8話 後編
私はベッドの端に座り、耳飾りの冷たさを指先で確かめた。
――“香りを誤魔化す装置”。
名前の通りなのに、妙に心強い。今の私に、できることが一つ増えた気がした。
「ルチル、痛みは?」
ノエルがしゃがんで目線を合わせる。
「大丈夫。熱も……たぶん落ち着いてる」
「よかった」
彼女の外殻は無機質なはずなのに、近くで見ると表面の仕上げがやわらかい。触れないのに、やわらかい気配だけが伝わってくる。
トッドが工具を整えながら鼻で笑った。
「さて。巡回が一回目を終えた。次の周回まで、短けぇ“夜”だ。寝るなら今のうちに寝ろ。寝られねぇ奴は座ってろ。」
立つな――と言われると、余計に立ちたくなるのが人の性だ。
私はついベッドから立ち上がって、すぐに座り直した。
ノエルが小さく笑った。ハイドの口元も、少しだけ緩む。
「呼吸、覚えてるか」
ハイドが尋ねる。
「うん」
「なら、今はそれで充分だ」
ルカは少し離れた壁にもたれていた。
片手でマントを押さえ、もう片方の手を胸に当てている。
あの手が一瞬だけ私の肩に触れた時の冷たさを思い出して、胸の奥がじんと熱くなる。
(どうして、私なんだろう)
問いは、まだ消えない。
でも今は、それを無理やり言葉にしなくてもいい気がしていた。
「移動計画だ」
トッドが小さな地図を広げる。
膜の縁に近い貯水庫上部の空き区画、スパーナの廃工房、地下王国の連絡坑道――三つのルートが細い鉛筆で示されていた。
「第一候補は貯水庫の上。湿度が高いぶん匂いが散る。第二は廃工房。匂いは残るが、出入りが多くて紛れる。第三は……」
トッドの視線が、ハイドへ。
「連絡坑道だ」
ハイドは短く言う。
「王国の目は増える。だが追跡を切るには最短の網だ。リスクと効果が釣り合うとは限らない」
私は地図の線を目で追い、戸惑うが逃げるだけなら、たぶん選べる。
「私は……」
言いかけて、言葉を止めた。
焦らない、って決めたばかりだ。
ハイドが目だけで「今はいい」と伝えてくる。
ノエルが耳飾りの座りを確認してから、短く言う。
「練習しましょう。疑われない歩き方、視線の置き方、姿勢。信号を渡るみたいに――“止まらないこと”」
私は立ち上がる。
一歩、息。もう一歩、息。
小さな歩幅でも、止まらなければ進む。
階段の方を見ない。見たいけど、見ない。視線は少し下、足元の半歩先へ。
「いい感覚です」
ノエルが頷いた。
「信頼があると動きに自信が出る。信じろ。」
ハイドが呟く
“信頼”。
その音が胸の真ん中で響いた。
誰を? 何を?
――たぶん、まずは自分を。
「休むぞ」
トッドがラジオのダイヤルを軽く回す。外の音が遠のく。
地下水の音だけが残って、私はベッドに横たわった。
目を閉じると、すぐに“熱”の記憶が這い寄ってくる。
砂、赤い空、巨大な百足。
箱の木の匂い。
そして――
「……怖いか」
低い声。壁にもたれたまま、ルカが訊く。
『怖いよ』
正直に言うと、彼は少しだけ目を細めて、それからゆっくりと頷いた。
「怖いということは、生きたいということだ」
『うん』
「なら、明日も生きる為に行動しろ。俺がさせる」
(私が、する。私が、選ぶ)
胸の底から、微かに声が上がる。
それを掬い上げるみたいに、私は小さく頷いた。
『――ルカ』
呼ぶと、彼はすぐにこちらを見る。
緑に銀粒が混じった星屑が散った瞳が、薄い灯りを拾って静かに光る。
『さっきの“同じ”って、瞳のこと?』
「……ああ」
『その人は、どんな人だったの』
聞いた瞬間、空気が少しだけ冷えた。
ハイドとノエルが気配だけを遠ざける。トッドは工具を置いて、あえて何も言わない。
ルカは言葉を探すみたいに、唇に触れた。
『強くなかった。熱に弱く、よく喉を痛めた』
「でも、いつも外を見たがった。膜の縁で、風を感じるのが好きだった」
「俺は止めた。止め続けた。……そして、止めきれなかった」
その一言が、地下の空気を震わせた。
私はシーツを握り締める。
痛みは、彼のものなのに、私の胸が痛い。
「同じ瞳だ。だから、君でなければならない、とは言わない」
ルカは、はっきり言った。
「君が君として“外を見たい”なら、その時は――俺に守らせてほしい」
(守らせてほしい)
胸の奥の小さな声が、今度ははっきりと返事をした。
――信じたい。
この人の言葉を。
この人の手の冷たさを。
そして、明日の私を。
『……わかった』
私は息を吸って、吐く。
『まだ答えは出てないけど、でも、歩き方は覚えた。――もう進める』
ルカの肩がわずかにほどけた。
「それでいい」
ハイドが静かに立ち上がる。
「交代で見張る。ノエル、三十分の静音巡回を」
「了解」
トッドが灯りを少し落とす。
「寝られる奴は寝ろ。起きてる奴は、せめて目だけ閉じろ。」
私は目を閉じた。
暗闇の中で、耳飾りの重さが小さく在り続ける。
“香りを誤魔化す装置”――それは、私が進むための小さな道具。
少しづつ広がる知らない世界
水路の音が、変わらず流れる。
(私が誰かなんて覚えてないけど今の私はルチルだ)
一足ずつでいい。
止まらないこと。
手を伸ばされたら、伸ばし返すこと。
「ルチル」
微睡の底で、呼ばれた気がした。
返事はしない。けれど、心のどこかで確かに頷く。
――明日、私は“私のまま”進む。
⁂世界のカケラ⁂
耳飾りの擬装装置
人間種は特有の“匂い”を持つため、嗅覚に優れた機械生命体や一部種族にはすぐに判別されてしまう。擬装用耳飾りはこの匂いを覆い隠し、他種族のように偽装するための道具で、錬金術とエーテル技術の融合で作られている。完全な隠蔽はできないが、短時間の検査や巡回は十分やり過ごせる。




