「余計者」について
ロシア文学に「余計者」という概念がある。今は、それを借りて考えようと思う。
今、私は沢山の雑多な考えを巡らせており、それが一つにまとまらないと感じている。こうして文章を書くのもそれに脈絡をつけたいからにほかならない。考えるということ、それ自体は現実における生からはみ出した余分である。その余分の部分が、やがて現在に化す未来なのだという気もする。私は自分の存在が世界から遊離しているのを感じる。その遊離した部分は思考という、形のない形態を取り、それはこうして言葉に置き換えられ、世界に拡散されていく。ではそこに未来はあるのか? 未来は、心の中にある。あるいはペソアが残したトランクの中に…。しかしこんな駄文を書いていても仕方ない。もう少し、まともに考えようではないか。
最近、オスカー・ワイルドについて調べていて、非常に興味深かった。ワイルドの代表作「サロメ」「ドリアン・グレイの肖像」を面白く読んだし、感銘を受ける事ができた。
オスカー・ワイルドという人は退廃的な美を追求した人物という風になっている。彼もそれを意識し、そう振る舞っていた。もっとも、彼は古典的な性格を十分残した近代人だった。「ドリアン・グレイ」も「サロメ」も美を追求する事が道徳を破る事になり、やがて破滅するのだと予期されている。ワイルドは彼が描いた人物の通りの人生を送ったとも言えるだろう。
ワイルドは男色の罪で捕まり、悲惨な牢獄生活を過ごした。そこで彼はキリストを発見する。自由主義者が牢獄に入り、キリストを発見する過程はドストエフスキーに似ている。ワイルドが長命を保っていたら、大作を書いたかもしれない。
ワイルドは、男色で捕まったという事もあるが、同時代のイギリスのブルジョアに我慢ならないといった精神を持っていた。彼の反逆的な姿勢にはそういう要素がある。ワイルドより前だが、フローベールなどもそういう態度を持っていた。同時代のブルジョアの、小市民根性や俗物性にうんざりとしていた。
フローベールと同時代人のドストエフスキーは、ワイルドやフローベールの生まれたヨーロッパとは違う、ロシア生まれである。早い話、ロシアの方が圧倒的に「田舎」である。しかし、そこには同時に、西欧から失われつつあった素朴なものがあった。しかしその素朴なもの、つまり民衆だが、これはロシアの後進性とセットになって把握されるべきものだった。ドストエフスキーという一風変わった思想家は、西欧の近代性を越えるものをロシアの後進性の中に見たのだった。それはきっと、重労働に耐えながらも、キリストの教えを胸に刻み、他者の為に人生を捧げる農民のようなものだったろう。大賢と大愚は一周して一致するとも言える。ドストエフスキーは、近代を越えようとしてかえってそれを過去の中に発見したのだった。
ドストエフスキーは、年を取ってからヨーロッパ旅行している。彼はフローベールと同時代人だ。ドストエフスキーは、ヨーロッパが物質主義に染まり、キリストから離れている、堕落していると感じ、それを書いた。これはフローベールのブルジョアに対する嫌厭と近い位置にあるのではないか。オスカー・ワイルドのブルジョアに対する憎悪も近い所にあるように思う(ワイルドは快楽主義者でもあったが)。
こうした近代的な市民というか、ある程度富裕な人の堕落というのは、私にとっては親しみやすいものとも言える。現在に生きる我々はまさにそういう世界を生きているからである。
今、ハクスリーの「すばらしい新世界」を読み返しているのだが、ハクスリーが描くディストピアは先に言った、ブルジョアの小市民根性の延長と言えるのではないか。そうして「すばらしい新世界」は我々の大衆世界を描いていると考えて間違いはない。彼は予言者だった。そうなってくると、今の大衆と過去のブルジョア、近代性の権化であると同時に、堕落・腐敗が支配しているが表面的には小利口な、善意の人である人々というが、文学者らが嫌悪した世界として浮かび上がってくる。私は目下、そんな風に考えている。ドストエフスキーが見ていたような民衆は、世界から消えてしまった。みんな富裕になり、ブルジョアになり、そうした堕落した。堕落という言い方が嫌なら、物質主義・功利主義に染まった。誰も彼もがブルジョアになり、そうしてこれを嫌悪する人間はとうとう居場所がなくなった。
こうした世界に対する主体的なニヒリズムを一人称で延々と書いたのがミシェル・ウエルベックのような人だ。こうやって考えていくと、やっと私の中で、過去の文豪と現在生きている我々との間に微かなつながりが見えるような気がしてきた。
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今は駆け足で書いたが、とりあえず結論だけ、ここでメモしておこう。タイトルの「余計者」という考え方にまず触れておく必要がある。これは当時のロシア社会では、文学者らも、思想家も、要するにインテリゲンチャはみんな余計者にならざるを得なくなっており、その運命をはっきり見据える事がロシア文学の根幹を成したというような話である。このあたりは小林秀雄の講演に依拠している。
