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いし村—境界世界で少女は無限階段を駆け下りる—

作者: 説人
掲載日:2026/02/09

お読みいただきありがとうございます。 本作は、奇妙な村へと迷い込む少女の物語です。 少し不気味で、どこか切ない「いし村」の空気感を楽しんでいただければ幸いです。


・カクヨム版から「てにをは」を修正。若干の改稿バージョン。

・カクヨムで他6作品を公開中です。良かったらそちらもよろしくお願いします。

挿絵(By みてみん)


 ◆父の退院◇


 夕刻の空模様――下校時刻を知らせる鐘が鳴る。通学路には、ぞろぞろと家路につく学生たちの姿が溢れていた。

 冬樹ユウは友人とその日の練習試合の反省点を語り合っていた。途中で友人と別れて、いつものバス停へ向かう。

 歩きながらスマホを取り出し、兄にメッセージを送った。

『今日は手伝えなくてごめん。お父さん退院できた?』

 すぐに返信がきた。

『父さんは無事に退院したよ』

 ユウは元気になった父に会えるのが楽しみで心が弾んでいる。優しい父との思い出が脳裏に蘇っていた。


 歩いていると、途中にある商店街から大勢の人が逃げ出すように走ってきた。

「おい!通り魔が出たぞ!こっちに行ったら危ないぞ!逃げろ!」

 悲鳴を上げながら、人々が逃げ惑っている。

 ユウは途中で転ぶ人に肩を貸して立ち上がらせた。それがユウにできる精一杯。それ以上、誰かを助ける余裕はなかった。

 背後から逃げてくる人が次々とユウにぶつかった。誰も謝らず、背中だけが見えた。一瞬激しくぶつかられ、相手の顔を見ようとしたが、速くて誰だか分からなかった。

 視界に、車道へ逃げていく人が見えた。それを追うように走る男性がユウの背後から現れる。車道に出た瞬間、その男は走行中の軽トラックに轢かれた。

「警察を呼べ!警察!」

「おい!救急車!誰か救急車呼んでくれ!」

 必死に逃げる人々に、あちこちから怒号が飛んでいた。

 バス停まで走り切ると、バスがもうすぐ着くのが見えた。

 到着したバスは、どこかいつものバスとは雰囲気が違っていた。

 乗客は少なく、見たことのない人たちばかり。ユウが奥の席に座ると、バスが走り出した。

 バスの前方の席に座っている少年が、座席を登ってこちらを向き、笑顔でニコニコしている。他の乗客とは違い、どこか明るい雰囲気を持っていた。笑顔で手を振ってきたので、ユウもそれに応えた。少年はユウに近づき、飴を差し出した。

「これあげるよ」

 ユウは驚いたが笑顔で受け取った。

「あ、ありがとう。ああ、ごめんね。お返しがないや」

 ユウはバッグを漁ってお菓子を探したが、ちょうど切らしていた。

「いいよ。今度会ったときに何かちょうだい?」

「ありがとう。そうね。何かお返しするわ」

 少年は自分の席に戻った。チラッとユウを見て、笑顔で手を振り、満足したのか、スッと引っ込んだ。ユウも笑顔で手を振った。

 スマホを取り出して画面を見ると、圏外と表示されている。

 ユウは仕方なくスマホをバッグに押し込んで、読みかけの文庫本を取り出して読み始めた。活字が子守唄となり、いつの間にか眠りに落ちた。

「はっ!」

 目が覚めると、見たこともない景色が窓の外に広がっている。濃い霧がかかり、何があるかも分からない景色。バスの先頭に見える案内板には終点と表示されていた。

 他の乗客は誰もいない。

 バスを降りると、濃い霧に包まれ、周囲の様子が分からない。ひどく強い風が吹いた。

 バス停の横には巨大な縦長の石看板があり、そこには『いし村』と彫られていた。

 ユウは聞いたことがない村の名前に戸惑った。自分がいる場所がどこなのか、余計に分からなくなり、不安が押し寄せた。

 霧の中へ消えていく誰かの背中が見えた。ユウはその人を追いかける。霧を掻き分けて進むと、追いかけている人が民家に入っていくのが見えた。昔ながらの古い木造の家。玄関は引き戸。少し隙間が空いていて、ユウはそこから中を覗いた。奥の部屋へ入っていく姿が見えた。


