8話
「あの、初上さん、まだメールの返信がなくて……」
喫茶店を出た初上が望月の働くビルの方向へと歩き出したので、加古井はその背中に慌てて声をかけた。
「ちょっと、行ってみましょう」初上は歩きながら言った。
「ああ、会社の前までですか?」
「ええ」
喫茶店から10分ほどで、そのビルに辿り着くことができた。加古井が思っていた何倍も大きなビルで、出入りしている人々はみな、高そうなスーツを着ていた。資本主義の前方をひた走っている人間特有の威圧感が、加古井の全身にびりびりと伝わってきていた。
「ええ……? ここ……?」加古井は身震いをしながら言った。「デカすぎません?」
「望月さんの会社は、業界の中ではかなり有名みたいです。バックについている企業も聞いたことがあったので、資本力もあるんでしょうね」初上が説明してくれた。
「そうだったんですね……こわぁ……」
「昨日、アルゴリズム・アーツについて色々調べてて、不思議に思ったことがあったの」初上がビルを見上げながら言った。
「なんですか?」
「この会社、バーチャルストリーマーのライブ運営を手伝ったりしている実績がほとんどなかったんです」
「え? じゃあ、ウチの依頼を受けてくれたのは?」
「多分、特別だったんだと思います」
「特別……ああ、アリアと甘姫だからか。流石にビックネームですもんね」
「いえ、そっちじゃなくて、おそらく黒ちゃんの方でしょうね」
「黒江さん……?」加古井が何かを思いついたように手を叩いた。「あ! そうだ、黒江さんの紹介だって、鷹野さんが言ってました」
「ええ、望月さんと黒ちゃんは、もともと何らかの関係を持っていた」
「何らかの関係……なんか少し、いかがわしいですね」
「違うわよ」初上が笑いながら言った。「望月さんの名刺、持ってきていますか?」
「もちろん、ありますよ」加古井はジャケットの裏ポケットから、名刺入れを取り出した。「これですね」加古井は、手に持っている望月の名刺に顔を近づけた。「バーチャルロボティクス事業部長、望月光……あれ、部長ってかなりすごいですよね?」
「相当偉い人ね。そんな人と黒ちゃんがどういう関係だったのか、知りたいでしょう?」
「知りたいです」
「じゃあ、行きましょう」
「え? あの、まだ望月さんから返信が来てなくて……」
勇敢な面持ちで歩き出す初上を、加古井は止められなかった。
ビルに入ると、大理石の地面と、高い天井が印象的なエントランスが二人を迎えた。正面にはエレベーターホールがあり、その手前に入退館ゲートがあって、許可なきものの侵入を防ぐ構造になっている。
「初上さん……どうするんですか?」加古井は耳打ちした。
「まあ、やってみるだけやってみましょうか」
初上はそれだけ言って、ゲートの横にある受付の方へと歩きだした。受付の人が初上と加古井に気が付いて、立ち上がる。
「あのう、先月からこちらで業務委託として出入りしている初上なのですが、ゲートキーを忘れてしまいまして……仮のキーをいただけませんか?」初上がおどおどした口調で言った。
加古井は初上の発言を聞いて驚いたが、ここは黙っていることを選択する。
「かしこまりました。こちらに上司の方の名前と、社員番号と、あなたのお名前をご記入ください」
「わかりました」初上が言われた通りに書き出す。上司は望月光、社員番号はおそらく適当だろう。そして自分の名前を書いていた。加古井の分も初上が書いてくれたようだった。
「ではこちらが、本日限定の入退館キーになります。エントランスホールのみ使用が可能ですので、目的のフロアにつきましたら、内線で上司の方か同僚の方に連絡をして、オフィスのドアを開けてもらってください」
「わかりました。ありがとうございます」初上は頭を下げて、カードキーを2枚受け取って、ゲートの方へと歩き出した。
「はい、麻衣さんの」初上がキーを手渡す。
