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名もなき私が"主"として歩む世界  作者: 餅屋


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9/11

9話

夜明け前、街を覆う“膜”の向こうが、かすかに朱を帯びていた。

「――行くぞ」

まだ誰も目覚めていない時間、俺たちは《星巡り》を出た。

トッドは店に残って、巡回の目を逸らすための“嘘”を仕込む役を買って出てくれた。

ここから先は、俺・ルチル・ハイド・ノエルの四人だけだ。

目的地は、膜の縁近くにある貯水庫の上部区画。湿度が高く、匂いが散りやすいあの場所なら、嗅覚兵の目もごまかせる。

「足元に気をつけろ、ルチル。滑ると危ない」

俺が声をかけると、ルチルはこくりと頷き、小さな歩幅でついてくる。


彼女の耳には“香りを誤魔化す装置”がついている。完全ではないが、少なくとも嗅覚兵の鼻をごまかす程度には十分だ。


初めて膜の“上”に出た彼女は、息を呑んだように立ち止まった。


「……わぁ……」


熱風が吹き抜け、膜の縁がふるふると震える。その向こう、赤茶けた空が地平まで広がっている。遠くには王城の塔が見え、白い光のような結界がゆらゆらと滲んでいた。


「これが……この世界の“外”……」

彼女の声は小さくて、けれど確かに震えていた。

俺はその横顔を見つめながら、昔の記憶を思い出していた。


――あの日、同じように外を見たがった“主”のことを。


『膜の向こうに、風はあるかな』


熱に弱く、喉をすぐ痛める人間だった。

それでも、外へ出たがった。世界を知りたいと笑っていた。

俺は止めた。止め続けた。けれど、止めきれなかった。

(今度は――)


「ルカ、来い」

ハイドの声に我に返る。前方を指差すその視線の先、膜の外を巡回する黒い影がいくつも見えた。嗅覚兵の一団だ。

奴らに見つかれば終わりだ。

「ルチル、絶対に俺から離れるな」

「うん」

緊張を滲ませながらも、彼女はまっすぐ俺を見た。その金色の瞳が、朝の光を受けて強く光っている。


ノエルが淡々と説明を始めた。

「東の貯水庫まで、およそ三〇分。途中に巡回が二班。足を止めず、視線を落とし、呼吸を整えてください」

「信号を渡るみたいに、止まらないことだ」

ハイドの声が低く響く。


ルチルは頷き、歩き出す。

小さな歩幅で、一歩、息。もう一歩、息。

まだ不安げだが、それでも前へ進もうとする意思が、彼女の背中から伝わってくる。

(強いな)

俺は、気づけば彼女の歩みに目を奪われていた。


守りたい、と思った。誰でもいい“主”ではなく、この人間を――この光を守りたいと。


「……もっと、知りたい」

ルチルが小さく呟いた。

「この世界のこと、私が何者なのか、全部。怖いけど、知らないままでいるほうが、もっと怖いと思うんだ」

その言葉に、胸の奥が静かに熱を帯びる。


(そうだ。君は“誰か”の代わりじゃない)


俺は深く息を吐き、心の奥で静かに決意を結んだ。

守りたい。奪われる前に。消える前に。

今度こそ――自分の手で。


「ここが貯水庫上層だ」

ハイドが立ち止まると、湿った風が頬を撫でる。

足元には透明な水脈が光を反射し、膜の縁の向こう、アンダーの荒野がぼんやりと見える。


ルチルは外階段で立ち止まり風を受けながら遠くを見つめた。

「……綺麗、だね」

その言葉は小さくて、でもどこまでもまっすぐだった。

俺はその横顔を見ながら、心の奥でただひとつの願いを繰り返していた。


(――今度こそ、守らせてくれ)

【☆世界のかけら☆】

《アンダー》──それは、都市を包む膜の外に広がる“灼けた大地”の呼び名。

平均気温は60〜65度にも達し、ただ熱いだけではなく、毒を含んだ風、金属の粉塵、皮膚を焼くほどの強烈な日射が吹き荒れている。

この環境では、生身の人間はわずか5〜10分で皮膚が損傷しはじめ、30分もすれば命が尽きるとされる。

外へ出るには、どの種族であっても特殊な薬剤や防護装備が不可欠だ。

そんな中でルチルが“生身”のまま生き延びたことは、それ自体がありえない奇跡であり、彼女が「ただの人間ではないのでは」と囁かれる理由のひとつでもある。

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