愛人が作った浮気調査報告書
雨の日の夕方は、世界の境界線が曖昧になる。
雑居ビルの三階、擦りガラスに『道上調査事務所』と刻まれたドアの前で、狩野綾香は立ち止まった。傘から滴る雨滴が、静まり返った廊下のコンクリートを暗く染めていく。
綾香は革手袋を嵌めた指先で、ドアを軽く二回叩いた。
「どうぞ、お入りください」
返ってきたのは、鈴を転がすような、凛とした女性の声だった。
扉を開けると、柑橘系のアロマと、かすかな煙草の香りが混ざり合った独特の空気が鼻腔をくすぐった。白と木目を基調とした室内は、探偵事務所というよりは上質なカウンセリングルームの佇まいを見せている。
「狩野様ですね。お待ちしておりました」
奥のデスクから立ち上がったのは、仕立ての良いグレーのパンツスーツを纏った美女だった。黒髪をひとつに束ね、知性的な目元には細いフレームの眼鏡が光っている。道上愛子――この事務所の代表であり、今回綾香が調査を依頼した探偵だ。
「雨の中、お足元の悪いところをご足労いただき恐縮です。どうぞ、こちらへ」
勧められるまま、綾香は応接用の革製ソファに腰を下ろした。愛子は手際よく温かい紅茶を二杯淹れ、ローテーブルの上に並べる。湯気とともに、ベルガモットの爽やかな香りが立ち上った。
「お電話でお伝えしました通り、ご依頼いただいた件――ご夫君・狩野哲平様の行動調査、および不貞相手の特定調査がすべて完了いたしました」
愛子はデスクから厚みのある黒いレザーバインダーを持ち出し、テーブルの中央に置いた。
「こちらが最終報告書になります。写真、日時、移動ルート、すべて裁判で証拠として提出できるよう整理してございます」
「……ありがとうございます。本当に、迅速なお仕事ですこと」
綾香は膝の上で手を重ね、じっとバインダーを見つめた。その指先が微かに震えているのを、愛子の鋭い視線は見逃さなかった。愛子はプロらしい、同情を含んだ柔らかな微笑を浮かべる。
「お辛いでしょうが、ご確認いただけますか」
綾香は静かにバインダーを開いた。
一枚目には、夫である狩野哲平の顔写真と詳細な行動記録。何時に会社を出て、どのタクシーに乗り、どこの会員制バーへ入ったか。分単位のタイムスケジュールが几帳面な字で並んでいる。
「本当に……緻密なお仕事ですね。まるで、ずっと夫の真後ろを歩いていたみたい」
「尾行と張り込みは私の専門ですので。ご夫君は非常に警戒心が強く、移動は常にタクシー、待ち合わせも隠れ家的なお店ばかりでした。ですが、どんなに隠そうとしても、人は必ず隙を見せます」
「ええ。男の人って、自分だけはうまく騙せていると思い込む生きものですものね」
綾香はくすりと上品に笑った。しかし、その瞳の奥には冷ややかな光が宿っていた。
「次のページをおめくりください。核心の証拠になります」
カサリ、と紙が擦れる音が響く。
そこには、鮮明なカラー写真が何枚も挟まれていた。
高級ホテルの車寄せ。雨の街角で、一本の傘に入り肩を寄せる男女。
男は間違いなく、綾香の夫・狩野哲平だ。
そしてその腕に甘えるように身を寄せ、幸せそうに微笑む若い女。
暗所用の望遠レンズで捉えられた写真には、女の表情はもちろん、着ているニットの編み目までくっきりと写っていた。
「相手の女性の身元も判明しております」
愛子は淡々と解説を続けた。
「多田茉莉花(仮名)。27歳。ご夫君の取引先であるIT企業の契約社員です。交際期間は約半年。週に一度のペースで都内のマンション、あるいはホテルで密会を重ねていました」
綾香は写真を一枚一枚、愛おしむように指先で撫でた。
「素晴らしい写真ばかりね。……ねえ、道上さん。あなたから見て、この二人はどう見えるかしら?」
「どう、とおっしゃいますと?」
「本気の恋愛に見える? それとも、ただの行きずりの体だけの遊びかしら」
愛子は少しだけ間を置き、言葉を選びながら口を開いた。