「あ、ありがとうございます……」加古井が小声で言った。「あのう、一応ですけど、業務委託とか、嘘ですよね」
「もちろん」初上はウインクする。
「ちょ、辞めましょうよ。別に待っていればいいじゃないですか」加古井が初上の腕を掴んだ。
「メールの返信がないんでしょう? なら、仕方ないわ」
「なんでそんなに急ぐんですか……⁉ 見つかったらやばいですって!」
「もたもたしていて、証拠を消されでもしたら面倒だからです」初上に人差し指を口元に当てた。「望月さんとアリアの復活は、絶対に関係あるわ。万が一、アリアを悪用しようなんて考えているようだったら、阻止しないといけない。そうでしょう?」
「うぐぅ……」加古井が顔をしかめる。「わかりました。地獄までついてきます」
「私は天国だから、そっちに行くなら麻衣さんおひとりですよ」
「いいから! もう早くいきましょ……!」加古井は小声で凄む。「なんか受付の人、こっち見てますよ……!」
「ええ、怪しまれないうちに、上がってしまいましょう」
二人はゲートをクリアし、6基ある巨大なエレベーターのうちの一つに乗った。
「何階でしたっけ?」
「アルゴリズム・アーツは23階ね」初上が23のボタンを押すと、エレベーターが上昇を始めた。どうやらこのビルは、32階が最上階のようだった。途中の階で男が二人乗ってきたが、初上たちよりも前に降りていった。
23階に到着すると、エレベーターのドアが開く音が、静寂に包まれたオフィスビルの廊下に響き渡った。加古井は初上の背中について、エレベーターの外に出た。
歓迎されていない。加古井はそう思った。大勢の知らない人たちが働いている場所に迷い込むのは就職活動の時以来だった。あの時はまだ面接のアポがあったから良かったものの、今回は何もない。招かれざる客なのだ。誰もいないこの廊下の居心地は最悪だった。
ふと、広々としたガラスの窓から見える都会の街並みに目を奪われた。太陽の光を反射するビル群と、遠くに見える東京タワーの赤色と白色が、輝かしい舞台で歌うアリアと甘姫を思い出させるような風景で、緊張していた心を少しほぐしてくれた。
「合ってるわね」初上が指を差した先に、シンプルだが洗練されたデザインのロゴが輝いている。「ALGORITHM・ARTS」と刻印されていた。
「どうします? ダクトとか探してみますか?」
「ダクト?」初上が首を傾げた「ああ、いえ……」
加古井のジョークがじわじわ伝わったのか、初上は肩を震わせて笑っていた。
「流石にね」笑い終えた初上はそう言って、入り口の横に設置されていた受付内線用の受話器を持ち上げた。
「初上三無姫と申します。バーチャルロボティクス事業部長の望月様とのお約束で参りました。はい、あ、初上三無姫です。はい、お願いします」
初上が無言になった。おそらく、受付の人が繋いでくれているのだろう。お約束が、と初上は言っていたが、もちろん約束などないはずだ。
「はい……ああ、そうなのですか。いえ、待てます。とんでもありません。では、よろしくお願いいたします」
受話器を置いた初上が振り返って、右手でGOODサインを作った。
「え? いけたんですか?」
「望月さんはいないみたい、部下の人が来てくれるって」
「えぇ……? ノンアポなのに、どういう了見で迎えてくれるんですかね……」
「さあ……まあ、ちょっと話してみましょうか」
「部下の人と何を話すんです?」
「望月さんの最近の動向を探ってみましょうか。出来る範囲で」
そこで、入り口のドアが開く音がしたので、二人とも黙りこんだ。ドアの隙間からひょっこり顔を出した若そうな女性が、望月と加古井の顔を見て、目を丸くしていた。
「はじめまして、初上三無姫です」初上は軽くお辞儀しながらにこやかに言った。
「あ、あ、はじめまして、関と申します」関と名乗った女性は慌てて、廊下の方に出て来て、お辞儀をした。加古井もそれ合わせて頭を下げる。
