1話
黒江理沙はまだ生きている。
黒江は今から30分後、19歳の誕生日を迎える。しかし、彼女が用意しているのは苺の乗ったショートケーキではなかった。
都内で一人暮らしをしている彼女は、防音室の中にいた。デスクに置かれたモニターの前に座り、唇を小刻みに震わせる発生練習をしている。黒江の口元に置かれているコンデンサマイクがリップノイズを拾っていた。
「あ、え、い、う、え、お、あ、お」黒江の透き通るような高い声が、PCに繋がれたスピーカーから流れ出した。
「音量よしっ、と」
黒江の瞬きに合わせて、モニターに表示されている2Dの美少女の瞼も同じように瞬きをしていた。
「んんっ! え〜と、こんアリア〜」
黒江はそう言って、屈託のない笑顔を作ってみせる。すると、画面の中の金髪の少女もニッコリと笑った。
「カメラもよし」
サブモニターには、配信画面が映し出されており、右側のチャット欄はすでにアリアを祝う文字列で埋め尽くされていた。
「誕生日の今日も私はアリアですよ〜、っと」
配信準備を概ね済ませ、飲み物を取りに行こうとした黒江を呼び止めたのは、スマホの着信音だった。画面には『鷹野マネージャー』と表示されている。
「はい」
「お疲れ様です。一応、確認の電話です」鷹野は落ち着いた声色でそう言った。
「起きてるよーだ。鷹野さん、心配しすぎ」
「ですから、一応です」
「鷹野さん鷹野さん、聞いて聞いて」
「何ですか?」
「今日ね、私の誕生日なんだー!」
「おめでとうございます」鷹野の声のトーンは変わらない。
「えー、それだけ?」黒江は不満そうな声を上げた
「プレゼントも事務所に届いてますよ」
「それは白日アリアにでしょ?」
「嬉しくないのですか?」
「嬉しい!」
「それはよかった」
「黒江里沙宛に、鷹野さんからはないの?」
「ああ……今度お会いするときに用意しておきます」
「なんか業務的」
「業務的?」
「私がなんか、お願いしてプレゼントを貰おうとしてるみたいじゃん! 鷹野さんはそれにイヤイヤ応えてる感じじゃない?」
「事実、プレゼントが欲しい、と言ったではありませんか」
「はいはい、もう時間だから切るね」
「はい、僕も配信は監視しているので、何かあればチャットで連絡します」
「はーい」
黒江は電話を切り、くすくすと笑った。
「さてさて、今日も始めますか~」
椅子に座り直して、短く息を吐く黒江。配信開始を待っている鷹野を想像して、おかしくなってまた笑う。きっと、コーヒーでも淹れて、退屈そうな表情を浮かべているに違いない。
黒江が配信開始のボタンをクリックすると、誕生日配信が開始された。
***
白日アリアは微笑みながら挨拶をした。
「こんアリアー!」
≪こんアリア!≫
この白日アリアの笑顔は、配信プラットフォームを通じて全世界に配信されている。
アリアの挨拶に呼応するようにして、チャット欄がお祝いのコメントで埋め尽くされた。アリアの誕生日に集まっているリスナーの数は、延べ4万人に及んでいる。日本語のコメントだけでなく、英語やその他様々な言語でのコメントが、アリアの配信開始を喜んでいた。
「誕生日を迎えましたが、アリアは今年も18歳ですっ!」
白日アリアはバーチャルの存在なので、歳をとらない。バーチャルストリーマーの中にはしっかり誕生日に加齢する者も存在するが、アリアはそうではない。つまるところ、永遠の18歳なのだ。
≪今年も18歳の誕生日おめでとー!≫
コメントと共に配信者に投げ銭をすることができる『ハイパーチャット』が飛び交っており、配信開始後の数秒で、アリアは既に30万以上稼いでいた。毎回このようなことが起こるわけではない。今日のリスナーの羽振りが良いのは、アリアの誕生日だからだろう。ファンは推しの誕生日に、推しが喜ぶ姿が見たくて、お金を投げ入れているのである。
「みんな、ありがとー!」アリアは笑顔で応える。「ハイパーチャットもこんなに沢山……! 配信機材を整えるのに使わせて貰うね! ありがとう! 3Dライブの相談とか、今進めているので、楽しみにしててね!」