インテリゲンチャ、インテリ、の存在というのは色々な観点から重要だと自分は思っている。日本でインテリの、知識人の運命を徹底的に描いたのは夏目漱石だろう。鴎外もそうだが、鴎外は途中から逸れたので、漱石を中心に考えたい。日本にも「余計者」の文学はあったのである。それが日本の「近代文学」の本質だったのだろう。私はそこに本質的な意味はあったと感じている。北村透谷の自死とか、石川啄木の夭折とか、そうした運命も偽ではなく本物だったと思っている。そう考えると、日本にも苦痛に満ちた近代というのがあったという事になる。
では、現在、インテリというのはいるかというと、いない。いるように見えてもいない。東大を出た人間はそのままインテリではない。インテリは、この文章の定義から言えば余計者である。彼が、なにか本質的な指向性を持っているがゆえに社会から疎外されてしまった存在、それを今はインテリと言うのであるから、インテリは今の日本社会にはいない。あるいは、いたとしても見えない。それが実情だろうと思っている。
インテリを文学の主題とするにも、ある場所が必要となる。広い場所でなくても良い。狭くても良い。むしろ狭い方がいいだろう。ただ、全く場所がなくても困ってしまう。
この「場所」というのは物理的な性質の話ではない。オスカー・ワイルドは変人を気取っていたが支持者はいた。彼はアンドレ・ジッドと会い、マラルメとも交流があり、ホイットマンとも会った事がある。ワイルドとかフローベールが当時のブルジョアを嫌悪していたとしても、その為に各々が辛い運命を強いられたとしても、そこで彼らの表現が発表できたり、彼らがそうしたものを主題に取る事ができるような「場」はたしかに存在したのである。
同じ事がロシアにも、日本にも言えるのではない。日本の場は確かに小さかったが、一応、場だった。近代文学を知る少数の人間が、親の金を散財したり、栄養失調で身悶えしつつも、余計者としての自己を感じ、文学というものを知っていると感じて、交流しつつ発展していく「場」はあった。ロシアにおいても、皇帝からの弾圧や気まぐれな許しの中で、唯一、文学活動にいかに生きるべきかという問題をつぎ込める、そういう場があった。ロシアは政治的には何の自由もなかったので、ただ文学だけがはけ口となって、そこに当時のインテリ青年は殺到した。
さて、こうした社会から疎外された青年・淑女らが、大抵は社会からの弾圧を受け、ろくでもない人生を送ったとしてもそのろくでもない人生には意味があると信じられる何ものかはきっと存在したのだろう。…今は非常に雑にまとめているので、色々な批判もあると思うが、私は過去に比して現在というものを考えてみたいのである。
現在に戻るが、現在にはインテリはいないし、余計者も存在しない。どうしようもないと言えばどうしようもない。もっとも、なにもないかと言えばそんな事もない。
現在に少なくとも「場」がないのははっきりしていると思う。それは致し方ない。ではなにもないかと言えばそうではない。今ここで考える余計者、インテリという存在は、社会に疎外された形でわずかに現れてきている。そういう風に思っている。
そういう存在がこの先どうなるか。まず野垂れ死にがいいところだろうが、まあそれでいいのである。何かをやろうとする人間はそれで構わない。で、この余計者は、私は何よりもこの社会の価値観に包摂される事を拒絶するような人間として考えたい。そうでなければなにも始まらないからである。
現代のこの大衆世界は、大体においてハクスリーが描く全体主義世界そのままである。これは多言を必要としない。ハクスリーがそのまま書いてくれているのだから。そこで野蛮人の「ジョン」が出てくる。ジョンはシェイクスピアを諳んじる。だからこそ、彼は野蛮人として疎外されている。彼は「インテリ」であり「余計者」だ。
現在もそうたいして変わらないのではないか? ディズニーランドに行かなければ「変人」である。スマートフォンをいじっていなければ「おかしい人」だ。本を読んで深く物事を考えてると「協調性がない」とくる。今は、要するにそういう時代だ。
今の大衆社会の、資本主義一強、物質主義、功利主義。こうしたものは、過去の「キリストを失ったヨーロッパ」の残骸というか、延長なのだろう。アメリカという国はそれらをすべて徹底的に体現したとも言える。そうしてこの価値観に包まれる事が正しい事とされている。しかし、私は私の尊敬する文学者らがみなそれらと闘う事を自らの使命としていたと感じる。そこで私は、別に私が凡才だとしても、少なくともそうした人の価値観に準じたいと考えている。
今の文学は、そうした価値観に包まれる事をむしろ救済と考えている。あるいは彼らは考えない。考えない人間は、自己がそう考えさせられているという事にも気づかない。ある方向に先天的に動かされているのに、彼らはそこから世界のあらゆるものを測ろうとする。村上春樹がエンタメ的物語論で、文学全体を割り切ろうとするのが良い例だ。現代において余計者はいない。インテリも消えた。しかし、余計者、インテリは、今の大衆社会の価値観の劣化、あまりにもひどい低劣化(ユーチューバーなどはいい例だ)から、むしろ、少しずつ発生し始めているのではないか。そんな風に自分は考えている。今、自分達はそういう歴史的な節目を生きているのではないかと思う。とりあえず、今の自分はそんな風に考えているという事をここにメモしておく。