表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
玖泉  作者: ebi
1/2

第壱話


 目を、覚ます。


 暗く澱んだ空気は重く、容赦なく肺を穢していく。視界に広がる景色は、まるで天上迄続いているかと錯覚してしまう程窓が立ち並んでいた。空が見えない、自分はどうしてこんな所で寝ているんだっけ。記憶を辿ろうとすれば鈍く後頭部が痛み、そして。


「あ。やっと目を覚ましたんだね、お兄さん」


 自分を見下ろしている裏葉柳(うらはやなぎ)色の長い髪を結った青年と、視線がかち合った。清潔な白シャツに薄手のニットを着て、涼し気な淡紅色の瞳が印象的な青年。

 彼はにこりと微笑んで手を差し出してくる。ふらつく体を支えて貰い、何とか立ち上がって周りを見回すも自分にとっては初めて目にする景色で。困惑していればその青年から、当たり前の質問をされた。


「お兄さん、名前は?」


 ――そうだ、名前。

   聞かれれば自然と出てくる筈の名前が、全く出てこない。


 次いで青年が「…じゃあ、ここに住んでる人? 職業は?」と問うてくるが、それも分からない。ふるふると首を左右に振れば、彼はふぅん、と何か納得した様な声を溢し、おもむろにスマートフォンを掲げてシャッターを下ろした。たかれたフラッシュに思わず体が跳ねる。


「記憶喪失って事だね。頭でも打ったのかな、手当と…詳しい話も聞きたいし俺の事務所に来なよ。何も分からないんじゃ、その格好で好き勝手動けないだろうし」


 改めて指摘されて視線を下げれば、私は靴を履いていなかった。スマートフォンも財布も無い。よれよれのスーツのポケットには残り数本の煙草と百円ライターだけが入っていた。足寒いだろうけどすぐそこだから我慢して、と青年が歩き始めれば慌てて着いて行く。靴下に染みる冷たい水と、コンクリートの感覚が妙に不快だ。


 吐く息は白く、今が冬なのかと理解すれば寒さに身を震わせる。はたと気づいて青年に、そう言えば名前は、と問えば彼はゆっくり振り向いてこう告げた。


「初音探偵事務所所長、初音繋はつねつなぐ。宜しくね、お兄さん」






 鉄骨階段を少し上り、ゴミと落書きだらけの廊下を進んで行けば突き当りにその事務所は看板を構えていた。どうぞ入って、と促され扉をくぐる。そこはいかにも探偵事務所、と言わんばかりのインテリアレイアウトが施された小さな部屋だった。フローリングの床は外から来たら丁寧過ぎると思える程綺麗に磨かれており、少し時代を感じさせる様なアンティークな家具が部屋の統一感を持たせていた。


 話をする前に、顔を洗った方が良いと彼に指摘され慌てて案内された洗面所へ向かう。

 鏡に映った私の口元は赤く汚れていた。


 


 ――そして何より、目を引いたのが襟元にべったりと付着した赤黒い何か。




 まさかこれは…等と思いながら洗面所から出てソファに座れば、事務所に居た赤い髪を三つ編みにした少年がそそくさとお茶を出す。お礼を述べると少し照れた様に微笑んで、洗い場へ引っ込んでしまった。


「彼は劉緋狼りうひいろ、俺の仕事を手伝ってくれてる助手みたいなものだよ。まだ高校生なんだけどね」

「…偉いですね」

「まぁ、保護者としての責任があるから、危ない真似はまださせられないんだけど…。緋狼君、救急箱持って来て」


 保護者、という言葉に違和感を抱きながら私は歩み寄る繋君の顔立ちを眺める。切れ長の瞳に端正な顔立ち、モデルをやっていても遜色ない容姿だ。時折さらり、と前髪が揺れ隠れている顔の左半分が覗き見するが、ちゃんと見えない。

 救急箱から消毒液やガーゼを取り出した繋君は、おもむろに私の後頭部に触れる。痛みはあるが、それだけだ。

 しかし、


「……妙だね」


 繋君が声を上げる。


「み、妙って?」

「お兄さんのシャツの襟元にはかなりの血液が付着してる。でも傷口を見た限りだと、たんこぶしか出来てないんだよねぇ…頭を切った感じもないし。これお兄さんの血じゃないのかなぁ」

「そ、そんな?! じゃあ一体誰の…」


 私が怯えた声を漏らせば、繋君はくすくすと微笑んで向かいのソファに座る。


「焦んないでよ、決まった訳じゃないし。傷は大した事ないよ、とりあえずは大丈夫そう」


 繋君の落ち着いた声が大丈夫、と言えば私は人知れず安堵し肩を下ろした。

 しかし傷は大丈夫でも、片づけなければならない問題が山の様に残っている。私がそう思ったのと同じタイミングで、繋君がタブレットを取り出して足を組み直した。


「じゃ、始めようか。聞き取り調査だから嘘偽りなく答えてね…まず、お兄さんが覚えてる断片的な情報はある? 何でもいいから教えて欲しいんだけど」

「え、ええと……」


 噓偽りなく、と言われたもののどれだけ頭を捻っても出てくる情報は全くない。やがて諦めた様に首を振れば、繋君は何かをサラサラとタブレットに書いていく。


「何も覚えてないの? 過去の事とか、ここがどこなのかとかも」

「は、はい…すいません」

「謝らなくていいよ。でも参ったな、お兄さん何も持ってないんでしょ。…ダメもとで管理局に行ってみるしかないか」

「管理局…?」


 顎に手を添えて深く考え込んでいる繋君の発した言葉に、いちいち反応してしまう。

 そんな私を繋君は、鬱陶しがらず態度を変える事もなく教えてくれる。


「嗚呼、ここ化野団地あだしのだんちを管理している人達の所。単に記憶を失ってるだけでここの住人なのか、若しくは本当にここに住んでない外部の人間なのか…。それだけでも分かれば進展するしね」

