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作者: EsperMoyashi
掲載日:2026/05/29

 酷く喉が渇いて目が覚めた。

 エアコンはオートオフ機能に従って、既に仕事を放棄していた。部屋の空気は生温く、髪が汗ばんだ肌にじっとりとまとわりつく。

 起き上がると同時に、頭の奥をノックするような鈍い痛みが走った。深酒の影響だ。肺を動かすたびに、自らの酒気を帯びた息が鼻腔に返ってきて、ひどく気持ち悪い。

 電気を点けるのも煩わしく、手探りで洗面所に向かい、念入りに歯を磨く。口を濯ぎ、そのまま蛇口から直接水を喉に流し込む。けれど、配管を通って生温くなった水では物足りない。この不快感を一撃で塗りつぶしてくれるような、暴力的な冷たさが欲しかった。

「……アイスでも齧ろう」

 そう呟いて冷蔵庫の冷凍室を漁る。しかし、引き出しの底には霜がついているだけで、目当てのものは影も形もなかった。

 おかしい。この前、確かに箱入りのアイスキャンディーを買ったはずなのに。

 怪訝に思いながら振り返ると、ふと机の上が目に入った。結露によってふやけ、不細工になったキャッチ―な色合いの未開封の箱が無造作に置かれていた。祈るような気持ちで箱を開く。取り出したプラスチックの個包装の中では、液体の中を木の棒が虚しく浮かんでいた。酔っ払った頭で、冷凍室から取り出したまま放置したらしい。

「最悪」

 舌打ちが漏れる。だが、そのまま捨てるのも何故だか酷く惜しい気がして、私は苛立ち紛れに、濡れた箱の中をそのまま冷凍室の棚へと押し込んだ。冷やせばまた、シャーベットくらいにはなるかもしれないという、貧乏臭い計算だった。

 スマートフォンと、数枚の硬貨を入れた小銭入れを部屋着のポケットに押し込み、玄関の鍵を開ける。

 外へ出ると、期待したほどの涼やかさはなかった。それでも、部屋の澱んだ空気に比べれば、深夜の匂いは幾分か清涼で、火照った身体には心地よかった。

 街は酷く静まり返っている。文字通り、虫の音一つ聞こえない。スマホの画面をタップすると、液晶の光が【02:30】という数字を無機質に浮かび上がらせた。

 ふと空を見上げると、雲の切れ間に、こちらを嘲笑うかのようなニンマリとした形の三日月が浮かんでいた。

 サンダルをペタペタと鳴らしながら、アスファルトの上を歩く。目指すのは、徒歩数分の距離にある馴染みのコンビニだ。

 やがて、いつも通りの青白い蛍光灯の光が見えてきた。

 ほっと息を吐き、正面の自動ドアの前に立つ。

 ――だが、開かない。

 センサーに無視されたのかと思い、その場で何度か足踏みをしてみる。それでも、ガラスの扉は微動だにしなかった。

 不審に思ってガラスに顔を近づけ、店内の様子を窺う。

 誰もいない。カウンターの奥にも、通路の隙間にも、人の気配が完全に欠落していた。それどころか、棚に並ぶおにぎりや弁当の色彩が、まるでモノクロームになったかのように薄暗い。

 おかしいな、明かりはついているし、ここのコンビニは二十四時間営業のはずなのに。

 右往左往しながら、ガラスの横にある手動のレバーを探そうとした、その時だった。

「ああ、ダメダメ。人いないもん。開かないよ。閉店中みたい」

 突然、背後の闇から声が掛けられた。

 心臓が跳ね上がる。叫び出しそうになる喉を、私は手のひらで力任せに押さえつけた。

 冷や汗が背中を伝うのを感じながら、おそるおそる振り返る。

 そこに、一人の少女が立っていた。

 年齢は、高校生くらいだろうか。もしかしたら中学生かもしれない。

 お世辞にも手入れされているとは言えない、毛先が不揃いに跳ねた黒髪。サイズの合っていない大きめのTシャツは首元がヨレていて、細い鎖骨が覗いている。

 何より印象的だったのは、その目だ。大泣きして乱暴に目を擦ったのだろう。目の周りは腫れぼったく赤くなっているのが、コンビニから漏れる明かりだけでも見て取れた。それなのに、その薄い唇だけは、私を値踏みするような、どこか不敵で生意気な笑みの形を強固に保ち続けていた。

「……閉店?」

 私はようやく、それだけの言葉を絞り出し、自分の浅はかさにイラついた。こんな時間を、よれよれの服装でうろつく未成年の少女。それだけで碌な事情を抱えていないことは明らかだ。私に声をかけてきたのも、今夜の宿か、もしくは小銭を求めてのことかもしれない。

 率直に関わってはいけないと思った。

 ただでさえ深酒の影響で頭痛がひどいのだ。万が一にも今ここで巡回中の警察官にでも通りかかられ、職務質問でもされたら面倒極まりない。

 少女と目を合わさないように背を向け、元来た道を戻ろうとサンダルを鳴らす。

「あれれ、どこに行くの?」

 背後から、年齢にそぐわない幼さの混じった声が追いかけてくる。

「帰るんだよ。コンビニ、開いてないんでしょ?」

 関わりの意思がないことを、拒絶を込めて短く返す。

「帰るって、どこに?」

 少女の問いに、私は鼻で笑いそうになった。どこに帰るかなど、家に決まっている。そう言いかけて、私は不意に言葉を飲み込んだ。少女を無視して足を進めたわけではない。足は既に止まっていた。