アリアは高速で流れていくハイパーチャット達を読み上げて、リスナーの声に応えている。30分ほどそういった時間が続き、やっと勢いが収まったところで普段どおりの雑談が始まった。
「みんな、今日は何してた?」
≪いま夜勤の仕事中です≫
「うわお、仕事中に見てても大丈夫なの? 怒られないようにね〜」
≪普通に学校行ってた≫
「学校お疲れ様、っと! 楽しかった?」
≪ニートもいますよ、っと≫
「ニートさんは今日も元気だねえ、私と一緒だ!」
高速で流れていくリスナーのコメントをピックアップして、ツッコミを入れたり、おちゃらけてみせたりする彼女だったが、視界の片隅に入ってくる『荒らしコメント』を全く気にしていないわけではない。セクハラまがいのものや、アリアの悪事を捏造したりしているものもある。4万人の人間が集まっている場所なので、アリアのことをよく思わない人間が紛れ込むのも、仕方のないことだと言える。彼女もそれは理解していた。
≪配信者はいいよな。ただゲームやってるだけで金貰えんだから。社会的にはゴミでしかないのに≫
≪声キモすぎだろ。なんでこんなやつが人気なん?≫
≪え? これただの絵だよね? 中身ババアでしょ?≫
≪彼氏はいるんですか? 先日、新宿でアリアさんに似た声の女性が男の人と歩いているのを目撃しましたけど、嘘ですよね? 一万投げるので、正直に答えてください≫
「わあ! 一万円もありがと! えっと……かれ……」
ハイパーチャットで送られてきた『荒らしコメント』を読み上げそうになってしまったアリアは、慌てて言葉を止めた。
「あ、危ない危ない、変なコメント読みそうになっちゃった! ごめんね。ハイパーチャットは嬉しいけど、ブロックしとこっと……」
アリアの対応はスムーズで、特に何か問題があるわけではなかった。しかし、リスナーの方はそう上手く受け流すことができなかったようである。
≪彼氏いじりとかきめぇんだよ。絶対陰キャやん≫
≪実際、彼氏と新宿歩いててもおかしくないよなー。そう考えるとこえーわw≫
≪全部読み上げたわけじゃないからセフセフ≫
≪いちいち反応する人がいるから、荒れるんだよ。よく考えてコメントしようね≫
≪彼氏ぐらいるだろ、毎晩ヤッてんのが普通だから。オタク夢見すぎ≫
「あ……」
瞬く間に阿鼻驚嘆の4文字が相応しいチャット欄が出来上がり、アリアは言葉をつまらせた。
「あ、あのね、聞いて。来週また甘姫ちゃんとコラボするよ! ゲームコラボ! 話題のペアでクリアするホラーゲームやるから!」
アリアが話題を変えようとしたが、リスナー達のヒートアップは止められない。
≪バーチャルストリーマーの中の人は大抵クソブスだから、ガチ恋勢は現実見たほうがいいよ≫
≪中の人www。お前は何を見に来てるんだ? 営業妨害で訴えられてろバーカ≫
≪本名、黒江里沙確定! 中の女の写真出回ってるぞ! 本名、黒江里沙確定! 中の女の写真出回ってるぞ! 本名、黒江里沙確定! 中の女の写真出回ってるぞ! 本名、黒江里沙確定! 中の女の写真出回ってるぞ! 本名、黒江里沙確定! 中の女の写真出回ってるぞ! 本名、黒江里沙確定! 中の女の写真出回ってるぞ!≫
≪連投キモ過ぎだろ≫
≪黒江里沙って誰? マジで流出してんの?≫
「あ……」
何か言葉を続けないと。
本名や写真が流出してから、毎回こうだ。
今は配信に集中しよう。反省は後で。
場を盛り上げなければいけない。自分は今、白日アリアなのだ。
息を短く吸って、覚悟を決める。
溢れ出そうになる感情を抑えて、口角を無理やり上げる。
言葉は常にポジティブなものを選ぶ。
声のトーンは絶対に下げてはならない。
泣きそうになる心を気取られないように、負の回路をシャットアウトする。
「だから……来週も楽しみにしてて欲しい……です」
コメントの流れは更に早くなる。リスナー同士が稚拙な言葉で攻撃し合うさまはまるで子供の口喧嘩のようではあるが、アリアの表情を曇らせるには十分だった。
アリアの配信では、このような光景は日常茶飯事だった。
いつも通りのコメント欄であるはずなのに、今日はなぜか、一段と気に入らない。
せっかくの誕生祭なのに。アリアが生まれた日で、みんなに喜んでもらえると思ったのに。どうして?