 ◆遺書◇


「ごめんください」

 ユウは引き戸を開けて中に入った。しばらく待ったが、誰も出てこない。待ちくたびれて、奥の様子を見ようとした。首を伸ばすようにして覗くと、奥の部屋で人が首を吊って揺れていた。

 ユウは驚いて動けなかった。

 しばらく固まっていると、目の前の床に封筒が落ちていることに気づいた。

 ユウは気になり、その封筒を手に取る。

 ひっくり返すと、表に『遺書』と書かれていた。

 ユウは周りを見て、普通ではない行動を取っていると自覚しながらも、どうしても気になり、封筒を開けた。

 文字が動いていた。一文字一文字が大きくなったり、小さくなったりして揺れていた。くるくると回転している文字もあった。

 ユウは目を凝らして文章を必死に読み取った。

『家族へ、先立つ不幸を許してくれ。伝えるべきか迷うが、私は過ちを犯した。冷蔵庫にあったティラミスを勝手に食べたのは私だ。後悔している。結婚なんてしなけりゃ良かった。これは嘘だ。愛している。私にはへそくりがある。どうだ。ああ、死にたくない。いっそ首を吊ろうか。天国への道はどこだ?無限階段は絶対に上ってはいけない。今までありがとう』

 ユウは後悔した。

「……何これ?意味が……全然わかんない」

 奇妙な文字が動く支離滅裂な遺書を封筒に戻して、飛び出すように玄関を後にした。

 どうして首を吊ったのか分からないままだった。遺書に書かれていた内容はまったく理解できなかった。

 ユウは途方に暮れて歩いていた。ふと、上を見上げて二階の窓に視線をやると、窓の奥で首吊り死体が揺れていた。

「ええ?また?どうなってるの?」

 ユウは駆け出してその家から離れた。

 濃い霧の中、不安で押し潰されそうな気持ちだけが広がった。

 少し歩くと、この村は深い崖によって分断されていた。霧で気づかずに落ちる可能性があるのに、柵がない。短い石橋がかかっているだけだった。崖下を覗くと川が流れている。

 川べりでは妖怪のような生き物が動いているのが見えた。その生き物が川に何かを投げ入れているようで、時折ドボンという音がした。

 ユウは崖の深さを見て青ざめた。唾を飲み込み、自分が落ちる姿を想像して、足が震えた。橋の方へ視線をやると、人が靴を揃え、白い封筒を靴に挟んでいるのが見えた。

 そして何かをつぶやき、躊躇せずに崖に飛び込んだ。

 声を出して止める間もなく、崖下で岩が崩れるような音がした。

 明らかに川までは距離があり、川に飛び込んでいるのではないとすぐに分かった。

 崖下から声がした。

「いってー!死ねなかった!え?!お前なんだよ!何するんだー!わー!」


 ドボン!


 飛び降り自殺に失敗した者の声がした。崖下で妖怪に足を引きずられ、川に落とされたような音が不気味に響いた。


 ◆もうひとつの遺書◇


 ユウは心の奥底にある逃げ出したい気持ちを落ち着かせて、靴に挿してある封筒を手に取った。

『遺書』――またも封筒の表にそう書いてある。

 動く文字の遺書を思い出して気が重くなった。封を開けて中身を取り出し、今度はまともなことを期待した。


『悔しい。もう少しで夫と離婚して、慰謝料をせしめて、若い真馬君と再婚できたのに。

 まさか殺されるとは思わなかった。悔やんでも悔やみきれない。恨めしい。はぁ、いっそ死んだ方がマシだ……』


 今度は文字が動いていなかった。内容も比較的理解できた。

 ユウは遺書を手にしたまま顔を上げ、放心状態になった。理解できたが、遺書の内容には違和感しかなかった。

――『まさか殺されるとは思わなかった……いっそ死んだ方がマシだ……』と遺書に書かれた矛盾した言葉に、心臓を掴まれたような不安に襲われた。ユウは手を合わせて成仏を祈り、足早に橋を渡った。