 帰り道が、ない。

 来た道がなくなってしまったわけでない。アスファルトは確かに夜闇の先へと伸びている。点在する頼りない街灯も道を照らしている。けれど、その街並みは、私の知っているアパートへの帰り道とは似ても似つかないものだった。

 見たこともない古い看板、見覚えのない生垣、知らない街路樹。しかし、奇妙なことに、私はこの道を「知っている」という強烈な確信だけが、脳の奥にべっとりとこびり付いて剥がれない。既視感とはまた正反対の、「知らない」という違和感。世界から自分だけが隔絶してしまったのではないかという、悍ましい疎外感が這い上がってくる。

 アルコールがまだ残っているせいだ、と自分に言い聞かせる。昼と夜で街並みの印象が異なることを意識しすぎているだけだ。歩いているうちに、そのうち記憶の辻褄が合って、いつもの見慣れた自販機の角に出るはずだ。それに、ポケットの中にはスマートフォンもある。いざとなれば文明の利器、地図アプリに頼ればいい。

 私は逃げるようにスマホを取り出し、ロックを解除した。

 液晶の光が、網膜をチクリと刺す。画面に表示されたのは、現在地を示す青いドットだけだった。背景にあるはずの地図データは、何一つ読み込まれていない。グリッド線だけが引かれた真っ白な画面のセンターで、青い丸が、まるで底なしのプールに取り残されたように虚しく点滅しているだけだった。

「ねえ」

 いつの間にか、少女が私のすぐ隣に立っていた。

 覗き込んできた彼女の口元は私の焦りをすべて見透かしているかのように不敵に歪んでいる。

「だから言ったじゃん。人、いないんだってば」

 少女は、私が握るスマホの真っ白な画面を指差して、くすくすと笑った。

「は、なに?アンタ、何か知ってるの」

 思わず上ずった声が出てしまう。混乱と緊張が、私の喉を締め上げていく。

「私はなんにも知らないよ。それどころか、私も迷子なの。せっかく人に会えたと思ったのに……。お揃いだね」

 少女はそう言って、にこやかに笑った。

 その屈託のない、何かを見透かしたような笑顔に対して、内側からせり上がってくる感情が漏れそうになる。それを奥歯を噛み締めて必死に堪える。

 落ち着け、と自分に言い聞かせる。相手は子どもで、自分は大人だ。ここで年端もない少女を怒鳴りつけて何になるというのだろう。それは大人のすることではない。

 息を静かに吐き、もう一度深く吸い込むと、アルコールの残滓が脳を刺激してずきりと痛んだ。この痛覚だけが、今この場所における唯一の生々しい現実だった。

「あーあ、それにしても喉乾いちゃった」

 少女は唐突にそう言うなり、開かないはずの自動ドアの隙間に小さな指を突っ込んだ。そのまま、細い腕にぐっと力を込めて、横方向へ無理やり引き始め、隙間を作ろうとする。

金属が擦れ合う、嫌な摩擦音が夜の静寂を震わせる。

「ちょっとアンタ、何してんの?」

「何って、ドアを開けようとしてるんだよ。見れば分かるでしょ」

 少女は顔を真っ赤にして踏ん張りながら、平然と言い返す。

「見てわかるから止めてんの。常識で考えなさいな。普通に犯罪でしょ」

「犯罪って、この状況が常識の範疇だとまだ思ってるの?」

 少女は手を止め、呆れたように私を振り返った。こちらをからかうような、試すような眼差しに言葉が詰まる。

「都会は整備された砂漠みたいなものよ。このままじゃ干からびちゃう。ルールを守って死ぬの?」

 反論の言葉を探そうとした、その時だった。

 パキリ、とプラスチックが割れるような乾いた音が、少女の指がかかった自動ドアから響いた。自動ドアから透けて見えていたコンビニの風景が、まるで液晶画面に映った映像だったかのように、激しくぶれ始める。何かが切れる様な、スイッチの落ちる短音が響くと同時に、自動ドアのガラスがコンビニの風景と共に音もなくスライドする。

「は──」

 その先にあったのは生温い夜風を乱暴に上塗りする白昼の光景。肌を焦がすような強烈な熱線と、生臭い、塩の匂いがコンビニの中から吹き込んでくる。

 品物が並ぶ手狭な空間はそこにはなく、どこまでも、どこまでも続く、青すぎて眩暈がするような真昼の海。そしてその海岸線に沿って、終わりの見えない一本の線路が、ただ陽炎の中に消えていくように伸びていた。その床は目の粗い白い砂浜へと変わっている。

「砂漠の次は、海。ほんと最悪。喉渇いてるのに」

 嘘か真かも分からない陽光の下に足を踏み出した少女が振り返り、眩しそうに目を細める。少女のヨレヨレのシャツは強い海風にバタバタと激しく煽られている。彼女は水平線の彼方を見渡すように、誰もいない真昼の世界でくるりと回り、ふてぶてしく笑う。

「はやくおいでなさいな。そんな所にいても何も変わりはしないよ」



「あ、自販機!」

 そう言うなり、少女は光の中を駆け出した。夜闇に慣れた目に、真っ白な太陽を反射した海のきらめきが容赦なく突き刺さってクラクラするが、立ち尽くしているわけにもいかない。ここで立ち尽くしていても何も変わらないという言葉は、きっと正しい。

