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玖泉  作者: ebi
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第弐話




 連龍会は、関東最大の極道組織である。


 一次組織〝連龍会〟の下には四つの二次組織が控え、その下には百余りの三次組織が存在している。主に不動産業や建設業、風俗営業に金融業、海外への輸送業で莫大な利益を上げている一方で警察上層部との強い癒着も囁かれている。更には暴力団と共生する者との結託で、違法行為を全面的に隠蔽する事にも成功した。水面下で、連龍会の活動は全土に広がりつつあると言っても過言ではないだろう。


 そんな連龍会が所有する広大な土地・玖都は、会が取り仕切る不動産業の中でも毎年利益を上げ続けていた。理由は〝どんな人間でも入居条件を満たせば警察の目から逃れられる〟という点が大きい。犯罪者もその中では一個人として尊重され、団地の中の仕事に就ける。

 悪く言えば〝法から逃れた者の溜まり場〟、そして良く言えば――


「〝最期の砦〟、と人々はそう表現しています」


 眼鏡を掛け髪の毛を七三分けにした、いかにも職員ですと言った風貌の男性は、にこやかに説明を続ける。


 一之瀬雨月いちのせうげつ、それが彼の名前だ。


 肩書は、連龍会直参れんりゅうかいじきさん蛇牀組本部長はまぜりくみほんぶちょう。二次組織の一つである蛇牀組は、組長である蛇牀心はまぜりしんが元不動産経営の両親を持っていた事等の理由から、管理局全体の運営や入居者の管理全般の事務を任されていた。本部長である雨月も現在こうして、管理局の受付事務から資料管理、取り立てのほぼ全てを担っている。


「お隣に住んでいらっしゃる方が有名な殺人犯と言う事で部屋の変更を申請しに来られた様ですが、最初の書類に〝如何なる場合でも部屋の変更は受け付けません〟と記載させて頂いている筈です。お引き取り下さい」

「そ、そんな……あの女の人本当に怖いんです…ッ。今朝もブツブツ何か言いながら走り回って、笑ってもいたし…」

「では注意勧告だけ促しておきましょう。お引き取り下さい」

「どうしてッ! このままじゃイカレたあの女に私殺されるかもしれないのに…っ」

百瀬ももせさん」


 がたり、と椅子を揺らして必死に抗議をする百瀬と呼ばれた女性は、雨月の低い声に思わず息をのんだ。雨月は引き出しから入居時に渡した書類と同じものを取り出せば、ある一文に赤いマーカーで線を引く。


 ――〝この団地は、入居者の命の保証は一切しません〟。


「貴女は二か月前、この書類にサインをしておられます。管理局はあくまで事件が起きた時に動く警察代わりの存在。未然に未然に、とあちこちに人を配置していては本来の仕事に支障が出ます。確認を怠りサインをしたのであれば、違約金を支払って部屋を再契約しますか? ――貴女も、数々の男を騙して詐欺を働いた身でしょう。そうして最後の男に腹いせに襲われ、子供を身籠り生活が苦しくなってここに逃れてきた。この期に及んで、泣き寝入りするんでしょうか」


 雨月の最後の一言に、百瀬はそれ以上何も言わず管理局から出て行った。

 ふぅ、と一息吐いて書類を片付ける。入居時の書類は一枚だけだ。丁寧に目を通せば見落とす筈もない。言いがかりをつけて自分だけ優遇されようなんて、図々しいにも程がある。そんな事を思いながら雨月は、左手の腕時計に目をやり、――奥に控えていた事務員に声を掛けた。


「すまない、交代の時間だ。俺は今から本部に行って家賃の回収に回る。後、頼んだ」


 連龍会本部。左右に分かれた廊下を右に進み、縁側が伸びる廊下に出る。中庭の庭園は組長である心の趣味だ。何年も手入れを欠かさず四季折々の花々や風景をその手で咲かせてきた。今は葉を落とした木々と石組みが立ち並びうっすらと雪を被っている。


 そう言えば昨日は降ったな、なんて考えながら奥の大仰な襖を開ければそこには足を崩して座る一人の青年が佇んでいた。 目蓋を伏せて冬の風に髪を遊ばせる姿はさながら画になる。見惚れてしまいそうな光景に釘付けになるが、次の瞬間、雨月の後ろから人影が一歩前に出て甲高い声を響かせた。


「おはようございます心さん! ……それと雨月メガネ、おはよぉ~」


 金髪をハーフアップサイドテールにした赤ジャージの女性は、キラキラとした瞳で奥に佇む青年に挨拶をした後、振り向いてやる気のなさそうに雨月に声を掛けた。儚井志はかないこころ、それが彼女の名前であり雨月の下、蛇牀組若衆わかしゅうと言う肩書を背負う正真正銘のヤクザだ。うるさい声と態度にげんなりしながら片手をあげる、そして雨月は改めて彼の方を見遣った。


 毛先を赤く染め上げた、黄檗きはだ色の瞳を細め微笑む青年こそ、蛇牀心――蛇牀組組長その人だ。


「雨月、志。おはよう、時間通りに来てくれて助かる。後は龍星りゅうせいなんだが…」


 彼がその名を口にするや否や、二人の後ろから虵渕よりも大きくハスキーな声が飛んできた。


「おはようございます心さん! 遅れてしまい申し訳ございません! …あ、やっほ~雨月に志」


 息を切らして深くお辞儀をする薄桃色の髪を緩く巻いたライダースジャケットの女性――否男性は、顔を上げた後悪びれもせずに二人に軽い口調で声を掛ける。彼がもう一人の若衆、冠城龍星かぶらぎりゅうせいだ。


「おはよう、龍星。時間ぴったりだ、凄いな」

「そうでした?! いやぁ、向かう途中に子供に会っちゃって。泣きつかれて苦労しちゃいましたよ」

「心さん絶対嘘ですよ! コイツがそんな子供に優しい訳ないじゃないですか! 制裁を加えるべきです!」

「何よ! 心さんに嘘吐く訳ないでしょうが、言いがかりは辞めてくれる?!」

「…御前等、組長の時間を無駄にするな。黙れ」


 ぎゃあぎゃあと喚き立てる龍星と志を雨月が制する。その様子を微笑みながら眺めていた心だったが、三人が己に注目したのを確認すれば、心は机の引き出しから三人分のリストを取り出して順番に渡して言った。


「今回もまた取り損ねた入居者分を頼む、一棟ずつの担当だ。鍵は合鍵の束を持って行ってくれ、何かあれば連絡して欲しい」

「今回は少ないですね、皆ちゃんと支払っている様で」


 龍星がリストをぱらぱらと捲りながら呟く。雨月も頷きながら三枚程度のリストに目を通せば、合鍵の束を受け取り言葉を繋げる。


「合鍵があると言う事は…出て来なければ多少の暴力は許されると言う事でしょうか」

「嗚呼、まぁ致し方ない。期日を過ぎても払わず、一回目の注意勧告も無視した方達だ。やむを得ない」


 心は何処か悲しそうな表情でそう応えた。例えヤクザであっても、暴力が全てだと思っている人間だけではない。かく言う雨月も暴力で全てを解決しようと思っている人間ではない。元より暴力に縁が無かったのもあるが、誰だって痛いのは嫌だからだ。そんな二人の気持ちを知ってか知らずか、龍星が途端にやる気を露わにする。


「よっし任せて下さい! アタシの担当分は一人残らず回収してきますから!」

「あッ! あたしだって全部回収してやるわよ、あんたよりは先にね! いってきます!」


 すかさず志がリストと合鍵を抱えて、心に頭を下げれば龍星の脇をすり抜けて走って行った。ぽかんとする二人を他所に、龍星もバタバタと合鍵をポケットにしまいながら、もう姿の見えない志に向かって叫ぶ。


「あっこら! ちょっとずるいわよ! 待ちなさいッ、失礼しました!」


 そうして深々とお辞儀をすれば龍星も走ってその場を後にした。途端に静寂が訪れる。心は「元気な二人だな」と笑えばまた縁側に座り、雨月の方を向いて口を開いた。


「雨月、御前の分だけ少し多いんだが頼めるか? 二人は…如何せん血の気が多くてその分トラブルも多い。…信用していない訳ではないんだが」

「勿論、任せて下さい。組長の言いたい事は理解しております。なるべく穏やかな方法で回収を進めます」


 さっと心の傍に正座をすれば軽く頭を下げて雨月が答える。その様子に、心は安堵したのか息を吐いて「有難う」と胸を撫で下ろしていた。きっと傍から見ればこの人は、世間一般的な暴力団組長の風格とは程遠い方だと思うだろう。暴力を嫌い、和平を望み、のんびりと庭の手入れをする植物が大好きな彼は。


 それでも、三人共彼に助けられて今ここに存在出来ている。






 雨月は蛇牀組に入る前、金融業で働いていた。


 平凡な家庭に生まれ育ち、頭の良さを生かして名門校に入学、大学を卒業後は就活に勝利して晴れて銀行員として働く事となった。しかし五年後、何もかも順風満帆な俺の前に窶れた表情の妹が現れた。


 付き合っていた男に騙され二千万の借金を背負わされ風俗で働いていたものの、そこが警察により検挙され行く当ても働く場所も無くて困っていたのだった。死に物狂いで自分のマンションまでやって来た妹を、何とかしてやりたいと思った。しかし、一気に二千万なんて大金用意が出来る訳が無い。


 ――やるしかなかった。


 日々働いて返し続ける道もあった、しかし妹が借りた金融会社はとあるヤクザが仕切っている会社だったらしく、利子の額が日を跨ぐ度に倍に膨れ上がっていった。このままではいずれ妹は探し出されて大変な目に遭ってしまう。あの時の俺は善悪だとか、そういうものの区別を分かった上でその金に手を付けようとした。紛れもなく意思を持って犯罪行為に手を染めたのだ。


  何件かの金を着服し、その度に改竄を加えて隠蔽を図る。


 このお陰で今では改竄の足跡やデータのミスに細かく気づける様になった。……自信をもって言える事ではないと重々承知しているのだが。しかし幾ら横領して金を返し続けても、利子は異様な迄にその額を増やし続ける。もっと大きな金を、もっと高額送金を狙わなくてはならない。


 そんな時に目に入ったのが、とある組の送金内容だった。

 その組こそ、今俺が居る蛇牀組だった。当時の自分は〝やっと獲物が見つかった〟と歓喜してその金を着服した。バレなければ問題ない、何時もの様に改竄してしまえばバレない。そんな馬鹿な事を思って仕事に戻った。


 ――数時間後、蛇牀心直々に会社に赴いてきた。


 「送金確認をしようとしたらデータに違和感があったので調べさせて欲しい」との事だった。思わず冷や汗が流れる。組長の視線が俺に向いた。

 〝殺される〟、真っ先にそう感じた俺はその場で土下座をした。出来心だったのだと、仕方なかったのだと。妹の事を全て話し、俺は海に沈めてくれて構わない、せめて妹だけは助けてあげて欲しいと、泣きながら懇願した。こんな泣き落としがヤクザに通じるなんて思ってはいなかった。けれど組長は、土下座をする俺の傍にしゃがみ込み涙と汗と鼻水やらでぐちゃぐちゃになった俺の頬を撫で、笑った。


 ――「辛かっただろう。もう良い、大丈夫だ」


 問答無用で射殺されても文句は言えなかった。殺されなくても殴られるのだと覚悟していた。なのに組長は俺にハンカチを差し出し、頭を撫でてくれた。情けなくて、ダサくて仕方がないはずなのに涙が止まらず、思わず組長の胸の中で何分も泣き続けた事は、今でも思い出せば恥ずかしい。


 その後正式に俺の懲戒免職処分が下り、住んでいるマンションも家財道具も差し押さえになった。鍵を返してマンションのエントランスを出た俺を待っていたのは、外車の傍ら缶コーヒーを片手に佇む組長の姿だった。俺を見つければ軽く手を振り「じゃあ向かうか」と言って車の中に乗り込んだ。


 何が何だか分からず戸惑う俺に、組長は何も言わずただ車を発進させた。辿り着いたのは巷で既に有名だった玖都だった。森の中を走って行けば馬鹿でかい建物の裏へ到着する。そうして大広間の様な所へ通されれば、そこには白銀の髪をなびかせた女性が座っていた。傍には日本刀、その横にはヤクザが小指を詰める時に使う板と刃物。ぞっとして足が動かなくなる。


