと、乞食たちが皆一様にパンを頬張っている。


「貴方の分もちゃんと用意してありますから、安心してくださいね」


女の子はそう言って、色んな種類のパンがいくつかのった皿を渡される。

机に並べられて、乞食たちに振る舞われていたものと同じで、どれも美味しそうだった。


「こんな沢山のパンをたった一人だけで作ったのか。すごいな」


「ふふ、今日は朝早くに起きて頑張りました」


睡眠時間を削ったせいか、少女の目の下には薄くクマが出来ている。


「どうしてこんなことを」


「貴方のように苦しんでいる人が居たら助けてあげたいと思って、居ても立っても居られなくなりました。みんな、事情は様々ですけれど、きっと困っているに違いありません」


「......そうか」


「いやぁ、こんなうまいものを食えて、本当にありがたいよ。なんて礼を言ったらいいか」


自分もパンを食べ始めると、浮浪者の男がやってきて、少女に感謝を伝えた。


「いえいえ、お礼なんて結構ですよ」


「おぉ......。貴方は聖女様だ!」


男は少女の慈悲深さに感激して、聖女として崇めている。


「聖女だなんて、大袈裟です。そうだ、もし良ければどうしてこうなったのか教えてください。私にも、なにかできることがあるかもしれません」


「聞いてくれるのかい。オレは東にある街に住んでいたんだけど、怪物が襲ってきて、代々継いできた店を失っちまったんだよ」


それから続々と浮浪者がやってきて、現状に至る経緯と不満を打ち明けた。


職を失った民や、怪我によって戦前を退いた兵士など、行き場を求めて彷徨うようになった人々の悩みを聞いて、己の内に宿した罪悪感が膨れ上がり、すっかり気分は沈んで食欲は失せた。


次々と打ち明かされる難民の不安が心に突き刺さり、眩暈を覚え懊悩としていると、この街の領主が兵隊を連れてやってきた。


「何をしている」


鼻筋の通った面長の顔に蓄えられた茶色い髭を手でいじりながら、領主は少女に詰め寄る。


「領主様、私はただ、恵まれない人々に食事を振る舞っていただけです」


領主は眉間に皺を寄せて怒気を放ち、少女を怒鳴りつける。


「このような屑共を生かしてどうするというのだ! こいつら乞食は強盗や恐喝を働く邪悪な犯罪者なのだぞ」


少女は萎縮しながら反論を述べる。


「お、お待ちください、皆がそういうわけではございません」


「こいつらのせいで街の治安が悪くなる一方だ。先日も、窃盗が行われたのだ」


「そうせざるを得ない状況だからでしょう。最初から邪悪な人などおりませぬ。私はそのような状況に陥って苦しんでいる人を救いたいのです」


「貴様一人でこの状況が浄化されるわけがない。今日を生きるのに精一杯な奴に、未来が訪れるとでも? 今日を生かしてどうするというのだ。貴様のやっていることは邪悪をただ延長させるに過ぎない」


