10話
貯水庫上層の風は、夜が明けるにつれてじわりと熱を帯びていった。
結界の膜が遠くで淡く揺れ、赤茶けた空が静かに滲み出していく。
湿った風が吹き抜けるその場所は、街の中でも比較的安全とされる一角だ。
だが“比較的”というだけで、油断は死に直結する。巡回の影は確実に増え、空気そのものが張り詰めていた。
ルカは手すりに背を預け、外周をゆっくりと見渡した。
遠く、膜の向こうを黒い影が滑るように移動していくのが見えた。嗅覚兵の第二班だ。予定よりも早い。
「……増えてるな」
独り言のように漏らした声に、背後からハイドが応じた。
「王国は“噂”の段階でも動く。未契約の人間が現れたとなれば、尚更だ。今日か明日には探索機も投入されるだろう」
「来る前に動くしかないな」
ルカが短く答えると、ハイドは静かに頷いた。
「決断の猶予は、長くはない」
そのやり取りを耳にしながら、ルチルは膜の縁を見上げていた。
耳飾りを指先でなぞり、ほんの少しだけ息を吐く。
「……追われるのは怖い、けど、もっと世界を見たい」
彼女の言葉に、ノエルがそっと寄り添うように声をかけた。
「“主”となるというのは、恐れと同じくらい、希望でもあります」
「希望……?」
「はい。契約は、機械生命体と人間の“絆”です。けれど、それはひとつではありません。戦うために求める者もいれば、仕えることを喜びとする者もいる。導きを願う者もいます」
ノエルは自らの耳飾りを指で触れながら、淡々と続けた。
「たとえば、私は“尽くす”ことを望みました。主が歩む道を整え、声に従い、命を支えることが私の喜びです。
戦闘型の機体は、“守る”ことを強く願います。命令としてではなく、本能に近い衝動として。主の在り方が揺らぐと、自分も揺らぐほどに」
ルチルは視線を落とした。
その言葉の重みが、静かに胸に沈んでいく。
「……ルカは、“守る”ってこと?」
「そうです。彼は“守護”そのものを願う機体です。守りたいと思う存在が現れたとき、初めて本当の力を発揮する‥」
そして少し声を潜めて囁く
「彼は元々は愛玩機‥今は戦闘型の部分がつよいですが、いずれ主へ愛も‥欲して与えたいと願う心も芽生える‥メイド型である私ですらハイドを愛しいと思うのですから‥」
彼女がハイドを見つめる目には熱を含んでいた
ルチルは、そっと自分の胸に手を当てた。
“守りたい”と彼が言った時の声が、耳の奥に蘇る。
(どうして、私なんだろう)
それはまだ、答えのない問いだった。
けれど、問いがあるということは――進むことができるということでもある。
その時、ハイドがわずかに目を細めた。
「動きがある。巡回がひとつ、こちらへ向かっている」
ルカの体が即座に反応した。
マントの裾が翻り、彼はルチルの前に立つ。
「後ろに下がれ」
彼女が息をのむのとほぼ同時に、嗅覚兵の一団が膜の向こうに姿を現した。距離はまだあるが、風向きひとつでこちらの匂いを嗅ぎ取られる可能性がある。
ノエルが携帯装置のスイッチを押すと、耳飾りが微かに光を帯びた。装置が周囲の空気を攪拌し、匂いを散らしていく。
「……効果が出ています。今のところは大丈夫」
「油断するな。あれは嗅覚だけでなく、熱源も見る」
ハイドの低い声が響いた。
巡回が通り過ぎるまでの数分が、永遠のように長く感じられる。
ルチルは息を殺し、耳飾りをそっと握った。
その冷たさは、確かに“今”と彼女をつなぎとめてくれている。
(止まらないって、こういうことなんだ)
ノエルの言葉が脳裏をよぎる。
怖くても、立ち止まらなければ進める――それは呼吸のように、今の彼女の心に染み込んでいた。
やがて、巡回の影が遠ざかっていく。
空気がほんの少しだけ緩んだ。
「……行ったな」
ハイドの言葉に、誰もが安堵の息をつく。
「ここを拠点にするのは長くはもたない。次の移動先も視野に入れろ」
「わかってる」
ルカは短く返し、振り返ってルチルを見る。
その瞳は真っ直ぐで、どこまでも静かだった。
「……怖いか?」
「怖い。でも、生きたい」
その答えに、ルカはほんのわずかに目を細めた。
どこか痛そうで、どこか嬉しそうな顔だった。
「なら、俺がさせる。――生きるという選択を」
ルチルは静かに頷いた。
“主”になるかどうか、その答えはまだ出ていない。
けれど、止まらずに前へ進むことだけは、もう決めていた。
世界のかけら
《契約》──それは単なる従属の証ではなく、機械生命体がどのような“在り方”を願うかによって形が異なる。
戦闘特化型は「守護」を本能のように望み、仕えるために生まれた従属型は「尽くす」ことを喜びとする。
どのタイプも「どの人間でもいい」というわけではなく、自らが“守りたい”“尽くしたい”と感じる相手との契約を本能的に選ぶのだ。
契約後は個体差はあるが感情表現が豊かになり、個体の中には“恋人のような絆”を結ぶ者も存在すると言われている。