「はぁ、成程…。何から何まで…――」


 言いかけたお礼の言葉は繋君の言葉によって掻き消えた。


「本当、妙だよねお兄さん」

「……え?」


 思わず彼の方を見遣れば、先程迄柔和な光を宿していたその瞳は鋭く私を見据えていた。その視線に耐えきれず、目を逸らしてしまう。


「お兄さん、もし目の前に記憶喪失の人間がいたとして。お兄さんだったらまず初めに何をする?」

「………名前を聞いて、困ってたら…病院とか、警察…に……」

「そう。そうなんだよ、お兄さん。そういう常識は覚えてるって事ね。つまり、急に探偵事務所に連れて来られた事をもっと警戒した方が良いと思うんだけど、逆に感謝迄しちゃってさ。お兄さん、危機感あんまり無いんだね」


 これが事故にせよ事件にせよ困っているのは自分だと言うのに、何故か繋君に責め立てられている様な気がして心臓が痛んだ。一体何て言葉を返すのが正解なのか、言いあぐねていれば繋君の瞳が先程の柔らかいものに戻り、「なぁんて」と言葉を発する。


「冗談だよ。お兄さん、余りにも騙されやすそうだから心配になっちゃってさ。…気が動転してたんだよね? いきなり全部の記憶なくなったらそりゃ、心細くもなるさ」


 そう言ってタブレットに何かを書き足していく。彼の本心が見えない。

 最初に出会って助けてくれた人物とは言え、こう茶化したり詰め寄られる態度を取られれば、少しだけ苦手意識も芽生えてしまう。そんな私の気持ちを知ってか知らずか、繋君は「でもごめんね、警察には連絡出来ないんだ」と躊躇なく話し出した。


「な、何ででしょうか…」

「ここさ、管理者が連龍会れんりゅうかいって言う極道組織なの。敷金礼金一切なし、家賃も一万円からって言う超格安物件なんだけど入居条件を満たしたら〝どんな人間でも〟入れるのね。だから入居者の中に犯罪者が居るのなんてざらにある。で、その入居条件の中にね、〝化野団地内で起こったいかなる事件事故も警察組織に連絡するべからず〟ってのがあるんだ。… つまり」


 彼は、もう一度足を組み直して話を続ける。


「ここで起きた事件事故は自分達で何とかしろ、或いは管理局に連絡しろって事。もしここに警察が入り込んで来たら、入居してる犯罪者一同が全員危うくなっちゃうでしょ。その他にもアウトな施設とかがここには沢山あってね、秘密保持契約みたいなもんだよ。格安で住まわせて貰う代わりに何も口外するな…ってね」

「な……」

「皆、生活していくのに必死なんだ。ここにはそう言った訳アリの住人しか居ない。だからあんまり踏み込み過ぎると、お兄さんの身が持たないから気を付けた方が良いよ」


 そんな事が許される世界があるのか、と聞いた直後は素直に思い浮かんだ。しかし、そんな壮大な嘘を今作り込む必要など無いのだ。彼にとってメリットが無さすぎる。私が何も言わないのを肯定と受け取ったのか、繋君はタブレットをしまい立ち上がった。

 上着を着て「じゃあ行こうか」と私にサンダルを用意する。


「ただのベランダ用のサンダルだけど、ないよりマシでしょ。とりあえず、協力してくれるアテがあるからさ。その人達のとこに行こうか」

「あ、有難うございます。助かります」


 もたもたとサンダルを履いて顔を上げれば、そこには薄い笑みを浮かべた繋君が居て。

 その表情は何かを哀れんでいるかの様な、面白がっているかの様な雰囲気を孕んでいて。

 彼は口元を歪めると私に囁いた。


「記憶、戻ると良いね」






 鉄骨階段を下りて、また上って。

 小さな渡り廊下を歩いてぐしゃりと歪んだ鉄門を開ける。きぃ、と音を立てて開くそれの先端には死んだ鼠の遺骸が貫かれていた。気味の悪い雰囲気を肌で感じながら繋君の後に続いて行けば、彼はとある部屋の扉の前で止まった。表札には〝宮津〟と書かれている。インターホンを鳴らして数秒、扉を開けたのは幼い少年だった。


 余りにも小柄な体躯、一瞬女の子かと見まがう程の大きな瞳に顔立ちの彼は、繋君を見ればきょとんした表情で「初音さん…? どうしたんですか?」と小鳥の様な愛らしい声音で述べた。そんな彼の肩を掴み、無理矢理に中に入っていく繋君にぎょっとしながらも中にお邪魔させて頂く。