「で、ですが、せめてもの希望を」


「ふん、もうよい。貴様には息子が世話になった。今回の件は目をつむるとしよう。それでは、神ではなく私が裁きを下す。貴様らは奴隷になるか、この街を出ていくか選べ」


「りょ、領主さま、勘弁してくだせぇ」


「もうじき冬が来るんだ。街の外じゃ風雪をまともに凌げず死んじまうよ」


浮浪者たちは許しを乞い始めるが、領主はこれを一蹴し罵倒する。


「お前らがこうなっているのは努力不足だ。大した苦労もせずに人に縋ってばかりに生きているからそうなるのだ。お前らのような税を納めない民など知らぬ」


領主が手を挙げると兵隊は剣を抜く。


「それとも、貴様らが悪に染まりきる前に、いっそ殺してしまおうか」


「な、なんてこった」


強硬手段に出た領主に怯えた浮浪者たちは渋々と領主に下る。

中には退散する者もいたが、殆どの人が奴隷として生きる道を選択した。


「俺は平和の為に戦ったってのに、どうして奴隷なんかに......」


領主は浮浪者を連れて教会を去り、少女と自分だけが取り残される。


少女に手をぎゅっと握られる。


それまでは、罪の意識にすっかり打ちのめされて、その場で氷のように硬直していた。


「貴方の居場所はここにありますから、心配しないでください」


彼女は自分を不安にさせないよう健気に振る舞い、せっせと片付け始めるも、落日に照らされて寂しそうに落とす彼女の影は哀愁に満ちていた。

この事態を招いた原因は自分にあると頭を抱え、煩悶に煩悶を重ね、あまりの苦しさに、呼吸が上手に出来ず、次第に視界が溶けていき、とうとう気を失ってしまった。



目を覚ますと、ソファーに寝かされていた。

少女がここまで運んでくれたのだろう。

気怠い身体を起こす。

ダイニングのテーブルにはパンとシチューの作り置きと、自分の為に新調してくれた服があった。

教会内には少女の姿は見当たらなかった。

時刻は昼前で、恐らく昨日のあの出来事からずっと寝てしまっていた。


新しい服に着替え、外に出て辺りを見渡す。

昨日の炊き出しの設備は綺麗に片付けられていて、それから墓地の方から少女の泣き声が聞こえてくる。


新しくできた墓標の前で祈りを捧げている少女に近寄ると、こちらに気付いて涙を拭き、感情をぐっと堪えて心配してくれる。


「目を覚ましたのですね、身体の方は大丈夫ですか?」


「あぁ、問題ない」


「そうですか。良かった」


「俺が寝ている間になにか、あったのか?」


「......先ほど、領主様の屋敷に向かったのです。そしたら、昨日の夜、何者かに襲撃されたそうで、領主様がお亡くなりに......。屋敷には領主様とご子息様の二人だけで住まわれていましたから、私が埋葬をしてあげようと思いました。ですが、兵隊達は私を屋敷に近づけてくれませんでした。なので、ここには墓標と花しかありません。ですが、せめて祈りだけでも捧げ、弔ってあげたいのです」


「犯人は捕まったのか?」


「いえ......。ご子息様の安否については、誰も私には教えてくれません。ご無事だといいのですが」


昨日の騒動で恨みを買ってしまったのだろうか。

なんにせよ、領主が居なくなったこの街の治安が不安だ。

屋敷を襲った者がこのまま大人しくしていればいいが。


「領主様は優しい方でした。以前、私は領主様に家庭教師として雇われて、ご子息様に勉強を教えていたんですよ。それで、身に余るほどの給料を貰うだけでなく、教会の援助までしてくださりました。昨日の施しが出来るのも、本当は領主様のおかげなんです」


「そうだったのか」


「ですが、ある日、ご子息様は重篤な病にかかって、不憫なことに寝たきりになってしまいました。あらゆる医者に掛かりましたが、症状は良くならなくて。領主様があんなに厳格な方になってしまったのは、それからです」


少女は再び墓標の前で祈りを捧げ、自分も同じように冥福を祈った。


その後は昼食を済ませ、家事のやり方を教わり、この日を境に家事全般を手伝うことにした。




屋敷襲撃の騒動から数日が経過し、教会の少女であるエルとの生活にはだいぶ慣れてきて、家事も卒なくこなせるようになり、今では彼女から料理の仕方を教わるのが楽しみになっている。