 ――組長はそんな俺に大丈夫、と囁けば背を押して中に入れた。座ればすぐに女性が口を開く。


「此度の横領、そこに居る一之瀬雨月の責任である事は分かっているな、心。…なのに何故彼を助ける? 私に五千万を借り、彼の妹が苦しんでいた金融会社を潰しその裏に居た前島組を壊滅させた。……全て御前の独断で、だ」


 思考が追い付かない。どういう事だ? ぽかんとしていれば組長が答える。


「彼には実力がある、管理局の忙しい処理を任せられる有能な人材だと思ったからです」

「……帰るなりいきなり部屋に来て五千万貸してくれ、と藪から棒に言いつけてきて。他の極道組織に喧嘩を売り、迷惑が掛かるのは御前だけじゃないんだ。下手すれば抗争も起きる…御前、どうケジメつける気だ。この責任は重いぞ」

「え、え…ケジメ……?」


 狼狽えて女性と組長を交互に見ていた自分だったが、言いたい事は理解出来た。つまり指を落とせ、と言う事だ。自分が口をはさむ間も無く組長が動く。板の上に左手を置けば刃物を握り、そして微笑んで女性に伺う。


「指一本では物足りないでしょう、それで気が済むならば」



 女性がこくりと頷いた。

 突き立てられた刃がすとん、と指を切り落とす――



 手前で、俺はその刃を必死に掴んで止めていた。掌から滴る血が組長の左手や畳を流れていく。

 女性も組長も驚いて目を見開き、硬直していた。刃物を振り捨てて、震える声を絞り出す。


「すいませんっ…俺の所為です、全部俺の責任なんです……ッ、俺が出来る事は何でもします、金も返します…死ぬ迄働き続けますッ、決して逃げません……お願いですから、この人だけに、責任を…負わせないでください…っ!」


 一瞬の静寂。

 刹那、女性が吹き出した。腹を抱えてくつくつと笑いを嚙み殺す。


「嗚呼、すまない。……横領なんてちっぽけな事をしていた人間とは思えない威勢の良さだな、…――気に入った。心、今回の件は不問とする。コイツの処遇は御前に一任する、以上だ下がれ」


 組長は一礼してその場を後にする。俺も後をついて行こうとした瞬間、女性に強く腕を引っ張られ思わず畳の上に尻餅をついた。起き上がろうとした俺の耳元で、女性がぽつりと囁く。


「金融会社の借金の件は五千万私に借りたが、御前が今迄横領した被害者全員の返金五千万はアイツのポケットマネーだ。感謝するんだな」


 慌てて部屋から飛び出せば、組長は心配そうな表情で救急箱を持って待っていた。こんな人間を一人助けた所で自分に何のメリットもない筈なのに、この人は最後まで俺を見捨てずに助けてくれた。女性に借りた五千万分と組長が自腹を切ってくれた五千万分を返す、と言っているのに「気にするな」の一言で片付け、自分は五千万の借金を背負って。何よりも、自分達の事を良く見て自分達を大切に想ってくれる。


 俺にとっては最高の組長の風格を持った人だ。

 雨月は立ち上がり、もう一度深くお辞儀をすれば彼の部屋を後にした。






 すっかり団地が朱く染まり部屋の電気がまばらに点灯し始める中、雨月はリストに記載されていた全員分の家賃を回収し終えていた。数人は踏み倒そうと雨月に襲い掛かったが、敢無く失敗。床下収納等に隠された現金を回収すれば、彼等は意気消沈して部屋に蹲っていた。


 ――雨風を凌げる場所に居させてやっているのに、尚も娯楽を追い求め人間は甚だ強欲な生き物だ。そんな事を思いながら棟から出れば、龍星が涼やかな笑みを湛えてこちらに手を振って来た。


 恐らくは彼も回収を終えたのだろう、彼は元プロボクサーだ。力でなら恐らく敵う入居者は居ない。

と、


「メガネ…りゅ~せい…」


 よろよろと涙目の志が歩み寄って来た。その手にはくしゃくしゃのリスト。一瞬違和感を抱いたものの、何時もの様に龍星が刺ついた声音で志に声を掛ける。


「何よ、どうしたの? …まさか全員分回収し終えてない、とかじゃないわよね」


 龍星が揶揄う様にそう言えば、志は分かり易くびくりと肩を揺らした。どうやら図星らしい。これでもかと言わんばかりの笑顔を向けて龍星が志を追い詰める。


「あ~れぇ?! さっきアタシよりも早く全員分回収するとか言ってなかったぁ? あれは心さんの手前格好つけた〝嘘〟って事かしら~ 心さんに嘘吐くなんて、ほんっと考えらんないわぁ~!」

「おい龍星、やめろ」

「だ、だって……だって…ッ。何か、怖くて……」


 そう言ってとうとう泣き出してしまった志に、ぎょっとして龍星が口を閉ざす。二人の言い争いは何時もの事だが、こんな風になるのは初めてだ。雨月は志に近寄れば顔を覗き込み、ゆっくりと言葉を掛ける。


「何が怖かった? 何か見たのか?」

「ッ……、何か、何か変なの。波棟の…肆〇捌号室…。ブツブツ言ってたり、大声で笑ってたり…走り回ってたり……」


 志の言葉に雨月は違和感を覚えた。今朝方、まるで同じ事を言っていた人物が居る。

 波棟肆〇漆号室の百瀬だ。そう言えば注意勧告をすると言う話だったが、志がここまで恐怖する位異常事態ならば、今すぐ様子を見に行かなければならない。


「龍星、御前は組長に終了報告をしろ、伊棟も終わっている事含め。俺は儚井とこれから肆〇捌号室に向かう」

「えっ、良いけど大丈夫? 二人で…」

「問題ない、一応肆〇捌号室の事も伝えておいてくれ」


 龍星が分かった、と言えば急いで本部へ向かう。それを見届ければ雨月は志にハンカチを差し出し「ほら、行くぞ」と腕を引いた。彼女の声は聞こえなかったが、大人しくついて来てくれている事を確認すれば、波棟へと足を踏み入れる。


 ――空気がざらつく。何かおかしい。澱んだ空気は何時もの事だが、それにしても気味が悪い。鼻から入って来るじめっとした空気が、今日は幾分か重たい。慎重に歩を進めて、四階へと辿り着く。

 するとそこには見知った人影が二人、立っていた。


「あ、れ? 初音さんに劉君…?」


 初音探偵事務所の二人だった。繋は雨月と志に気付くとひらりと手を振った。緋狼も遅れて丁寧にお辞儀をする。


「やあ、露木君の事件以来だね。一之瀬君…儚井さんは、どうしたの?」

「ああ、まあ…。それよりも初音さんはどうしてここに? 事務所は呂棟ですよね?」


 彼はにこりと笑ってある部屋を指差す。

 ――肆〇捌号室の扉だ、つまり。


「隣の百瀬さんからの依頼でね。隣人がうるさいから注意して欲しいんだって、管理局に行って部屋を変えて貰おうとしたけど駄目って言われたらしくて」

「……あの人…。注意勧告はするって言ったのに」


 はぁ、と雨月が溜息を吐けばやっぱり君が担当だったか、と繋が笑う。そうして又何か言葉を紡ごうと口を開いた時だった。

 扉の奥からがたん、と大きな音がした。全員がそちらを振り向く。


「…さっきからチャイム押しても返答しない代わりに、物音はするんだよねぇ。ここ、開けてくれない?」

「…わたくし達もこの部屋の方に家賃を払って頂かないといけないので、わたくし達が先に入りますね」


 繋が頷く。志から鍵を受け取ればゆっくりと差し込み、回す。何故こんなに緊張しているのか自分でも分からなかった。かちゃり、と軽い音がしたのを確認して、扉のノブを捻る。


 中は薄暗い。

 雨月が一歩足を踏み入れようとした時、足元のそれがからん、と音を立てた。



 ――ガラガラだ。赤ちゃんをあやす時に使う。



 よくよく目を凝らせば、床には足の踏み場もない程ティッシュペーパーやタオル、おむつなどが散乱していた。その惨状を理解した時、何やら甘ったるく…そして腐った様な匂いが鼻腔をくすぐった。その匂いは後ろに控えていた三人も気づいたらしく、各々が武器を手に構え姿勢を低くした。


 雨月も拳銃を握り締め、やけにうるさい拍動を鼓膜に響かせながら部屋の中へ進んでいく。 居間は見るに堪えない光景だった。煙草の吸殻はあちこちに点在していて、部屋中に蠅が飛び回り畳には蛆が何万匹ものたうち回っている。ゴミとベビー用品で溢れ返った真ん中には丁寧に布団が敷かれており、その布団が盛り上がっているのが分かった。


 ――見なくても分かる、遺体がそこに、在る。


「儚井さん、緋狼君。見ちゃだめだ。外へ出ておいて」


 繋が真剣な表情で二人の背を押す。志はもう顔面蒼白になっており、それを支える緋狼も顔色が悪い。彼等が完全に外に出て行ったのを見てから、繋と雨月は二人で布団を引っぺがした。


 腹が裂け、ぐずぐずに溶けた肉と皮を破って体液がしとどに溢れている。黒く変色したその体は顔の原型すら分からない程に脆く崩れており、強烈な異臭を放っていた。


 繋は何とか堪えて深呼吸を繰り返すも、雨月は耐えきれず畳に向かって胃液をぶちまけた。息を吸えば体内に匂いが入っていく感覚にもう一度えづく。


「…出よう、一之瀬君。俺ももう限界かも」


 繋に無理矢理腕を引っ張られ立たされる。彼の顔を良く見れば、先程迄我慢していたのだろう。

 気持ち悪さに表情を歪ませて繋は何とか立っていた。



 十二月の初頭、化野団地でまた一つの遺体が見つかった。







 遺体の身元は和泉紗奈いずみさな。数年前化野団地に入居した女性であり、世間では有名な殺人犯と恐れられていた。四人の男を誑かし、金を巻き上げ用済みになったら毒物を用いて殺す。そうして味を占めた彼女は化野団地に入居、警察と世間の目から逃れる様に隠居暮らしを始めたのだった。

 死亡してから少なくとも一週間は経過しており、死因は脳梗塞と判断された。が、


「おかしい」


 雨月と繋は揃って声を上げた。現場は窓が開け放たれ澄んだ空気が入ってきている。二人の調子も戻り、今は管理局の人間と共に現場検証を行っていた。


「だって今朝も一之瀬君の元に百瀬さんから〝隣がうるさい〟って苦情が入ってたんだよね。それに立ち入る前も物音はしてた」

「はい。それに志が実際昼間に〝笑い声や走り回る音〟を聞いているんです。一週間も経っているなんてあり得ない。後もう一つ…、彼女に子供が居るなら、その子供は何処へ行ったんでしょうか」


 改めて部屋の中を見回してみる。ベビー用品やおむつが散乱している事から、小学生以下の子供が居た事はまず間違いない。自力で歩ける年齢の子供が居たとして、母親がこんな状態になっているなら聞こえてくるのは笑い声でなく、泣き声の筈だ。乳幼児なら尚更、お腹が減ったと泣き喚くだろう。


「…それに、ここベランダが独立してる。角部屋だし、改築棟も無い。外に逃げたとしても落ちる他無いよ」


 繋がカーテンの向こう側を見遣る。化野団地は歪な増改築がずっとされてきている為、隣や向かいの棟のベランダ伝いに移動する事が可能だ。しかしここは唯一ベランダの向きが違う角部屋で、近くに建てられた棟も無い。下は下水道に繋がる水路が通っていて、子供が落ちればまず命はない。上下左右、足場なんて何処にも無かった。


「中々…意味分かんない事件だね、一之瀬君。どう見る?」

「…」


 死因の脳梗塞について、彼女はヘビースモーカーだった為説明はつく。

 しかしそれ以外が全く繋がらない。一週間前に死亡しているのなら、この腐敗具合は何なのか。先程迄聞いていた物音は何だったのか。子供が居るのなら彼女は何処で産み落としたのか。そしてその子供はどうしてこの部屋から姿を消したのか。


「わたくし一人では、説明の付けようもありません…。遺体の詳しい検死、聞き込み等を中心に初音さんにも是非御助力頂きたいのですが」

「そう来ると思った。良いよ引き受けよう、百瀬さんにも詳しく話、聞かなくちゃね」


 繋はにやりと笑って答えた。部屋でおかしな所はもうこれ以上は見受けられないと、二人揃って外に出る。少し行った廊下の先に、柵にもたれてペットボトルを握り締める志とその傍らで心配そうな表情を浮かべている緋狼が居た。彼はこちらに気付くとそのままで頭を下げる。