 足に絡まるような逡巡を振り払うように、眩む視界の中へと足を踏み入れると、簡素な機械音と金属質な容器のなかに重みのあるものが落ちる音が響いた。

 音の先では少女が缶を傾けて、中身を一気に呷っている。眉間にしわを寄せながら、幸せそうに缶から薄い唇を離して震えるように叫ぶ。

「ふあー、生き返ったあ。このために生きてる!」

 ゴクリと喉が鳴った。喉はずっとカラカラだった。私も何か買おうと思いながら、眩み揺れる視界に耐えながら歩みを進める。ようやくの思いで自販機と少女の近くにたどり着くと、再びガコンと音が響いた。少女は早くも2本目に手を出したらしい。

「はい」

 そう言うなり、少女は冷たい缶を差し出してきた。

「あなた、顔色最悪だよ。奢るからさ、これでも飲んで落ち着きなって。ちょうどここは日陰になってるしさ」

「……ありがと」

 気を使ってくれているのだろう。これではどちらが大人なのか分かったものではない。涼やかなデザインのアルミ缶は冷たく、そのツヤツヤした表面は既に結露した水滴によって覆われている。

 気がつくとプルタブを引き、一気に飲み下していた。

 ひんやりとした甘い炭酸が口の中で弾け、頭には心地よい痛みが走り、盛大にむせた。

「あはは、あわてて飲むからだよ!」

 少女の笑い声に呼応するように、ざあっと風が吹いた。

 白い砂浜の向こう側からは、ざあざあと波の音がした。

 先程までは気にしなかった音が急に耳の奥に届き、視界が開ける。

 丁度いい日陰は、木造の古い、見たこともない小さな駅舎だった。

 深く、息を吐き出す。それから、大きく吸い込む。

 自分の心臓が、いつもよりも煩く肋骨の奥を叩いている。息が苦しい。けれどそれは、今ここで急に体調が悪くなったのではない。

 はじめから、悪かったのだ。 冷たい炭酸が胃に落ちて、ひっくり返って駄々をこねていた三半規管が、少しずつ、体と心をあるべき場所へと落ち着かせていくのが分かった。

 どれくらい、そうして目を閉じていただろう。 30分くらいのように感じられるが、実際は、5分程度のものかもしれない。その証拠に、日陰の駅舎の外、遠くから海にはしゃぐ声がまだ途切れずに聞こえていた。

「うわー、砂浜白い。空青い。めちゃんこ暑い!」

 目を開けると、少女はすでに自販機の置かれた日陰を飛び出し、白く灼けた砂浜の境界線へと駆け出していた。ヨレヨレのTシャツの裾をはためかせ、遮るもののない太陽の光を全身に浴びている。 彼女の足元、白い砂の上には、彼女のポケットに入っていただろうキーケースや、時代遅れの折り畳み携帯が、まるで最初からそこに落ちていたかのように散らばって、陽を弾いていた。

 少女は波打ち際の手前でぴたりと足を止め、海風に向かって両手を大きく広げた。 その背中は、根拠のない万能感に満ち溢れた、獰猛なまでの純粋さそのものだった。

「ねえ! 早く来なよ!」

 眩しそうに手を振る少女から目を逸らし、私は手元に残された空のアルミ缶をじっと見つめた。結露はすでに、真昼の熱に押されて乾き始めている。

「アンタは元気だねえ」

 私は日陰から一歩も動かないまま、呆れを隠さずに声をかける。

「あなたが元気じゃないだけでしょ。うんうん、少しはマトモな顔色になったじゃん」

 そう言ってこちらの顔を覗き込む少女は、天真爛漫というふうに笑っている。かと思えば、ぱっと私の前から離れて二歩下がり、まるで舞台の上の役者のように、くるりとその場で一回転してみせた。

「凄いね! 海だよ! さっきまで暗いコンクリートな砂漠にいたってのにさ!」

 さっきまで「最悪」なんて悪態をついていた口から飛び出す、 あまりにも正反対の言葉。その現金さに、思わずため息混じりの言葉が口を突いて出た。

「それで、どうするの? コンビニ、なくなってるけど。まさか泳ぐとか言わないよね」

「そうしたいのは山々なんだけどねえ」

 少女は人差し指をチッチッチと振ってみせる。

「水着ないし、シャワーもない。このまま泳いだらベトベトになって、潮焼けどころか塩漬けになっちゃうよねえ。ここは、がまん!」

 我慢、と言いながら、その顔にはちっとも悔しそうな色はなかった。ただ、この不条理な状況そのものを、新しいキャンバスを手に入れた子どものように面白がっている。

「じゃあ、大人しく日陰に戻ってきたら。日射病になるよ」

「やだ。せっかく人目がないんだもん。これはもう、年甲斐もなくはしゃぐしかないでしょ。あっち、探検しにいこうよ」

 少女が指差したのは、駅舎のすぐ脇から、海岸線に沿ってどこまでも真っ直ぐに伸びている一本の線路。

 そのレールはそこから先、世界の果てまで延々と続くようにすら思わせるほどに、長く、長く伸びている。 その行く先は陽炎でゆらゆらと歪んでいて、どこまで続いているのか、どこで終わるのか、目視で確認することはできない。分かるのは途方もない先があるという事実だけ。