「さて、今日はピザでも作ってみましょうか。ええと、必要なのはトマトとチーズとパイナップルと......」


「パイナップルだと」


「ふふ、パイナップルを入れると美味しいですよ」


「何を言うか。フルーツであるパイナップルはデザート枠だろう」


「そんなことないですよ」


今日の料理に使う食材を買う為にエルと共に市場へ向かっていると、背後から見知らぬ男が会話に割り込んでくる。


「ピザにはウィンナーとベーコンどちらを入れるんですね」


振り返ると、そこには灰色の祭服を着た線の細い男がいた。

さらりとした金髪に、爽やかな顔立ちをしており、第一印象は好青年といった感じだろう。


「どっちもだ」


「おやおや、これほど不幸な面影を残している人はなかなかいませんよ! おかわいそうに。せめてもの希望を! さぁさぁどうぞ、これを受け取ってください!」


男は自分の顔を見ると、大袈裟に哀れんで、ぐいぐいと近寄って手帳サイズの紙を渡してくる。


「え、ええと、どちら様でしょうか?」


困惑している二人の様子を見て、男は自己紹介をする。


「ああと、申し遅れましたね! 私の名前はヘクトン。ただの宣教師ですよ。ささ、お嬢さんもどうですかね!」


差し出された紙を受け取ってみると、そこには宣教の時間と場所が書かれていた。


「聖職者にまで勧誘するとは、随分と熱心な信徒だな」


「あっはっは。それでは私は布教活動に戻りますかね。貴方達に神の恵みあれ」


男は笑って誤魔化してその場を去り、次々と他の通行人に耳障りの良い文言を掛けては紙を渡している。


「なにを貰ったんですか?」


「布教活動に関する紙だ。我々には不要のものだな」


「そうですか。ところでシルバさん、ピザにはウィンナーだけですからね。ベーコンは入れませんよ」


「お、おう」


談笑を再開して間もなく市場に到着する。

市場は活気に溢れていているが、喧騒に罵声と怒号も紛れ込んでいて、どうやら少し様子がおかしい。

突然、人混みを強引に掻き分けて進んできた輩とエルが衝突する。


「きゃっ!?」


勢いよくぶつかった衝撃で倒れそうになったエルを抱き寄せる。

辺りを見渡すが、先ほどぶつかってきた人物は人混みに紛れてしまってもう見当たらない。


「大丈夫か?」


エルの怪我の心配をする。

顔をぶつけてしまったようで、鼻と頬が少し赤くなっており、若干涙ぐんでいる。


「は、はい。えっと、その。ありがとうございます」


「俺がしっかりしていれば、こんなことにならなかった。すまない」


痛みに耐える可憐な乙女の姿を見て、罪悪感がこみ上げる。


「い、いえ、私なら大丈夫ですから。そんな自分を責めないでください」


抱きしめていたエルをそっと離し、気を引き締めて店に向かい歩き始める。




それから数分後、いつもお世話になっている店に着く。


「いらっしゃい、エルちゃん。今日はなにを買うんさね」


「ええと、今日はピザを作る予定でして」


エルは食材を選びながら店主の婆と市場の様子について話し始める。


「アンタら、近頃は物騒だから気を付けるんさね。市場では盗みが相次いでるんだ。日に日に増しとるよ。それだけじゃない。街では殺人に人攫いまで流行ってるんさ」


領主が死んでから治安は悪化していっているようだ。


「どれもこれも、最近になって現れた流れ者達の仕業さね。しかも裏では変な教団が関与してるって噂がある」


「教団ですか?」


「あんな荒くれ者達に教団がどっかで支援してるみたいでね。この前、どこかでパンを無償で提供してたらしいが、なんの見返りもなく施しを与えるなんてどうにも怪しいさね。アタシャ、乞食どもに領主を殺すよう仕向け、屋敷を乗っ取らせたんだと睨んでるよ」


「......そうですか」


「この街もいろいろと危なくなってきたよ」


「はい、ご忠告ありがとうございます」


それからいくつかの店を回り、食材を買い揃える。

帰宅中、だんまりとして項垂れていると、エルが声をかけてくる。


「浮かない顔をして、どうかしたんですか?」


「聞いただろう? どの店の人も、今は物騒だと恐れている。その原因を作ったのは、俺にもある」


「どういうことですか?」


「どれもこれも、戦場から逃げた負け犬の失態だ」


「選択肢を限られようと、その選択をした本人にも問題があると思います。ですから、シルバさんだけが悪いわけじゃないですよ」


「......そいつだけの責任にする資格など俺にはない」


「いくらなんでも、背負い過ぎです。あんなに傷だらけになっていたじゃないですか。貴方はボロボロになるまで戦ったじゃないですか。だから、世間になんて言われようが、負い目を感じる必要はありません」


