一章 その参
最初に部屋に入って来たのは、菜の花色の振り袖に紫紺の袴を合わせた少女だった。どんぐり眼が可愛らしい少女の肩には、明るい薄緑色の小鳥が止まっていた。メジロのようにも見えるがそれにしては色が鮮やかで、腹の部分まで緑色をしていた。
少女は板の間に直接正座すると、三つ指をついて礼をした。
「サキと申します。これより現れまする男が大きな犬を操ってみせましょう。申し訳ありませんが、男は病で声を失っております。何かございましたら、ワタシにお尋ねくださいませ。──最後に一つだけ。ワタシどもの犬は少々狼の血が入っておりまして大型ですので、不用意にお近づきになりませぬようお願いいたします」
姿勢を正したサキの顔には、人好きのする笑みが浮かんでいた。狼と聞いて、側仕えの女たちがざわめく。開いたままだった扉に、皆の視線が集まった。
男が現れた。肉付きは良くないが、身長はそこそこあって姿勢が美しい。それだけを見ると青年のようだが、髪は見事に真っ白で老人のようにも思える。男は伏し目がちで、長い前髪と相まって人相は判らない。
女たちが短い悲鳴を上げる。男から少し遅れて入って来た犬は予想以上に大きかった。その体高は決して小柄ではない白髪の男の腰の辺りまである。生まれたての子馬くらいはありそうだ。
サキの隣に男が座った。土埃で薄汚れた黒い毛並みの犬は、まだ少し騒がしい側仕えたちの方を見やって低い声でうなっている。
「ご安心ください。一見、獰猛なこの犬を今から操ってみせましょう」
サキの声をきっかけに男は立ち上がり、ミツアキたちに体の側面を見せる位置に移動して、犬に突きつけた右手の人差し指の先を床に向けた。すると、うなっていた犬が途端に床に伏せた。そのまま男が宙に円を描くと、漆黒の犬はあっさりと腹を見せる。
辺りに驚嘆の声が上がる。犬にとって腹を見せるということは服従の証だという。狼の血が入っている野性味の強い犬を服従させるのは、簡単なことではないだろう。そのうえ、今までやって来た動物を操る芸人はその都度褒美の餌を与えていたが、この男の手には何も無かった。
「この男は声も餌も使わず、指先一つで獣を自由自在に動かします。お次は、四つ足の犬を二本足で歩かせてご覧にいれましょう」
男は再び人差し指を突きつけ、今度は天井に向けて指を動かす。また、小さく悲鳴が上がった。男の合図で犬が後ろ足で立ち上がると、頭の位置は男とそれ程変わらなかった。改めてその大きさに驚いていると、犬が男に向かってよたよたと歩き始めた。舌を出し、転ばないように重心を取っている姿は、しだいに笑いを生んでいく。
自分がいつの間にか笑っていたことに気付いたミツアキは隣の妻を見てみたが、相変わらず表情は変わっていなかった。しかし、心なしかいつもより熱心に芸を見ている気がする。
「そして、最後は鞠を使った芸で締めさせていただきます」
サキは袂から片手に乗るくらいの小降りの鞠を取り出し、犬に向かって投げた。ミツアキは最初、少女が投げる方向を間違えたのだと思った。だが、犬が見事にそれを口で受け止め、直ぐに顔を振って男に鞠を投げるのを見て思わず拍手をしていた。