三章 その拾
野犬はいなくなったのか、屋敷はいつもの静けさを取り戻していた。後始末に兵や女中たちが動いている気配はあるが、ミツアキの部屋の周囲には誰もいなかった。
ふすまが開けられた。廊下に正座をし、頭を下げていたのはアユミだった。
「入りなさい」
アユミが部屋に入り、ふすまを閉じるのも待っていられず、テツヤは声を上げた。
「奥方様は、やはりミツアキ様を選ばれたのですね!」
自分と向かい合った妻の顔を見たミツアキは、全てを理解した。
「テツヤ、二人にしてくれ」
「しかし、」
「頼む」
もの言いたげな顔でテツヤが出て行く。彼の気配が完全に無くなるのを待つように、二人はしばらくの間無言だった。
「決めたのだな」
喉に何かが詰まったように、ミツアキの声は掠れていた。
「ミツアキ様。申し訳ありませんが、わたしと共に龍の社に行ってくださいませんか? 魂名をお返しします」
魂名を交換した夫婦は、離縁の際にも社を訪れる。交換の時と同じように水盤に手を浸すと、互いの記憶から魂名が消える。そうすることで、完全に二人の繋がりが消えたと確認するのだ。
「……その必要は無い」
「けれど──」
「そうすれば、アユミはわたしを忘れられないだろ?」
ミツアキは子供のような無邪気な笑みを浮かべた。
二年前、本宮の奥の間で震えるアユミの手を握ったミツアキは、自分だけが水盤に手を入れた。アユミの中にミツアキの魂名が浮かぶ。慌てるアユミに、彼は言った。
──焦らなくて良い。アユミがわたしと魂名を交換しても良いと思ったときに、また再びここに来よう。
驚くアユミの左手を取り、薬指に黒真珠の指輪をはめた。
──この指輪は、わたしの自己満足だ。これを見れば、アユミがわたしの妻だと感じられる。魂名を交換するまででも良いから身につけていてほしい。
あのときから、いや、結婚前からミツアキはアユミの心を守ってくれていた。だから、笑うことはできなくても、ここで二年間も穏やかに暮らしてこられた。
「それではこの指輪を──」
「それも返す必要はない。最初からアユミのものだ」
文箱から書状を取りだし、アユミに渡す。それを開いたアユミの目が見開かれた。