「お疲れ様です。大丈夫でしたか…?」

「嗚呼何とか。それより緋狼君、この事件正式にウチも協力する事になったから。また明日から忙しくなるよ」

「あ、そうなんですね、分かりました! 頑張ります」

「じゃあ今日はもう遅いから――」


 繋と緋狼が話している様子を横目に、志の様子を窺おうと屈む。志は酷く疲れ切った顔をしていた。まだ唇も青紫色のまま、――それもそうだろう、志は組に入ってからまだ一年しか経っていない。この様な異質な事件に出くわすのが今日が初めてなのだから、と雨月は志に憐れむ様な視線を向けながら思った。


「儚井、大丈夫か。一度本部へ戻ろう、組長にも連絡しないと」


 組長、という言葉を聞いて志が顔を上げる。少しだけ柔らかい表情になればうん、とだけ返した。その表情に思わず雨月も安堵する。

 しかし。


「――……え?」


 志が、廊下の奥の方を向いた。不思議に思いながら雨月も廊下の奥を見る。管理局関係者は全員中に入って現場検証をしている為、人は居ない。開け放たれた肆〇捌号室の扉と、消火器と、小さな鉢植えが置かれただけの空間だ、勿論何もない。


「どうした、儚井」


 奥の方を見たまま固まる志にしびれを切らしたのか、雨月が問い掛ける。志は暫く返答もせずに奥を見つめていたがやがて雨月の顔つきが険しくなってきた事に気付けば御免何でもない、と言って立ち上がる。

 すっかり月が頭上で輝きを放つ頃、雨月と志は心の部屋に居た。


「ん、伊棟、呂棟、波棟――は、和泉紗奈を残すのみだったか。けれど良くやった三人共、回収作業は終わりだ」

「お疲れ様です、あの組長」


 報告の後、雨月は先程の肆〇捌号室の事件内容と初音探偵事務所に協力を仰いだ旨を伝えた。


「――という事で、中々真相を探るのに時間を要しそうです。初音さんと共に俺も事件を追おうかと」

「ふむ、分かった。問題ない、そちらを優先してくれ」


 管理局はこちらで人員を手配しておくから、と付け足して心が笑う。こう言った特殊な事件が発生した場合、必ず現場責任者として管理局の誰かが事件を管理しなければならない。先日起こった女性の殺人事件も雨月が責任者に就いた筈だったのだが、あれよあれよと言う間に乱が担当した事に書き換えられていた。今回こそは、と深く息を吸った雨月の前に志が一歩、踏み出した。


「あ、あたしも事件を追いたいんですけど!」


 そう、真っ青な顔で言い放つ。その言葉に三人共が一瞬ぽかんと口を開けて固まってしまった。


「えっ…と。志は体調が良くないのだろう、これから先その事件を追うのならば見たくないものを見る可能性がある。ここは雨月に任せて――」


 心は穏やかな声でやんわりと諭す。まだ組に入って間もない、言ってしまえば新人だ。それにこう言った現場は、気力も体力も無ければまず間違いなく精神がやられてしまう。その事は志も良く分かっている筈だと言うのに。


「あたしがこの事件を追います!!!」


 それを言いきらない内に、志の悲痛な叫びにも似た声音が掻き消した。


 沈黙。

 龍星も、雨月も、心でさえも。誰一人として反論出来る人間が居なかった。何時もは心の言葉をしっかりと最後まで聞き、心に向かって叫んだりなどしない志がこんなに声を荒げるなんて初めての事だった。

 雨月もぼんやりとその様子を見ているだけだったが、我に返れば慌てて志の肩を掴んで一歩下がらせる。


「…儚井、組長だぞ。勝手な言動は慎め」

「………あたしが」

「儚井?」


 一瞬の事だった。

 その目を、雨月だけは見た。



 燻る煙草の煙、子供の笑い声、母親の姿。



 志の瞳に反射したその映像はぐるぐると雨月の記憶に刻み込まれ、酷い吐き気をもたらし堪らず雨月は膝をつく。




「あたしが母親になるの」




 低い声でそう呟いた志は、心の部屋を飛び出して行った。龍星はっとして続けざまに部屋を出て行く。

 残された心は口元を抑え吐き気を堪える雨月の傍に屈んで、その背を撫でた。吐きたかったら吐いてしまえば良い、と促されはしたものの敬愛する組長の部屋で吐く事は絶対にしたくない、と言わんばかりに激しく首を横に振って応える。


「志は…、どうしたのだろうか。あんなに思いつめた様な表情をする子じゃなかった筈なんだが…」


 心がぽつりと独り言を吐き出す。思えばあの部屋がおかしいと言っていた時から、志の精神状態が安定しなかった様に思う。それなのに自分はもう一度志をあの場所へ戻してしまった、と雨月は人知れず悔しさを募らせる。それを知ってか知らずか、心は背を撫で続けながら口を開いた。


「…志の様子が変わったのは、間違いなくこの事件の所為だろう。雨月、俺も出来る事があれば協力する。だから一人で抱え込まなくていい」


 ぴくりと体が震える。

 心の組に入ったのは雨月が一番先だ。もう何年も共に仕事をしてきた、何年も共に抗争を戦い抜いてきた。だからこそお互いの事を理解出来ているのだろう、――こういう時に雨月はすぐ一人でどうしようかと抱え込む事を。ふと雨月の体の緊張が解けた。ゆっくりと体を起こせば、微笑む心がそこに居て。

 雨月は頭を下げて、こう告げた。


「…御協力、痛み入ります。組長、有難うございます」





 所変わって、場所は玖都・和倉宝蘭わくらほうらん地区。


 玖都の西に位置し、マンションや大手企業のビル群が立ち並ぶ。交通量はそれ程多くなく現在二十三時、マンションのベランダから見える景色は何処のビルも真っ暗で人が居ない事が伺えた。そんな風景を見ながら繋は煙草に火を点け、ゆっくりと煙を肺に溜めれば細く吐き出していく。


 立て続けに起こった奇妙な事件。これもまた〝玖泉〟の影響ならば、そう思うと頭が痛くなる。探偵は考える事が専門だ、化け物退治なんて漫画やアニメの中でしか見た事が無い。この先も露木の様な化け物が犯人で、追い詰めれば戦闘になったら。――繋は、ポケットに忍ばせた小型ナイフを取り出して刃を眺める。


 ――暴力は正々堂々真正面からじゃなく、後ろから相手の喉を掻き切る為にあるんすよ。


 そんな言葉を託された。生きる為に必死で、他の人間を見ようともせず自分の殻に閉じ籠っていた時に出会い、少しの間自分の面倒を見て呉れたお兄さんに言われた言葉。力の弱い自分が、強い者に唯一太刀打ち出来る手段。


「まぁ、化け物にこんなちっぽけなナイフが効くのかは微妙な所だけど」


 繋は自虐気味に微笑んで、煙草の火を消した。相手が〝玖泉〟の服用者だろうとなかろうと、受けた依頼はきっちりとこなす。そう心に思っておかないと肝心の頭が働かなくなりそうだ、と繋は人知れず恐怖した。

 リビングに戻れば風呂上がりの緋狼が、ソファでテレビを点けながらうとうとしている姿が目に入る。そう言えば学校から帰って来てすぐに肆〇捌号室に引っ張り出したんだっけ、と思いながらブランケットを広げ、それを彼に被せた。


「いつもありがとね、お休み」


 そう言ってテレビを消せば、少しだけ緋狼が身動ぎする。

 緋狼と出会い、同居生活を送る様になってからもう五年が経つ。彼は十一歳、繋は十九歳の時だ。


 元々助手が欲しかった事もあり、彼を引き取る事に何の苦も感じなかった。勿論緋狼の性格や能力、全てを鑑みても彼は良くやってくれていて、一緒に居て居心地も良い。


 それでもたまに彼には彼の将来があり、いずれはここを離れて独り立ちするのかも知れないと思うと、嫌な気分になった。これが親心か、と思う反面大の大人が子供を囲おうなんて情けない、と思ってしまう。情けない感情は、忙しい日々に隠れた心情を掘り当てるのも上手いもので。

 繋は、ぼんやりと言葉を溢した。


「……俺がもし一人暮らしするって言ったら、どんな反応したのかな、母さん」







 ――誰かが泣いている。


 母親だ、父親は唇を噛み締めてそこに立ち尽くしていた。

 リノリウムの床に伏せて泣き崩れる母親の目の前には、手術衣を着た大人の人が居て。

 その首が、左右に振れた。


 一向に起き上がらない母親の体に触れれば、その手が思い切り払われる。

 あたしの首に手を掛けて、全体重を乗せて、母親が殺意を孕んだ瞳であたしを見下ろす。


 ――アンタが。

 ――アンタが、しのぶの代わりに死ねば良かったのに。


 呪いの様に告げられたその言葉は、今もあたしの心の中に深く根付いている。






 「志は、来てないのか…」


 日は昇り、朝が来た。連龍会本部の月初の集会時刻が差し迫る中、心の部屋には重苦しい空気が流れていた。遅刻や無断欠勤なんてした事のない志と連絡が取れないのだ。


 先日、龍星が追いかけたものの異様な足の速さで簡単に撒かれてしまった為、電話やメールを送ったりはしたのだが一つも返事はなかった。今から部屋に行ったら集会には間に合わなくなってしまう。その為、ギリギリ迄連絡を待っていたのだがやがて開始時刻の十時になっても、彼女は連絡を寄越さなかった。


「…仕方ない。俺達だけで出よう。志には後で理由を聞くとして」

「すみません心さん…、アタシがあの時見失わなければ…」


 肩を落として謝る以虵に、御前の所為じゃないと声を掛ければ心はそのまま部屋を出た。雨月も龍星もそれに続く。

 連龍会の月初集会は、簡潔に言えば先月の収支報告と今月の仕事の流れ等を伝えられる報告会みたいなものだ。本部長や若衆が発言したり報告をする必要はない。それでもこの日ばかりは緊張せざるを得ない。


 ――何故なら連龍会会長代理である、化野祈愛あだしのきさらが見えるからだ。


 関東最大の極道組織の頂点に君臨する存在――の代理。本当の会長は祈愛の父なのだが、体が弱く滅多に人前に姿を見せる事はない。その為ほとんど表の舞台で活躍するのは祈愛である。代理と言っても彼女が正式な会長と名乗って遜色ない程、類まれな身体能力と頭脳を持ち合わせている存在だ。


 三人が大広間へ入れば、人数分の座布団が等間隔に並んでいた。既に二次組織の組長と本部長、若衆は来ていた様で、皆心に向かって立ち上がり仰々しく頭を下げた。中には心よりも年上の組長が彼に対して遜っている態度が見て取れる。と、


「あ、心おはよ~。昨日は大変だったらしいね」


 朗らかな声が心に向けられる。乱だ。傍らには目を布で覆った黒髪の女性がぴったりとくっついている。


「お早う、乱…と狗神いぬがみ。他の二人はどうした」

「仕事の電話と化粧直し。心こそ、志ちゃんはどうしたのさ? 欠席?」

「否まぁ…、そんな所だ」


 言いにくそうに心が目を逸らしてさっさと席に着く。乱はその様子を見て愉快そうに微笑んだ。

 まるでこの状況を楽しんでいるかの様なそんな表情だ。雨月は思わず眉間に皺を寄せて、乱を見た。すると、


「波棟の殺人事件、色々と分かんない事が多いんだって? 俺も協力出来る事があったら言ってね、雨月君」


 雨月の表情の変化に気付いたのか、わざとらしく乱が声を上げた。

 二次組織同士である蛇牀組と奉日本組は、連龍会の中では二大巨頭として恐れられている。利益面でも勢力面でも、二つの力は拮抗しているが、圧倒的に違うのは力の使い方だろう。蛇牀組に逆らえば勿論報復は免れないが、そもそも団地に居場所が無くなる。だから滅多に手を出す人間は居ない。