「や、ちょっと君達に折り入って頼みがあってね。萩原透はぎはらとおるは来てる?」

「えっ?! い、いや、居ますけど…ッ」

「有難う、嗚呼、そちらの彼は気にしないで。後で説明するから」


 どたどたと三人居間に入って行けば、そこにはもう一人の青年の姿があって。赤い髪に三白眼の青年は、スマートフォンからおもむろに顔を上げ――繋君を見るなり不愉快そうな表情を露わにして口を開く。


「なっ、初音…何でお前がここに」

「やぁ、萩原透。今日も随分暇そうだね、博徒ばくとは日がな一日ぶらぶらしてても勝てば大金だから人生バラ色じゃないか。まぁ母親も居ない人間がバラ色なんて大層な幸せ宣言出来ないだろうけど」

「うるせぇな! 何しに来たんだよ、ストレス発散なら今すぐ…」


 と、拳を握り込んだ透君だったが私に気付いて臨戦態勢を解いた。こういう場合すぐに自己紹介をした方が良いのだろうが、生憎名乗れる名前が無い。ぺこりとお辞儀をして敵意がない事を示せば、繋君はやっと本題に入ってくれた。


「この人、今朝呂棟のゴミ捨て場に居たんだ。記憶喪失でね、スマホも財布も持ってないからどこの誰なのか分かんない。そこでさ、君達どうせ暇だろ? この人の記憶を戻す手伝いをしてほしいんだ」

「はぁ!?」

「えっ!?」


 …当然の反応だ。アテがある、と言っていたがこれでは押し付け以外の何物でもない。答えあぐねている二人に耐えかねて自分で管理局へ行ってみると伝えようとした矢先、繋君が少年の方へ歩み、その体を引き寄せた。  

 苦しそうな表情を浮かべて、少年の耳元で何かを小さく囁く。


「凪君、あれが萩原透の本性だよ。困っている人を見捨てて自分を守ろうとするなんて〝ヒーロー〟の風上にも置けないよねぇ…。可哀想だと思わない? あの人、帰る場所も分からなくて、自分が誰なのかも分からなくて。凪君は、放っておけないよね…?」


 少年の頬をするりと撫でて、情に訴えかける。さながら誘惑している様だ。こちらが気恥ずかしくなって目を背けてしまう。それは透君も同じだった様で、何とも言えなさそうな表情を浮かべていたが少年の腕を掴めば負けじと声を張ろうとする。


「おい凪、そんな奴の口車に…」


 ――しかし、時すでに遅しだった様だ。


「兄貴助けてあげましょうよ! 可哀想ですよお兄さんが!」


 凪と呼ばれた少年は瞳を潤ませて、透君に詰め寄る。

 慌てて繋君の方を見れば、計画通りと言わんばかりの悪い笑みを浮かべてその様子を見守っていた。きっと彼等はこうやって繋君に面倒ごとを何時も押し付けられているのだろうな、と思うと何故だか不憫に思えてきて私が泣きそうになっていた。


「話は纏まったね。彼の名前はヤマダって事で。化野管理事務局に向かってヤマダさんがここの住人なのか確かめる事と、どうせ一日二日で解決する案件じゃないだろうし、団地内を案内してあげて。頼んだよ、萩原透達」

「あっ、…もう、行くんですか?」


 早々に去ろうとする繋君を思わず呼び止める。別に居て欲しい訳では無かったのだが、十分な自己紹介もないまま放り出されるのは多少なりとも心細かった。しかし、彼はそこまで面倒を見る気はなかったらしい。当たり前、と言えば次いで言葉を吐き出す。


「俺も抱えてる案件が結構あってね。申し訳ないけど、ゆっくり面倒見てられないんだ。何かあったらその人達に言って、大抵の事は何でもしてくれる筈だよ」


 そう言えば繋君はひらひらと手を振って扉を閉めてしまった。後に残った三人の間で沈黙が流れる。それはそうだ、恐らく一回りも違う、自分の事を分からないおじさんだけ残されて丸投げされたら誰だって…。そんな異様な状況に居た堪れなくなり、いっそもう出て行ってしまおうかと考えていた時、沈黙を破ってくれたのは凪君だった。


「と、とりあえず!  まず自己紹介しましょうよ、オレは宮津凪みやづなぎって言います! 彫刻家やってます!」


 人懐こい笑顔を浮かべて凪君が挨拶をする。彼は女神か。聞けば彼は成人を越えているらしい。生まれた時から化野団地に住んでいて、実家の部屋は引き払ったが別の部屋を借り直したと言う。


「兄貴とはオレが生まれた時、実家が隣同士で良く遊んでくれてたんですよね! だからオレにとってはホントの兄貴みたいな存在で」

「まぁそんな感じ」

「へぇ…」

「何時も面倒を見てくれたり、ご飯をお裾分けしてくれたり!」

「嗚呼、じゃあ本当に御両親同士仲が良かったんですね」


 何気ない質問。しかしそれに答える者は誰も居なかった。

 空気が変わった。彼等の表情を見れば凪君の表情は翳っていて、透君も視線を何処かに彷徨わせていた。何か踏んではいけない地雷を踏んでしまったか、と思うが早く謝罪を口にすれば我に返った凪君が慌てて取り繕った笑みを浮かべる。