 橋を渡るとき、視線が自然と崖下へ向き、横目で下を見ると、地獄の餓鬼のような、腹の出た、ふんどし一枚の小人が、川にボロボロになった遺体を投げ入れていた。

 ユウは走って橋から離れた。

 しばらく霧の中を進むと、歩いている人がいたので思わず声をかけた。

「あの、ちょっといいですか?」

 その男は少し驚いた顔をしたが、すぐに笑顔になって応えてくれた。

「ええ、大丈夫ですよ。どうしました?」

 やっと話ができる人に会えた。ユウは嬉しくなって声が弾んだ。

「あの!ここ、変ですよね?」

 男性は面を食らって目をパチパチとさせた。すぐに微笑んで返した。

「ああ、そうですね。たしかにここは変だ。お嬢さん、何かお困りですか?」

 ユウは意思疎通ができたことを喜んでいた。


 ◆石崎◇


 ユウは男にこの村で起こったことを話した。

「それはそれは、大変な目に遭いましたね」

 男は同情し、しみじみと首を縦に振っていた。

「どうすれば、家に帰れるのか分かりませんか?ここ、電波も入らないし、近くの駅って分かりますか?あ、あの、お名前は?私は冬樹ユウと言います」

「冬樹?ほう……私は石崎と言います。私もさっきここに来たばかりで、右も左も分かりません」

 ユウは驚いた。自分と同じような人がいる。奇妙だった。自分は寝過ごしたからここにいるのに、目の前の男もこの村のことを知らないと言う。

「え?失礼ですが、どうしてここに来られたのですか?」

 石崎は首をかしげて斜め上を見て考えていた。

「えーと、私もあなたと同じバスに乗っていたのですよ。あなたは寝ていましたが、私はずっと起きていたので、それで先に降りたんです」

 ユウの心に疑問が渦巻いた。起きていたのに、この村に来た?なんで知りもしない村に来たのか、話が理解できなかった。

「え?知らない村に、なんで来られたのですか?」

 石崎は急に不機嫌になって答えた。

「うん。なぜでしょう?実は私、記憶がなくて」

 まさかの答えだった。奇妙な村で、記憶喪失の男性と出会う。やっと人を見つけて安心していた心がまた闇に傾き、絶望感に襲われた。

「あの、たびたび失礼なことを言いますが……本当ですか?記憶がないって」

 石崎はふふと笑って答えた。

「……そこは問題ですかね?とにかく、ここから出たい。それが私とあなたの共通項では?」

 もっともだった。同時に信用できない男だと分かり、一緒にいることが危険だと感じた。

「そうですか。あ、じゃあ、私、もう行きますね。石崎さんも気をつけて」

 ユウは我ながら意味の分からないことを言ったと後悔していた。石崎は小刻みにうなずき、霧の中へ消えていった。

 ユウは途方に暮れていた。トボトボと歩いていると、霧の中からバスで飴をくれた少年が現れた。ユウは笑顔になって近づくと、少年が言った。

「あ、お姉ちゃん、ボクのママどこにいるかしらない?会いたいのに、どこにもいないんだよ」

 ユウはハッとして身を後ろへ反り、何も言えずにいると、少年はそのまま、また霧の中に消えていった。

 少年と別れ、歩いていると公園があった。中に入ると、園内の木に人が首を吊って死んでいた。その下にまた遺書があった。

 手がかりを必死に求める思いで、ユウは遺体に手を合わせ、遺書を開いた。


『天国寺があると知ったが、いくら階段を上っても一向に寺まで辿り着かなかった。どうやら無限階段は本当らしい。疲れるばかりで諦めて、やっと下りてきた。この村に救いはない。私は疲れた。静かに休みたい。さようなら』

