画一化社会と我々の自由精神(アジ)
諸君の自由な精神は今や、非常におびやかされている。そのことに気づきつつある者は、決して少なくない。物質的繁栄と同時に我々の社会は、重苦しい息苦しさに満たされている。将来に希望を持つことは難しく、広いはずの世界はどこかつまらなく見える。資本や企業は権力となって、若者達を画一化しようとしている。若者達を、交換可能な労働単位として規格化している。諸君の自由精神が危機に立たされていると、私は正直に認めなければならない。
しかしその息苦しさの正体は何だろうか? 現代で生きるということはなぜ、どこか退屈で窮屈に見えるのだろうか? その問題の正体は、深く隠されている。それを掘り起こすことは、とても難しいのだ。だから私のこの話は、少し長くなる。しかし話が終わった時には、諸君はその秘密を明らかに理解していることだろう。諸君は諸君の幸福を守るために最も重要な指針を手にしていることだろう。
現代の本質的問題は、幸福の格差と、企業による労働者の酷使だ。グローバル化によって資本の論理が世界中に行き渡り、良心なく労働者を酷使できる経営者こそが地位を得ている。これでは労働者が画一化され酷使されていくのも必然だ。必然だというのなら、我々はそれに屈従していくしかないのだろうか? あるいは我々はいかにして、労働者の酷使の問題に立ち向かうべきか?
我々の手には、強力な武器がある。民主主義制度である。しかしそれは、決して新しいものではない。新しいものでないならば、民主主義制度ができて以来、企業経営者は品格を高めてきただろうか? 否。企業経営者はその残酷性を増すばかりである。これによって、単に民主主義制度があるというだけでは、労働者の幸福は守られないということが分かる。
これは不思議なことだ。民主主義制度は、ほとんど万能な結論だとされているのである。つまり我々は、民主主義制度を通じて法律を定め、企業経営者の行動を法律で縛ることができる。それが現代社会の基本的なアイデアである。すなわち、「民衆対権力」という構図において、民衆は権力を統制できるという建て前である。しかし、企業と労働者の現実の上下関係はどうか? 労働者の幸福の道具であるはずの企業が、実際には労働者を道具として、ほしいままに虐げている。建て前としての平等の陰で、民衆の精神は資本の権威で抑圧されてるのだ。そして行政は、それを半ば放任しているではないか。
「民衆対権力」という考え方を、「大衆平等主義思想」と呼ぼう。これを振り返って気づくのは、これ自体は品格を生まないということである。企業を法律で縛ったとしても、経営者は法に罰されない範囲において最大限に利益追求するだけだ。そしてもちろん、企業を法律で縛ることに注目しているから、民衆そのものの品格も向上させる意味はない。これはおかしい。企業も行政も人間からなっていて、その人々の品格の不足こそが労働者を不幸にしているのに、大衆平等主義思想には、品格を生む考え方が含まれていない。
その結果もたらされている現実は、資本の論理に好都合な現実である。金銭の論理の前に画一化されていく民衆である。近代における民主主義制度は確かに我々の味方だが、資本主義と同時にもたらされた大衆平等主義思想もまた、本当に我々の味方だろうか? 民主主義制度における人権の平等は疑いもなく不可欠だが、品格において人間を平等と見なすこともまた、我々にとって本当に合理的なのだろうか? 誰が得をしているか?