「すいません! 何か気遣わせちゃって…! 仲良かったんですよ! 本当に! あ、ほら兄貴も自己紹介しないとっ」

「あ、嗚呼。まぁ、うん」


 先程、繋君から聞いた団地に住む住人の話を聞いていたにも関わらず、ずかずかと他人の込み入った話題に踏み込んでしまった。言い様のない微妙な空気の中、透君が私を見て軽く頭を下げる。


「俺は萩原透って言います。職業はー…えーと……まぁ、賭けで生活してるみたいな…生業と言うか…」


 言いにくそうに言葉を選びながら、彼は告げる。そう言えば先程、繋君が彼の事を〝博徒〟と罵っていた。だから一緒に居た私もギャンブラーに余り良い印象を持っていないのだろうと思われていたのかも知れない。

 ――賭け事で生活するなんて、格好良いと思っていたのだが。

 そう言えば、彼はまた微妙な顔で「あー」だとか「うん」だとか煮え切らない返事を返した。開口一番、「嘘だろ」なんて言われないだけでもマシか。


 そんな事を思っていれば、透君がちゃぶ台の上のごみを片付けてホワイトボードを載せる。百均ショップにある様な小さな白い板の上に、簡易的な四角を何個も描いていきながら、口を開いた。


「じゃ、とりあえず管理局に行く前に、ここの事大まかにでも知っといた方が良いだろ」

「あ、団地…の事ですね。入居条件の話とかは聞いたんですけど」

「警察に話せない理由もか。まぁ、アンタがそんなのおかしいって言って逃げ出しても管理の奴等がすぐ追って来るだろうしな。…それに」


 ペンを走らせる手を止めて、下を見たまま彼は続ける。


「ここは入居してる俺らでも道が分かんなくなる時がある。外に出る為の出入り口は〝分からない様に〟案内板が貼ってあるんだ、外から入って来た鼠を閉じ込める為、とか何とか言ってたな。だから普通に迷って餓死するのもざらにある」

「この前も遺体が出てましたね。入居者じゃないお姉さんが、階段から落ちちゃってそのまま誰にも見つけられず、最近になって腐臭がして発見されたって」

「アンタが仮に入居者じゃなくて、ここから無事に出られたとしても警察に話す事はおすすめしないよ。管理の奴等、てか連龍会は警察の一部とも繋がってるって話だから」


 二人の会話を聞いて、背筋に冷たい汗が流れた。ここでは何も通用しない。見つかった事自体がラッキーだったのだ。生きて帰れるならば、何も望む事は無い。そうしていれば透君が「出来た」と告げて、私にホワイトボードを見せてくれる。


 七つの四角形に、辺りに書き込まれた斜線。所々に引いてある外向きの矢印。

 ……何だこれは、と思っていれば咳払いをして凪君が説明をし始める。


「ここは極道組織である連龍会が管理する超巨大団地群〝化野団地〟です。玖都きゅうとの四割を占める土地が全部団地に使われているんですよ」

「きゅうと…?」

「あ、玖都もご存じなかったですか? 都市から結構離れた場所にあるんです、ここ。森とか山に挟まれてるんですけど、海もありますし田舎って訳では無くてここも立派な都市ですよ! …ヤマダさん、玖都を知らないなら入居者じゃないのかも」

「基本的なマナーとか有名な場所とかは分かるけど〝自分〟に関する記憶を一切失ってるってんなら、玖都住みだった可能性は高いけどな」


 成程、そういう考え方も出来るのか…。相槌しか打てない私の様子を見ながら二人は説明を再開する。


「玖都には団地以外にも四つの区があります! そこに学校とか病院とかアミューズメント施設があるんです、団地に住んでない人達はそこのマンションとか一戸建てに住んでます。ただ玖都も連龍会の人が監視しているみたいなので、事件が起きたら警察よりは連龍会に連絡する人の方が多いのかな」

「団地の外で事件が起きたら、連龍会がまず団地内部に犯人が居ないか徹底的に洗うんだ。それで全員シロが取れたら改めて警察に連絡する――〝団地内部に犯人はいないから捜査対象から外して捜査をする事〟ってな」

「そんなに極道組織が主導権を握っているものなんですか…? 日本政権的にそれはどうなのかなって……」


 まるで国家権力の通用しない無法地帯の様で、寒気がした。そんな現実を自然と受け入れている二人に対して、も。


「詳しい事は知らねぇよ。でももう何十年も前からそういう基盤が出来てる。噂では国家権力と連龍会が連携して守ってる都市って話もあるけど」

「実際ちゃんと生活出来ていますし、良いかなって。ちゃんと本部は傍にありますし、何かあったら迅速に対応もしてくれるんですよ」


 凪君も透君も、親が入居申請を出した身だ。子供の時からそれが普通だと、そう教えられていたのならば恐らくは何の疑問も持たないのだろう。今はそこに突っかかっている場合でもない、この話は終わらせる事にした。


「で、団地についてなんですが…主に七つの棟から成り立っています。い、ろ、は、に、ほ、へ、と…という感じで名称付けられているんですが、〝い〟から〝は〟までは主に全部の部屋が住居とか小さい事務所とか病院の使用に当てられています」