 そんな彼等を智の蛇牀組とするならば、奉日本組は武が似合う。


「……先日は御力添え感謝致します。ですが今回は奉日本組組長の手を借りるまでもありませんから、御心配なく」

「腐乱死体見て戻しちゃう可愛い子って、何言っても強がりにしか聞こえないよねぇ。そんな調子で大丈夫? 組長もお世話が大変だねぇ」


 雨月の動きが止まる。反論したくても何も言えない。――間違いではないのだから。

 奉日本組は世間一般的なヤクザのイメージ通りの事をする。例えば家賃を踏み倒した者、玖都から逃げ出そうとした者、違反行為を行った者を追いかけて探し出して必ず〝報復〟を受けさせる。

 故に遺体等慣れっこなのだ、自分達が積極的に体を暴いて臓器を売ったり、拷問を仕掛けるだけはある。


 ――要するに、ただの事務員が真相究明なんて出来ると思ってるのか、と煽られているのだ。


 雨月は唇を噛み締めた。

 と、雨月の前に出る人影が一つ、龍星だ。


「あ、アタシ達だってやる時はやりますから! 他の事に気をとられて本来の仕事に身が入らなくなっても知りませんよっ!」


 震える声でそう言い放つ。腐っても自分達はヤクザだ、面子を何よりも重んじている。組の仲間が侮辱されているのを黙って見ている訳には行かないと思って、龍星も乗り出したのだろう。


 刹那、乱の瞳が二人を捉える。

 それだけで動けなくなってしまう錯覚に陥り、雨月も龍星もぶわりと嫌な汗が全身から吹き出た。


「あはは、良いねぇ。…可愛いじゃん」


 気付けば隣に居た狗神も、まるで虎が獲物をに飛び掛かる前の様な姿勢を取り、二人に向かって低く唸っていた。恐らく目を逸らせばその瞬間にやられる、次の一手を考えようと必死に頭を動かすが何も思い浮かばない。

 緊張が張りつめたその時。


「こーら、若者に煽られた位で殺気立たないで下さい、乱さん」

「あいたっ」


 何時の間に戻ってきていたのか二人の男が乱の後ろに立ち、一方の栗色の髪の青年が乱の頭に軽く手刀を入れた。それと同時に藤色の髪に剃り込みを入れた男が狗神の傍に屈み、ぽんぽんと頭を撫でて宥める。


 ――連龍会直参奉日本組本部長、琴継彪ことつぎかおると若衆、九頭竜皇雅くずりゅうこうが


 彼等は雨月達に向き直ると深々と頭を下げた。


「申し訳ありません、蛇牀組の皆さん。乱さん調子に乗っちゃって、後で俺からもきっちり言っときますから」

「彪君~? 調子に乗ってるって誰に向かって…」

「アンタですよ組長、痛い目見たいんですか。こんな所で恥晒したくないでしょ全く」


 彪に掴みかかろうとした乱の腕をすかさず引き寄せ牽制する皇雅。

 暫くは不愉快そうな表情をしていたがやがて降参、という風に乱が溜息を吐いて両手を上げる。ぴりついた空気が一気に緩和した。言い合いを遠くで見守っていた者達も深い溜息を吐いている。 

 しかし、


「茶番はもう良いか」


 白銀の髪をなびかせたスーツ姿の女性、化野祈愛が見えた。

 緩和していた空気が一転、又張りつめたものに変わっていく。若衆達は急いで用意された席に座り、頭を下げた。雨月も自分の席へ戻ろうとすると乱に声を掛けられる。


 彼は狗神の手を握って自分の席でだらしなく胡坐をかいていた。先程の様な鋭い表情は消え去っており、へらりと微笑めば「さっきはごめんね。協力するってのは本当だから」と告げてくる。雨月は祈愛の手前、声を出す勇気も無くぺこりと頭を下げれば改めて自分の席へ座り直した。その後は至って静かに、穏やかに時間は流れて行った。


 志が居ない事を言及されはしたが、体調不良だと伝えれば祈愛は納得した様で特に何事も無く会は終わりの時間を迎える。


「ではこれで、月初集会を終了する。皆今月も仕事に励む様に、お疲れ」


 祈愛が終了の号令を掛けて、大広間を去って行く。それを見届ければ各々席を立って帰り支度を始めた。雨月も受け取った資料をファイルに挟んで準備を整える。と、ふとスマートフォンが点滅しているのが目に入った。どうやら繋からメッセージが入っていた様で、急いで内容を確認する。


 ――〝波棟で面白い噂を聞いたよ。今から来れる?〟

 一体どんな内容だ、と雨月がキーボードを起こし打とうとした時。


「なぁに? 初音さんから仕事の進捗メッセージ?」


 ふわりと雨月の後ろから龍星がスマートフォンを覗き見てきた。首にかかる彼の薄桃色の髪から甘やかな香りがして、思わず後ずさりしてしまう。これが元プロボクサーの男だと言う事はもう分かり切っている筈なのに、時々の仕草に女性らしさが伺えて今でも調子が狂ってしまう。


「急にッ、見てくるな…。今から事件の調査だ、俺は出る」

「あらそう。アタシは志が心配だから、これから家に行ってくるわね。寝りゃ忘れる、と思いたいけど女の子だからね」


 龍星は困った様に微笑んだ。

 彼は四年前に心の元へとやってきた。志の事は何だかんだ仲間として、先輩として心配なのだろう。彼女の事を認めつつもその性格上、と言うべきかどうしても衝突が絶えない。

 本人達も言い争いたくて言い争っている訳ではない事は、傍で見ている雨月も、心も理解している。


「儚井の事を頼んだぞ、龍星」


 そう言えば龍星は照れ臭そうに微笑み、然し「任せてよ」と自信を込めた瞳を向ける。雨月はそれに応える様に微笑み返すと、足早に広間を後にした。


 波棟、弐〇陸号室。〝宮津〟と書かれた表札の部屋に辿り着きインターホンを押せば、すぐに繋が扉を開けて中に促す。居間には当然、透と凪が居た。二人共ぺこりと頭を下げれば雨月の座布団を敷いたり、温かいお茶を出してもてなす。一息吐いてから、繋はメッセージで話していた面白い噂について話し始めた。


「実は結構前から、この噂が波棟内に広がってるらしくてさ。凪君も萩原透も知ってる位、友達から聞いたんだっけ」

「あ、はい! オレは友達に聞きました。兄貴は職場の人でしたっけ」

「ん。俺等には関係ないからって思ってたんだけど」


 関係ない、という言葉に違和感を抱きながらも雨月はその噂について切り込んだ。


「して、その噂とは一体? 今回の事件に何か関係があるのでしょうか」

「まだ分からないけどね。……都市伝説まがいの物だよ、一之瀬君。波棟に広がってる〝子供〟の、ね」


 その子供は何の前触れも無くある日部屋に現れる。そうして抱えた赤子を見せながら〝ママ、ママ〟と、住人に絶えず話しかけてくるのだ。子供が来た部屋は段々とベビー用品で溢れて行き、住人は子供の世話をする為に飲まず食わずで面倒を見る様になる。子供の声に従わなければならない、という使命感を植え付けられるのだ。

 やがて住人が事切れれば、その子供は又次のママを探してふらふらと棟内を彷徨う――と言った内容だ。


「そう言えば一か月前にもさ、ゴミ部屋の中で死んでた女が居たじゃない? 俺はそれ追ってなかったんだけど、一之瀬君何か知ってる?」

「いえ…。わたくしが現場責任者になった事件の中に、その様な事件はありませんでした。もしかしたら他の方が知っているのかも知れない」

「でも不思議ですよね、波棟内の都市伝説みたいになってますし、女性限定みたいだし…。そもそもこの子供って何なんでしょう、幽霊とか?」


 凪が純粋な疑問を吐き出す。それに答えたのは繋だった。


「幽霊、だろうね。幼くして死んでしまった魂、未練或いは強い恨みを持って波棟を歩き回ってるのかも。…ねぇ一之瀬君」


 繋が雨月に声を掛けたのと同じタイミングで、雨月もスマートフォンを取り出す。

 ――やがて住人が事切れれば、その子供は又次のママを探してふらふらと棟内を彷徨う。


 今朝、和泉紗奈の遺体が発見された。この事件が都市伝説の〝子供〟に関係があるのならば、ママは事切れたという事。今も次のママを探してうろついているのだとしたら。嫌な予感が脳裏をよぎる。MINEのトーク画面から龍星を探せば、急いで彼にメッセージを送った。


 ――〝志の様子はどうだ。もしかしたら彼女が狙われている可能性がある〟


「…百瀬さんは昨日会った時点では全然大丈夫そうだった。話も色々聞いたよ、変な音が聞こえ始めたのって一か月前からなんだって。最初は赤ん坊の声も聞こえてたんだけどすぐに聞こえなくなって。代わりに毎晩和泉紗奈の〝ごめんなさい〟って謝る声が聞こえ始めたらしい。…それも少し経てばなくなって、後は聞いた通りの笑い声、走り回る物音。…どう動く?」


 一か月前。ゴミ部屋で女性の遺体が上がったのと同時期だ。恐らくその女性が死んだから、次のママである和泉紗奈の元へ子供は行ったのだろう。雨月はすう、と短く呼吸をするとメモ用紙に箇条書きでペンを走らせていく。


「その噂が何時から始まったのか、その時期に子供が亡くなっていないかを調べたいです。後は一か月前の事件の詳細を知っている人に話を聞きに行く事も優先事項でしょう、被害女性達に何か共通点がなかったのか、も洗えれば良いのですが…」

「あ、都市伝説とかに詳しい人ならオレ知ってますよ! 聞きに行きましょうか」


 凪がはいはい、と手を上げる。繋を見遣れば、彼はこくりと頷いた。――任せてみようと言う所だろう。全ての調査を一人でやり切る事は不可能ではないが、今は時間がない。凪の方を向いて頷けば、彼はやる気に満ちた瞳を見せた。


「宜しく頼みます、わたくしは一か月前の事件の詳細、被害女性の共通点を洗いに管理局に戻ります」


 そう言って箇条書きのメモにラインを引こうとする手を、繋が止める。


「待った。一之瀬君は儚井さんの様子を見に行った方が良いよ。管理局には俺が行く」

「え、しかし儚井の所には龍星が…」


 ふるふると首を振って言葉を制した繋が続ける。


「心配なんでしょ。見に行ってやんなよ、それに君が管理局に行ったら俺、やる事無いしね」

「う……ま、まぁそうか…」


 悪戯っぽく微笑む繋に、雨月は何も言い返せなくなる。有難う、と告げれば繋はひらひらと手を振って応えた。


 ――各々がやるべき事を把握し、準備をすれば部屋を出る。時刻は午後十三時、化野団地に唯一光が差し込む時間帯である。空は相変わらず見えないが晴れている事だけは察しがつき、その微かな眩しさに思わず雨月は目を細めた。


 透と凪が化野団地を出て行き、雨月も波棟の階段を上がって行ったのを見送れば繋は伸びをしてから管理局を目指した。今日は平日で、緋狼は学校に行っている。何時も呼べばはいはい、と仕事をこなし調査に赴いてくれるものだから忘れていたが、彼は今一番遊び盛りの高校一年生なのだ。


 血生臭い殺人事件の遺体と対面するより、普通の友人と遊ぶ機会を増やして欲しい――と、そんな理由で今回の事件の詳細は一切伝えていない。


 今朝、登校間際に「何か調べて置く事はありますか?」と問いかけられたのにはびっくりしたが、今回は大丈夫とはっきり拒否して置いた。普通の高校生として過ごして欲しいという理由の他にもう一つ、彼に今回の事件を見せるのは酷だと判断したからだ。


「……〝母親〟関係なんて、一番緋狼君に関与させちゃいけない案件だしねぇ」


 ぽつりと吐き捨てながら受付の職員に事件の詳細と要望を伝える。相手が初音繋だと分かれば、職員は快く裏の資料庫へと通してくれた


 埃が舞う薄暗い資料庫は、奥が見えない程棚が並んでいる。ギチギチにファイルが詰め込まれていたり、入りきらずに外に積み重ねられていたり様々だが、資料一枚一枚をビニールファイルに入れて保存しているからか、保存状態だけはピカイチだった。後から読み返せないと困るしね、と一人でに納得した繋は職員が差し出した四冊のファイルに目を通す。