 逃げ場のない、果てしない自由。

 それなのに、レールの上しか歩くことを許されていないような、奇妙な閉塞感。

 その線路を見つめた瞬間、私の胸の奥に、炭酸では癒えきらなかった別の「渇き」のような不安が、じわりと広がっていくのを感じた。このレールの先には一体何が待ち受けているのだろう。本当にこの道は正しいのだろうか――。

「ほら、おいてっちゃうよ!」

 私の思考の沼を切り裂くように、少女がレールの手前で声を張り上げる。彼女は、錆びた線路の上に危なっかしい足取りで片足を乗せ、両腕でバランスを取りながら、早くも歩き出そうとしていた。

 振り返ると線路は一方通行だった。 この駅は終点であり、同時に始発点だった。

 車止めのある場所でぷつりと途切れたレールは、もう何年も列車が通っていないことを無言で主張している。手入れが放棄されているのか、あるいは、手入れがされている上で尚、防ぎようのない苛烈な年月の沈着なのか、今の私には窺い知ることはできない。しかし、そのレールは一目見て分かるほどに傷み、赤黒い錆に覆われていた。

 その傷だらけの鉄の上を、少女が歩む。 自販機から追加で購入したスポーツドリンクのペットボトルを片手に、まるで学校の校庭にある平均台の上で遊ぶ幼子のような所作で、悠々とバランスを取りながら進んでいく。

「何してるのー。そこで干物として生涯を終えるつもり?」

 振り返りもせず、少女が陽炎の向こうから声を張り上げた。

 ふざけるな、誰が干物だ。 私だって、ピチピチの若者だ。心の中でそう毒づきながら、私もようやく重い腰を上げて、日陰の駅舎から一歩を踏み出した。

「はいはい、今行きますよ。それより、転ぶんじゃないよ?」

 白く灼けた砂利を踏みしめながら、少女の背中を追いかける。容赦なく降り注ぐ太陽の光が、私の頭頂部をジリジリと焦がしていく。それでも、冷たい炭酸のおかげか、先ほどのような世界に拒絶されるような目眩はなかった。

 私も真似をして、錆びたレールの片側にサンダルを乗せてみる。 細い鉄の感触が、足の裏を通してダイレクトに伝わってきた。一歩、足を踏み出そうとするが、思いのほかバランスを取るのが難しい。意識がどうしても足元に集中し、視界が狭くなる。

「ねえ、見てよこれ」

 三歩進んだところで、前を行く少女がペットボトルを掲げて言った。

「この錆び、近くで見るとさ、ただの赤じゃないんだよ。オレンジとか、ちょっと茶色っぽい紫とか、いろんな色が混ざってて、なんか……すっごいきれいじゃない?」

 少女はレールの上で器用にしゃがみ込み、傷ついた鉄の表面を指先でそっとなぞった。その指先が赤茶色に汚れるのも、まるで気にしていない。

 少女のその視線――世界の何気ないディテールに価値を見出し、言葉にならない色を貪欲に観察しようとするその目の輝きに、私は覚えがあった。

「ほら、あなたも触ってみなよ。なんだか朝焼けみたいになっちゃった」

 少女は不敵に笑いながら、赤茶色に染まった指先を私に向けて突き出してきた。



 会話は直ぐに途切れた。

 共通の話題などあるはずもない。世代も、生きている環境も、きっと何もかもが違っていた。 だから、あの口数の多い少女が口を閉ざせば、この世界の会話は直ぐに無くなった。

 ジリジリと頭の頂点を太陽に焼かれながら、私たちは黙々と線路に沿って歩いた。

どれほど歩いただろう。要所要所に、ぽつり、ぽつりと現れる無人駅で休憩を挟みながら、私たちは代わり映えのない風景の中を進み続けた。

 その過程で、いくつか奇妙なことに気がつき、気がつけば、それを当然のルールとして受け入れている自分がいた。

 喉は激しく渇くのに、不思議と空腹が訪れる気配が一向にないこと。

 頭上の太陽が、さっきから一ミリもその位置を変えようとしないこと。

 そして、どの駅の看板も文字が掠れていてまるで読めないが、掠れ方のパターンがそれぞれ異なり、確かに「それぞれが独立した名前を持っている」ということ。

「飽きました」

 四つ目か、五つ目かの無人駅のベンチで、少女はむくれた表情をしてそう言った。

「頑張って歩いたので、ご褒美を所望します」

「はいどうぞ」

 私が言って手渡したのは、サイダーの青いアルミ缶だった。もう何本目かも分からないサイダーだ。

 この世界の駅にある自販機は、どれも品揃えが完全に同じだった。この、強めの炭酸と少し尖った甘さのあるサイダーは、数少ない選択肢における一番のお気に入りと言ってよかった。けれど、どの駅に降り立っても必ずそこに冷えて佇んでいるために、ここにはもう、希少性なんてものは微塵も存在しなかった。いつでも、どこでも手に入る、ありふれた正解。

 私は小銭入れから、気がつけばなぜか補充されているコインを自販機に投入し、自分の分の新たなサイダーを取り出した。プルタブを引き抜く音だけが、無人駅のホームに虚しく響く。