「あの……望月さん、あ、いやっ! 弊社の望月なんですけど、ただいま外出中でして」関が緊張した面持ちで言った。
「ええ。いつ頃お戻りになるなど、お分かりになりますでしょうか?」
「そのぅ……それが、気付いたら席にいなくなってしまっていて、私も分からないんです……」
気づいたら席にいなかった、という情報は来客には伝えなくてもよいのではないだろうか。関の初々しさが可愛く感じて、加古井は小さく吹き出してしまった。
「ちょっと、麻衣さん……!」
初上に肘うちされた加古井が姿勢を正す。
「ご、ごめんなさい」と加古井。
関は、初上と加古井を交互に見ては、何を言ったらいいのか困っている様子だった。
「あの、どこかで待っていてもよろしいでしょうか?」初上が優しい口調で言った。
「あ、はいっ! すみません、お待たせするようになってしまって……」と関。
関はおそらく、こちらのことをアポの予定がある客人だと思っているようだ。上司の望月はその予定をすっぽかしているということになる。本当はただ押しかけているだけなのに、丁寧に対応してもらっているのが申し訳なく感じた。
「こ、こちらに」
関の案内で、会議室へと通された。彼女はお茶を持ってきます、と言って、部屋を出て行った。
「なんか、可愛いですね」加古井がうきうきで言った。「新卒の子でしょうか?」
「多分、そうね」初上が右の口角わずかに上げる。「申し訳ないけれど、少し捕まえて、話を聞いてみましょう」
二人が座って待っていると、関が紙コップに入ったお茶をお盆に乗せて入ってきた。
「あの、こちら、お茶になります」
「ありがとうございます」二人は会釈をして、お礼を伝える。
「あの関さん」初上が恭しく切り出した。「この間は、どうもありがとうございました」
「はい? え?」関は目を大きくして、狼狽えている。
加古井も「はい?」という顔を、初上に向ける。一瞬、何の感謝なのか分からなかったが、それはすぐに判明した。
「私は大和田芸能事務所の者です」
「あ、あぁ……!」関が手を叩いた。「あの、ライブのご依頼でしたよね。望月さん個人の案件だったので私は直接関わってないのですが……こちらこそ、ありがとうございました」
加古井はいそいそと立ち上がって、名刺を取り出した。
「あっ、名刺……」関がそれに気づいて対応する。
「大和田芸能事務所の加古井麻衣と申します」
「あの、アルゴリズム・アーツの関です……」
関三咲という名前の上に、バーチャルロボティクス事業部と書かれていた。
「ごめんなさい。私、名刺が……」初上が申し訳なさそうな声で言った。
「あ、いえ、ぜんぜん、大丈夫です……!」関が首を何度も横に振る。
加古井が席に座り直したが、関はその間、固まって動かなかった。時間を止められているのかと思うぐらい、呆けた表情で初上の顔を見つめ、お盆を抱えたまま微動だにしなかった。
「関さん?」初上が首を傾げる。「どうしました?」
「あ、あ、甘姫……ですか」関が絞り出すような声で言った。
初上と加古井が、顔を見合わせる。初上が口元に手を当てて、上品に笑った。加古井もつられて、口元を緩めた。
「あああ……! ごめんなさい、余計なことを言ってしまって」関が深々とお辞儀した。
「秘密保持契約は結んでるので」加古井が、関にもはっきりと聞こえるような声量で言った。情報漏洩するなよ、という脅しも含めての言葉だった。
「ええ、じゃあ、構わないわね」初上が頷く。「そうです、私が甘姫ですよ。声で分かりますよね」
「うわぁ……!」初上が正体を明かした瞬間、関の目が輝きだした。「すごい、その、似てますっ!」
「え? 甘姫に?」初上がきいた。
「はいっ!」
そんなに似てるだろうか? と加古井は考えた。甘姫は黒髪のボブカットで、切れ長のつり目が特徴的な大和撫子顔で、コスチュームは和服だ。初上は黒髪ではあるが、長さはロングだし、目は大きく、つり目ではない。そして今日はスーツを着こなしている。