エルは服の袖を掴んで引き留める。


「貴方は頑張り過ぎて、疲れているのです。だから、今はゆっくり休みましょう。それで、心身共に回復したら、騎士としての責務を全うし、それからは新たな人生を歩むのです。期待に応えるだけの生き方なんてもうやめましょう!」


「.......新しい人生か」


あの怪物の姿が頭にチラつく。

戦ったのは炎魔と呼ばれる魔物で、しかしこれまで騎士として数多の炎魔を屠ってきたものとは別格だった。

頭部に生えた二本の禍々しい角、灼熱の青黒い炎を纏う強靭な肉体、今まで見てきたものとは異次元の力に戦慄を覚え、今も鮮明に記憶に残っている。

奴を倒さぬ限り、罪悪感の呪縛から解放されることも、新たな道を切り開くこともできないだろう。


「俺にできるのだろうか」


「大丈夫です。今は、シルバさんは独りじゃありません。私もいますから、きっと叶います!」


買い物袋を抱えた自分の頭をエルが撫でて励ましてくれる。

彼女の温もりに触れたことで心が安らいでいく。

いつの間にか、一人では歩けなくなっていた自分を支えてくれる存在として、心の拠り所となっていた。


「さぁ、帰りましょう。早く美味しいものを食べて、元気をつけましょう! 腹が空いては戦はできぬとかって言いますからね」


「あぁ、そうだな」


エルは抱擁を求めるように両手を差し出して微笑む。


「この荷物は私が持ちます。怪我人は大人しくしていてくださいね」


「ありがとう。ただ、怪我の支障はないさ。荷物は俺が持とう」


「それならいいのですが」


「それと、今度から買い出しは俺一人で行こう。この街も随分と物騒になってきている」


「自分の身くらい自分で守りますよ」


「ははは、買い物くらい一人でできるぞ」


「そうではなくて、貴方はまた背負い込んでしまっているような気がして」


「君はかけがえのない恩人なんだ。大切な人を護る、というのは立派な騎士の務めさ」


「うーん、そうですか」


エルは不服そうな表情を見せながらも納得してくれる。




買い出しを一人で行くようになってからここ数日、領主の屋敷から魔力が渦巻いている。

浮浪者達が屋敷を寝床としていると聞いたが、そこに教団が関与しているのは間違いない。

だが、教団の不穏な活動を抑止できる者はおらず、今では血の気の多いならず者が街をのさばっている始末である。


夕頃、買い物を終えて教会に戻り、破壊された扉と床についた見慣れない複数の足跡を見て、一瞬で頭の中はエルの安否で一杯になり、咄嗟に彼女の名前を叫んだ。


「エルッ!?」


返事はなく、自分の声だけが響くの静かな教会に胸騒ぎを覚え、ダイニングに急いで向かうと、夕食の準備をしている筈の彼女の姿がどこにもなかった。

割れた食器があたりに散乱しており、荒事が起きたのは一目瞭然であった。

全身を掻きむしられるような焦燥感と、髪の毛が逆立つくらいの激しい怒りを覚え、買い物袋を床に手放し、教会を飛び出す。


街道を全力で駆け抜け、屋敷が見えてきた頃には拭いきれぬ懸念に怯えて掻いた冷や汗で服はびっしょりと濡れていた。

屋敷の門の前で椅子に座っていた二人の見張りはこちらに気づき、門の前で立ち塞がる。


「な、なんだお前」


「なんの用だい」


「お前たちがエルを攫ったのか!?」


体から湯気を出して鬼気迫る姿に男二人は怖気づいて後退りする。


「わ、悪いことは言わねえ。その子は諦めて帰った方が良い」