気持ちが悪い。
息が上手くできなくなる。
否定されるのには慣れたはずなのに、自分に向けられる心無い言葉の数々が、私の生命活動を脅かす。
アリアが無言になったため、コメント欄からは心配の声が上がる。アンチも多いが、ファンのほうがずっと多いのだ。
≪効いてる効いてるw≫
≪もう辞めろよ。配信向いてねえって≫
しかし、アリアの眼に映るのは、醜悪な文字列ばかりだった。
視界がぼやける。
過呼吸になる。
震える右手をなんとか操って、PCをシャットダウンさせた。
***
黒江は、大きくため息をついて、デスクに突っ伏した。先程まで大きなデスクトップPCのファンの駆動音でうるさかった部屋が嘘のように静かになっていた。
デスクの細かな汚れを凝視しながら、頭で思考を巡らす。何の問題も無く遂行される予定だった誕生日配信の内容を振り返っていた。
やらかした、と思う。
いつもこうだった。どこの誰かもわからない人間に、自分の感情を踏みにじられる。一体何が彼らを動かすのだろう……。いや、彼らが悪いのではない、自分の立ち振舞いや発言に問題があるのだ。そう仮定していないと、ますます意味がわからなくなる。
やっと作り上げた自分の居場所なのだ、大事にしなければ。
黒江は自分にそう言い聞かせ、心の隅の方に追いやっていた負の感情を、心の更に奥底へと押し込んだ。この感情が活動の邪魔になることは、黒江は身を持って知っていた。リスナーは配信者の負の感情を嫌う。考えれば当たり前のことである。楽しい時間を求めて配信を見に来ているのに、愚痴を聞かせられたのではたまったものではない。負の感情を吐き出したいという欲求に負けること自体が、自分の居場所脅かすことになりかねない。リスナーは深夜のLINEにつきあってくれる友人ではないのだ。
不公平だ、と黒江は思った。リスナーは所構わず負の感情をこちらにぶつけてくるのに、配信者はそれを受け止めることしかできない。道理を言うなれば、お互いが我慢をするべきではないだろうか。
そこまで考えて、黒江はふっと息を吐いた。不公平とか、そんなレベルの話ではないことに気づいて、悩んでいる自分自身が可笑しく感じたからだ。
4万人のリスナーがいれば、4万通りの価値観や感情に囲まれることになる。何が正しいとか、正しくないとか、好きとか、嫌いとか、そんなものを考えるだけ無駄だ。どのリスナーの価値観をピックするかによって、状況が変わる。それなら、よりエゴイスティックに、自分にとってより良いリスナーだけに目を向けていくのがベストだろう。
自分の……黒江里沙の感情は無視で良い、そうやって、白日アリアを守らないといけないのだ。黒江はそう結論付けて、思考をリセットした。
大丈夫、いつもは無視できている。
最近は少し、アリアと自分のこれからについて、考え過ぎていたかもしれない。
問題ない、全て。
望む未来は、すぐそこにある。
なんだか自分が考えていることがおかしく感じた黒江は、部屋でひとり笑い出した。
ふと、スマホを確認すると、既に午前3時を回っていた。
20分ほど前に、鷹野からメッセージが来ていたことにも気づいた。内容を確認する気にはなれなかった。配信の内容が内容だったので、鷹野はきっと心配しているだろう。もしかしたら電話がかかってくるかもしれないと思い、スマホをサイレントモードにした。
まだ眠くなかったのでSNSを眺めていると、フォロワーがアップしていた料理の写真を見つけて、自分の空腹に気がついた。そういえば半日ほど何も食べていない。昼に起床してから、菓子パンを1つ食べたきりだ。誕生日配信の準備に1日中時間を掛けていたので、食事を忘れていた。
防音室出て、冷蔵庫の中を確認しに行ったが、めぼしいものは入っていなかった。黒江に自炊の習慣はないので、常に入れているのはせいぜい飲み物ぐらいである。いつも使っている、食料品を即時配達してくれる業者も、流石にこの時間帯は動いていない。
空腹を満たすことを諦めた彼女は、ふと、誰もいない、暗い部屋を見回してみた。
真っ黒になったディスプレイに自分の顔が反射して、彼女は思わず顔をしかめた。別に自分の顔が特別嫌いなわけではないが、アリアの顔があった場所に映る自分の姿には嫌悪感を感じてしまうのはなぜだろう。
窓から僅かに差し込む月明かりすら煩わしく感じた黒江は、カーテンをぴったりと閉めて、本当の意味で真っ暗になった部屋の隅にあるベッドに、身を預けることにした。
枕に顔をうずめ、しばらくとりとめのないことを考えていた黒江だったが、30分もしないうちに眠りにつくことができた。
夢の中の黒江は、白日アリアの姿で現実世界を歩いていた。
まるでそれが、いつもと変わらぬ日常であるかのような顔で、彼女は見慣れた街を闊歩していたのである。