一章 その壱
猿回しの翁が悲しそうに背中を丸めて大広間を出ていった。彼の熟練の芸は見事なもので、相棒の猿の芸達者ぶりは場の空気を確かに明るくしていた。披露の場がここでなければ、割れるような笑い声の中で拍手が贈られて当然のものだった。
「次の者を通せ」
この屋敷の主である黒真珠卿の側近、テツヤの声が響く。
この一年、黒真珠卿の屋敷には様々な人間が訪れていた。旅芸人、浪曲師、踊り子に手妻師。彼らの来訪の目的はただ一つ。ある条件を満たせば与えられる、高額の報奨金だった。
今年二十五歳になった黒真珠卿──児玉ミツアキには、アユミという七歳年下の妻がいる。国内唯一の黒真珠の産出地である浜栗町に居を構えるミツアキは、黒真珠に係わる全ての権利を国から任された子爵だ。一方、アユミは浜栗町が属する児玉郷では名の知れた宝石商の娘だが平民であったため、二年前の結婚の際には地元の人間が大騒ぎした。
いわゆる『玉の輿』であったアユミは多少のやっかみはあったが、多くの人々に祝福されて児玉家へ嫁いだ。こんなに幸せな花嫁はいないと、周囲の人間は口々に言った。
それは、結婚後間もなくのこと。最初に異変に気が付いたのは夫のミツアキだった。アユミの顔から一切の表情が消えていたのだ。
食事や睡眠などに問題はなく、夫や周囲の人間との会話も普通にしている。喜びも、怒りも、悲しみも感じさせず、日々をただ淡々と過ごしていた。妻のそんな状態を憂いたミツアキは、ときには央竜まで赴いてアユミを多くの医師に診せたが、どんな名医にもその原因は判らなかった。
屋敷から進んで出ようとせず、数人の側仕え《そばづかえ》としか触れ合わないアユミにせめて笑顔だけでもと考えたミツアキは、芸人などを招くようになった。それでも、なかなかアユミは笑わず、悩んだミツアキは父である雲雀伯に頼み、彼が治める児玉郷中に「黒真珠卿の妻を笑わせた者には金の大判を三枚与える」と書かれた看板を立ててもらった。金の大判が三枚あれば、一家族が働かずに二年は生活できる。最初のうちは腕に覚えのある芸人たちが児玉郷の内外から黒真珠卿の屋敷に殺到した。しかし、誰一人としてアユミの表情を変えることはできず、今では月に数組しか屋敷に来なくなった。