「飽きたー!! サイダーも飽きたー!!」

 少女はベンチの上で足をバタつかせ、手渡した缶を睨みつけながら声を張り上げた。

「贅沢言わないの。冷たいだけありがたいと思いなさいな。これ、美味しいでしょ」

「味は美味しいよ! でも、どこに行ってもこれしかないなんて、そんなの、ただの義務じゃん! もっとこう、違うやつ! 変わったやつが飲みたいの!」

 少女はペットボトルの水を頭から少し被りながら、濡れた髪を振り乱して抗議してくる。

 私は手元のサイダーを一口含み、その喉を刺すような炭酸の刺激を味わいながら、少女の横顔をじっと見つめた。

 どこに行っても同じ、ありふれた正解。それに飽き飽きして、もっと違うものを、自分だけの特別な色を求めて叫んでいる子供。それは、ほとんどの人が手に入らないから、希少だからこそ特別なのだ。

「あ、そうだ!」

 少女は突如として、何かのバグを発見したかのような声を叫んだ。

 この短くも長い期間で理解した。こういう時の彼女はたいてい碌でもないことを考えている。私は関わりを拒絶するように、手元のサイダーの青い缶を見つめ、気が付かないふりを決め込むことにした。だが、直ぐに後悔した。

 少し離れたところに位置する自販機から、ガコン、ガコンと、重苦しい音が二回続けて響く。嫌な予感に振り返ると、少女はまるでお手玉でもするように、二つの小さめの缶を交互に空中へ放り投げ、弄びながらこちらに近寄ってくるところだった。そう、お手玉でもするように。まるで、ひどく熱いものを素手で掴んでしまったかのような、危なっかしい所作で寄ってくる。

 それは、私たちがこれまでの無人駅で、唯一買わなかったものだった。

 不親切な品揃えの自販機の隅、誰が買うんだと二人で指をさし、「こんなの買うわけないよねー」と笑い合った商品。

――おでん缶だった。

 ぱきょっ、と、プルタブが引きちぎられる間の抜けた音が響く。

 私が口を挟む間もなく、即座に二つ目の旋律が重なった。ぱきょっ。

「はい、どーぞ。召し上がれ」

 少女は誇らしげに胸を張り、私の目の前にその口の広い缶を差し出してきた。

 缶の表面からは、この真昼の暴力的な熱線にすら負けない、白く揺らめく湯気が立ち上っている。

「……アンタ、馬鹿なの?」

 私は差し出された缶と、少女の顔を交互に見つめ、信じられないという声を何とか絞り出した。

「ほら、早く受け取ってよ、熱いんだから!」

 少女はぐいぐいと、熱々のおでん缶を押し付けてくる。

「ちょ、ばか。誰がこの炎天下で熱々のおでんを望むってのさ。熱中症で死ぬよ」

「死なないよ、お腹空かないんだから。ほら、あれだよ、塩分補給!」

 少女は熱さに耐えかねて、半ば押し付けるように私の手の中に缶を握らせてきた。

「あつっ――」

 手のひらに伝わる、容赦のない熱量。私の指先は一瞬で真っ赤に染まった。

冷たい炭酸でようやく落ち着いたはずの胃の腑が、その出汁の、ひどく濃厚で、どこか懐かしい匂いを感知して、きゅっと奇妙な収縮を起こした。

「ほら、お揃い」

 少女は自分の分の缶を両手で包み、熱さに顔をしかめながらも、不敵な笑みを崩さずに大根を口に運んだ。

「……くそ、このばか、最悪」

 私は二度目の舌打ちをしながら、手の中の熱い缶を見つめた。

 覗き込んだ缶のなかには、もしもこれが凍えるような冬ならば、間違いなく美味しそうだと感じただろう出汁の海と、そこに身を寄せ合う具材がところ狭しと詰め込まれていた。茶色く味の染みた大根、ちくわ、うずらの卵。

 何でこんな炎天下の我慢大会みたいな真似をせにゃならんのだ。しかし、悲しいことに貧乏な学生次代を経た私には、食べ物を粗末にできない習性が骨の髄まで染み付いている。それこそ、おでん缶のウズラの卵のように染み染みだ。

 残すという選択肢は、私の貧乏根性が許さなかった。食べる他ない。

「うええー! 熱いよー! 熱いし暑いよー!」等と、自分で買っておきながら完全な自業自得のうめき声を上げ、額から滝のような汗を流しながらも、少女は黙々と――いや、喧しく食べ進めている。

 私はといえば、熱さで痺れる舌をスポーツドリンクで騙し騙し冷やしながら、味の染みた大根をハフハフと咀嚼し、濃厚なお出汁まで綺麗に胃袋へ流し込んだ。

 食べ終わるのは、二人同時だった。

 少女は満足気に笑い、「ごちそうさまでした」と両手を合わせるなり、ベンチから勢いよく立ち上がる。

 そして、脇目も振らずに再びあの自販機へと駆けていく。もはや、何が目的か問い詰めるだけの気力も、私には残っていなかった。熱々のおでんによって、体感温度は限界突破している。日陰にいるのに、サウナの中にいるようだ。

 遠ざかる少女の背中に、私が辛うじて絞り出せたのは、懇願に近い小さな嘆きだけだった。

「……サイダーもお願い」

 せめて、あの冷たさで上書きしたかった。

 やがて帰って来た少女は、細い腕いっぱいに、自販機にある数種類の缶ジュースを抱えていた。定番のサイダー、オレンジ、グレープ、それに滅多に売れない謎のスポーツドリンクまで。

