一章 その拾弐
アユミが外出先にこの社を選ぶ理由を、側仕えの女たちは結婚式後の参拝を思い返すためだと思っているようだった。彼女たちの価値観では、黒真珠卿との結婚はどの女にとっても幸せなことであるらしい。
確かに、アユミが今考えているのは二年前のことだったが、彼女が心を飛ばしている先は、結婚式の前夜だった。
二年前のあの夜。黒真珠卿の屋敷の周辺では結婚を祝って祭りが開かれ、様々な夜店が出ていた。老若男女が祭りに繰り出し、酒を片手に食べ歩きを楽しむ。いつもは寝ている時間の子供たちも今日は特別で、金魚すくいや的当てではしゃぎ、林檎飴を頬張りながら次は何を食べようかときょろきょろと視線を巡らせていた。
その頃、アユミは祭りの喧噪から少し離れた場所にいた。家の裏口からこっそり抜け出し、暗い道を選んでやって来た龍の社の本宮の裏手にある、柳の木の根本でうずくまっていた。満月の明かりだけの薄闇の中で、いつ誰かに見つかるかと恐怖で鼓動は速まった。
どれくらい経っただろうか。遠くから足音が聞こえてきた。恐る恐る視線を上げると、アユミが待ち望んでいた人の姿が見えた。どんな闇の中でも、アユミがその人を見間違うことはない。アユミは幸せな気持ちで駆け出した。
「奥方様。日が傾いてまいりました。そろそろお屋敷に戻られませんか?」
側仕えの声でアユミが我に返ると、確かに空が赤くなり始めていた。手の中の茶はすっかり冷え、茶店の暖簾はすでに仕舞われていた。アユミがいたせいで店を閉められなかったようだ。
「長居をしてごめんなさい」
長椅子から立ち上がり、店の奥に声を掛けた。いつもより速めに歩いて階段に向かう。ふと、懐かしい声に呼ばれた気がしてアユミは立ち止まった。しかし、振り返ってもそこには誰もおらず、自嘲の笑みを口元に浮かべる。
「いるわけが無いのに、わたしは何をしてるのかしら」
思わず呟きがこぼれた。
「奥方様、何かおっしゃられましたか?」
「いいえ、何も」
護衛たちに囲まれながら、アユミはミツアキの待つ屋敷に帰って行った。