「個人的な感情を差し挟むのは好ましくありませんが……写真を見る限り、ご夫君の熱量はかなり高いように見受けられます。彼女のために相当な散財もされているようですし」
「そうね。このバッグ、シャネルの新作だわ。私には『今年は業績が厳しいから』って、小さな花束ひとつで済ませたのに」
綾香の声には、傷ついた妻の悲哀というよりも、どこか客観的な鑑賞者のような響きがあった。
「ねえ、道上さん。あなたにお願いして、本当に正解だったわ。こんなに近くで、一番良い角度から彼らを見てくれたんですものね」
「恐縮です」
「だって、普通の探偵さんなら、こんな距離で写真は撮れないでしょう? まるで……そうね、相手の女性のすぐ目の前、呼吸が届くような場所から撮影したみたい」
愛子の眉が、ほんのミリ単位で動いた。
「高性能な機材を使用しておりますので。プロの技術とお考えください」
「そう。プロの技術ね」
綾香は静かにバインダーを閉じると、出された紅茶に手を伸ばした。一口含み、うっとりと息をつく。
「良い香り。アールグレイに、ほんの少しベルガモットのオイルを足しているでしょう。……これ、私の夫の好みなの」
愛子の手が、ピタリと止まった。
「……ご夫君の?」
「ええ。彼、家で紅茶を飲むときは、必ずこのブランドのこの茶葉を指定するのよ。だから、今この部屋に入った瞬間、なんだか自宅にいるような懐かしい気がしてしまったわ」
「……偶然ですね。私もこの茶葉が好きで、事務所ではいつもこれをお出ししているんです」
「偶然。そうね、世の中には奇妙な偶然がたくさんあるものね」
綾香は微笑みながら、バッグの中から小さな革製の化粧ポーチを取り出した。中からリップクリームを出し、唇に薄く塗る。
「たとえば、私の夫が最近つけるようになった男性用のトワレ。ベースノートにサンダルウッドが香る、ちょっと癖のある海外製のものなんだけど……なぜかしらね。先ほどから、このお部屋のソファからも、同じ香りがほのかに漂ってくるのよ」
室内の空気の密度が、目に見えて変わった。
雨が窓ガラスを叩く音が、やけに鼓膜に刺さる。
愛子は静かな表情を崩さないまま、眼鏡のブリッジを指先で押し上げた。
「狩野様。お気持ちは分かります。配偶者の不貞を知り、精神的に過敏になられるのは当然のことです。ですが、茶葉や香水の好みなどは、ありふれた共通点に過ぎません」
「ええ、分かっているわ。ただの思い過ごしよ」
綾香はパチンと音を立ててポーチを閉じた。
「でもね、道上さん。この写真の女性――多田茉莉花さん。彼女の着ているこの白いニット」
綾香は再びバインダーを開き、写真を指差した。
「首元に、小さな銀色のブローチがついているでしょう。三日月をモチーフにした、少し変わったデザインの」
「……ええ。写っておりますね」
「これね、先月、夫のスーツのポケットから見つけたレシートに書いてあったブランドのものなの。限定品で、日本に十個しか輸入されていないんですって。彼ったら『妹の結婚祝いに買った』なんて下手な嘘をついていたけれど」
綾香はゆっくりと顔を上げた。
その視線は、写真ではなく、向かいに座る愛子の胸元へと向けられた。
愛子のグレーのジャケットの隙間。ブラウスの襟元には、何もついていない。
しかし、ジャケットの左ポケットのあたりが、ごく微かに膨らんでいた。
「……今日、ここへ伺う前に、私、ふと思ったの」
綾香の声は、まるで子守唄のように優しかった。
「夫はなぜ、あれほど用心深いのに、この探偵事務所の存在を私に知らせるようなヘマをしたのかしらって」
愛子の瞳が、微かに細められた。
「ご夫君が……当事務所を?」
「ええ。夫のパソコンの閲覧履歴に残っていたのよ。『道上調査事務所』のホームページがね。浮気をしている男が、自分を調べるかもしれない探偵事務所のページを調べるなんて、おかしいと思わない?」
綾香は両手をテーブルの上で組み、身を乗り出した。
