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第2章 オーディション

土曜の朝。


愛梨は部屋の鏡の前に立っていた。


数日前、書類選考を通った連絡が来た。今日は一次オーディション本番だ。


朝からもう三回も着替えている。最初は無地のワンピース——やりすぎた。次はTシャツにスカート——今度はラフすぎる。今は半袖のブラウスに黒のパンツ。シンプルで、目立たない。


それでも、迷う。


階下は静かだ。父は地方ロケで昨夜からいない。母もプロデューサーとの会議で朝早く出かけた。広い家には、誰もいない。


愛梨はバッグを持った。


どこに行くのか、誰も聞かない。



新宿駅の朝は、地獄だ。


改札を出ると、人の流れに押し流される。つま先立ちして、人の海の向こうを探す。光は南口の改札を出たところと言ってたけど——どこだ?


「愛梨——!」


大きな柱の近くで、手が振られていた。


光だ。ゆるいTシャツにプリーツスカート。髪は束ねているけど、ちょっと寝癖が残っている。両手にコーヒーを持って。


「遅いよ」


「数分しか遅れてないよ」愛梨はスマホを見せる。


「ま、いっか」光はコーヒーを差し出す。「はい、これ。緊張しないように」


愛梨は受け取った。「ありがとう」


二人はオーディション会場へ向かう。光はずっとしゃべっている。朝ごはん忘れたとか、髪がまとまらないとか。愛梨はうなずいたり、たまに小さく笑ったり。


でも頭の中では、観察が始まっている。


スタジオの建物は、大きくない。二階建てで、白いペンキがちょっと色あせている。わりと人通りのある道沿い。中に入ると、同じくらいの年の女の子がたくさんいた。


光が口笛を吹く。「わあ、多いな」


三十人くらいだろうか。何人通るんだろう。わからない。オーディションの詳細なんて、ほとんど読んでなかった。


番号札をもらう。光は34、愛梨は35。


二人は隅っこに座って、順番を待つ。


光がキラキラした目で周りを見る。「見て見て、あの髪長い子、すっごく可愛い。やばい、ライバル強そう」


愛梨も見る。でも、見方は違う。


髪の長いあの子。背筋がピンと伸びていて、ときどき自分の髪を触っている。他の子をチラッと見ては、比べている。自分をよく見せたいタイプだ。


隅の帽子の子。ずっとスマホに集中している。時々、足がリズムを取っている。真面目で、負けず嫌いそうだ。


前に座っている二人組。ひそひそ話して笑っているけど、声が小さい。緊張を隠そうとしている。


愛梨は、情報を吸収する。


「……ずっと見てるけど、何考えてるの?」


光の声で、はっとした。


「え?別に……なんでもない」


「ふーん」


光はそれ以上聞かない。コーヒーを開けて飲み始める。


番号が呼ばれるたびに、ドアが開く。出てくる子の顔はみんな違う。ホッとした顔。落ち込んだ顔。泣きそうな顔。


空気が重くなる。


20番が入って、目を赤くして出てきた。

27番が入って、小さく笑って出てきた。


「33番——!」


隣の子が立った。深呼吸して、中に入る。


十五分後、出てきた。表情は読めない。


「次、34番——!」


光が立った。愛梨の方を向く。


「行ってくる」


愛梨はうなずいた。光がドアに向かって歩き出す。でも、急に止まった。振り返る。


「あのさ、愛梨が来てくれて、なんか嬉しい」


笑って、中に入った。


一人になる。



十二分。


光が入ってからドアが開くまで、愛梨は数えていた。十二分くらいだった。


光が出てきた。顔は……変だ。悲しくもないし、嬉しくもない。でも、目がちょっとだけ輝いている。


「どうだった?」愛梨がすぐに聞く。


光が隣に座った。「わかんない。歌はあんまり上手くないし、ダンスもなんか変だった。でも審査員が……笑ってた?馬鹿にする感じじゃなかったけど……」頭をかく。「まあ、できることはやった。あとは運次第」


愛梨は光を見る。本当に気にしてなさそうだ。どんな結果でも受け入れるみたいに。


「35番——!」


呼ばれた。


光が肩をポンと叩く。「行ってきなよ。あんまり考えすぎないで。話す感じで」


愛梨は立った。手が冷たい。冷房のせいだけじゃない。


ドアを開けて、入る。



部屋は思ってたより狭い。


三人が長い机の後ろに座っている。男二人、女一人。真ん中の四十代くらいの男は眼鏡をかけていて、表情が読めない。右の若い男は二十代くらいで、少し緊張しているように見える。左の女は三十代前半だろうか。短い髪で、目が鋭い。


