9話
夜明け前、街を覆う“膜”の向こうが、かすかに朱を帯びていた。
「――行くぞ」
まだ誰も目覚めていない時間、俺たちは《星巡り》を出た。
トッドは店に残って、巡回の目を逸らすための“嘘”を仕込む役を買って出てくれた。
ここから先は、俺・ルチル・ハイド・ノエルの四人だけだ。
目的地は、膜の縁近くにある貯水庫の上部区画。湿度が高く、匂いが散りやすいあの場所なら、嗅覚兵の目もごまかせる。
「足元に気をつけろ、ルチル。滑ると危ない」
俺が声をかけると、ルチルはこくりと頷き、小さな歩幅でついてくる。
彼女の耳には“香りを誤魔化す装置”がついている。完全ではないが、少なくとも嗅覚兵の鼻をごまかす程度には十分だ。
初めて膜の“上”に出た彼女は、息を呑んだように立ち止まった。
「……わぁ……」
熱風が吹き抜け、膜の縁がふるふると震える。その向こう、赤茶けた空が地平まで広がっている。遠くには王城の塔が見え、白い光のような結界がゆらゆらと滲んでいた。
「これが……この世界の“外”……」
彼女の声は小さくて、けれど確かに震えていた。
俺はその横顔を見つめながら、昔の記憶を思い出していた。
――あの日、同じように外を見たがった“主”のことを。
『膜の向こうに、風はあるかな』
熱に弱く、喉をすぐ痛める人間だった。
それでも、外へ出たがった。世界を知りたいと笑っていた。
俺は止めた。止め続けた。けれど、止めきれなかった。
(今度は――)
「ルカ、来い」
ハイドの声に我に返る。前方を指差すその視線の先、膜の外を巡回する黒い影がいくつも見えた。嗅覚兵の一団だ。
奴らに見つかれば終わりだ。
「ルチル、絶対に俺から離れるな」
「うん」
緊張を滲ませながらも、彼女はまっすぐ俺を見た。その金色の瞳が、朝の光を受けて強く光っている。
ノエルが淡々と説明を始めた。
「東の貯水庫まで、およそ三〇分。途中に巡回が二班。足を止めず、視線を落とし、呼吸を整えてください」
「信号を渡るみたいに、止まらないことだ」
ハイドの声が低く響く。
ルチルは頷き、歩き出す。
小さな歩幅で、一歩、息。もう一歩、息。
まだ不安げだが、それでも前へ進もうとする意思が、彼女の背中から伝わってくる。
(強いな)
俺は、気づけば彼女の歩みに目を奪われていた。
守りたい、と思った。誰でもいい“主”ではなく、この人間を――この光を守りたいと。
「……もっと、知りたい」
ルチルが小さく呟いた。
「この世界のこと、私が何者なのか、全部。怖いけど、知らないままでいるほうが、もっと怖いと思うんだ」
その言葉に、胸の奥が静かに熱を帯びる。
(そうだ。君は“誰か”の代わりじゃない)
俺は深く息を吐き、心の奥で静かに決意を結んだ。
守りたい。奪われる前に。消える前に。
今度こそ――自分の手で。
「ここが貯水庫上層だ」
ハイドが立ち止まると、湿った風が頬を撫でる。
足元には透明な水脈が光を反射し、膜の縁の向こう、アンダーの荒野がぼんやりと見える。
ルチルは外階段で立ち止まり風を受けながら遠くを見つめた。
「……綺麗、だね」
その言葉は小さくて、でもどこまでもまっすぐだった。
俺はその横顔を見ながら、心の奥でただひとつの願いを繰り返していた。
(――今度こそ、守らせてくれ)
【☆世界のかけら☆】
《アンダー》──それは、都市を包む膜の外に広がる“灼けた大地”の呼び名。
平均気温は60〜65度にも達し、ただ熱いだけではなく、毒を含んだ風、金属の粉塵、皮膚を焼くほどの強烈な日射が吹き荒れている。
この環境では、生身の人間はわずか5〜10分で皮膚が損傷しはじめ、30分もすれば命が尽きるとされる。
外へ出るには、どの種族であっても特殊な薬剤や防護装備が不可欠だ。
そんな中でルチルが“生身”のまま生き延びたことは、それ自体がありえない奇跡であり、彼女が「ただの人間ではないのでは」と囁かれる理由のひとつでもある。