 ユウは絶句した。まるで自分の未来を見ているような気持ちになった。天国寺――次に向かう場所が決まった。


 ◆天国寺への道◇


 公園を出て霧を掻き分けて進むと、強風が吹き、目の前が晴れて巨大な谷と吊り橋が現れた。向こう岸までは一キロはあるんじゃないかという橋の長さだった。

 風で揺れ、橋が軋む音が聞こえる。渡っている途中でロープが切れやしないかと疑いたくなるような、頼りがいのない橋だった。

 近づいてみると橋にはロープが括り付けられ、その先に視線をやると、人が首を吊って死んでいた。橋の先まで、首を吊った死体が何体も風に揺れていた。

「……いったい、何人いるの?」

 橋の入り口から見えるその異様な光景にユウはめまいがした。木の看板が突き刺さるように地面にめり込んでいた。

『首吊り橋』と書かれている。

「見たそのまま……」

 橋の上を歩き始めると、まるで首を吊った死体でバランスを取っているような安定感が足元から伝わった。渡る途中、手すりのロープに犬や猫、カラスが首を吊られていた。

「……これは、おかしいよ。なんで動物が?」

 答えはなく、不気味に風に揺れていた。

 歩きながらその先にある山を見上げると、頂上が雲で隠れていた。橋を渡れば天国寺に近づける気がして歩みを進めた。

 ユウは強風に耐えながら慎重に橋を渡り、山の麓にある案内板の前に辿り着いた。


『天国寺への階段を上る方へ——徳を積んだ者のみ。徳なきものは途中まで——天国寺・住職 神羅雲海(しんらうんかい)


 ユウは案内板の内容を読んで絶望していた。——『徳を積んだ者のみ。徳なきものは途中まで』。それしか読み取れなかった。案内板の文字は、それ以外の部分が削り取られるように消えていた。

 ユウは内容の意味を理解できずに困惑するしかなかった。

 ユウは普通に生きてきた普通の女子高生。バスや電車で老人に席を譲るくらい……良い行いをした記憶などほとんどなかった。転んだ人に肩を貸して立ち上がらせた記憶がよぎったが、そんなことは普通のことだと思っていた。

「おや、冬樹さん」

 声がしたので振り向くと、石崎が立っていた。

「あ、石崎さん。天国寺へいくんですか?」

「ええ、この村に来ると、みんな結局ここに来るのですかね」

 そう言って石崎は案内板を読み始めた。

「おや、これは困りました。徳を積む、こりゃ無理がある」

 ユウはお辞儀をして手を振った。

「じゃあ、先に行きますね」

「あ、どうぞ、お気をつけて……」

 石崎はチラリとユウを見て軽く会釈した。


 ユウの前に長い階段が山の頂上まで続くように伸びていた。階段の横には石柱があり、『無限階段』と掘られていた。

「む、無限、階段……これかぁ」

 立ちくらみがするような宣告に躊躇したが、この階段を上る以外にこの村でやれることが思いつかなかった。階段を見上げると、霧で先が見えない。

 風が身体を抜けていく。木々が揺れる音と山の気配が仄かに騒いでいるようだった。

 ユウは階段に足をかけた。


 ◆中腹の休憩所◇


 ユウは中腹の休憩所に辿り着いた。

「うわ、やっと休憩できる。もう無理。水飲みたい……」

 屋根のある休憩所には木製のベンチとテーブルがあり、奥には整えられた黒い石の手水舎があった。正面には「飲料水」と書かれ、左上から竹筒のような管が手水舎に水を落としていた。杓子があり、ユウは水を汲んで飲み干した。