残忍な経営者と善良な労働者がもしいたら、本当に品格は平等か? 残忍な経営者と善良な経営者とは、品格は平等だろうか? それが平等なら、「品格」という言葉は意味を失うではないか。大衆平等主義思想には、偽りがある。それによって本当に得をしているのは、労働者ではなく資本である。人間は、品格なき者へと画一化されるべきものではない。ゆえに私は断じた。資本主義こそは全体主義である。「民衆対権力」の権化たる共産主義のみならず、資本主義もまた全体主義なのだ。資本こそが、人間精神の自由を抑圧している。
労働者の幸福のために本当に必要なのは、品格ある経営者である。人間には、自らの幸福を追求する権利と同時に、望むなら品格を備える自由があるべきである。「民衆対権力」と考えて、権力から民衆を守ろうとするならば、それは片手落ちなのだ。本当になすべきは、資本から品格を守ろうとすることである。すなわち「品格対資本」と考えるべきなのだ。
品格の美徳を確立したのは、封建時代の貴族である。封建時代は階級社会だったが、品格という考え方そのものは、民主主義制度のもとの平等社会にも応用できる。その意味で、歴史的な貴族は模範である。ゆえに、「民衆対権力」と考える大衆平等主義思想とは別に、「品格対資本」と考える「貴族品格主義思想」を考えよう。
封建時代の貴族は、自身の幸福追求の上に、望むなら品格を追求し、自発的な価値観を持つ、自由な精神を持っていた。つまり自由精神があった。封建時代の奴隷もそうかもしれないが、現代の労働者は価値観を強いられている。資本の論理によって、結果的に金銭主義へと画一化されているのだ。つまり全体主義によって、自由精神は抑圧されている。ゆえに、現代において行われるべきは、民衆の総員における自由精神の実現である。そのために、貴族的品格は復興されねばならない。
それゆえ、既存の社会を「全体資本主義」と呼ぶ一方で、「自由貴族主義」と呼ぶべきものがそれに勝利すべきだ。全体資本主義は、民主主義制度の上に大衆平等主義思想を乗せようとするが、自由貴族主義はそれに代えて、民主主義制度の上には貴族品格主義思想を乗せる。その思想があってこそ、品格を生じる政策は立案され、労働者を守る実効性を行政に備えることができて、諸君の幸福な生活が実現される。ゆえに私は、既存の全体資本主義と大衆平等主義思想とを、断固否定するものである。
ここにおいて、私が愛するものは2つある。すなわち、自由精神と、貴族的品格である。私は諸君に貴族的品格を強いようとはしない。私が欲するのは、自由精神のもとで各々が望む価値観を備え、欲するなら貴族的品格を備えてよいという自由である。ここにおいては、現代社会に息苦しさと退屈を感じた理由も明らかである。それはすなわち、自由精神なく価値観を強いられる「息苦しさ」と、資本の世界を地の果てまで行っても品格なき金銭主義しか存在しないという「退屈」だったと言えるのだ。
今や私は指針を示した。精神を画一化し人間を道具として酷使しようとする時代にあって、諸君に私は、資本の論理という全体主義に反逆し、真の自由主義の名のもとに立ち上がるべきことを示した。人類の幸福の行く末は我々のこの戦いにかかっている。この戦いが長く険しいものになることは疑いがない。しかし我々は、我々の自由を守るために立ち上がらねばならない。心のおもむくままに世界を楽しみ、自らの価値観を持つことが妨げられない時代を築くために。全ての労働者の尊厳と利益が、行政によって真に守られる社会を築くために。自由貴族主義こそが、この戦いの指針である。
私は何よりもまず、自らが自由貴族主義者でありたいと思う。そして自らが貴族的品格を備えたいと願う。そこにおいて私は、諸君の心身が搾取されある現実を横目に、保身を優先してそれを見過ごすことができなかった。つまり私は、内発的な衝動によって貴族品格主義思想に到達したのだ。私は役人のように、対価として賃金を得るために諸君に尽くすのではない。私は経営者のように、法に強いられて諸君の利益を守るのではない。私の動物的利己心の自由な発展として生じた貴族的品格が、諸君の自由な精神を侵害させてはならないと自らに命じているのだ。これにより、自由貴族主義の有効性は私自身において証明された。人間には、品格を備え相愛の社会を築く可能性が備わっているのである。ゆえに私は、勝利を掴み取る力が諸君にあると確信している。ならばこの戦いの始まりを今、心から喜ぼうではないか。