二章 その陸
わたしの結婚が決まった三日後、家族全員で黒真珠卿の屋敷を訪れて両家の顔合わせをした。その後から兄は家に帰らなくなった。数日後、牧場を営んでいる兄の幼なじみから「うちにいるから、心配はしないで」と伝言が届いた。学問所にも通っていないようだったけれど、父たちはそのことについて何も言わなかった。
わたしは、黒真珠卿のお屋敷に通って行儀作法や貴族社会についての勉強をしていた。ご子息──ミツアキ様は、穏やかそうな人だった。貴族らしい驕ったところが一切無く、町に多くいる黒真珠に係わる仕事をしている人たちからもとても慕われている。
「慣れないことばかりだろうが、無理はしなくて良い。わたしも社交は苦手だから、児玉郷から出る機会も少ない。おいおい覚えていけば良いだろう」
国内の貴族の家名や歴史を教わっていたわたしに、そう言ってくれた。着物を仕立てるために反物を選んでいるときにも、派手で高価な物ばかり勧める奥方様の勢いに困っていたわたしに助け船を出してくれた。
「母上。娘ができるのが嬉しいのもわかりますが、彼女の好みも聞いてあげてください。母上なら彼女も気に入って、なおかつ家格に合うものをお選びになれるでしょう」
わたしが想像していたより、黒真珠卿の屋敷の方々は優しい人ばかりだった。 嫁いだとしても、何とかやっていけそうな気がし始めていた。けれど、継承式が近付くほどに心に靄が掛かっていくのも感じていた。
兄と会えないまま継承式は無事に終わり、新しく黒真珠卿になられたミツアキ様との結婚が発表された。町の人からも祝福され、結婚式は継承式からちょうど一月後に執り行われることが決まった。式の準備は屋敷の人たちの手で着々と進み、わたしは今まで通りに勉強や習い事の日々を送っていた。
結婚式の二日前の夜だった。前日から勉強は中断されて、家族との最後の時間を過ごしていた。就寝前に部屋の格子窓を開け、もう少しで完全に満ちる月を見上げていた。
「アユミちゃん」
外から小さく呼びかける声が聞こえてきた。目を凝らすと、兄が今身を寄せている幼なじみの姿があった。
「アユミちゃん、良く聞いて。ソウスケからの伝言だ。『アユミが望むなら、兄さんが遠いところに連れて行ってやる。式の前日の夜に龍の社で待っているから、良く考えて決めるんだ』と。今は返事は聞かないから、明日までに考えておいて」
兄の幼なじみは直ぐにいなくなった。震える手で顔を覆う。完全に離れてしまったと思っていた兄の手は、まだわたしと繋がっていた。両親たちに気付かれないように、声を殺して涙を流す。
「アユミ、入るわよ」
戸がゆっくりと引かれ、母と父が入って来た。慌てて涙を拭うと、母にその手を止められた。
「駄目よ。そんな風にしたら目が腫れてしまうわ。明日、ソウスケと会うんでしょ?」
「えっ? どうして……」
直接畳の上で胡座をかいた父が、困ったように笑いながら言った。
「五日ほど前にソウスケから手紙が来た。アユミを連れて行くと。わたしたちはおまえの味方にはなってやれなかったが、ソウスケは最初から諦めるつもりはなかったんだな」
兄からの手紙を見せてもらうと、隣国の秋津国への船を確保し、学問所で作った人脈を使って仕事も何とかできそうだ、と書かれていた。
「明日、おまえは祭りの様子を見に家を抜け出し、そこで人攫いに遭う。わたしたちは結婚式の当日の朝におまえがいないことに気付いて急いで探すと、海岸におまえの草履が落ちている」
「ソウスケが考えてくれたのよ。わたしたちが咎められないようにって。ソウスケは病にかかって療養のためにこの町を離れたことにしてあるの」
どんな手段をとっても、わたしがいなくなれば両親が全く咎められないということは無いだろう。それでも、父と母は晴れ晴れとした笑顔でわたしたちを送り出そうとしてくれている。
「本当は秋津国でも換金できる宝石や金を持たせてやりたいんだが、万が一のことを考えて何もするなとソウスケに言われていてね。苦労はすると思うが、いつか必ず会いに行くからそれまで二人で頑張ってくれ」
「そうよ。また会えるわ、わたしたち。家族だものね」
その日の夜、わたしは久しぶりに両親の間で眠った。それはとても深い眠りだった。