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第1章: 誰でもない私

はじめまして。

この作品を見つけてくださって、ありがとうございます。

少しでも気になっていただけたら、最後までお付き合いください。

朝の五時半。


高橋愛梨は、アラームを使わない。体が勝手に目を覚ます。何年も同じ時間に起き続ければ、人間はそうなるらしい。


窓を開ける。六月の終わりの空気は、まだ少しひんやりしている。遠くで鳥の声。スズメか。それともヒヨドリか。


洗面所に行く。顔を洗う。歯を磨く。鏡の中の自分は、いつもと同じ顔をしている。


リビングに下りると、母がいた。


コーヒーカップを持ち、新聞を広げている。テレビからは朝の情報番組。アナウンサーが今日の天気を明るく伝えている。



「おはよう、愛梨」


「おはよう、お母さん」


会話は、それで終わった。


愛梨は席に着く。テーブルにはすでに朝食が並んでいる。作ったのはハウスキーパーだ。母が料理をするところを見たことがない。父は、今頃スタジオだろう。ドラマの撮影で、朝早くから出かけている。


箸が小皿に触れる音。

母が新聞のページをめくる音。

テレビの音。


どれもこれも、毎日同じ。間違っていない。むしろ、正しい朝の形なのかもしれない。


愛梨は黙って食べ終え、立ち上がる。


「行ってきます」


「いってらっしゃい。気をつけて」


母はまだ新聞を見ている。背筋の伸びた後ろ姿。服も髪も完璧に整っている。元アイドルで、今は女優。テレビに出ている人の、きれいな背中だ。


愛梨はドアを開けた。



駅のホームは、いつも通り混んでいた。


誰もがスマホを見ている。愛梨も、なんとなくスマホを見るふりをして、周りを観察する。


サラリーマンが十秒おきに時計を確認している。高校生の女の子二人は、スマホでショート動画を見ながら笑っている。小さい子を抱えた母親は、ぐずる子供をなだめるのに必死だ。


愛梨は、そうやって人を見るのが癖になっている。


別に好きでやってるわけじゃない。ただ、小さい頃から気づいたのだ。人を観察すると、その人が何を求めているのかわかる、ってことに。


立ち方。

笑い方。

ため息の種類。


ぜんぶ、開かれた本みたいに見える。


電車が来た。愛梨はドアの近くに乗り込み、イヤホンを耳に差す。音楽は流れているけど、ほとんど聞いていない。目が勝手に動く。観察する。記録する。しまう。



学校は、いわゆる進学校だ。両親は愛梨にあまり構わないけど、教育費だけはちゃんと出してくれる。それが責任だと思っているんだろう。


校門で、担任の先生に会った。


「おはようございます、高橋さん」


愛梨は、すぐに顔をほころばせる。練習したわけじゃないけど、自然とそうなる。先生は真面目で、礼儀正しい生徒が好きだ。それに合わせるのは簡単だ。


「おはようございます」


にこやかに。ほどよく。それでいい。


教室に入ると、数人のグループが愛梨に手を振った。


「高橋さん、おはよー!」


「おはよう」


愛梨は自分の席に座る。右斜め前では女子が二人、昨夜のドラマの話をしている。前の席の男子は、こっそりスマホでゲームをやってるふりをして、本当はゲームをやってる。


いつもの朝。


「愛梨ちゃん、おはよー!」


声の主は吉田だ。髪を高めで結んで、いつも笑顔。クラスでも明るい方。


「ねえねえ、聞いたよ。愛梨ちゃんのお父さん、新しいドラマに出るんでしょ?」


吉田の目が、キラキラしている。でも、その奥に別の何かがあるのも、愛梨には見える。有名人の娘と友達でいたい、っていう、あの感じ。


愛梨は、ちょっとだけ口元を緩めた。


「うん。来月から撮影始まるみたい」


「えー、すごい!絶対見るね!」


「ありがとう」


話は続く。愛梨は優しく、感じよく、全部の質問に答える。


頭のどこかで、数を数えている。


今週、親のことを聞かれた回数。

「高橋の娘」として扱われた回数。


数えるのに、もう疲れた。



昼休み。


愛梨は、どこで食べようかと考えていた。教室で食べるのも悪くないけど、なんとなく外の空気が吸いたい。購買でパンでも買って、中庭のベンチで…


「おい、愛梨」


いきなり、目の前に何かが置かれた。


弁当だ。


顔を上げると、永瀬光が立っていた。肩までくらいの、少し寝癖のついた髪。眠そうな目。でも、口元は笑っている。


「まだ一人で端っこで食ってんのか?」


光は、答えを待たずに隣の席に座った。自分の弁当箱を広げる。


「久しぶり」


愛梨はまばたきした。


「昨日、教室で会ったよね」


「あれを『会った』って言うか?挨拶しただけじゃん」


言われてみれば、そうだ。


光は、幼なじみだ。家は歩いて二十分くらいの場所にある。幼稚園の頃は、よく一緒に遊んだ。


でも、小学校に入ってから、だんだん会わなくなった。クラスが違うし、友達の輪も違う。光は、昔のままだ。うるさいくらい元気で、適当で、なんにも考えてなさそうに見える。でも、愛梨は知っている。こいつは、見た目よりずっと鋭い。


