二章 その肆
十五歳になった。結局、三年前から学問所に通い始め、外国の言語と文化などを勉強している。息抜きは馬に乗ることで、親の仕事を本格的に手伝い始めた友人の牧場に時々通っていた。
十三歳のアユミは相変わらず友人が少ないらしく、いつもぼくの側にいる。
「アユミ、ちょっと出掛けるぞ」
応接間の花を生けていたアユミは、切り落とした茎や鋏を急いで片づけ始めた。「玄関の前で待ってるから、慌てるな」と声を掛けて、ぼくは先に外に出た。
「兄さん、お待たせしました」
最近ではほとんど洋服を着ることが無くなったアユミは、桜色の地に蝶の模様の長着を着ている。昔は危なっかしかった草履での足運びも、今ではすっかり慣れたものだ。
「どこまで行くの?」
「帰雁台までな。行ったことあるか?」
「近くまでなら」
「……上がったりしてないよな」
「まさか。わたし、高いところ苦手だもの」
帰雁台は海岸沿いにある断崖の名だ。海面との落差は三階建ての建物と同じくらいで、子供が度胸試しに飛び込んだりすることもあった。崖が垂直に切り立っていることや、海の深さ、波が穏やかなこともあって飛び込んでも怪我をすることはほとんど無いが、大人からは遊んではいけない場所だと言われていた。
二人で並んで歩いていても、手を繋ぐことは無い。いつからか、ぼくは手を差し出すことにためらいを感じるようになり、アユミの方もねだることをしなくなった。揺れる二人の手の間には、微妙な隙間があった。
気持ち程度に作られた柵の脇をすり抜けて帰雁台のてっぺんを目指す。坂道を歩き始めると、アユミの足が遅くなった。ぼくは空を見上げて息を一つ吐くと、左手を後ろに向かって伸ばした。一秒がいつもより長く感じた。
「ありがとう、兄さん」
左手に触れた体温は思っていたより低かった。ゆっくり握り締めると、その指の細さと手の甲の薄さに驚く。いつの間にぼくたちの手はこんなにも違っていたのだろうか。
坂道を上りきると、隣から驚きの声が上がった。予想以上の反応に、ぼくは内心ほっとする。
「これって白詰め草?」
「そうだ。すごいだろ、雪原みたいで」
「うん!」
アユミが駆け出した。ぼくは左の手のひらを見つめて握り込む。溶けない雪原に座り込んだアユミは、すでに花束を作り始めていた。
「帰雁台にこんな場所があるなんて知らなかった!」
「ここに来るのは、飛び込むのが目的の男ばかりだからな。花には見向きもしないんだ」
「兄さんはどうして知ってたの?」
「昔、ばあさまに連れてきてもらった。アユミ、知ってたか? あのばあさまは小さい頃はお転婆で、ここから飛び込んだこともあるんだってさ」
「嘘、信じられないわ……」
アユミが目を見開いて驚いている。五年前に亡くなったぼくの祖母は、いつも背筋が伸びていて、礼儀作法にうるさい人だった。けれど、感情的に声を荒らげたりはせず、叱るときにはきちんとその理由を話してくれた。ものの考え方も柔軟で、アユミが洋服を着ていることでからかわれると、次の日には自分もレイラさんの服を借りて外に出掛けてしまうような人だった。ぼくもアユミもそんな祖母のことが大好きだった。
ぼくは昔祖母に教わった物を作り始めた。久しぶりに作るせいで途中で何度もやり直す羽目になったが、アユミは花を摘むのに夢中で、ぼくのことを気にしてはいない。そのお陰でアユミに気付かれることなく完成させることができた。
「アユミ、ここに座ってくれ」
ぼくに呼ばれて戻ってきたアユミの手の中には、白詰め草の小さな花束ができあがっていた。どうやったのかは解らないが、器用にも花が鞠のように球状になってまとまっている。
「なに、どうしたの?」
ぼくは後ろに隠し持っていたそれを、アユミの首に駆けてやった。
「花の首飾り! 兄さんが作ってくれたの?」
「あぁ。ばあさまに昔教えてもらった。アユミにあげるよ」
「兄さん、ありがとう」
花の首飾りを、アユミは嬉しそうにずっと撫でている。柔らかそうな頬に、長いまつげが陰を作っていた。アユミの白い肌も、大きな目も、黒い髪も、出会った頃と変わっていない。変わったのは、きっとぼくの心だ。
「アユミ。今はそんな花飾りだけど、いつか本物の首飾りをやるからな」
「本当に? わたし、待ってる!」
ぼくの目を真っすぐ見つめながらほほ笑むアユミの頬をつまむと、指に付いていた土が移って、ぼくも思わず笑ってしまった。