「俺らの居るここは波棟、初音の事務所があるのが呂棟だ。あいつの住居は団地の外にあって、事務所だけ間借りしてるらしいな」

「そんな事も出来るんですね! 凄いなぁ」


 だから玖都全体を連龍会が監視しているんですかね、と言いかけてやめた。今は記憶を取り戻す事に専念しないと、と頭を振って彼等の話の続きを聞く。


「続いて〝に〟と〝ほ〟はですね、商業エリアが入ってます。棟の構造自体は一緒なんですけど、店が並んでたりカフェなんかもありますよ。丸々二棟大きなショッピングモールだと思っていただければ幸いです!」

「たまに従業員の寮だったり、経営者の住居として部屋使いされてる時もあるけど。基本的にはでかい商店街だ」


 そう言って透君がスマートフォンの画面を見せてくれる。商業エリアらしいその写真は、先程歩いてきた所と同じ様なゴミだらけの廊下と奥迄続く店の看板をしっかりと映していた。夜だろうか、赤く光る提灯の明かりが幻想的だ。居酒屋とスナックが所狭しと立ち並んでいる通りの様で、少しだけ喉の奥に生唾を呑み込んだ。


「そして最後の〝へ〟と〝と〟なんですけど……」


 凪君が言い淀む。危険なエリアなのだろうか?と首を傾げていると、透君がすかさず説明を始めてくれた。


「所謂花街、後犯罪者…および前科持ちの人間が密集してる棟だ。地下もあって違法カジノとか、闘技場なんかもある。嗚呼、後ストリップか。普通に暮らしてる奴等は絶対近づかない場所だ。俺は仕事で用があるから行くだけだけど、正直それ以外にも色んな店とかがあるらしい」

「そ、そんな……一般人が間違えて入ったら…」

「棟の渡り廊下には監視カメラと連龍会の人間が門番してるんだ、子供は通さねぇし興味本位で来た一般人にも注意して帰したりしてる…厳しく管理されてる違法地帯って感じだな」


 自虐気味に笑う。彼は違法カジノで稼いでいる人間だった、だからこそ言いにくそうにしていたのだろう。けれど凪君の方は分からない。表情は暗く沈んでいてそれ以降口を開く事も無かった。そんな彼をフォローする様に、自然な流れで透君が説明を続ける。


「んで、この外向きの矢印が外に繋がる出入り口って訳。棟の色んな場所から出入りできるんだけど、部屋の扉を開けたりとかマンホールの中入ったりとかするんだ。複雑だからこれはアンタが外の人間って分かったら説明するよ」

「はい、分かりました…多分、一人じゃ餓死してしまうので、暫くは厄介になりますが……」


 と頭を下げれば、ふと透君が微笑む。


「良いよ。俺らは入居条件に従って協力してるだけだから。とにかく管理局に行ってアンタが団地の人間なのか確かめてみようぜ」


 軽く肩を叩いては、歯を見せて笑う。一回りも違う筈なのに、彼はとても頼りがいのある大人に思えてしまった。自分が情けなく見えて溜息を吐く。

 しかし、今はそんなこと気にしていられない。記憶を取り戻して、協力してくれた皆にせめてものお礼が出来れば、と私は透君と凪君と共に管理局に向かう事にした。






 管理局は化野団地波棟の地下に存在した。

 波棟のある部屋の扉を透君が開ければそこはエレベーターになっていて、三分程もすれば大げさに揺れて止まる。扉が開き目に飛び込んできたのは、上とは段違いに清潔で綺麗な事務所だった。市役所の様な待合椅子が並べられた大きなホールに各受付が広々と並ぶ、そんな空間。上を見遣れば、職員らしき人達が資料を探して右へ左へ奔走している。


「凄い……しっかりした場所なんですね…」


 そんな事を呟けば、すっかり元気になった凪君が胸を張って得意げに話す。


「でしょう! 何せここには今迄住んできた人、今住んでる人のデータがぜ~んぶ保管されてますからね! 外部の人間からは隠されていて、何か企む内部の人間に対しても対策はばっちりです!  今入ってたエレベーターにセンサーがついてますから、何か触れたらここには辿り着けなかったんですよ~」

「えっ、何かあったらじゃあそのエレベーターはどこに…」

「勿論連龍会の本部直通です! 何故こんなものを持っているのだとか、何をする気だったのかとか尋問されるみたいです…怖いですよね」


 ハイテク過ぎないか…?いや、ここに住まう人達の管理は、逆にこうでもしないとすぐバランスが崩れてしまうのだろう。いかに連龍会が力を持った凄い組織なのかが察せられる。


 同時に絶対歯向かわないでおこう、とも。


 番号札を受け取って待合の椅子に座る。ここに来ている人達は全員、団地の住人であり――つまり『何か訳アリ』の人間達なのだ。仕方ない、という気持ちよりも恐怖の方が勝った。生きていく為にここで起きている事の全てを口にするな、なんてそんなの正気の人間が易々と受け入れられる様な話じゃない。