「ぷはぁ!あー!生き返るー!幸せだぁ……」

 ユウは満足し、押し寄せた疲れで、しばらく座ってぼーっとしていた。

「あ、冬樹さん。上るのがお早いですね」

 石崎が休憩所に現れた。杓子で水を飲み、ベンチに座ってユウに向かった。

「あ、石崎さんこそ上るの早いですね」

 ユウは居心地が悪くなり、立ち上がって別れを告げた。

「石崎さん、私、先に行きますね。ゆっくり休んでいってくださいね」

 逃げるようにいそいそと先を急ぐと、石崎が追ってくるように、後ろから続いた。

「あ、冬樹さん待ってください。私も行きます」

 ユウは驚いて振り返り、軽く微笑んで会釈した。

「あ、焦らずに頑張りましょう」

 それだけ言って階段を上った。石崎からは特に返事はなかった。霧が濃くなってきた。

「霧が濃くなりましたね。冬樹さん上るの早いから、気をつけて下さいね」

 背後から石崎の声がしたので、ユウは振り返った。返事しようと笑顔を作ったが、石崎の姿は忽然と消えていた。

 風が強まり、濃い霧が晴れて階段を下まで見渡せた。

 遠くまで階段が続き、途中にある休憩所まで分かるほどだったが、すぐに霧が立ち込めてまた見えなくなった。石崎はどこにもいなかった。前を向いて先を急ごうとすると、目の前の一段先に寺の門が現れた。

「え?着いた?」

 門には看板があり『天国寺』と書かれていた。すぐ横に勝手口があり、ユウは吸い込まれるように中に入った。


 ◆病室◇


 勝手口を抜けると、想像していた寺の内部とは全く違っていた。

「え?ここ、病院?」

 待合室の風景、担架で運ばれる人、付き添いと一緒にゆっくりと移動する老人、車椅子を押される人。微かに消毒液の匂いがした。音が反響するようで、少し遠くに聞こえた。ユウは周りを観察しながら歩いた。どこへいくでもなく、歩いていると、病室から誰かのすすり泣く声がした。聞き覚えのある声。ユウはその病室を思わず覗いた。

「あ!お父さん!」

 その病室で横たわる女性のそばで、父に似たおじさんと、兄に似た若者が、ベッドの若い女性の手を握って泣いていた。

 鼻と口を覆う呼吸器のような装置と、腕から伸びる点滴の細い管。心電図がベッドの脇で波を打っていた。見覚えのあるバッグと、スマホが置いてあった。ユウは確信した。


 心電図の音が浮いて聞こえた。


 若い男性が悔しそうに泣いている。


 点滴の雫がゆっくりと一定の間隔で落ちている。


 父に似たおじさんが、ベッドの女性の手を握り、肩を震わせて涙を流していた。


 このベッドで寝ている女性は……


『私だ』


 ユウは、目の前の二人を父と兄だと確信した。

 話しかけようとして病室に飛び込んだ。兄の肩に手を乗せようとすると、世界が横にズレて触れられなかった。

 何度やっても世界が横にズレた。

 目の前に肩がある。手を伸ばす。手の横に肩がある。何度やっても触れることができなかった。

 兄が泣き叫んだ。

「ユウ!目を覚ましてくれ!お願いだ!」


 父は下を向き、肩を揺らして静かに泣いていた。


 ユウは叫んだ。


「お兄ちゃん!お父さん!ごめんなさい!私、ここにいるわ!」


 声は届かなかった。


「ケーキ、取りに行けなくてごめんなさい」


 ユウが泣き崩れると、その瞬間に世界がズレた。


 病室が目の前に収束するように奥へ向かって流れて消えた。

 流れる景色の中にバスで飴をくれた少年が病室で寝ている姿が一瞬だけ見えた。

 そしてすぐに別の病室が現れた。


「え?ここ、どこ?誰?」

 目の前のベッドには男が寝ていた。振り返ると入り口には警官が立っている。スーツの男性二人が警察だと察しがついた。会話の内容が聞こえた。ベッドの男を見ると、見たことのある顔だった。