隅にカメラ。赤いランプがついている。


「自己紹介をお願いします」と短髪の女が言う。声はきれいだが、芯がある。


愛梨は印の場所に立った。息を吸う。


頭の中で、スイッチが入る。


眼鏡の男。目が時計をチラッと見た。もうたくさんの子を見て飽きている。時間をかけるな。手短に。


若い男。ペンを持っているけど、何も書いていない。何か面白いことを待っている。ここで一番、印象に残りやすいかもしれない。


目の鋭い女。真面目で経験者。嘘は通じない。


愛梨は微笑んだ。


「初めまして、高橋愛梨といいます。16歳です。よろしくお願いします」


笑顔は、大きすぎず、小さすぎず。礼儀正しくて、かわいげもある。でも、わざとらしくない。


女の目が、わずかに細まった。ほんの少し。でも、愛梨にはわかった。


やりすぎた。


少しだけうつむく。無垢に見える角度。


「では、特技を披露してください」と眼鏡の男が言う。声はやっぱり平坦だ。


愛梨は、簡単な歌を用意していた。誰でも知ってるポップス。でも、最後の一秒で変えた。


今日、何十人も同じような歌を歌ったはずだ。同じ曲を歌っても、ただのコピーになる。


「……『ふるさと』を歌います。アコースティックで、シンプルに」


眼鏡の男が、ちょっと眉を上げた。アイドルのオーディションで、こんな昔の歌を歌う子は珍しい。


女が、少し前のめりになる。


愛梨は歌い始めた。


声は、特別じゃない。むしろ普通だ。でも、抑え方を知っている。悲しいところは柔らかく、懐かしいところは少し震わせる。目を半分閉じて、何かを思い出すように。


歌詞を考えているわけじゃない。感情を——いや、感情に見える何かを。


歌が終わった。


一瞬の静けさ。


若い男が、小さく微笑んだ。眼鏡の男が何か書いている。女は、愛梨を見つめたまま。表情は読めない。


「ありがとうございます。高橋さんは、ダンスの経験は?」


「ありません。でも、動きは覚えられると思います」


「では、やってみてください」


音楽が流れる。シンプルなビート。四拍子。


誰かが手本を見せる。愛梨はそれを見て——真似するんじゃない。リズムと空気をコピーする。


体を動かす。完璧じゃない。でも、流れはある。


音楽が止まった。


「結構です」


愛梨は止まる。少し息が切れている。


眼鏡の男が見てくる。


「高橋さん。さっきのオーディション中、ずっとこっちの反応を見て、自分を調整してたでしょう?」


心臓が止まりそうだった。


気づかれた?


でも、顔は変わらない。小さな笑顔は、そのまま。


「えっと……どういう意味ですか?」


「私たちの顔色を見て、話し方、笑い方、選ぶ曲まで変えてた」淡々とした声だ。「いつもそうなの?」


愛梨は黙った。


頭の中はぐちゃぐちゃだ。でも、外では少しだけうつむく。


「……ちゃんとやらなきゃって、思って」


短髪の女が、初めて微笑んだ。柔らかい笑顔じゃない。何かを確かめるような笑顔。


「結果は連絡します。ありがとうございました」


愛梨はお辞儀をして、ドアに向かう。手が、ほんの少し震えていた。



外で、光がすぐに立った。


「どうだった?すごく長かったよ!十分以上いた!」


愛梨は息を吐いた。「……わかんない」


二人は建物を出る。太陽はもう高くて、空気が暑い。


光は何も聞かなかった。駅まで歩いて、スーパーでアイスを買って、公園のベンチに座った。


「愛梨、なんかあった?」


「え?」


「手。さっきからずっと震えてる。寒いみたいに」


愛梨は自分の手を見た。気づかなかった。


「……冷房が、強かったのかも」


「ふーん」


光はアイスを食べ終えて、愛梨を見た。


「私ね、愛梨が来てくれて嬉しいよ」


「さっきも言ってた」


「うん。でも、二回言ってもいいでしょ」光が笑った。「二人で受かればいいね」


愛梨はうなずいた。


駅で電車を待つ。来た電車に乗って、座る。混んだ車内で、愛梨は目を閉じた。


眼鏡の男の質問が、頭の中で繰り返される。


『いつもそうなの?』


答えは、わからない。


たぶん、知りたくないだけだ。



つづく

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