 彼女は気取った手つきでそれらをベンチの上に並べると、不敵な笑みをこれでもかと深めた。その手には、さっき綺麗に空になった、おでん缶の「空き缶」が二つ握られている。

「さあ、これからカクテル、モクテルかな?を作りますよ!」

 少女は誇らしげに空き缶を掲げてみせた。

「……は?」

「おでん缶なら口が広いから、コップの代わりになると思ったんだよね。普通の缶ジュースじゃ、中に別のジュースを混ぜられないでしょ?」

 少女はそう言うなり、私の前に「元・大根が入っていた空き缶」をコト、と置いた。

 缶の底には、まだ微かにお出汁の匂いが残っている。けれど、不思議と嫌な感じはしなかった。

「サイダーだけじゃ飽きるし、どこに行っても同じでつまんない。だから、混ぜるの。オレンジとサイダーで、オレンジスカッシュ。そこにちょっとだけアップルを入れたら、どんな味になると思う?」

 少女は缶ジュースを次々とパキ、パキと開け、おでん缶の広い口へと迷いなく注ぎ込み始めた。透明なサイダーの中に注がれる、鮮やかなオレンジ色が混ざり合い、シュワシュワと音を立てながら注がれる紫色がマーブル状に溶けていく。

「ほら、あなたの分。名付けて……、朝焼けはさっき使ったから……、『熱砂の夕焼けサイダー』。はい、どうぞ!」

 差し出されたおでん缶の中には、真昼の太陽の光を反射してきらきらと輝く、見たこともない琥珀色の液体が揺れていた。

 私は促されるままに、勧められるままに、有無を言うこともできずに、おでん缶に口をつけた。

 思いの外、美味しくない。

 様々な缶ジュースを混ぜ合わせたせいで炭酸はすっかり薄まり、人工的な果実の香りとサイダーの清涼感が、おでん缶の中で激しく喧嘩をしている。口の中に広がる中途半端な甘みと中途半端な酸味は、正しく「凡庸」の一言に尽きた。

 強いて言うなら、器の底に残っていた出汁の磯臭さが微かに残っていることがアクセントだろうか。もちろん、悪い意味で。しかし、目の前で「どう?」と言わんばかりに期待に目を輝かせる少女を前にして、美味しくないなどと、一体誰が言えようか。大人の配慮として、そこは適当に取り繕うべきだった。

「飲んでみ? 想像以上に美味しくないよ」

 私は、あっさりと本音を言えた。この少女の前でだけは、なぜだか体裁を取り繕うのが、ひどく馬鹿馬鹿しく思えたのだ。

「えー、そんなことないよ! 私は完璧な配分で混ぜたもん。……どれ」

 少女は不満げに眉をひそめ、自分の缶に口をつけた。

 そして、喉を小さく鳴らしたあと、しばらく気まずそうに視線を泳がせ、

「……うん、美味しくないね!」と、照れたように、降参するように白い歯を見せて笑った。

 それが、妙に可笑しかった。

 私たちはお腹の底から突き上げてくる笑いを堪えきれず、彼女の破天荒な失敗を、そしてそれに付き合った自分のマヌケさを、ひとしきり笑い飛ばした。

 笑い声を残響のなかに逃がし、私は手元に残ったおでん缶の中の、中途半端な琥珀色の液体を覗き込む。その水面には、いつの間にか太陽の強い茜色が映り込んでいて、まるで本物の宝石のようにキラキラと輝いていた。

 美味しくはないけれど、世界に一つしかない、私たちが作り出した黄昏色。

 徐に顔を上げる。

 頭頂部を焦がし続けていたあの傲慢な太陽は、いつの間にか水平線の彼方へと沈みかけていた。

 それだけではない。さっきまで私たちの目の前に広がっていた、眩暈がするほどに青かった海面は、潮風にざあざあと揺れる、茜色に染まった海のような「稲穂」の波へと変化していた。

 いつの間にか、足元の白い砂浜は柔らかな土の畦道に変わり、潮の匂いは、草と泥の混じった懐かしい田舎の匂いへと塗り替えられている。

 遠くから、カナカナカナ、と、切なくなるようなひぐらしの声が響いてきた。

 この風景には、見覚えがある。

 既視感ではない、確かな記憶として残っている、在りし日の光景。

「ふふ、見方一つで風景なんていくらでも変わるんだから不思議よね」

 少女はにこやかに、けれど、どこか遠くを見るような淋しげな声で言った。

 振り返った彼女の瞳は、静かで、すべてを優しく包み込むような、涼し気な夜の色を宿していた。



 土のにおい、水のにおい、草のにおい。湿気を帯びた夕暮れのにおい。

 身体に記憶されたそのすべてが、道標だった。

 地図アプリの真っ白な画面など、もう必要なかった。私はただ、幼いころの記憶をなぞるように、夕闇のグラデーションに誘われるようにして、自然に、迷いなく足を運ばせることができた。