光が、じっと愛梨の顔を見る。


「何か考えてるだろ」


「え?」


「目がさ。なんか考えてる人の目してる」


愛梨は、ドキッとした。


今まで、そんなこと言われたことがない。親にだって言われたことがない。


「別に……なんでもないよ。ちょっと、ぼーっとしてただけ」


「ふーん」


光は、それ以上追及しなかった。箸で卵焼きをつまみながら、あっさりと言う。


「そ」


それだけ。


二人は黙って食べ始めた。


沈黙は、嫌いじゃない。むしろ、楽だ。誰かに合わせなくていいから。


でも、光の隣は、なんとなく落ち着かない。この沈黙が、何かを待っているみたいに感じるからだ。


光が、愛梨の秘密を知っているんじゃないかって。



放課後。


校門を出ようとしたら、後ろから腕を引っ張られた。


「愛梨、一緒にオーディション受けよう!」


振り返ると、光が立っていた。さっきまでとは違う、妙にテンションの高い顔で。


「は?何のオーディション?」


「アイドルの!友達の姉ちゃんが教えてくれたんだ。『星彩エンターテインメント』ってとこが、新人アイドルのオーディションやってるって」


愛梨は、首を振った。


「私、歌えないよ」


「いいじゃん、私も踊れないし」


「……それで?」


「だから、一緒に練習しようよ」


光が笑う。


「家にいてもやることないだろ?」


愛梨は口を開けた。でも、言葉が出てこない。


家にいても、やることない。


確かに。


家では、勉強して、本読んで、たまにテレビ見て。あとは、寝る時間を待つだけ。


「やることないだろ?」


光がニヤリとする。


「だから行こうよ。落ちたら落ちたでいいじゃん。経験になればそれで」


愛梨は、光を見つめた。


この子は、いつもこうだ。軽くて、適当で、でもなぜか人を動かす。


失敗してもいい、なんて、愛梨は考えたこともなかった。


「お父さんとお母さんは?」


「いいって言ってたよ。学校に影響ないなら、って」


愛梨は黙った。


「まあ、考えとけよ」


光がカバンをゴソゴソやって、折りたたまれた紙を取り出した。


「これ、応募用紙。もし行く気になったら、教えて」


差し出された紙を、愛梨は受け取った。


「行くなら、絶対連絡しろよ」


光は手を振って、走り出した。小さくなって、角を曲がるまで、愛梨はそれを見ていた。


手の中の、応募用紙。



夜。


自分の部屋で、愛梨は机に向かっていた。


応募用紙が広げてある。ペンは持っているけど、まだ何も書いていない。


窓の外で、車の音がした。父が帰ってきたのだろう。しばらくして、階段を上がる足音。でも、部屋の前で止まることはない。


そのまま、遠ざかっていく。


愛梨は、用紙を見る。


名前: 高橋愛梨

年齢: 16歳

経験: なし


もう一度、見る。


誰も見ていない。

誰も知らない。

この応募用紙のことなんて、誰も。


父も母も、自分のことで精一杯だ。


ふと、変なことを考えた。


このオーディションを受けるのは、誰のためでもない。親に言われたわけでもない。誰かの期待に応えるためでもない。


ただ、自分が決めたことだ。


光に誘われたから。

それだけ。


愛梨は、ペンを握った。


「アイドルになりたい理由を教えてください」


……何て書けばいい?


「音楽が好きだから」

「人を幸せにしたいから」

「新しいことに挑戦したいから」


全部、書ける。嘘じゃない。


でも、本当の答えは何か。


愛梨は、一気に書いた。


「本当の自分を知りたいから」


……ダメだ。


見つめて、ため息。線で消す。変な奴だと思われる。それに、恥ずかしい。


もう一度、書き直す。


「音楽で、人を笑顔にしたいから」


いいところ。無難。


用紙を折りたたんで、カバンに入れた。


電気を消す。ベッドに横になる。


暗闇の中で、光の顔が浮かんだ。


あの子は、「失敗してもいい」って言った。


まるで、それが普通のことみたいに。


久しぶりに、心が少しだけ軽くなる感覚。

何かを待つ感覚。


愛梨は、目を閉じた。



つづく

第一章を読んでいただき、ありがとうございました。

まだ物語は動き出したばかりですが、ここから少しずつ愛梨の世界が変わっていきます。

更新はできるだけ続けていく予定ですので、よろしければブックマークや感想などいただけると励みになります。

次章もよろしくお願いします。

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