「なんだと?」


エルを誘拐した関係者と知り、二人の胸倉を掴んで宙に上げる。


「お前ら、なにを知っている?」


「や、屋敷の地下で誘拐してきた子を生贄に捧げてるんだ」


「顔も名前も知らねえが、攫われたんじゃその子もきっと......今日の夜、儀式で殺される」


「それではまだエルは無事なんだな!?」


「あ、あぁ、ただ、儀式までもうすぐだ」


両手を挙げて降参している二人を地面に降ろして屋敷の扉に向かう。


「お、おい、屋敷には教団員が使役してる化け物がいるんだ。死んでも知らねーぞ」


「なんつー怪力だ。もしかしたら、アイツなら......」


「ば、馬鹿をいうな。腕の立つ浮浪者や兵が何人殺されたと思ってるんだ。ましてや武器も鎧もないんだぞ。いくら力持ちでも、一人じゃ敵いっこない」


「そうか......」




屋敷に入り、地下から漂う魔力を辿っていくと、地下室の階段を発見する。


階段を降りるにつれ、地下室から漏れる不快な異臭が濃くなっていく。


鍵のかかった地下室の扉を蹴破って突入すると、足元からぴちゃりと水音が響く。


床には蝋燭の火をキラキラと反射している血溜まりが出来ており、その先には教団員と思わしきいくつもの死体が血と臓物をぶちまけ転がっている光景が広がっていた。

眩暈がするほどの濃密な血の香りで充満した薄暗い部屋の中央には台座を中心とした魔法陣が床に描かれていて、その台座の上に拘束されたエルが仰向けに寝かされてる。


そして、蹴破った音に反応して唸り声を上げる一匹の怪人がいた。


「ガルルゥ......」


死体の山を築き、それを貪っていた男は、死人のような灰色の目をしながらも眼光は鋭く、異様に尖った白い犬歯を生やし、やせ細った手先には鋭い鉤爪を伸ばしている。

そして鼻筋の通った面長の顔は青白く、茶髪は鮮血に濡れていた。

それは、どこか面影のある風貌であったが、人間の頃とは常軌を逸した形相をしている。


「まさか、お前は領主の息子なのか?」


こちらの問いかけを無視し、殺気を放ち続けていた怪人が襲い掛かってくる。


「ガァッ!!」


騎士としての責務と誓いを果たす時が来た。


その覚悟を問いかけ、その意志を形成する。


燻る魂に、勇気の風が吹き込んだ。

――白銀の鎧を召喚し、ボロボロの身体に纏う。


闘志は再び燃え盛り、渇いたこの身に眩い光を宿す。

――白く輝く剣を召喚し、落ちぶれたこの命を預ける。


剣に宿る光を解放し、辺りに拡散していく白光によって部屋全体が照らされる。


今や、主君は無く、誇りは捨て、地位も名誉も失った。

それでもここに騎士は生きていた。


襲い来る獣を一閃、斬り伏せる。


「その人を返してもらおうか」


光の斬撃を受け、男は悲鳴を上げながら胸から大量の血を撒き散らす。


「グアアアアッ!!」


男は這いつくばり、胸を手で抑えて痛みに悶えながらこちらを見つめる。


「はぁ......はぁ......。貴方は.......」


どうやら男は正気を取り戻したようで、こちらに話しかけてくる。


「その剣と甲冑は.......ウィルフレア家の騎士様。あぁ、良かった。貴方が来ればもう安心です」


「私にこの街を救うことは無理なことだった。教団の血を受け入れれば、病弱な私でも少しは人の役に立てると思ったのです。ですが、その力を制御できず、危うく大切な人を失うところでした」