 気が付くと私は、とある民家の前に立っていた。

 都会では贅沢になり得る、当時は当たり前だった広い生垣。その緑の隙間から、見覚えのある木製の引き戸の玄関が覗いていた。

 西日を浴びて黒ずんだ柱、軒下に吊るされたままのしょぼくれた渋柿、少し歪んだ網戸。

 その光景を目にした瞬間、私の胸の奥に、言葉にならない温かさと、それと同じくらいの鋭い痛みが同時に走り抜けた。

「……っ」

 出かけた言葉を口の中でかみ殺し、その懐かしい響きを飲み下す。

 それは、ただ無邪気に「私」でいられた時代の、一番安全で、優しかった聖域の記憶。

「ねえ、入ろうよ」

 いつの間にか、少女は私の少し前を歩いていた。

 彼女の足元はサンダルではなく、いつの間にか、泥のついた小さなスニーカーに変わっているような気がした。

 少女は躊躇うことなく生垣の門をくぐり、懐かしい引き戸の前に立つ。その涼し気な夜の色をした瞳は、夕暮れの光を反射して、まるで磨き上げられたガラス玉のように静かに澄んでいた。

 少女が細い手を伸ばし、引き戸に触れる。

 ガラガラと、建て付けの悪い木製ドアの独特の乾いた音が静かな田舎町に響き渡った。

 中から香ってきたのは、古い木と、畳と、そしてほんの少しの蚊取り線香の匂い。

 誰もいないはずなのに、確かに「誰かがそこにいた」という確信だけが、家全体の温度から伝わってくる。

「お邪魔しまーす」

 少女は誰に言うでもなく小さく呟き、三和土にスニーカーを脱ぎ捨てて、トントンと板間に上がっていった。私はその背中を追うように、導かれるままに一歩をまた踏み出した。

 そこは、あの頃と何も変わっていなかった。

 すりガラスから差し込む斜陽の角度も、柱に刻まれた傷も。ただ一つ、正しいのは、そこに誰もいないという事実だけ。

 玄関から居間を抜けて台所へと、勝手知ったる足取りで進む。

 ああ、私はそこが、本当に大好きだった。ここは、私の味方になってくれる人しか入り込めない、世界で一番安全な避難所だった。

 古い家には似つかわしくない、当時は最新式だった大きな冷蔵庫。その白くて平らな扉には、一枚の、何も描かれていない白紙の画用紙が貼られていた。

「ねえ、この画用紙には、どんな色が似合うかな?」

 珍しく静かだった少女が、微笑を浮かべながら振り返る。

 窓の外は急速に深みを増し、夜の色が世界を浸食していく。遠くから響くひぐらしの声は、いつの間にか夜の虫たちの微かな羽音へと移り変わっていた。

 どんな色。

 そう問われて、私の思考は停止した。

 今の私なら、構図を考え、配色を計算し、他人の目を意識することができる。台所という場所への意味付け、家具の配色からの調和。散々迷って、ようやく重い口を開こうとした、その時だった。

 ――ぐう、と。

 静かな台所に、情けないほど大きな音が響いた。私のお腹の音だった。

「ふふ、お腹でお返事しないでよ。まあ、退屈な回答よりはマシかな」

 少女はくすくすと笑い、私の緊張をあっさりと霧散させた。

「なんかないかなー」

 少女はそう言って、食卓の上に置かれた緑色の蚊帳籠をおもむろに開けた。そこには、乾かないようにラップをかけられた、小さなおにぎりがいくつか並んでいた。

「やった、おにぎりだ。梅干しもーらい」

 無邪気に笑う少女は、その丸い形状に何のためらいも無く手を伸ばし、 大きく口を開けてかじりつくと、「すっぱ!」と嬉しそうに顔を顰めた。

「ほら、あなたも食べなよ。おいしいよ?」

 勧められるままに、私はもう一つの三角のおにぎり、サケフレークの入ったおにぎりを手に取った。

 口に運ぶと、なじみ深いピンク色が顔を覗かせる。まだ微かに温かさを保ったお米に包まれた、ホロホロとした塩気がカラカラの身体に優しく染み渡っていくのを感じる。

 掌に収まるこの小さなおにぎりは、夕食前の楽しみだった。

 これをつまみ食いしながら、今日あったことのすべてを、祖母や、迎えに来た母に夢中で話したのだ。

 ああ、そうだ。あの日も、こんな日だった。

 裏山を泥だらけになって駆け回ったのに、虫が上手に取れなかった。そのことが悔しくて、格好悪くて。「虫が取れなかったんじゃない、絵を描いていたから時間がなくなったんだ」という、子供特有の、何の意味もない言い訳のために描いた、ひどく稚拙な風景画。

 それを、二人は「凄いねえ」「天才じゃない」と本当に嬉しそうに笑って、この冷蔵庫の特等席に飾ってくれたのだ。

 だから、その気になってしまった。

 その無条件の肯定が、私のすべての始まりだった。

「……ねえ」

サケフレークの味を噛み締めながら立ち尽くす私の前で、梅干しのおにぎりを食べ終えた少女が、夜の色をした瞳でじっと私を見つめていた。その手には、いつの間にか一本の「太いクレヨン」が握られていた。

「あなたは自分が思っているよりも頭が悪いんだからさ。賢ぶって黙ってもなんにも変わらないよ?」

 そのひどく大人びた眼差しは、決して私を侮ってなどいなかった。明確な挑発に答えるために、小さな手から藍色のクレヨンをひったくり、指先に力を込める。

「……知ってるよ 」

 独特の油分と硬い感触。

 あの頃は、一色のクレヨンはただ一色のクレヨンだった。混じり気のない、無条件の色彩。今の私は、光の三原色を知っている。陰影のロジックを知っている。小手先の技術を、小賢しい誤魔化しをいくつも覚えたこの手なら、あの頃の稚拙な自分よりも、ずっと「好かれる絵」が描けるだろう。