 そこまで考えて、繋君の言葉を思い出した。


 ――あんまり踏み込み過ぎると、お兄さんの身が持たないから気を付けた方が良いよ。


「受付番号弐〇伍番の方、肆番にどうぞ」

「あ、呼ばれた。ほら行くぞアンタ」


 透君に肩を揺すられ、思わず顔を上げる。きょとんとした顔で二人は私を見下ろしていた。いけない、余計な事ばかり考えている気がする。さっきも記憶を取り戻すのに専念しようと決めたばかりなのに。何でもない、と笑って肆番の受付へと向かうとそこには眼鏡を掛け髪の毛を七三分けにした、いかにも職員ですと言った風貌の男性が座っていた。


「どうも、今日はどう言った御用件で?」

「ちょっとこの人が団地の入居者か調べて欲しいんだ。記憶がなくて、身元が分かるものも持ってなかったから時間が掛かる事は承知の上なんだけど」

「記憶喪失…? と言っても七棟全部の入居者リストをしらみつぶしに見て行くとなるとだいぶ時間が掛かりますが…とにかく、そちらの方が目を覚ました場所はどちらでしょうか。その棟に絞ってまずは見てみましょう」

「確か呂棟のゴミ捨て場って初音が言ってたよな。それってどんくらい掛かるもんなの?」

「一棟位なら一日二日で何とかなります。連絡先をこちらに、何かあれば御連絡差し上げますので」


 きびきびと名刺を差し出し次いでメモとペンを滑らせる。透君が夜は仕事ですぐ出られないと思う、と言えば凪君が俺の番号に掛けて下さい、と前に出る。

 躊躇なく自分の番号を書いて職員さんに渡す凪君を、透君は複雑そうに見つめていた。


 不安でもあるのだろうか?と思っていると、職員さんがそれをパソコンに貼ってテーブルの書類を片付け出した。その様子に視線が移り、ぼんやりと眺める。


「他に何もなければ、次の利用者様が待っておられますので」


 ――鋭い瞳が私を捉えた。

   刹那、後頭部に凄まじい痛みがはしる。


 立っていられない。ガタタと激しく音を立てて椅子から崩れ落ちれば、他の職員さんや利用者のどよめきが上がった。透君と凪君が蹲る私に必死に声を掛けている。


 ノイズ――人の声、笑顔、視線。

 心臓を握りつぶされる様な痛みを抱えて、映像の中の私は一緒に笑みを浮かべていた。


「ヤマダさん!」


 管理局のタイルに汗が滴り落ちる。名前を呼ばれた時にはもう、後頭部の痛みは何処かに消え失せていて。頭に浮かんだあの映像もぼんやりとしか思い出せなくなっていた。目の前には心配そうな表情で二人が座り込んでいる。落ち着いた私の様子を見てか、息を吐いて安心した様に胸を撫で下ろしていた。


「いきなり頭を抱えて蹲っちゃって…大丈夫ですか…?!」

「あ、嗚呼。大丈夫…多分頭を打ってたからその傷が痛んだのかも…」

「…それは大変ですね」


 何時の間にか職員さんが私の横に膝をついており、抑えていた頭に触れて声を上げる。そうしてスマートフォンを取り出したかと思えば、どこかに連絡を入れ始めた。


「あ、あの…?」

「知り合いに医者がいます。たんこぶ程度でも時間が経って頭蓋内出血を起こす可能性がある。きちんと診て貰うべきです」


 椅子に座る様促され何も反論できず十分程度。

 待っていれば、遠くからからん、と下駄を擦る音が聞こえた。反射的にそちらに視線をやれば、着物姿にマフラーを巻いた黒髪の男性がまっすぐこちらへ向かってきていた。深くお辞儀をした職員さんに手を上げて近づいてくる。


「やぁ、一之瀬君。彼かい、頭を打って記憶喪失になった患者と言うのは。先程痛みがはしったと聞いたが」

「はい、彼です。御忙しい所申し訳ないのですが、軽く診察して頂いても宜しいですか?」

「ん、良いよ。じゃあ改めて、町医者をしている世界弥勒よさかいみろくと言います。宜しくね」


 昔の医者が持つ様な診察鞄を脇に置けば、彼――世界さんはにこりと微笑んで手を差し出してきた。流れる様に握手を交わし、一通りの診察が始まった。そして世界さんも繋君同様、襟元に着いた血液について言及してきた。


「だいぶ血液量が多いな、なのに傷口は切れた痕もなくたんこぶ程度だと。……この血が本当に君のものかどうか調べてみるのも手だね。もしかしたら違う所から出血していたのかも知れないし…、何か事件に巻き込まれている可能性もある。私の病院へ今から来て貰えるかな?」

「あ、はい、えと」


 私はすかさず二人を見る。二人も私の言いたい事に気付いたのだろう。

 その方が良い、とこくりと頷いてくれた。


「もしかしたら変な病気だったりするかもしれませんし! 診て貰って損はないですよ!」

「診療代は俺が出すから安心して欲しい。別に返せとも言わないし」


 こんな状況でも優しく接してくれる二人に、何て返せばいいのか分からなかった。元はと言えば繋君に押し付けられただけの被害者で、こんなおじさんが一人野垂れ死のうが関係ないはずなのに。有難う、と繰り返せば二人は困った様に微笑んでいた。

 一之瀬、と呼ばれた職員さんも去り際「入居者リストの方はなるべく早く片付けます。今は安静にされてください」と声を掛けてくれた。先程迄団地に住む人間に少しだけ恐怖を感じていた筈の私の心は、皆の優しさに触れてすっかりほだされてしまったらしい。