 一つは一か月前の事件の詳細、二つはその事件被害者と和泉紗奈の入居時の資料だ。そしてもう一つは。


「…まぁ、何かあった時の為に見ておくに越したことはないか」


 百瀬沙月ももせさつき、その人の入居時の資料だった。

 一か月前に起こった〝女性孤独死事件〟は、内容が先刻起こったものとほぼ一致していた。 被害女性の名前は津浦智巳つうらさとみ、二十四歳。彼女は元々悪質なパパ活を行っていたグループのメンバーであった。デートを重ね回収するお金を徐々に増やしていき、確実に事に及べるという段階で姿を眩ましてしまう。被害額は最高六百万、彼女はそのお金をグループメンバーの誰にも言わず一人で持ち出し、団地に隠居生活をしに来たのだ。


 理由としては「もしメンバーがここへ来ても、返り討ちに出来るから」、らしい。


 一か月半前に住人の一人が、彼女が〝ずぶ濡れの子供〟を家に上げていたらしく、僅か二週間足らずで彼女は脳梗塞を発症、毎日団地内でウォーキングをしていた筈の彼女が出てこない事を不審に思った住人が部屋を訪ねてみると、すでに事切れていたらしい。


「…彼女もヘビースモーカーか。脳梗塞にはなりやすいって事かな」


 遺体の腐敗はやはり和泉紗奈と同じ状態まで進んでおり、見るに耐えなかったらしい。更に彼女の顔には〝涙の跡〟があったとされている。部屋は吸い殻が散乱し、ベビー用品で床が埋もれていたとの事。


 そして彼女の部屋に写真立てに入れられた写真が一枚、残されていた。恐らく生前の彼女とその子供、年齢は二歳に満たない位の乳幼児だろう。つまり彼女には子供が居たという事になる、しかし。


「入居時の申請に、〝子供〟が入ってないんだよなぁ…」


 家族構成の欄に、その子供の名前は無かった。記載されているのは津浦智巳の名前だけ。


「…配偶者も居ないとなると。その配偶者に親権を奪われたか、子供は亡くなっているか」


 集められた情報を吟味しながら、繋は次に和泉紗奈の資料を手に取る。

 和泉紗奈、二十八歳。四人の男を誑かし、金を巻き上げ用済みになったら毒物を用いて殺した、世間的にも有名な殺人鬼だった。彼女もここへ隠居生活をしに来たらしい。家族構成の欄には彼女の名前しかない。


「子供が居るかどうかは流石に分かんないか。…何か残ってないのかな」


 繋は徐にスマートフォンを取り出し、ネット記事を漁り始めた。ゴシップ記事でも何でも、とにかく今は情報が欲しかった。やがて辿り着いたサイトに、彼女の過去が書き込まれた掲示板スレッドを発見する。


 〝四人の男を誑かして用済みになったら毒殺した女の哀れな一生!

妹を殺した非道な女。一緒に山に遊びに行った時にまだ四歳の妹を崖から落として殺した事があるらしい。家族が探してた時も自分だけ輪に加わらなかった。人を殺そうとする気持ちは子供の時からあったらしい。最悪な女。中学の時に好きだった先輩を当時先輩が付き合ってた彼女から取る為に、彼女を複数人で襲って子供を孕ませた。高校の時も目障りな女の後輩に毒物を飲ませて声帯を潰したり、火傷させたりさせた。人生で一回だけ子供を産んだ事があるらしいけど、何か妹に似てたからって施設の前に置き去ったらしい。結局お金にしか興味なくて逃げた先は団地。あんなのがのうのうと生きてると思うと腹が立つ〟


「……妹を、崖から落として…。子供を、放置…」


 繋は次いで和泉紗奈の子供について調べてみる。が、それらしい記事は見つける事が出来なかった。先行きが不安だ。このまま何も情報が得られずしまいなのは癪に障る。繋は微かに焦った様子で、百瀬の資料を手に取った。


 百瀬沙月、二十五歳。

 数々の男を騙してお金を巻き上げていた女性詐欺師だったが、最後に騙した男に腹いせに襲われ子供を身籠る事となる。そうして生活が苦しくなってここに逃れてきた。入居時既に彼女は臨月を迎えていたらしく、いつ生まれてもおかしくない状態だったのだが、彼女が病院に行った形跡はなく腹もその内元に戻っていた。実際、彼女が隣の部屋がうるさいと管理局に苦情を言いに来た時も腹は膨らんでおらず、かと言って子供を連れてきている様子はなかった。


 子供の名前は、まだ付けられていなかった為家族構成の欄には〝胎児〟としか書かれていない。


 決定的な共通点迄後少しの筈なのに、揃い切れない。深く呼吸を整えた後、繋は連絡先をスクロールして出来る事なら〝協力を仰ぎたくなかった人物〟の番号をタップした。数コールの後、激しい音楽を背に甲高い男の声がスマートフォンから鳴り響く。


「Hi、繋! Is it for something?」

「相変わらずうるさいね、ちょっと君に頼みたい事があるんだけど協力してくれる?」

「仕事かな? モザイク除去? 盗聴盗撮? 推しの住所? 何でも承るよ~!」

「違うよ馬鹿」


 電話越しに響いてくる声にげんなりしながら、繋は本題を口にした。


「津浦智巳の子供の行方と和泉紗奈の妹の事件、そして産んだ子供の末路の詳細、後百瀬沙月の入居後の様子を調べて欲しいんだけど」


 連絡してから数十分、一つのZIPファイルが繋の元に送られて来た。


 津浦智巳の子供である水島雄太みずしまゆうたは、津浦智巳が目を離した隙に車に轢かれて死亡してしまったらしい。まだ一歳程度だったと言う事だ。つまりあの写真が撮られてすぐに亡くなったと言う事になる。


 和泉紗奈の妹は、それはそれは両親に可愛がられていたらしい。和泉紗奈よりも可愛く、賢く。だからこそ彼女は間が差して妹が事故で崖から落ちたにも関わらず、自分だけ山を降りて妹が落ちた場所を言わなかった。嫉妬が生み出した殺意は歯止めが利かず、結果様々な人間を地獄に叩き落した。

 和泉紗奈の子供は当人が施設前に置き去りにした夜、気温が下がっていた事もあり低体温症を発症、朝職員が見つけた時にはもう冷たくなっていた。


 そして百瀬沙月の様子については監視カメラの映像データを寄越してくれた、御丁寧に高解像度にしてから。

 こういう仕事の速さは感心する。繋はそんな事を思いながら、早速データをパソコンに落として映像を確認してみた。内容は彼女が団地に入居した二か月前から、最初の犠牲者が出るまでの一か月間中の、彼女の奇妙な行動を切り取ってつなげたもの。


 何万、何億と記録された監視カメラのデータを洗い、その中から関係があると判断したものを探し当てる。途方もない作業を彼は十分そこらでやってのけたのだ。後は彼の性格さえ良ければ幾らでも仕事を頼みたい所だったのだが。細く溜息を吐いて繋は動画の再生ボタンをクリックした。


 入居開始二日目、買い物から戻って来た彼女はふらふらと玄関の鍵を開けている。腹は大きく膨れ今にも生まれそうな位だ。扉が閉まったかと思えば数時間後、微かに彼女の呻き声と何かの泣き声が聞こえてきた。


 ――おそらくは産んだのだろう。彼女は病院に行かず、自分ひとりで出産した。届け出も出していない所を鑑みるに、隠れて育てようとしたのか或いは、最初から育てる気が無かったのか。


 そんな事を考えていると、画面が切り替わった。


 時刻は彼女が入居してから一週間後の午前三時過ぎ。百瀬沙月の部屋に訪れる、一人の少年が映っていた。インターホンを鳴らして数分、百瀬沙月が驚いた声を上げたかと思えば少年の腕を引っ張り中に引き入れる。この少年は何だ? と思っていれば、画面が止まって丁寧な編集が入った。顔写真が浮かび上がり、名前が打ち込まれていく。


 ――〝百瀬直樹ももせなおき〟。一人目の男を騙す前付き合っていた男との間に出来た子供だった。現在七歳。生まれた時から百瀬沙月によるネグレクトが酷く、今は父親の元で暮らしているらしい。


「彼女には、もう一人子供が居たのか…」


 次々と紐解かれていく彼女達の過去に頭を整理させようと、一時停止ボタンにカーソルを合わせた時だった。


 又画面が切り替わった。


 今度は奥に水路が映っていて、手前に柵と物干し竿が見える。恐らくここは、和泉紗奈の部屋から見下ろした時にあった水路で、一階の住人のベランダなのだろう、住人が勝手に設置した監視カメラの映像だ。時刻は先程の日付から十分程経った時の事。突然誰かが泣き叫ぶ声がしたかと思えば、それは一瞬の事で。


 ばしゃん、と大きな水音が左のイヤホンから響いてきた。


 微かに水路の水が赤黒く濁っているのも視認出来る。誰かが落ちた、それは明らかだった。でも誰が? 言い様の無い不安感を煽る様に、次の映像が映し出される。

 水路が真正面に臨める住人の部屋の監視カメラ、下水道に繋がる鉄格子がはめられたそこに引っかかっていたのは、先程監視カメラに映った少年、百瀬直樹と。



 タオルに包まれ血まみれになった赤子の姿だった。







 時刻は遡り、繋が管理局で監視カメラの映像を見始めた頃。

 雨月はとんでもない罪悪感に見舞われていた。波棟の志の部屋は彼も数回訪れた事がある。ピンクを基調とした部屋で、多少汚いながらも最低限足の踏み場は約束されていた、そんな部屋だ。


 今はその足の踏み場はタオルやティッシュペーパー、ベビー用品で溢れ返っておりベッドには胡乱な瞳から涙を零し、虚空に向かって「ごめんなさい、ごめんなさい」と連呼する志が居た。一日中何も飲まず食わずでその場から動かなかったのか、声は掠れ彼女の下半身は糞尿で汚れている。


 何時もは気丈な龍星ですらも、この光景に吐き気を覚えて外に飛び出した程だ。雨月も喉からせり上がって来る何かを吐き出したい気持ちでいっぱいだったが、――ぐっと堪えて彼女の腕を強く掴む。


「儚井! 聞こえるか?! 儚井!」


 しかし彼女は答えない。未だに掠れた声で「ごめんなさい」を呟くだけだ。これではいけないと、志を抱え上げ部屋から出ようとする。何事かと暴れる志の力は想像よりもずっと強く、気を抜けばすぐに下ろしてしまう位だ。


「暴れるな…っ」


 ぎゃあぎゃあと騒ぎ立てる志を玄関迄引き摺っていけば、その扉を開けて外に居た龍星に彼女の体を受け渡す。


「龍星! すまないが手を貸してくれ!」

「えっ?! あ、わ、分かったわ! ……掴んだわよ!」


 その瞬間、志の体は糸が切れたかのように動かなくなった。風の音が部屋から抜けていく。 ほっと胸を撫で下ろし、荒い呼吸を整えて雨月も部屋を出ようとした――その腕が、誰かに引っ張られ。


 瞬間的に振り返る。


 それは赤黒く汚れた服に身を包み、腕に何かを抱いた少年で。

彼の本来目があるであろう部分はぐちゃぐちゃになっており、しかし明確な怒りと殺意が感じられた。


「……――」


 声とも呼べない何か異音が彼の恐らく、口であろう部分から零れ落ちた。

 その瞬間、強烈な耳鳴りと吐き気に襲われる。

 囚われる、彼に。



 持って行かれてしまう。



これ以上はまずい。

雨月は、何とか気を保とうと喉奥から声を絞り出し、無茶苦茶に腕を振り回してはその部屋から転がり出た。


「…う、雨月…? 大丈夫…?」


 部屋の外で待機していた龍星が驚いた表情を浮かべて恐る恐る問いかける。いきなり叫んで暴れながら部屋を出てきたのだ。そんな顔にもなるだろう――等と頭では冷静に考えながらも、心臓はバクバクと激しく脈打ち無茶な行動をとったせいで身体は悲鳴を上げていた。


「……とにかく帰ろう、…ここから逃げないと」






「……そう、そんな事が」


 日が暮れた化野団地にぽつぽつと光が灯り始める。凪の部屋に再び集合した四人は得てきた情報を整理している所だった。志はあれから目を覚まさない、龍星と心で今は看病をしている様だが、弥勒の診察でも〝昏睡状態に陥っている〟という事しか分からなかった。雨月の報告を聞いてから、凪が手を上げる。


「都市伝説と言う事で、知り合いの住職さんに訪ねたんですけど…そう言った子供の都市伝説で、似ている話は無いと言われました…。でも、それが幽霊ならばやっぱりその子の願いを叶えるのが一番だとも言ってました」