「石崎さん……」

 警察の話では、通り魔の犯行中、逃げた被害者を追って車道に出た瞬間、車にはねられたらしい。

 幸運なことに打ち所が良く、今は気絶しているだけ。身体的な問題はない。目を覚まし次第、逮捕する方針だという。

 警察の聞き込み調査により、犯人の動機は逆恨みと見られていた。犯人は周囲に不満を漏らしていた。ある証言によると『冬樹はもちろん、取引先の連中の家族を皆殺しにしてやる』……そう聞いていた人は、まさか本当にやるとは思っていなかった。

 警察は眠る犯人の横で捜査会議を進めていた。

『ふ、冬樹ってお父さんのこと?犯人はお父さんの会社の下請けだったってこと?』

 ユウの記憶が押し寄せるように蘇った。


『そうだ、私、刺されたんだ』


 ユウの世界が光に包まれて弾けた。


「……真相が分かったようね」

 お坊さんが目の前にいた。

 女性だった。

「え……案内板に書いてあった名前、神羅雲海さんですか?」

 僧侶の格好をした女性がにこりと微笑んだ。

「あれ、え?うそ……」

 ユウは坊主頭の僧侶を見て、すぐには分からなかったが、見つめていて気づいたことがあった。

 そして自然と涙がこぼれた。

「お母さん?」

 僧侶はコクリと頷いて微笑んでいた。

「わー!」

 ユウは母親に再会した驚きと喜びで飛びついた。しばらく泣き止まずにいた。ずっと抱きしめて、何も言わず、ずっと泣いていた。

 優しく抱かれて、頭を撫でられていた。

「お母さん、どうして、ここにいるの?」

「それはね……」


 ユウの母親は若い頃に病気で亡くなっていた。そして子供たちを残してきたことが心残りで『いし村』へ流れ着いた。

 天国寺の麓の橋の下に流れる川は三途の川――その上にかかる首吊り橋を渡り、天国寺まで辿り着いたものは、この先にある門をくぐれば天国に行ける。

 母は辿り着いた。

 しかし、母はまた子供たちに会いたいと願い、前の住職に天国行きの権利を譲った。

 そしてこの天国寺の住職となった。予定よりも早く我が子と会うことになってしまったが、母にとって今ここで抱きしめられているのが何よりだった。

「ユウ、あなた、このまま天国にいく気なの?」

 ユウは驚いた。

「まさか!私はお父さんとお兄ちゃんのいる場所に帰りたいよ!天国なんて行きたくない!」

「この寺の住職になって良かったわ。娘を正しい道に導ける。ユウ、この『延寿のメダル』を持って、来た道を戻りなさい。そして、霧の先にある現世の門で、それを使いなさい。そうすれば、お父さんたちのいる世界に戻れるわ」

