二章 その漆
龍の社の敷地内にある、柳の木の根本でわたしはうずくまっていた。落ち合う時間を細かく決めていなかったせいで、今か今かと胸が張り裂けそうな思いで兄を待っている。
今日は満月で、明かりのほとんどない社でも周りの風景は何となく確認できた。遠くから祭りの賑わいが風に乗って届いてくる。
音に敏感になっているわたしの耳に、足音が聞こえてきた。息を潜め、体を小さく丸める。覚悟を決めて顔を上げると、待ち望んでいた人の輪郭が見えた。わたしは気付けばその人に向かって走り出していた。
「兄さん、来てくれたのね」
「アユミこそ、本当に良いんだな?」
わたしの記憶にあるより肉の削げ落ちてしまった兄の頬に驚く。この二ヶ月間の兄の苦労を思う。
「屋敷の周りを見てきたが、普段と変わらないと思う。夜店通りを突っ切るのが一番早い。アユミはこれを付けろ」
兄に渡されたのは狐のお面。こんなときだけれど、この歳でお面をつけるなんて、と笑ってしまう。兄は布を頭から被り、口元にも巻き付けていた。
「よし、行くか」
夜店通りに近付くと、この変装でも不自然ではないことを知った。大人たちのほとんどは酒に酔い、お面を付けてふざけている者も少なくない。ふんどしだけの男の人や、どうしてか頭に桶を被る女の人。誰もが周囲のことなんてお構いなしだった。
少しだけ余裕ができたわたしは、歩きながら夜店を眺めていた。子供の頃はお盆や秋のお祭りが待ち遠しかった。兄は小さな弓を使った的当てが好きで、当たった景品は全てわたしにくれた。金魚すくいも得意だったが、兄はすくった金魚を家に連れ帰ることは無かった。
──小さな金魚鉢に入れちゃ可哀想だ。
草原を馬で風を感じながら駆けるのが好きな兄らしい言葉だった。