「その人を頼みます。私のかげがえのない恩人なのです。.......どうか、お願いします」


「あぁ......エルさん。貴方はなにも知らずに、綺麗な思い出のまま、私を仕舞っておいてくれ」


そう言うと男は静かに息を引き取った。


儀式に使われている台座に向かい、エルの安否を確認する。

特に目立った外傷はなく、ただ眠っているだけのようだった。

彼女の拘束を解き、安堵の息が漏れる。


「無事でよかった」


遥か上空からこちらに急接近してくる気配を感じ、背中に悪寒が走る。


「そろそろか」


眠っているエルを優しく抱きかかえて屋敷を飛び出す。


「うぉ! あ、あんた! 無事だったのか!」


「お、おいおい。屋敷の奴らはどうしちまったんだ」


生憎、門番に構っている時間はないため、無視して教会まで急いで戻る。

聖堂の長椅子に寝かせ、街の外まで屋根を伝い最短距離で移動する。


街から離れた平原で、夕空を見上げると、青い彗星のような軌道が現れ、隕石のようにこちらに降ってくる。


――前方が爆発した。

あまりの衝撃に、大地が揺れ、轟音が鳴り響き、強烈な爆風と衝撃波をもたらす。

焼け焦げた土埃と煙が舞う中、雲まで焦がす程の青黒い火柱が勢いよく上がり、辺り一帯は火の海に包まれて揺らめく。


「......来たか」


抉れた地面から、全身の皮膚がひりつくような熱気と存在感を放つ火柱の主が姿を現す。

頭部に生えた二本の禍々しい角に、傷一つ無くない灼熱の青黒い炎を纏う強靭な肉体。

罪の元凶にして、最強の敵。


「気配がなくて、探すのに随分と手間取った。もう逃がさん」


「わざわざ、単騎で敵地に乗り込むとはな。よっぽどご執心のようで」


「炎魔王の力を引き継ぐ俺様と互角に渡り合える人間などお前くらいしかおらん」


「互角だと? 笑わせるな。こっちは何度死にかけたことか」


「その奢らぬ性格も油断ならない。この先の戦いに、お前という存在が大きな障壁になる。お前は我々の脅威だ」


炎魔は一歩、また一歩と、こちらに近づいて距離を詰めてくる。


「手負いとなったお前をここで確実に仕留める。そして、我らが神の意志を啜らんとする穢らわしい蛆虫が沸いたあの街も燃やし尽くす」


燃えた街から生まれた悲劇が脳裏に過る。

職を失った人、家を失った人、希望を失った人、そして、炊き出しを行ったあの日、悲しみに満ちたエルの姿を。


「させるか。あの日、街が壊滅したことでどれだけの人が苦しんだと思っている」


「ふん、脅威となりえるものはすべて排除するだけだ」


炎魔は急加速して、間合いを詰める。

研ぎ澄まされた感覚が、地面を蹴って一直線に迫る炎魔の動きを捉える。


出し惜しみなどしない。

迎え撃つこの一撃に全力を注ぐ。

もう二度とあの悲劇を繰り返さぬようにと。

ここで決着を付け、街を守り、民を守り、エルを守る。


「今ここで騎士の誓いを果たし、責務を全うする!」


剣を天に向け身体の奥から湧き上がる力を込めると、キラキラと輝く大量の白光が剣に渦巻く。


「我が血を燃やしここに灯すは聖なる光。喰らえ! ――サザンクロスッッッ!」


まるで星のように煌めいた剣を振り下ろし、その剣に集る光を解き放つ。

十字を切った巨大な光の奔流が炎魔を飲み込んだ。

先ほど起きた爆発の何倍もある威力の衝撃によって、周囲の炎は消え去り、眼前の草原は消滅して荒野と化す。


ただ、依然として砂塵の中で青黒い炎が揺らめいている。


「......これでも駄目か」


渾身の一撃を放った反動で全身に激痛が走り、強烈な脱力感に襲われる。


ここで膝をつくわけにはいかない。

これはまだ戦いの序章に過ぎない。

やるしかないと自分に言い聞かせ奮い立たせる。


「流石に効いた。――だが」


炎魔が目前に迫る。

力を消耗しすぎたせいで身動きが取れず、炎魔の蹴りを貰う。

痛みを堪えすぐに態勢を立て直すも、迫りくる追撃を捌き切れない。


「人間とは脆いものだな」


劣勢になっていく戦いの最中、光の斬撃を受けた傷が徐々に回復していく炎魔の姿が目に映る。


......やはり、無理か。


時間が経つにつれ、炎魔は回復して力を増していく。

その反面、こちらは剣を振るう力が弱くなっていく。


......俺はもうこれまでなのか。


炎魔を相手に反撃の余地は無く、意識は朦朧としていく。

とうとう踏ん張りが効かなくなってきて、炎魔の拳を貰い吹き飛ばされる。


「終いだな。味方の支援も援護もない。お前一人ではもう何も出来まい」


あぁ......もう、どうにもならないのか。




気付けば真っ白い世界の中にいて、そこにぼんやりとエルが佇んでいた。


街が燃える前にどうか目を覚まして、遠くに逃げて欲しい。


エルには生きて貰いたいと願う。

だが、彼女は自分の傍から離れようとはせず、むしろ近づいてきて姿がより鮮明になっていく。


こっちに来ては駄目だ。早く逃げてくれ。


絶望で打ちひしがれた自分のことをエルはそっと抱きしめてくれる。


貴方を一人になんかさせません。私がずっとついてますから。


彼女の麗しい声が空虚な世界に反響する。


どうか諦めないでください。これから、私と共に新しい人生を歩むのでしょう?