 今はただただ生きやすい場所だと酷く思う様になっていた。






 地下のエレベーターに乗り込み、世界さんがボタンを電話番号の様に押して行く。するとがくんと揺れた鉄の箱が後ろに下がった。五分程後ろに、時折左右に振れたエレベーターは漸く停止し、扉が開かれる。化野団地最北に位置する波棟から出てきた私達が、何気なく右を向けば。


 其処には大きな橋が掛けられていて、橋を渡った先に広さ大きさ共に計り知れない立派な日本家屋が建てられていた。正門の幕にはでかでかと何かの文様が刻まれていて。これが俗に言う極道組織の〝代紋〟なのだろうと言う事が察せられた。


 ――つまり、ここは化野団地を管理する連龍会本部。


「……って、何で連龍会本部に? 世界さん町医者なんじゃ…」


 はっとして純粋すぎる質問を投げる。

 世界さんはそんな私に笑顔で答えた。


「町医者だよ。連龍会相談役って肩書もついてる、ね。普段は団地内の病院で診るんだけど、設備が整ってるのはやっぱりこっちの方だから、深刻な患者さんの場合は本部で診る事が多いね」


 連龍会相談役。極道組織の内部の役割など全く知らなかった私だったが、後で調べてみれば相談役と言うのは親分の兄弟分がなるらしく、直接組織の運営を任される立場ではないものの、組織の方向性等を相談されるある種独立した立場なのだとか。

 長年のキャリアが必要となる重要な役職に違いない。という事は世界さんは、ヤクザ兼医者という立ち位置だったのか。益々世界さんの能力の高さに恐れ戦いてしまう。


 中に入れば、長い廊下が左右に伸びていた。世界さんの後に続き廊下を真っすぐ行って階段を上る。そして見晴らしのいいフロアの廊下を少し歩いて暖簾をくぐると、すぐに診療室に辿り着いた。清潔なベッドが並び、奥には手術室なんてものもある。大きな病院でしか見ない様な複雑な機械も全部ここに置いてある様だった。

 世界さんは白衣を着ると、私を呼び細かな診察を行っていく。


 しかし、何処にも異常は無かった。


「頭部MRIも正常、出血の痕はなし。体に多少の擦り傷や、頭を打った時のものか軽い打撲痕は発見出来たけど…う~ん。君に色々聞きたい事はあるんだけど、何せ記憶がないから何も答えられないだろうし」


 すっかりお手上げと言った様に、世界さんはカルテを纏める。やはり何をするにもまず、記憶を取り戻さなければいけないのが最優先事項らしい。すいません、と口をついて出てしまった謝罪の言葉を聞けば世界さんは微笑んで言った。


「君が謝る必要はない。何か事件に巻き込まれていたりしたなら、我々には解決しなければならない責任がある。今は何も分からなくて不安だろうが、私達は味方だから安心して欲しいな」


 低くて穏やかなその声音に、我慢する暇を与えずに涙が流れた。

 自分は一体誰なのか。どうしたら良いのか。漠然とした不安を抱えながら、見ず知らずの人達に迷惑を掛けて。申し訳なくて心がぎりぎりと引き裂かれそうになる感覚をずっと堪えて。世界さんは、それを全て包み込んで安心させてくれた。みっともなく涙を流す私にハンカチを貸してくれて、何も言わずに傍に居てくれた。


 結局収穫は無かったけれど、診療室から出てきた私は晴れ晴れとした顔をしていたに違いない。外で待っていた二人も私に異常が無かったのだと悟れば、帰りましょうか、なんて声を掛けてくれて。


 私はもう一度、世界さんに深く頭を下げてから本部を後にした。




「私達は味方、ねぇ。〝君に疚しい事が無ければ〟って前置き付きな癖に」




 連龍会本部診療室。未だ頭部MRIの画像とにらめっこしていた弥勒に、背後から声を掛ける人物があった。 


 青丹あおに色の髪に赤と黄のメッシュを入れた青年。彼は刺ついた声音でそんな言葉を弥勒に吐きながら、ふらふらとした足取りでベッドに倒れ込む。彼の羽織には血液がべっとりと付着していて、彼自身脇腹辺りから血がにじみ出している。


「……また、ヘマをしたの? 乱」

「冗談。ヘマをしたのは部下だよ。俺はそれを庇って撃たれただけ。弾丸タマ抜いてくんない、貫通してないんだよね」

「ならそこに倒れ込むより、手術室迄歩いてほしかったかな。まぁ良いけど」


 弥勒は細く息を吐けば、乱と呼んだ青年に腕を回して体を支えようとする。と、弥勒の首に乱の両手が回された。鼻先が触れあう距離迄顔を近づけられると、乱は歪んだ笑みを浮かべて囁いた。


