一章 その陸
レイたちがいなくなった大広間には、静けさが広がっていた。ミツアキはアユミが芸人に興味を持ったことへの驚きで、テツヤはレイに対する不信感から口を開けずにいた。
「ミツアキ様。少し外の空気を吸いに、外出しても良いでしょうか?」
今日は珍しいことが続く。アユミが自分から外に出ると言い出したのは、初めてではないだろうか。
「あぁ、良いとも。だが、護衛は必ず連れて行くのだぞ。……どこまで行くつもりだ?」
「少し歩きたいので、龍の社まで」
「わかった。気をつけて行け」
「はい」
アユミが出て行き、ミツアキとテツヤだけが残った。テツヤは、代々ミツアキの家に仕えている家の嫡男だ。ミツアキより二つ年上の彼は、側近であると同時に幼なじみでもあった。
「何か気になることでもあったか?」
「いえ、大したことではありません。あの芸人たちですが、屋敷に滞在させるとなると身元を調べさせた方がよろしいかと」
「そこまでする必要は無いだろう。何か裏があってこの屋敷に入り込みたかったのなら芸人としてでは無く、女中や下男として入る方が容易だろう。だが、おまえが気に掛かると言うなら見張りでも付けておけ」
「……承知しました」
中庭に面した障子は開け放たれていて、まだ少し冷たい風に乗って春の花の香りが届いてくる。ミツアキがアユミと結婚したのも、今日のような日差しの穏やかな日だった。
「アユミ様に、笑っていただけると良いですね」
「あぁ、そうだな」
庭木の松の枝で、サキの肩に止まっていた小鳥が羽を休めていたことに、ミツアキたちは気が付かなかった。
「何かございましたら、遠慮なくお申し付けください」
不満げな表情の若い女中が部屋から出ていった。貴族の屋敷で働いていて、旅芸人の世話を任されるとは思いもしなかったのだろう。レイは隣の部屋に通され、サキはコクと同室だ。本来なら犬は外に出されるところを奥方様のご配慮で室内にいるのを許されたのだから感謝するように、とここまで案内してきた女中頭が去り際に告げていった。
入り口をじっと見ていたコクの耳がぴくりと動き、突然寝台に向かって走っていった。大きな口で枕をくわえて、上掛けの中に器用に頭だけを突っ込む。
「んーっ、んーっ、んーーーっ!」
荷を解いていたサキは、コクの奇っ怪な行動に首を傾げた。作業の手を止めて、上掛けを剥ぎに行く。
「何をしてるんですか、コハク?」
コクことコハクは、枕をくわえたままサキに振り返る。そのまま話し始めたので、サキは口から枕を引き抜いてやった。無残にも枕には穴が開き、中身の蕎麦殻がぽろぽろと落ちてきた。
「あふぁふぃふぁ──自分がお喋りだなんて思ったことは無いけどね、声を出しちゃいけないことがこんなに辛いとは知らなかったよ!」
「それで、枕をくわえて大声を出したんですか。でも、これを見てください。帰るときに弁償をしないといけなくなりました」
「ここは黒真珠卿の屋敷だよ。枕の一つや二つ、大したことじゃないさ」
反省の色が無いコハクは放っておいて、サキは床に落ちた蕎麦殻を拾い集め始めた。