「最初はね、彼が私を調べるために探偵を探していたのかと思ったの。私が彼の浮気に気づいているか探るためにね。でも、違ったわ」
「……どういう意味でしょうか」
「彼は、あなたに会いに行っていたのよ。探偵としてのあなたにではなく……『愛人としてのあなた』にね」
一瞬、室内の時が止まった。
愛子はピクリとも動かず、ただじっと綾香を見つめていた。その表情からは、先ほどまでの「丁寧な探偵」の仮面が、少しずつ剥がれ落ちていくようだった。
「おっしゃっている意味が、よく分かりかねますが」
「とぼけなくてもいいのよ、道上愛子さん。……いえ、多田茉莉花さん」
綾香はバッグの奥から、もう封の切られた、大きめの茶封筒を取り出した。
それを、先ほどの黒いバインダーの隣に静かに置く。
「これはね、私が『本物の』探偵事務所に依頼して作ってもらった報告書よ
愛子の視線が、茶封筒へと落とされた。
「あなたが一人で営んでいるこの事務所。実態はほとんど開店休業状態の個人事務所ね。そして、あなたの本名は多田茉莉花。道上愛子というのは、探偵業の届出を出すために使っている通称、あるいは母親の旧姓かしら」
綾香は封筒から数枚の書類と写真を引っ張り出した。
「あなたが私の夫と出会ったのは、一年前の異業種交流会。それからすぐに深い関係になった。でも、報告書で交際期間を『約半年』なんて誤魔化して提出するくらい、あなたはただの愛人で終わる気はなかったのよね。彼に『妻と別れて自分と結婚してほしい』と迫った。けれど、彼はのらりくらりと逃げ続けた」
綾香の言葉が重なるたびに、愛子の背筋が徐々に硬くなっていく。
「だからあなたは考えたのね。彼を追い詰める方法を。……自分自身で『浮気調査の報告書』を作り、それを依頼人である私に叩きつけて、夫婦関係を破綻させようと」
「……」
「でも、普通に報告書を私に送りつけても、夫が『捏造だ』と言い逃れするかもしれない。だからあなたは、私に直接アプローチしたのよ。夫のパソコンに自分の事務所の履歴をさりげなく残し、私がそれを見て『この探偵に調査を依頼する』ように誘導した」
綾香はくすくすと可愛らしく笑った。
「見事なシナリオだわ。私があなたに調査を依頼すれば、あなたは合法的に、完璧な証拠写真を私に手渡すことができる。私がそれを使って夫に離婚を突きつければ、あなたは労せずして『夫の妻』の座を手に入れられる……そうでしょう?」
沈黙が、重く部屋を支配した。
雨音だけが、シャワーのように背景で鳴り続けている。
やがて、愛子は深く息を吐き出した。
眼鏡を外し、ローテーブルの上にカタリと置く。その素顔は、先ほどまでの知的な探偵のそれではなく、写真に写っていた、冷たく研ぎ澄まされた若い女の顔だった。
「……いつから、気づいていたんですか」
声が一段低くなり、プロらしい敬語が消えた。
「最初からよ」
綾香は即答した。
「あなたが夫のパソコンに履歴を残した段階で、私はその意図に気づいていたわ。だって、あんなに慎重な人が、履歴を消し忘れるはずがないもの。意図的に残された痕跡だって、すぐに分かったわ」
「気づいていて……わざわざ私の依頼を受けたの? 私の作ったシナリオに乗って、ここに来たっていうの?」
「ええ。だって、面白そうじゃない」
綾香は嬉しそうに目を細めた。
「『夫の愛人が、探偵のふりをして妻に浮気の報告書を手渡す』なんて、まるで上質なサスペンスドラマみたいだわ。どんな顔をして私に写真を差し出すのか、一度直接見てみたかったのよ」
愛子の顔から、急速に血の気が引いていく。
彼女は目の前に座る女――おとなしく、世間知らずで、夫の浮気に気づいても泣き寝入りするだけだと思っていた「狩野綾香」という存在の不気味さに、今更ながら恐怖を覚え始めていた。
「……だったら、どうするつもり?」
愛子は低く掠れた声で言った。肘をテーブルにつき、綾香を睨みつけた。
「私を責める? それとも、狩野哲平さんを問い詰めて離婚するの? どっちにしろ、私の思い通りにはならない。あなたが狩野哲平さんを捨てたら、彼は私のところに来るわ」