貴方のしたいこと、やりたいこと、貴方の望みを全部、私と一緒に叶えましょう。


俺の望み......。


そうです。貴方が心の底から望んでいたものを。


......俺は一体何の為に、戦ってきたのか。


きっと、誰かに必要とされることで、貴方の渇きは満たされると思っていたんでしょう?

ただ、どんなに周囲の期待に応え賞賛を得ようと貴方は報われなかった。

そう......貴方は承認欲求や自己顕示欲などに囚われていたのではない。


エルは左の耳元でそっと囁いた。


貴方は、ただ寂しかっただけ。

ええ、ええ。

孤児の貴方は、心にぽっかりと空いた孤独という名の穴を埋める為に剣を取ったんです。


改めて、問いただしましょう。


それは薄弱とした精神がもたらした幻に過ぎないが、確かに、一凛の可憐な花が自分の中に咲いてくれていた。


ありがとう。もう十分だ、答えは得た。


辟易とした人生を断ち切る為に、叶えたい新たな未来の為に、色褪せた過去を燃やす。


今まで人の為とばかり剣を振るう自分から伸びた底知れぬ深い闇を放つ影が世界を覆い、元居た場所へと引き戻してくれる。


どうせ、これが最後になるくらいなら、俺は俺の為に剣を振い身を砕く。

俺は新たな人生を歩む為に、その先へ行く。




創り上げられた理想の刃は光輝を失うも、願えば願うほどに力が漲ってくる。


「ほう......まだ立つか」


限界を超えた身体から噴き出す血の霧が剣と鎧を黒く変貌させた。


溶けいく視界と正気、止まらぬ耳鳴りと吐き気、今までで一番力強く感じられる命の鼓動。


「ォォオ゛オ゛オ゛ッ!!!」


飛び上がり、刃を振り下ろす。


炎魔はその堅固な腕をもって防ごうとする。

幾度もなく挑み、何度も剣を弾かれてきたその腕を、一撃で斬り落とす。


「なッ!?」


炎魔はすぐに距離を取り、斬り落とされた腕を再生させ、こちらを警戒する。


「その力......一体」


身体が軋む。

出鱈目な力の代償に、腕の筋肉が裂け、骨は折れた。

しかし、凄まじい負担が掛かり欠落していく肉体を血の鎧が密着し、補強することで超高速戦闘を可能にさせた。


「図に乗るなよ!」


戦況は一気に覆る。

炎魔との開いていた力の差は黒く塗り潰された。

全てを切り裂く炎の爪も、天地を焦がす火球も、繰り出される攻撃を悉く凌駕する。


「っち。想定外だ。お前がこれほどの力を残しているとはな」


頑強な骨を折り、強靭な肉を断ち、炎魔の常軌を逸した再生が間に合わないほどに追い詰めていく。


「くそっ。俺様がここまで追いつめられたのは初めてだ」


「だが、奥の手があるのはお前だけではない!」


炎魔は後ろに大きく飛んで距離を取る。


「俺様の身を守っていた炎の鎧や再生能力は、今やお前には通用せん。これらに割いていた力を解放し、全てをお前にぶつけよう」


こちらも燃やせる命は残り僅かである。

決着を付けられるのは今しかない。


「俺様は、希望の炎、神に劣らぬ炎魔王の力を継承する者! この先々の戦い、俺様が導いてやらねばならんのだ!」


生成されたのは、大気が揺らめく程の熱を秘めた、燦然と輝く青い炎の槍。

それを前にし、一歩も引かず、堂々と正面で構える。


「――ゾディ・スレイヴンスピアッ!!」


再生能力と防御力を犠牲にして力を凝縮した炎の槍が投擲される。


「ヴォォオ゛オ゛オ゛ッッ!!!」


記憶も感情も、とにかくこの身に残っているもの全てを捧げ、湧き上がる狂気と闘争心を剥き出しに、獣のように月に吠えた。


