一章 その肆
男が鞠を天井近くまで投げ上げる。犬はほとんど助走をつけずにその場で高く跳ね上がり、空中で体に捻りを加えながら鞠をくわえて着地した。そして、鞠を床に落として跳ね返ってきたそれを器用に前足で挟んで受け止めた。
犬はそのまま立ち上がり、男の許まで二足で歩いて鞠を運ぶ。どっと笑いが起きた。受け取った男がミツアキたちに背を向け、大広間の入り口近くまで移動して犬と大きく距離を取った。膝の上に置かれていたアユミの手がぎゅっと握り込まれる。
「今日は特別に、いつもより遠くから投げてみせましょう。見事この犬が鞠を受けられましたら大きな拍手をお願いいたします」
男は腕を振りかぶり鞠を思い切り投げたのだが、手元が狂ったのかその鞠は犬の上を抜けてアユミの方へ飛んで行った。ミツアキは咄嗟にアユミの頭を抱え、鞠が飛んでくる方に背を向けて目を閉じる。女たちの悲鳴が驚愕の声に変わったのに気付いてミツアキが目を開けて振り返ると、直ぐ目の前に鞠をくわえた犬の顔があった。
「鞠よりも速く走ったのか……?」
側にいるテツヤを見ると、冷静な彼には珍しく驚いた表情を隠さぬまま頷いていた。アユミの体を離し、わずかに乱れた髪を直してやる。
「いかがでしたか?」
サキの朗らかな声で、止まっていた場の空気が動き出す。元の位置に座り直したアユミの頬に、犬が一度だけ顔を擦り付けて主の隣に戻っていった。
「最後のは少し心臓に悪かったが、大変面白かった」
「ありがとうございます。奥方様、驚かせてしまい申し訳ありませんでした。お詫びの品を受け取っていただけますか?」
少女の肩に止まっていた薄緑の小鳥が、白髪の男の肩に飛び移る。男は懐から何かを取り出すと小鳥にくわえさせ、指をアユミの方に向けた。軽やかに小鳥が飛び立ち、真っすぐにアユミに向かって行く。
膝の上に降りた小鳥が運んで来たのは、小さな白い野花だった。貴族の妻に渡すにはあまりにも相応しくないその花を、アユミは細い指で胸の高さまで持ち上げ、じっと見つめている。
「気に入ったのか?」
ミツアキの声に驚いたように体を震わせたアユミは、少しうつむいて花を撫でた。
「……はい」
いつもとは違う妻の反応に、ミツアキの胸は高鳴る。もしかしたらこれが最後の好機かもしれないと、芸人たちに向き合った。