「住職の知り合いが波棟に住んでたらしくて、噂が広まり始めたのは凡そ一か月半前らしい。その時はただ〝ずぶ濡れの子供が赤子を抱きながら波棟内をうろついてる〟ってだけだったんだけど、その一か月前の事件の被害者が家に上げて死んでしまったから、今語り継がれてる様な話に変わって行ったんだって。噂が独り歩きしたみたいな」

「……成程ね。結局、根本的な解決方法は分かんない感じか」

「すみません…お役に立てず」


 しゅんと肩を落とす凪に、繋は手を振って否定する。


「そんな事無いよ、君達のお陰で噂が確実なものじゃない事、何時から始まったかって事が分かったんだ。収穫だよ」


 二人の話が終われば、繋が資料のコピーとパソコンを机上へ並べる。


「じゃあ次は俺の番、ショックな映像もあるから注意してね」


 そう言って、例の動画の再生ボタンをクリックした。


「……本当に、残酷ですね」


 繋の話を聞き終えた雨月は、眉間に皺を寄せ不愉快そうに呟いた。透も凪も青い顔をして俯いている。


「でもしかし、共通点がこれならばどうして儚井が狙われたんですか? 彼女には子供は居ません」

「そこは聞けたら本人に聞いてほしかったんだけど、今昏睡状態だからさ。……知ってそうな人とか居ないの?」

「それは…」


雨月が口ごもる。

恐らくは心当たりがあるのだろう、繋はその様子を見てから俯く二人に声を掛けた。


「恐らく時系列はこれで合ってるだろうし、狂いもない。後は本人に直接聞くしかないけど、君等はどうする? このまま家で待っててくれてもいいけど」


 繋の問い掛けにすぐに答える様子を見せない二人。しかし意を決した様に凪が顔を上げた。


「…いえ、最後まで見届けます。ついて行かせてください」


 それに呼応する様に透もこくりと頷いて繋を見遣る。そんな二人に繋は結構と微笑めば、今度は雨月に言葉を投げた。


「そう言う事だから、君は本部に帰って儚井さんの過去を知る人物に当たって来て。確認が取れ次第本人に直撃する」


 雨月の返答はない。しびれを切らした繋が彼を見れば、雨月は震える声で呟いた。


「……事件の犯人も分かって、おおよその理由も分かっているなら、彼女の過去を今更掘り出す意味なんて…」

「何言ってるの一之瀬君」


 静かに怒気を孕んだ声に、思わず雨月が顔を上げた。繋は至って冷静な瞳で彼を見据えている。


「君は、俺に依頼してきたでしょう。この事件の真相究明を。ならば俺がやるべき事は、全ての謎を包み隠さず解き明かす事だ。世の中には知らなきゃ良い事もあるだなんてほざく奴等も居るけどさ。それらはやっぱり知るべきなんだよ。分からない事を分からない侭で終わらせたくない訳。君が知りたくないと思ってても、俺が知りたいの。分かる?」

「それは初音さんのただの探求心でしょう? 勝手に過去を覗き見て、儚井がもし隠したいものだったらどうするんですか…?」

「隠したい過去でも、その所為で死にかけてるんだよ。それを救ってやろうとしてる訳、引き換えに過去位教えてくれたって良いでしょ? 嗚呼…別に良いんだよ? 今ここで」


 そこまで言ってから繋はパソコンを操作した。動画の削除確認画面を出して、雨月に突きつける。


「これを消して全て無かった事にして儚井さんを殺しても。だって人助けは俺の依頼内容に含まれてないからね」

「そっ、そんな脅し……」

「一之瀬君、この映像は世界で唯一俺が持ってる証拠映像だ。恐らく次に同じものを〝彼〟に頼んだとして、依頼料は何億かな。若しくは門前払いかもよ、この行動が本当にただの脅しだと思うかは君次第、発言には気を付けてね」


 繋の指がエンターキーに触れる。雨月が息を吞んだ、そして。


「…分かりました、何とか、します」


 小さな声が凪の部屋に響いた。繋は満足そうに微笑んで削除を取り消す。雨月はそれ以上何も言わず、ただお辞儀だけをして部屋から出て行った。静かになった空間に三人が取り残される。

 そんな重苦しい空気の中、透が不愉快そうに口を開いた。


「…俺だったら、寝てる間に過去をバラされるのは嫌だけどな」

「……そんな他人の事迄考えながら探偵やってても、真実には辿り着けないんだよ。時には非情になんなくちゃいけないの」

「だからって、もし御前が儚井さんの立場なら嫌だろ。…母親の事とか、施設での怪我の事とか勝手に言われるの」

「別に良いよ」


 透の声に被せる様に、繋が述べた。顔も向けずに彼は続ける。


「御前も知った風に言ってるけど、俺の事なんて何も知りもしない癖に良くそんなもの言えるね。御前等が話してるのは結局噂、嘘の話。それに俺の過去は隠したいものじゃないから」


 パソコンや資料をさっさとしまえば、繋は――いつも通りの笑顔で二人に手を振った。


「嗚呼、でも……君達は嫌だろうね。暴力を振るってポルノビデオに自分の息子を売った父親が居るとか、父親を殺しても何も言われずに葬式にすら来なかった母親が居るとか、そんなのがバラされるのはさ」


 瞬間、視界が暗転する。

 殴られたのだと気づいたのは、目の前に赤い髪がちらついた時だった。第二撃を寸での所で躱して、腕を引っ張り後ろに固める。壁に体を打ち付けられた透は怒りのままに抵抗するが、繋の力の前にはびくともしない。

 その状況で尚も、繋は笑って吐き捨てる。


「御前に俺の気持ちなんか分かるもんか。本当の事を他の奴等に言い聞かせてくれるなら、俺の過去なんて全部洗いざらい話してやるよ」


 目を閉じれば、今尚思い出せる母親の最期の姿を。


 繋の母親は止棟の遊女だった。彼女は色んな人間と交わり子供を孕み、その度に子供を下ろしてきた。名前なんて付ける事もせず涙も見せず、それを一種の快楽と覚え込んで。

 そんなある日、何を思ったのか彼女は繋を産んだ。そうして仕事を辞め自分の手で育て始めたのだ。

 けれど稼ぎの無い彼女が赤ん坊を育て切るのには限界があった。商業エリアで働こうにも遊女以外の仕事は全くしてこなかった彼女は、結局どの面接にも落ち家賃が払えなくなり。


 遂には心中と言う手段を取った。


 ベランダから飛び降りた母親がクッションとなり、抱えられた当時五歳の繋は一命を取り留めたが、助け出されるまでに実に二日を要した。その間、目を開ければ頭が柘榴の様に弾け目を見開いた母親の最期の姿が視界に映り、泣きじゃくって母親を呼び続けるしか出来なかったのだ。

 助け出された後は児童養護施設に引き取られる事となった。そこでの生活は地獄そのものだった。厳しかった訳じゃない。ただ皆が繋を見る目に、耐えられなかったのだ。


 ――『あの子が、遊女の子供?』

 ――『虐待されてたんでしょ、気の迷いで子供育てちゃって』

 ――『売女が子育てなんて出来る訳ないだろ。誰の子供かも分かんないのにさ』


 誰も彼もが、繋の母親を『遊女だから』育てられなかった、『遊女だから』虐待していたと罵った。そんな決めつけの陰口を聞きたくなくても聞いてしまう。違うと怒鳴って暴れても、逆にそれが『虐待をされていた子供』の行動として決め付けられて宥められるだけ。


 本当の母親は、虐待なんて一切していなかった。覚えの悪い繋に真摯に向き合って、出来た時には強く強く抱きしめて貰って。生まれてから一度も、暴力を振るわれた事も暴言を吐かれた事も無い。

 ただ繋が上手く歩けずにこけてぶつけた痕を〝虐待痕〟だと決めつけて、うるさいと言えば『そうやって母親にも言われてきたのね』と悲しまれて。


 全てが嫌になって、七歳の夜に施設を飛び出した。

 ふと、思考が戻る。繋は固めていた透の腕を解放すれば荷物を拾って足早に部屋を去った。



 誰も知らない、母親が飛び降りる時、俺にずっと謝っていた事を。

 誰も知らない、それでも最後に、ちゃんと『愛してる』と言ってくれた事を。



 誰も知らなくて良いんだ。






 「…志の、過去?」


 一方その頃、雨月は心の部屋に赴いていた。未だ目を覚まさない志の傍で龍星も疲れてしまったのかすやすやと寝息を立てている。そんな様子を見ながら心は細く息を吐いて言葉を紡いだ。


「……先程の事件の真相、凡そが当たりであれば、志が狙われた心当たりが一つある」

「本当ですか? それって一体」

「……話した事は、志が目を覚ましたらちゃんと伝える。隠し事は、したくない主義なのでな」


 心は困った様に眉を下げて雨月に微笑みかける。――それでも良いなら話す、という事なのだろう。雨月が頷けば彼も頷き、少しずつ話し始めた。


「彼女……儚井志には、当時六歳の弟、偲が居た。彼は生まれつき頭が良くて格好良く、強く。空手の道場を営んでいた父も彼は将来が楽しみだと言う程、偲を溺愛していたんだ。…その所為で、志は愛されなかった。……後は、分かるな」


 心の言葉に、心臓の音がうるさくなる。

 和泉紗奈の妹と同じだからだ。


 ――そんな妹を疎ましく思って和泉紗奈は、妹を崖から落として死亡させた。


「…彼女は家族で公園に遊びに行った際、弟と二人でボートに乗った。怖がりな弟を見て良い事を思いついたのか、船を揺らし始めてな。パニックになった弟が体勢を崩して船が転覆したんだ。…志は何とか泳いで岸まで戻ったが、弟は浮かんでこなかった。事情を知った両親と大人達は池を捜索して数時間後、ようやく弟を救い出した。急いで病院に運ばれたらしいが、手術の甲斐なく弟は亡くなったらしい。…その時に、母親に言われたのだと。『御前が、偲の代わりに死ねば良かったのに』と」


 そっと、心の手が志の頭を撫でる。


「彼女と出会って、空手道場の件を解決してから盃を交わす際、俺に話してくれた事だ。きっと強くなって見せます、弟よりも。と、決意を込めた瞳は忘れられない」

「……そう、だったんですね。……儚井…」


 何時もはうるさくて他人の事なんて二の次な組長愛に溢れたただの少女だと、雨月は思っていた。その裏で、犯してしまった罪に苛まれていたなんて。

 雨月の手も思わず志に伸びる。


 その腕が、何かを掠めた。


 がらん、と音を立てて襖にぶつかったのは玩具のガラガラだ。慌てて心を見遣れば、彼はとっくに真剣を構えている。薄暗い廊下の奥を見据えながら――そして、叫んだ。



「来るぞ」



 濁流。

 赤黒いそれは瞬く間に部屋を飲み込んだ。拳銃を構える暇も無かった雨月は、息苦しさに意識を遠のかせる。余りにも強大な力の中で、仄かに鉄錆と煙草の入り混じった匂いを嗅ぐ。

 囚われる、彼に。


 そう思いながらふと自分の腕を見れば、赤黒い濁流に触れたせいか僅かに変色していっている。正しくは生気を搾り取られていく様な、そんな感覚。

 嗚呼、まさか、腐敗が進んでいたのは――


 しかし次の瞬間、その濁流が真っ二つに裂けた。


 濁流は瞬く間に消滅し、部屋は一瞬で静かになる。濡れた跡も、部屋のものが動いた形跡もない。全てが幻覚だったかの様だ。

 はっとして身体を見てみるものの、雨月の腕はしっかりと肉付いて血色づいていた。

 雨月の前に立ち、刃を振るった心は肩で息をしながら小さく舌打ちをする。


「くそ……、志を迎えに来たのか。あの子供は…」


 見れば布団で寝ていた志の姿が無い。未だに噎せ返る雨月を立ち上がらせれば、「行くぞ」と心が歩き出す。


「はっ、え?! 待って下さい、組長も?!」

「当たり前だ。目の前で仲間が連れ去られて、待つ奴がどこにいる」


 平静を装っている心だったが、微かな殺意が滲み出ている。本当に怒っているのだろう、雨月はそれ以上刺激しない様にゆっくりと言葉を選び話す。


「…とにかく、初音さん達に儚井の過去や今の状況を説明しながら、儚井の部屋に向かいましょう。恐らく、彼女はそこに引き戻された筈」

「分かった。序でに、〝彼女〟も連れてくる様に伝えてくれ。恐らくゆっくり話は出来ないだろうが」

「かしこまりました、では向かいましょう」


 口の中に未だに残る苦い味を噛み締めながら、二人は波棟へと足を急がせた。


 その頃、繋と凪と透、そして百瀬は雨月からの連絡を受けて波棟にある志の部屋に向かっていた。百瀬は最初、かなり訝し気にしていたが、繋が噂の〝子供〟をちらつかせれば途端に顔を青ざめさせ言う通りについて来たのだ。