音速を越えたスピードで迫る炎の槍。

それを、己の血の気を無理矢理に吸い上げ、極限まで力を引き出した剣で受け止める。


雷鳴の如く轟いた衝撃音、大地に走る巨大な亀裂、悲鳴を上げて壊れていく身体。

黒い鎧が徐々に割れていき、裂け目から噴き出した血が蒸発していく。


「ガァア゛ア゛アッッッ!!!!」


「ば、馬鹿な!! 凌ぐと言うのか! かの戦乙女さえも貫いた槍だぞ!!」


全身の血が枯れて、黒い鎧が崩壊する寸前、炎の槍を跳ね返し、弾き飛ばされた遥か彼方先で巨大な青い火柱を上げる。


「あ、ありえん。そ、そんなことが」


「ま、まだだ、まだ!!」


炎魔は狼狽えながらも再び炎の槍を形成しようとする。


「あってはならない。ここで負けるなど。俺様が導いてやらねば......」


「託された使命と報復を果たさなければ.......」


しかし、身体からは力なく煙を上げるばかりであった。


「グォォォッ......」


折れた剣が、しかし僅かに残った刃が放つ黒い剣閃が炎魔を切り裂く。


「......。」


「ぐはッ......この俺様が、負けただと」


炎魔はドサリと地面に伏して、枯れるように衰えていく。


「......だが、無駄死にってわけじゃ、ないみたいだな」


「その血に錆びた鎧の内には、狂気に侵された肉塊以外に何も残ってない」


「お前は燃え殻として、ただ死ぬよりも辛い時間を過ごす」


最後に炎魔は掠れた声で小さく笑い、灰のようにボロボロと朽ち果てた。


すると、荒野の闇に這いよる何者かが、あらゆる暗闇から覆い尽くすように、どことない影から歓喜に満ちた視線をこちらに送り、クスクスと笑った。


もう、貴方に罪はない。

逃げ出したことも、背負ったものを捨てたのも、全部自分で償った。

さぁ、もう楽になりましょう。えぇ、えぇ。




先ほどまで行われていた戦闘で街中は大混乱だった。

道行く民衆の不安の声、天に祈りを捧げる声、それら雑音を無視して、路地の影に身を隠し、人混みを避けて移動する。


凍えるような寒気にやられたのか、それとも身体を酷使したことが引き金となって起きた痙攣なのか、とにかく全身をガクガクと震わせて、ただひたすらに癒しの温もり求めた。


静謐に満ちた教会で知らぬ間に肩に積もった雪を払い、聖堂の長椅子で涼しい顔で夢に微睡む一人の少女に、身勝手で都合の良い妄想を見た。


仰向けに寝そべって、エルの太ももに頭を置く。


あぁ......これは良い。


エルに膝枕をしてもらって、可笑しくなった気持ちをただ享受する。


今、私が狂っているとしたらそれは慈悲だ。

鈍感故に、この身を蝕む悍ましい痛みにも耐えられる。


クスクスと笑った。

血で錆びついて、涙で濁り、音にならない声だった。


薄れいく意識と共に、瞳に写る景色は輝きと色を失っていく。


多くのものを燃やし過ぎた。

もはや、先の人生において、自身の可能性を案出できない程に空っぽになって、それを苦悩する能力も失った。

だが、それでもいい。

我が身に宿る灯りを失くし、どんな暗い底に沈もうと、寂寥の牢屋で渇き続けていた私を解き放ってくれたエルの光を辿るだけだ。

苦しくない呼吸の仕方、辛くない歩き方、そんなものがあるんだと諭してくれた彼女と、いつか二人で同じ景色が見れるなら、私は貴方の下に必ず帰る。

たとえ、どんな姿になったとしても。


そうして、私は狂人になった。

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