 ああ、つまらないな、と思う。

 もちろん、世間にはウケの良い悪いはある。流行り廃りを意識するのは重要な視点だ。

 でも、誰もいない、私の味方しかいないこの避難所なら。

 私は、わたしにしか、否定されない──。

 私は白紙の画用紙に向き合い、クレヨンを強く走らせた。

 濃淡を使って、線の強弱を使って。画用紙という枠の中に収まる、かつてないほど「お利口で、技術に満ちた絵」としてあの理不尽で不条理な世界を画用紙に浮かび上がらせる。

 開かないコンビニの自動ドア。

 頭頂部を灼く真昼の太陽と、錆びついた一本の線路。

 口の広いおでん缶の中で、凡庸に混ざり合っていた琥珀色のサイダー。

 その不細工な攪拌の中に、私自身の「今」を、冷めた保身を、全部力任せに擦りつけていく。

「ふふ、へたくそ」

 私の手元を覗き込んで、少女が声を弾ませた。

「あんたねえ」

 私はクレヨンを握ったまま、眉をひそめて振り返り、クレヨンを渡す。私の磨き上げた技術に対して、彼女は受け取ったクレヨンの切っ先を返す。

「へたくそだよ。だって、そんなに綺麗にまとめちゃったら、おでんの出汁の匂いが全然しないもん。もっと汚くて、めちゃくちゃで、言い訳だらけじゃなきゃ、私たちの色じゃないよ」

 少女はそう言うなり、その藍色のクレヨンを画用紙の真ん中で思いきり横に滑らせた。

 パキ、とクレヨンが折れる。

 完璧にコントロールされていたはずの構図が大きく歪み、荒々しい藍色のノイズが画用紙の枠線を飛び越えて、白い冷蔵庫の扉へと、世界へと、一気に溢れ出していった。

 その瞬間、蜩の声が、ピタリと止んだ。

「あ――」

 気がつくと、私は自室の、ベッドの上に横たわっていた。

 エアコンは時限スイッチで切れており、肌にじっとりと汗が滲んでいた。

 汗を拭いながら、枕もとの折り畳み式携帯電話を開く。液晶に浮かんだ数字が、セットした起床時間までたっぷりと30分はあることを私に物語っている。起きるには早く、二度寝には短い時間に溜息を吐く。しかし、目が覚めてしまったものは仕方がない。

 たっぷり十分間、起きることを躊躇した私は、ようやく観念してカーテンの裏に隠れた窓を開く。太陽は既に上り、青い空には白い雲が入り混じっている。

 狭い窓から吹き込む光景は、あの夜の街並みとは似ても似つかぬ、慣れ親しんだ田舎町に間違いなかった。少なくとも徒歩数分の圏内にコンビニなどはない。とても不便だ。

 夢に見た都会的街並みに憧れを覚えながら、ヨレヨレのシャツを脱いで高校の制服に袖を通す。姿見の前に立つと、癖のついた黒髪があらゆる方向に跳ねていた。部屋を出るとお線香と朝食の匂いが漂っており、肺の下の辺りがきゅっと締まるような空腹を感じた。無性に鮭フレークが食べたくなった。

「おはよー」

 朝の挨拶に、台所に立っていた母が振り返る。食卓を見るに父は既に家を出たらしい。食器は自分で下げるのに、湯飲みを流しにもっていき忘れる辺りが父らしい。今夜も父は母に嫌味を言われることになるのだろう。

「あら、早いのね。今日から夏休みじゃなかった?」

「夏期講習ー。若者は何かといそがしーのです。そこんところ、よろしくー。おじいちゃんと、おばあちゃんもおはよう」

 すっとぼけた母の質問に答えながら、お仏壇にお線香を供える。目を閉じると、ついさっきまで見ていた質の悪い夢の残り香、アルコールの臭気が鼻を掠め、ずきりと鈍い痛みが頭の奥に響いた。

 手を合わせた私は、酒に呑まれるようなだらしない大人にだけはなるまいと、祖父母に硬く誓った。



 重い瞼を開いた彼女は、アパートの生温い床にへたり込んでいた。 エアコンは時限スイッチで切れており、肌にじっとりと汗が滲んでいる。 頭の奥には、深酒の残滓である鈍い痛みが、まだ確かに居座っていた。

 口直しにと、冷凍庫から不細工な霜だらけの箱を取り出して、プラスチックの個包装を剥く。木の棒を避けて氷塊を齧り取り、舌で弄ぶ。一度溶けてしまった黄昏色の氷は、触感のグラデーションも、味の強弱も失っていた。率直に言って、美味しくない。

 そんな面白みのない氷がプラスチックの包装の中で溶けていく様を見ながら、彼女はにんまりと笑った。冷蔵庫から取り出した青いデザインの缶ジュースのプルを引き、ガラスコップに注ぐ。そこに溶けかけた黄昏色を木の棒ごと流しいれた。

 しゅわしゅわと溢れそうになるサイダーを慌てて啜り、彼女は少女のように笑う。

「ふふ、やっぱり、おいしくないや」

 

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