「見た目が似てるとは、あんまり言われたことないですね」初上が苦笑いを浮かべながら言った。
「そのぅ、雰囲気がもう、甘姫だなって……!」関が興奮を隠しきれない、という様子で言った。
「そう。うれしいです。ありがとうございます」初上が微笑んでみせる。
「いえっ! そのっ! こちらこそありがとうございます」
「関さん、さては甘姫派ですね?」加古井がすかさず言った。
「あの……はい、大好きです……」関の口調は、好きな人に告白しているかのようだった。
「どうもありがとう、これからもよろしくね」と初上。
関はお盆で口を隠しながら、感激している様子だった。
「関さん、ひとつ聞いてもいいでしょうか」初上が口角上げながら言った。
「はい! なんでも聞いてください」
「そうね……」初上は考える。「白日アリア、休止したのは知ってますよね」
「え? それはもちろん知っています。でも昨日、復帰していましたよね?」関が言った。
初上は、加古井の反応を確認するために横を向いた。彼女もこちらを見ていた。
関の反応を見るに、彼女は黒江が亡くなったことを知らないのだろう。
「そのことについて、望月さんは何か言ってましたか?」
「アリアちゃんの復帰についてですか? いえ、何も……」
「望月さん、バーチャルストリーマーとか普段見ない感じなんですかねえ」加古井が言った。
「いえいえ、ウチはバーチャルロボティクス事業部ですから、望月さんは毎日のように配信を見てますよ」関がニコニコしながら言った。「ここ半年ぐらいはずーっと、アリアちゃんの配信を監視するように見てましたから、望月さんはアリア派なんだなあ、って思ってました」
「ほう……」加古井が腕組みを始めた。「昨日、アリアの配信が突然始まった時、関さんは望月さんの傍にいましたか?」
「え? えーっとですね……」関は、天井を見上げて考えているようだった。「昨日の配信が始まった時……あ! そうです、昨日も望月さん、今みたいにどこかに消えてしまって。探すのが大変だったんですよ」
「望月さんはどこにいたんですか?」初上のレスポンスは早い。関を問い詰めているようにも聞こえたほどだった。
「えーっとですね……」
関が答えようとしたその時、ノック音が聞こえた。部屋の中の3人は、会議室のドアを振り返って見つめた。
返事をする前に、ドアが開かれた。加古井が思っていた通り、ドアの先には望月がいた。彼女はおなじみの無表情で、3人の顔を確認したあと、関に向かって言った。
「関さん、彼女たちは私のお客様です」
「あ……失礼しました」
「望月さんが来るまで、話し相手になってもらっていたんです」初上が続ける「関さん、案内いただいて、どうもありがとうございました」
「あ、う……その……」関が分かりやすく狼狽える。
「そうでしたか。ありがとうございます。では、関さんは戻っていただいて構いません」と望月。
「あ、はぃ……」関は初上たちに会釈をして、駆け足で会議室を出て行った。
会議室のドアが閉まる。
加古井は緊張していた。
望月の口から出る、次の言葉が怖かった。
「すみません。メールの返信が遅くなってしまいました」望月は加古井たちの座っている向かい側の椅子に腰をかけながら言った。
「え? あ、いえいえ……そんな……」予想外の言葉だったので、加古井は返答に詰まらせる。
「望月さん、アリアについて聞きたくて、ここまで来ました」初上がまっすぐに望月を見据えて言った。
あまりに堂々としている初上を見て、この人に怖いものはないのだろうか? と加古井は疑問に思った。警備員を呼ばれて、つまみ出される心配とかしないのだろうか。
「わかっています」望月が頷く。「もう少し仕事が残っているので、終わってからでもかまいませんか?」
「ええ、もちろんです」初上が答える。
「食事でもしながら、話しましょう」と望月。
「喜んで」初上は微笑んた。