「そうかしら?」
綾香は優雅に首を傾げた。
「あなた、彼のこと、何も分かっていないのね」
「なんですって?」
「狩野哲平という男はね、世間体と自分の保身が何よりも大切な人なのよ。自分が悪者になることを極端に恐れるの。もし、あなたがこんな裏工作をして私に離婚を迫らせようとしたと知ったら……彼はあなたをどう思うかしら?」
愛子の表情が凍りついた。
「『恐ろしい女だ』『ハメられた』と思って、あなたを徹底的に拒絶するでしょうね。彼はね、自分を脅かす存在を一番嫌うのよ。あなたが可愛らしく甘えている間だけ、彼はあなたを愛していたの」
「嘘よ……狩野哲平さんは、私を愛してるわ! あなたとの生活は退屈だって、いつも言ってた!」
「あら、男の『妻とうまくいっていない』なんて言葉を真に受けていたの?可愛いこと」
綾香の言葉は、ナイフのように正確に愛子の心臓を抉った。
「彼はね、私の実家の援助がなければ、今の会社で出世コースに乗ることもできなかったのよ。私の父が役員を務める取引先とのパイプを失ってまで、あなたを選ぶと思う?」
「……っ」
愛子は絶句した。拳を強く握りしめ、爪が手に食い込むほどだった。
「さて」
綾香は立ち上がり、コートの襟を整えた。
「本来なら、ここであなたに慰謝料の請求書を叩きつけるのが筋なのでしょうけれど……それはやめておくわ」
愛子は弾かれたように顔を上げた。
「……どういうこと?」
「私、あなたに感謝しているのよ」
綾香は微笑んだ。その笑みは、聖母のようでもあり、悪魔のようでもあった。
「退屈だった私の毎日に、こんなに極上のエンターテインメントを提供してくれたんですもの。それに……この報告書」
綾香は愛子が作った黒いバインダーを指差した。
「本当に素晴らしい出来だわ。写真の構図も、日時の記録も完璧。これなら裁判でも一言の申し開きもできないわね。私が自分で探偵を雇う手間も浮いたわ」
「あなた……最初から、これを手に入れるために……?」
「ええ。あなたが一生懸命作ってくれた『完璧な証拠』。ありがたく使わせていただくわね」
綾香は黒いバインダーを自分のバッグへと収めた。
「これから私は家に戻って、この報告書をテーブルの上に置いておくわ。探偵事務所の領収書と一緒にね。そして、狩野哲平が帰ってきたら、こう言うの。『あなたの愛人さんから、これをいただいたわ』って」
「やめて……!」
愛子が悲鳴のような声をあげ、立ち上がろうとした。
しかし、綾香の冷たい一瞥を受けて、その場に縛り付けられたように動けなくなった。
「彼、どんな顔をするかしらね。自分を裏切ったのが、愛していたはずのあなただと知ったときの顔……想像するだけで、ぞくぞくするわ」
綾香は優しく愛子の肩に手を置いた。その手は、氷のように冷たかった。
「大丈夫よ、多田茉莉花さん。あなたの望み通り、私は彼と離婚してあげる。でもね……彼は二度と、あなたの前には現れないわ。私と離婚したあと、彼は実家からの信用も、会社での立場も失って、逃げるように地方へ転勤することになるでしょうから」
「そんな……そんなの……」
「あなたが望んだんでしょう? 私から彼を奪うことを」
綾香はそっと手を離し、ドアに向かって歩き出した。
ドアノブに手をかけ、振り返る。
「あ、そうそう。この紅茶」
綾香はローテーブルの上のカップを指差した。
「ベルガモットの香りが強すぎて、苦味が残るわね。……彼の好みは、もう少し抽出時間を短くした、繊細な香りなの。今度彼に淹れてあげるときは、気をつけたほうがいいわよ。――二度と、そんな機会はないでしょうけれど」
カチャン、と静かなドアの閉まる音が響いた。
あとに残されたのは、降りしきる雨の音と、ぬるくなった二つの紅茶だけだった。
愛子は力なくソファに崩れ落ち、テーブルの上の眼鏡を見つめたまま、一言も発することができなかった。
(完)