「あ、あの……子供って、やっぱり…」


 波棟全体に広がる異質な空気を肌で感じながら慎重に志の部屋に向かっている途中、百瀬が耐え切れずに言葉を発する。それに答えたのは繋だった。


「知りたい? じゃあ一から説明しようか、百瀬さん。貴女は詐欺を働く前付き合っていた男性との間に子供が居た。百瀬直樹君、今は佐山直樹君なのかな。ネグレクトで父親に親権を奪われ、貴女と直樹君は離れ離れになってしまった。それから詐欺行為を働きながら金を巻き上げていたが、最後の男に復讐されて子供を身籠ってしまう。生活も苦しくなっていき団地で隠居生活を開始。それが二か月前だね」

「……」

「そして入居してから二日目、貴女は子供を産んだ。病院でなく、自室で。管理局にも役所にも届け出を出さなかったのは何故? …もしかして、団地内で殺しちゃえば誰にもバレないとか思った?」


 びくりと百瀬の体が震えた。つまりは図星なのだろう。掠れた声で理由を話し出す。


「……子供を下ろすなんて出来なかった。でも…産んだ瞬間怖くなって、やっぱり私には育てられないって…思って…」

「…そして貴女は、その一週間後に有り得ない来客に困らさせられる。直樹君だ。彼が父親の目を盗んで貴女の部屋迄来てしまった。…で、百瀬さんちゃんと答えて貰うよ」



「どうして赤子諸共直樹君迄殺したの」



 百瀬の足が完全に止まった。

それにつられて三人の足も止まる。


「……だって、親権を奪われて、会っちゃいけないって言われてたのに。来ちゃったのよ? あたしが責められるに決まってるじゃない。違約金とかも払う余裕ないのに…。だからつい……赤ちゃんも一緒に、捨てられてラッキーだと思ったの」

「……何が、ラッキーだよ。ふざけんな…っ」


 透が腹立だし気に舌打ちをして吐き捨てる。それでも震えるこぶしを彼女に向けようとはしなかった。


「…貴女は、水路に向かって彼等を投げた。子供の体は打ち付けられ、やがて水路の鉄格子をすり抜けて見えなくなる。上手く死体も処理出来たと思ったんだろうけど、下水点検とかで結局バレるでしょ…直樹君の父親も帰って来ないって心配するだろうし。……まぁここまでが始まりだね。本題はここから」


 再び歩き出した繋に、三人共ついて行く。


「一か月半前から、〝ずぶ濡れの子供が赤子を抱えて波棟内をうろついている〟と噂が立った。貴女はそんな幽霊じみた話、最初は信じなかったんだろうね。可哀想だと家に上げた津浦智巳と言う女性が死んで、噂の形が変わるまでは」


 〝その子供は何の前触れも無くある日部屋に現れる。そうして抱えた赤子を見せながら〝ママ、ママ〟と、住人に絶えず話しかけてくるのだ。子供が来た部屋は段々とベビー用品で溢れて行き、住人は子供の世話をする為に飲まず食わずで面倒を見る様になる。子供の声に従わなければならない、という使命感を植え付けられるのだ。やがて住人が事切れれば、その子供は又次のママを探してふらふらと棟内を彷徨う――〟


「その被害に遭う女性の共通点は、大きく分けて二つ。〝過去に子供を間接的に殺した事がある〟事と、〝ヘビースモーカーである〟事。津浦智巳も和泉紗奈も…そして儚井さんも過去に間接的に子供を殺害した事がある。そして三人共、煙草をとても良く吸う。その煙草についてなんだけど面白い事が分かってね。……百瀬さんと吸ってる銘柄が全員同じだった訳」

「……は、はぁ…」

「それで、一之瀬君が見たらしいんだけど。その子供の目って潰れちゃってるらしくてさ。つまり母親を見て判断出来ない訳。だから、母親が良く吸ってた煙草の匂いを辿ってたんだ。…健気だよね」


 百瀬は何も言わない。唇を噛み締めて何かを耐える様に歩く。


「…噂の形を知って、次は和泉紗奈。貴女の隣の彼女が標的になった。このままでは自分が今度は殺される、だから部屋の変更を求めたんでしょ。棟が変われば追って来ないと踏んで。でもその前に、子供は同じ煙草を吸っている儚井さんに目を付けた。延命した、と思ったんだろうね」


 志の部屋の前に行けば、心と雨月も丁度辿り着いた様だ。息を切らした二人は様々に頭を下げれば、心が繋に歩み寄る。


「蛇牀組組長、蛇牀心だ。こうしてお目に掛かるのは初めてか、初音さん。この度は私の部下が迷惑を掛けてすまない」

「嗚呼、良いよ良いよ。それよりも彼女を連れてきたけど…実際にあの子の対処はどうするの?」

「有難う、それについては雨月から聞いた宮津君の言葉に賭けてみようと思う」

「え? オレ?」


 いきなり名前が挙がった凪がきょとんとしながら自らを指さす。心は凪を見て微笑めば、するりと脇を抜けて百瀬の腕を掴んだ。


「貴女は貴女の罪を、償う必要がある。こちらへ」

「ちょ、ちょっと何すんのよ! 離して!」


 嫌がる百瀬が抵抗しても、びくともしない。そのままあえなく彼女は引きずられていく。

 そして志の部屋の扉を、心は何の躊躇いもなく開けた。


「待って下さい組長、危険で…っ」


 言い終わる前に心が入って行った扉が、一人でに閉まり始める。

 このままでは子供に何をされるか分からない。体が動くよりも前に風が通り、――気付けば雨月は腕を引かれて、繋と共に中に入っていた。


「……初音さん…ッ」


 にこやかに微笑む繋は、雨月の腕を離して告げる。


「どうせ中に入りたかったんでしょ。俺も、最後までちゃんと見ないとだからね」


 そう言って改めて目の前の状況を視認した。

 部屋の中は先ほど見た赤黒い濁流の様な、然し質量を持ったゼリー状の何かによって、壁も床も天井も覆われてしまっていた。歩く度にぐちゃり、と嫌な音が響く。


「…うわ、何ここ」


 繋がげんなりとした表情でそう吐き捨てる中、雨月はここが〝胎内〟だと一瞬で確信してしまった。

 二度も彼に触れられて分かってしまった。

彼の唯一安心できる場所、一番印象深いもの。それが、母親のおなかの中。


「雨月、大丈夫か?」


 心の声にびくりと肩を震わせる。首を振れば「大丈夫です」と答えて後に続いた。今はそんな事をぼんやり考えている場合ではない。

四人で固まって、ゆっくりと部屋の奥迄歩いていく。


 そこには生気の失った瞳で笑いながら、赤子を抱く子供に声を掛ける志の姿があった。子供は監視カメラの映像で見た通りの少年、佐山直樹だ。百瀬がはっと息を呑んで心の後ろに隠れるが、その前に、彼は百瀬の体を子供の前に放った。


「佐山直樹君」


 それまで志の方を向いていた佐山直樹がぎこちない動作で心の方を向く。

 その顔にあるべき瞳の部分はぐちゃぐちゃになっていた。頭からは血を流し、良く見れば腕や指は有り得ない方向に曲がって黒ずんでいる。思わず繋と百瀬、一度見たはずの雨月でさえも口元を覆い吐き気を堪える。その中で心は顔色一つ変えず、彼に歩み寄って行った。


「君のお母さんは今目の前に居るその子じゃない。…探したんだ、きっと君も分かると思う」


 そうして心は百瀬の傍に屈みこみ、その顎を掬った。


「声を出せ」


 その場にいる誰もが、心の出す声の圧に指一本動かせなくなる。その姿を知っている筈の雨月も、自分の体が勝手に震えているのが分かった。百瀬は溢れそうになる涙を必死に堪えながら、佐山直樹に視線をやる。


「………直樹」


 その瞬間、佐山直樹の纏う空気が変わった。

 志には目もくれず、一直線に百瀬に歩み寄りそして。


『オ母サン』


 口からゼリー状の何かをごぼごぼと吐き散らしながら、母を呼んだ。佐山直樹が膝をつき、百瀬を優しく抱きしめる。その行動に堰を切った様に百瀬の瞳からは涙が溢れ、脆く崩れかけている我が子の体を思い切り抱き締め返した。


「ご…ごめんなさいッ……。ごめんなさい…、一人ぼっちにして、ごめんなさいッ…!」


 その隙に、心が志の体を抱きかかえ玄関の方で待機している二人に近づく。雨月はお互いを抱きしめる親子の姿を見ながら、ぽつりと呟いた。


「……本当に、ただ母親に会いたかっただけ、なんですね」


 子供は何時だって親と居たいものなのだろう。産んでくれた母親が大好きで、だから父親に内緒でここまで来たのだから。――雨月がそんな事を思いながら彼等を見遣る。

 そんな沈黙を否定の言葉で破ったのは、心と繋だった。


「……本当にそうかな」

「……嗚呼、恐らくそんなに幸せな結末にはならないと思うが」

「え…?」


 雨月がどういう意味か、と問おうとした時、佐山直樹の体が融解した。


 どろどろとした赤黒い濁流に形を変え、そしてそれは百瀬の体に纏わりつき、彼女を閉じ込めた。驚く彼女は息苦しさにその濁流の中で暴れていたが、やがてその身体は先程雨月が見たのと同じ様にじわじわと皮膚が変色していっていた。肉が腐り、骨が見え…死ぬ事も気絶する事も出来ずに生きたまま身体を腐らせていく彼女は、最期に絶望の表情を三人に向けた。



「――……」



 その口が何か動いた様な気がしたが、聞き取れず。やがて赤黒い濁流は佐山直樹の形に戻る。突き落とされる前の、生きていた頃の佐山直樹、その手にはすやすやと眠る赤ん坊が居る。彼は心に歩み寄ると、太陽の様な笑みを見せた。


『これでもう、ずっとお母さんと一緒なの。有難う』


 その言葉を告げれば、今度は彼の体がはらはらと桜の花びらの様に散って行く。仄かに淡紅色さくらいろに光るその花びら達は部屋を舞い、空に飛び、消えて行く。

 その様子を眺めながら、雨月は二人に問いかけた。


「幸せな結末じゃない…って、こういう…」

「……百瀬さんには言ってなかったんだけど。佐山直樹君の父親も、直樹君に暴力を振るってたらしくてね。だから直樹君が居なくなって一か月半経った今も、捜索願は出されてない。…本当に居場所が無かったんだ。だから母親に頼った。なのに、赤ん坊と一緒にベランダから落とされた。…七歳だって〝殺意〟は湧くでしょ」

「彼女は許されない事をした。それに、この団地内で犯した罪はどんな形であれ償わせなければいけない。…彼女には永劫二人の子供の傍に居て貰う。それが彼等の望みなのだから」


 部屋の中に溢れていたベビー用品が、からからと音を立てて揺れている。

 その後、水路の行き止まりで赤子の遺体を発見、DNA鑑定の結果百瀬沙月の産んだ赤ん坊だと言う事が分かり、事件は幕を閉じる。波棟内をうろついていた子供はもう現れる事は無く、不気味な噂も時と共にぱったりと消え失せてしまった。


 そうして今も、佐山直樹と百瀬沙月の姿は見えない。






 ひらひらと粉雪が舞う中、雨月は一人で百瀬沙月が住んでいた部屋の片付けに来ていた。


 持ち主の居なくなった部屋は職員によって綺麗に片付けられ、そうして又新たな入居希望者に貸し出される。例えそこで殺人事件や孤独死が起きていたとしても、だ。衣服にメイク道具、そして家具も売り払われ連龍会の元に入り、新たな予算の一つとなる。