 母はユウの手を握って金色のメダルを一枚渡した。

「……お母さんも一緒に帰れないの?」

 母は優しく微笑んだ。

「ごめんねユウちゃん。お母さんはここのお仕事があるから。でも、ずっと見てるわ。幸せに長生きするのよ」

 ユウは泣いて駄々をこねたが、やがて泣き止み、寺を後にした。

「お父さんと、お兄ちゃんをよろしくね」

 ユウは泣きながら頷いた。涙は止まらなかった。ずっと泣いていた。階段を下りながらも、涙は止まらなかった。泣き止もうとして、また泣いた……。


 ◆飴のお返し◇


 ユウは泣きながら、ひたすら何も考えずに下山した。

 途中で休憩所にいた石崎が声をかけてきた。

「あら、お嬢さん。天国寺はどうでした?天国に行ったんじゃないんですか?」

 不思議そうな顔をしていた。急に涙がピタリと止まった。

「あ、私、徳が足りないみたいで」

 手に握っていた金色に光るメダルを石崎は見逃さなかった。

「それはなんだ?!」

 そう言うと、スッと手を伸ばしてユウの手を掴んで、メダルを奪おうとした。ユウは咄嗟に躱したが、メダルを落としてしまう。石崎はそれを見逃さずにメダルを追いかけた。

 メダルは見事に階段を転げ落ちていった。

 ユウもメダルを追いかけて階段を駆け下りた。

「待って!それ私のメダル!返して!」

 二人は競うように階段を駆け下りた。途中で並走する状態になった瞬間にユウは石崎に突き飛ばされて転んだ。

「あ!痛っ!ずるい!」

 石崎は振り返って笑いながら階段を駆け下りた。

 メダルは階段を転げ落ち、案内板の脇で止まった。ちょうど案内板を見ていた少年がそのメダルの動きに気づいた。

 石崎は階段の上で勝ち誇ったように声を上げた。

「しゃっ!貰ったぜ!」

 案内板の前にいた少年がメダルに気づいて拾い上げ、ユウのいる階段を見上げ、ニコリと微笑んでメダルを持ってユウに向かって振っていた。

「お姉ちゃんお返しありがとう」

 そう一言だけ言うと、テケテケと走って霧の中に消えていった。ユウに声は届かなかったが、何を言ったか察しはついた。

 石崎は驚いて声を上げた。

「おい!おい!待て!それは俺のだ!」

 背後でその声を聞いたユウが叫んだ。

「ちょっと!何言ってるのよ!それは私がお母さんから貰ったメダルよ!私のよ!返して!」

 二人は階段を駆け下りて、案内板の横まで戻ってきた。激しく息を切らしていた。

「石崎さん!私のメダル取らないでよ!」


「うっせー!クソガキ!殺すぞ!」


「もう、殺したじゃない!」


 その一言で石崎は虚をつかれた。


「え、なんだ、分かってたのか」


 ユウは石崎をしばらく睨み付けたが、ため息を吐いてすぐにやめた。

「もう私につきまとわないでくださいね!」

 そう告げて、少年を探しに霧の中に入った。

 ユウは思い出していた。バスの中でこっちを見てニコニコしていた少年、飴をくれた。何かお返しをすると約束していた。

「でも、飴のお返しにあのメダルはダメだよ」

「ったく!」

 石崎は悔しそうに舌打ちをして、霧をかき分けて二人を追いかけた。


 ◆現世の門◇


 ゴゴゴゴゴゴ……巨大な門が開いていた。少年は門にメダルをはめて、開いた門から発せられている、まばゆい光の中に飛び込んだ。背後の霧の中から二人の大人が走ってくる足音がしていた。少年は一度だけ振り返り、何も言わずに門を抜けてどこかへ消えた。


 ゴゴゴゴゴゴ……門が閉じる音が響いた。


 やっと追いついたと思ったが、門の前でユウと石崎は焦燥しきった顔で、閉まっていく門を見つめていた。

「姉ちゃん、メダル、また貰えるんだろ?天国寺、もう一度行けよ」

 ユウは顔面が歪んでいた。

「ええ、何度でも貰えるわ。だって天国寺の住職は私のお母さんだから」

 二人は引き返し、無限階段を永遠に上り続けた。

「おい、いつになったら着くんだよ?」

「もう、石崎さん付いてこないで!」

 二人は並走して階段を駆け上がっていた。

「俺もメダル貰って帰りたいからさ」

「え? じゃあ、一歩階段を下がってください」

「階段を下がる?こう?」

 石崎が階段を一段下りると、スッと霧がかかってユウの姿が消えた。

「あ!やられた!」

 ユウはしてやったりの顔をした。

「ちょっと意地悪だけど、徳の低い石崎さんがいたら、ずっと天国寺が現れないから仕方ないよね」

 振り返ると、一段上に天国寺の門が現れていた。

「おかあさーん、メダルもう一個ちょうだい」

「あら、ユウちゃん、もう死んだの?」


 ――終わり

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