5話
翌日、甘姫は歌っていた。ピアノが主体の静かな曲だった。
ボブカットの黒髪と肩を揺らして、リスナーの鼓膜から、心を震わせる、それが甘姫の歌配信だった。
甘姫はすでにメジャーデビューを果たしており、すでにCDを3枚ほど出している。甘姫は歌う時、必ずスタジオで行うため、音質も折り紙つきであった。つまり、この配信はプロアーティストによる無料ライブということになる。これが、週に1回の頻度で行われていた。
チャット欄にいるリスナーは静まり返っており、コメントは1分間に2つほどしか流れていない。3万人を超える視聴者のほぼ全てが、黙って歌を聞いている、ということだ。甘姫が歌っている最中はコメントをしてはいけない、という暗黙の了解があるので、本当はコメントをしたくてたまらないリスナーもいるのだろうが、浮くのは避けたいのだろう。
曲が終わると、チャット欄が沸き立つ。ほぼ不動だったチャット欄が目まぐるしく動き出した。
≪最高≫
≪888888888≫
拍手喝采だった。
「ふふ、それじゃあ、次のリクエストを受け付けますね」
≪恋春!≫
≪アニソンでもいい?≫
「ジャンルは問いません」
≪蒼と朱!≫
「あ、蒼と朱いいわね。私、最近アニメを観たの。ラストが特に良かったわ……あ、だめだ、これ言ったらネタバレになるか……危ない危ない……」
≪あれはガチで良かった≫
≪ネタバレしないでー!≫
「はい、リスナーのみんなもネタバレ禁止ですよ」
≪了解!≫
「そうだ、明日の夜は雑談配信をやろうかしら。面白い話を仕入れて来たから、楽しみにしててね」
≪きたああああ! 久しぶりの千夜甘夜だああああ!≫
≪待ってました!≫
≪っぱ甘姫って言ったら雑談配信だよなぁ!≫
甘姫の雑談配信は安定して面白いと好評だった。彼女のキレのあるエピソードトークは、誰が呼んだか、千夜甘夜物語と呼ばれていた。
甘姫はそれから、雑談を挟みながらリスナーのリクエストに5曲ほど応えた後、配信を閉じた。いつも通りの約2時間の配信だった。
***
初上は配信の終了を確認した後、大きく伸びをした。ガラス越しにミキシングブースを見ると、萌がピースサインを送ってくれていた。初上はそれに応えるように微笑んでから、マイクが置かれているレコーディングブースを後にした。
スタジオの片付けをしようとした初上を、萌が止めた。「私の仕事なので!」とのことだった。萌の言葉に甘えて事務所へと先に戻ると、鷹野が来ていた。彼は初上を一瞥して一言、お疲れさまです、と言った。
「鷹野さん、今日は事務所で仕事ですか?」初上が聞いた。
「はい、初上さんの歌配信が終わるのを待っていました」
「私に用が?」
「お話があります」鷹野が初上の目を見た。「配信は楽しいですか?」
「おや……」初上が片眉を上げた。「楽しいですよ」
「時に謂れもない悪意に晒されたとしても?」
初上は驚いた表情で鷹野を見つめた。鷹野は真顔だった。どこか遠くを見ているような、いつもの目つきだ。きっと笑うところではないのだろうけれど、鷹野の話の展開の仕方におかしくなって、くっく、と噛み殺すように笑った。
「配信者のみならず、生きていれば、他者から謂れもない否定をされることもあるでしょう」初上は澄ました声色を作って言った。鷹野のトーンに合わせたつもりだった。
「いいえ、普通に生きていれば、誹謗中傷に晒される毎日を送るなんてことはありません」鷹野が首を横に振る。
「そうかしら」
「そうですよ」
「私達のことが心配なのですね」初上は大げさに肩をすくめる。
「当然です」
「大丈夫ですよ」初上はそこまで言って、鷹野に近寄る。「たくさんの人に愛されたいと思うなら、たくさんの人に嫌われる覚悟をしなければなりません。私も、黒ちゃんも、それは理解しています」
鷹野が目を見開いて、初上を見た。彼女はもう、帰りの支度を始めていた
「それじゃあ、私はこれから大学に行くので」
「初上さん」
「はい?」
初上が振り返って目を丸くした。
「無理せずに」
初上はおどけたような表情を作ったのち、頷いて、事務所を出ていった。