「全く、女性は何でこんなに荷物が多いのか…」


 粗方片付け終わった雨月が伸びをして床に座ろうとした時、唐突にインターホンが鳴り響く。扉を開けると、そこには龍星と志が立っていた。あれから極度の栄養失調で入院を余儀なくされた志だったが、一週間経って無事に退院。すっかり元気になって何時も通りに暴れ倒している。


「龍星、儚井。仕事はどうした」

「アンタが一人で片付けてるって聞いたから午前で終わらせて手伝いに来てやったのよ。後大きい家具とか、運ばなきゃなんでしょ」


 龍星は腕まくりをしてにっこり笑う。ベッドやドレッサーなどの大きな家具は一人では到底持てない。誰にも手伝って貰わずに勝手に終わらせようとしていた雨月だったが、龍星には困り果てる未来が見えていたらしい。有難う、と告げれば「素直に協力してって言いなさいよね」と頭を小突いてきた。と、


「め、メガネ」


 志の声が掛かる。

 志と雨月は病院で一回顔を見せたっきりだ。その時に志の過去を話したと心が告げ、志が酷く憔悴した様子で病室から出て行ってくれと怒鳴られたのが最後である。彼女は何か言いたげな様子で視線を泳がせた後、がばりと頭を下げた。


「御免、入院中にあたし…あんたに酷い事言って!」

「……否、事件解決の為とは言え、聞かれたくなかった過去を無理矢理聞いてしまったんだ。俺が悪い」

「違うの…!」


 震える声が志が否定する。彼女は瞳を潤ませて、雨月の服を強く握りしめた。


「…言いたくない事は確かだった。でも、それを知られて嫌われたくなかったの…。あたしが何も出来ないからって嫉妬して、弟を……偲を殺した、人間だって嫌われて離れられたくなかった、幻滅されたくなかっただけ…」

「…もう良い。そんな事で嫌う様な人間じゃない、御前だってわかっているだろう」


 雨月がそう言えば、待ってましたとばかりに龍星が肩を組んで大声を上げる。


「そーそー! コイツなんか何人もの人のお金横領して、挙句心さんに借金背負わせてのうのうと生きてる奴よ?! こっちの方がアタシは嫌いだわぁ~」

「……もっとマシなフォローの仕方はないのか…。まぁ事実だから何も言えんが…」

「それにアタシも、大勢の人間を傷つけて、時には殺しちゃった元ボクサーよ?  み~んな同じ様なモンよ!」

「おい…、その言い方だとまるで反省してないじゃないか…」

「……ふふ」


 雨月と龍星の言い合いに、志が笑みを漏らす。


「…あたし、もっと強くなるって決めたのに。心さんの前でそう誓ったのに、隠し通そうだなんて。全部晒してそれでも生きていくしかないって決めたはずなのに、忘れちゃってた」


 志がそんな事を呟きながらスマートフォンを取り出す。ロック画面には、まだ幼い志と、志に良く似た男の子が笑顔で映っていた。その様子を二人は何も言わずにただ見つめる。



「ごめんね、偲。…助けてくれて有難う、龍星、雨月」



 顔を上げた志の表情は、冬の朝陽の様に晴れやかだった。






 「こっちです。時間取らせちゃってすいません、奉日本さん」


 同時刻、『館星たてぼし珈琲店』内。繋はやってきた乱に手を振って席へ誘導する。


「なぁに繋君、今回の現場責任者は雨月君でしょ? 話が聞きたいならソッチに行ってよ」


 態とらしく拗ねた様子を見せながら煙草の煙を燻らせる。大方の話は聞いたのだろう、面白そうな事件からのけ者にされると機嫌が悪くなるらしい。繋はまるで子供の様だ、と鼻で笑い―― しかし、真剣な瞳で乱を見据えた。


「この件は、この前の事件とは関係ないんです。…一之瀬君は、〝玖泉〟服用者じゃなくても特定の条件下であれば同じ症状が出る事、そして稀に化け物になってしまう事を知っているんですか?」

「……嗚呼、ソッチね。否知らないよ、その件は俺と心、後は会長代理とか相談役しか知らない。…何か分かった?」


 繋の言葉に興味を示したのか、乱は姿勢を正して返答する。そして、こくりと頷いてから繋が持ってきたパソコンを立ち上げた。その画面には、この前の事件で大活躍した監視カメラの映像動画が映し出されていた。


「これは俺の知り合いのハッカーに頼んで作って貰った映像です。子供が突き落とされて、鉄格子に遺体が浮いている…そこで映像は暗転して終わるんです。でも」


 そこまで言って、繋は動画のシークバーを見せる。全体時間は十五分、暗転した箇所は十四分頃。つまりまだ一分程残っている事になる。


「これは俺とそのハッカーだけが見た映像です。…でも多分、〝玖泉〟と無関係だとは言えないと思います」


 繋が動画を再生する。

 数秒後、その遺体に何かが近づいた。黒いパーカーを被り段ボールを持った身長の低い人間だ。

 彼は遺体を見つめていたが、その後、段ボールを漁って中から注射器の様なものを取り出した。


 そして、次の瞬間。

 その遺体に、何かを注入したのだ。


「……これ…」


 乱がスマートフォンを取り出して何かを確認する。何時ものおちゃらけた様子等微塵もない。

 やがて深い溜息を吐けば口角を歪ませて口を開いた。


「繋君、お手柄だよ。佐山直樹の遺体は下水道全部調べても出てこなかった。何の手掛かりも得られないかなって思ってたんだ。住民の監視カメラの映像なんて簡単には漁れないしねぇ」

「人ならざる力を持った佐山直樹に注入されたものはやっぱり、…〝玖泉〟なんですね?」


 乱は愉しそうに笑いながら頷く。

 刹那、繋の服の袖からポケットナイフが飛び出し、それを乱の喉元に突きつけた。


 表情一つ変えない彼に、言葉を投げる。


「そろそろ教えてください。〝玖泉〟って何なんですか? それを作ってばら撒く目的は? 何故遺体が動くんです? どうせアンタ等全部知ってるんでしょ…――」

「それを知ってどうするの? …知り過ぎて、戻ってこれなくなるかもよ」

「…それでも、退く訳には」


 繋の持つナイフの刃を、乱が掴む。

 指の隙間から血が流れ出し、それらはぽたぽたと机に零れ落ちた。


 驚いてナイフを引く繋の手首を、もう一方の手で掴んだ乱は「ナイフを離して」と囁く。どうする事も出来なくなった繋が渋々ナイフを離せば、直後。


 それを器用に持ち替えた乱が、今度は繋の喉元にそれを突きつけた。


「……駄目じゃない。退かない覚悟があるなら、自分の武器は自分が持ってないと」


 そう言ってけらけらと笑った乱は、机上にポケットナイフを置く。まだまだ甘い、と言われた様なものだ。繋は視線を下ろし唇を噛み締めた。


「…繋君のそれは、単なる好奇心? それとも誰かを守る為に情報が必要って所なのかな」

「……」


 乱の質問に、すぐには答えられなかった。けれど、だんまりがいつまでも続く相手ではない。

 繋はゆっくりと頷いて、話し始める。


「…せめて緋狼君が、危ない目に遭わない様にとは思ってる。…特定の条件下で服用者と同じ症状が出るなんて、気を付けようもあまりないけど」

「成程ね…。保護者としての責任って感じか」


 繋の様子を見ながら、彼は笑い飛ばすでもなくそう呟いて。

一呼吸置いてから、机上に自分のスマートフォンを置いた。


「分かった、教えるよ。でも、これから言う事は仮説が九割、何てったって俺等もまだ分かんない事だらけだからね」


 始まりは二十年前、突如として〝玖泉〟という薬物が出回り始めた。その成分は一切不明。噂によれば〝一度服用したら最期、死ぬまでその薬から逃れる事は出来ない〟と言われている。症状は一般的に薬物中毒者に現れる症状と同じだが、全身の寒気に加え時折目が見えなくなったりする。


 そして最近になって噂され始めているのが、玖泉を服用した人間は〝常軌を逸した行動、抑えきれない破壊衝動に乗っ取られ自我を崩壊させていく〟という話だ。


「崩壊した末路が、露木藍生の様な化け物に変化するパターンだね。…で、ここからが仮説なんだけど、〝玖泉〟の研究に協力してくれてる団体から言われたんだ。〝これは神の種だ〟って事を」

「神の種……?」

「成分は一切分からないんだけど、〝玖泉〟には神の力が一部宿っているらしい。まぁ現代科学とかじゃ一切解明、説明出来ない物体をそう呼んでるんだけど。その神の力が働いて、人間の脳に寄生するらしいんだ。…問題は、その脳が生きていても死んでいても関係ないって所。寄生された脳は活性化して、時に化け物にも変える」

「…じゃあ、あの特定の条件下で同じ症状が出るってのも、損傷した脳に神が寄生するからあり得る事なんですか? それにしたってどこからその神様が見てるんですか…」

「神様だから、多分どこでも見てるんじゃない? …で、その神様の正体は分からないけど、それを作ってばら撒いてる奴等の名前は分かる」


 乱はスマートフォンのアルバムをスライドして、あるエンブレムを繋に見せた。一見すれば歪んだ丸印の様な、はたまた桜の花びらの様な、不安定感の残る落書きみたいなものだ。


「彼等は二十年前、〝玖泉〟を作りばら撒き始めたとあるカルト集団。構成員の数や教祖、祀っている神様の詳細は一切不明。どこにアジトがあるのか、どんな風に〝玖泉〟を作っているのかも分からない。その教団の名は――」




夜淵やえん




 ぞく、と全身に寒気がはしった。その名を聞いただけで、体の芯から凍えてしまう様なそんな感覚。繋は身震いした後、改めて〝夜淵〟について言及する。


「それ、…新興宗教ですか?」

「否、良く分からないんだ本当に。ただ会長代理がそう言う団体が薬をばら撒いてるらしいって事を掴んでくれて。俺等は今そいつらを追ってる訳。……でさ」


 珈琲を一口飲んでから、乱が急に真剣な眼差しを繋に向ける。


「一人だけこの教団に所属してる奴の名前、知ってるんだ」

「え? 誰ですか?」


 身を乗り出す繋を見ればふ、と微笑んでスマートフォンを操作する。

 何気ない口調で語られていくそれは、徐々に繋の表情を翳らせ――


 この事件が、序章にすらならなかった事を改めて告げた。







 同時刻、玖都のとある商店街。

 緋狼は学生鞄を肩から下げ、今日の夕食の買い出しに出ていた。

 繋はこの前発覚した連続女性孤独死事件の詳細を一切語る気はないらしい。それが分かると何だか物悲しい様な、自分にはまだ早い事件だったのか、色々と考えてしまう。


 悶々とした気持ちでは部活にも集中出来ず、今日は副部長が良く話してくれるちょっと面白いオカルト話を九割聞けなかった。それを思い出す度に緋狼は溜息を吐いて視線を足元に落とす。そして、


「また……お見舞い行こっと」


 そうぽつりと呟いた。

 仕事をしている時は何も考えなくていい。余計な事をあれこれ考える余裕も無く忙しくしていられるから、なるべく繋とは一緒に探偵の仕事を受けたいと思っていたのだが、内容によっては繋の独断で最初からお役御免になる可能性がある。

 そう言う時は決まって、母親のお見舞いに行くのだ。


 五年前、緋狼と共に無理心中を図り炎に包まれ、全身火傷を負った彼女は今も集中治療室、ガラス越しのベッドの上で延命されている。


 全ては、自分の従兄弟のせい。

 フラッシュバックする記憶に耳鳴りがする。一瞬視界が明滅して、立っていられない程の頭痛に呻く。


「……駄目だ、考えない様にしよう」


 深呼吸を繰り返して、緋狼は再び歩き始める。陽はだいぶ傾き始め、道行く人がそれぞれの帰る場所へと向かっていく。と、駅から出てきた人々の波に逆らって、道の真ん中をゆるりと歩く人間の姿が目に留まった。



 赤い髪、足元まで伸ばされた三つ編みに椛の花の髪留めが揺れている。

 気怠そうな桔梗色の瞳は、自分にそっくりで。




 黄ばんだ白衣を翻し、『彼』は緋狼の横を通り過ぎた。












「君も見た事あると思うよ。その人は最年少で医師免許を取得、その後その能力を見込まれて研究所に引き取られた。…今も教団で〝玖泉〟の研究をしている闇医者。劉緋狼の従兄弟、…―― 劉楓りうふぉん
























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