「あれ、もう手遅れじゃないの。代理に言って殺した方が早くない?」

「…何が言いたい」

「分かるでしょ。被害が出る前に〝疑わしきは罰せよ〟。どうせ襟に着いてる血液もアイツのもんだよ。発芽してるサインでしょ」


 弥勒はそれ以上は何も言わず、――ただ乱の脇腹の傷口に思い切り指を捻じ込んだ。


「っってぇ! 馬鹿っ、藪医者! 何してくれてンだよ!」

「何してくれてるはこっちのセリフ。ベッド汚してくれちゃって、早く手術室迄歩いて貰える?」


 む、とした表情で広げられた傷口を抑えながらひょこひょこと手術室迄歩いていく乱を横目に、弥勒は橋の上を渡る三人を見下ろした。彼がもし本当に何でもない人間でも何かある人間でも、管理責任は全て玖都を取り締まる連龍会にある。

 見定め、何処で見切りをつけるかが重要だ。


「早く記憶が戻ると良いね、……何かが起こる前に」


 決して届く事のない呟きを落として、弥勒は乱の待つ手術室の扉を開けた。






 団地に夜が訪れる。

 その日は凪君の家で歓迎会という名目の小さなパーティーが開かれた。と言っても豪華なお寿司や酒を飲むだけではあるが。

 時折、二人の友人らしき入居者が部屋を訪れてはおすそ分けと食べ物やスイーツを持って来てくれた。

 日付は変わり、午前一時を回った頃の事だ。透君は仕事があるから、と先に部屋を出て行ってしまった。お開きになったパーティーの後片付けやゴミ出しをしながら、私はふと気になっていた質問を凪君にぶつけてみる事にした。


「凪君、答えたくなかったら答えなくて良いんだけれど……両親が、元から化野団地に住んでいたんだよね? …君は出たいとは思わなかったの?」


 びくり、と凪君の肩が震えた。顔を見なくても分かる、先程団地の説明をしてくれた時に見せたあの怯えた表情をしているのだろう。やはり、出会って一日も経っていないこんな怪しいおじさんに聞かれたくはない話題だろう。思い直して口を開くより先に、凪君が答えた。


「…出られなかったんです。出たくても、出られなかったんです」


 そう言って凪君は、悲しそうに笑った。それだけで何も言えなくなる。その表情だけで、彼がどんな過去を歩んできたのか聞き出そうとした事を後悔した。けれど彼は少しだけその片鱗を語ってくれた。


 女遊びが激しかった父親と、その父親に惚れ込んでしまったホステスの母親がいた事。子供を作った父親はすぐに消えてしまい、十分なお金が無かった母親は、自宅のトイレで凪君を産んだ事。ある日家に帰ったら目の前に知らない男の人が居て暴力を振るわれた事、その男の人が父親だった事は思い出せるがそれ以降の記憶が余りない事。中学も高校もいじめがあって結果中退してしまったが、今は自分の才能を見出してくれた師匠や助けてくれた児童養護施設の職員さん、透君に感謝して彫刻家として生活する毎日が楽しい事。


 ほんの一部だったとしても、恐らく普通の人生を生きてきたであろう私が聞いて気持ち悪くなる程だ。当事者だった凪君はどれだけ辛かったのか、自分なんかが理解出来る訳もない。


「だから、最初にヤマダさんが入ってきた時凄く怖くて…。まぁ兄貴もいたから大丈夫かなとは思ってたんですけど」

「あっ! あ、ご、ごめんね、あれだったら、私は外で寝れるから…! 怖いよね、ごめん」

「あ、え、えと、大丈夫です! ヤマダさん悪い人じゃないって分かりましたし、記憶が無いって感覚は怖いって、俺も分かるから…」


 そうしてぎゅ、と私の手を握る。成人していると言うのに、細く小さなその手は余りにも弱くて。けれど何処か安心させられる様な感覚を覚えた。


「だから、頑張って記憶取り戻しましょうね! オレ、力になりますから!」

「な、凪君……」


 年を取ると涙腺が弱くなる、なんて良く聞くけれど案外その話は嘘では無いのだろう。私が泣きそうになればつられて凪君も泣きそうになる。


「…とりあえず、今日はもう休もうか。一日中付き合ってくれてありがとう、凪君」

「あっ、いえ、どういたしまして! お風呂先どうぞ、お布団敷いときますねっ」


 何だか恥ずかしくなってきたのか、凪君は顔を赤くさせてどたばたと後片付けを終わらせてしまった。こんなに、と言ったら失礼だろうが私より若い子が頑張っているんだから、私も頑張らないと。

 その日は凪君の部屋で布団を並べ、雑魚寝をする事になった。かちかち、と針の音を響かせる時計に、天井を見れば古い照明。何だか田舎のおばあちゃんの家に泊まっている様なそんな懐かしい感覚がして、疲れていたのか私はすとんと眠りに落ちた。






 ――ノイズが反響する。


 目を覚ました私が居たのは、どこかの小さなオフィスだった。私を取り囲んで、何人もの人間がくすくすと笑っている。

 すん、と良い匂いに鼻をもたげれば、やっとその惨状に気付いた。

 珈琲だ。私は今珈琲を頭から被って床に座り込んでいた。そして笑う彼等の手元には空になった紙コップ。


『お似合いですよ、――さん』

『それで少しはまマシな見た目になるんじゃないか、――! 良かったなぁ!』

『本当、――さん見違える位綺麗ですよ!』


 これは、何だ?

 戸惑う私の意思とは関係なく、私の表情が歪む。言葉が口から漏れる。


『そ、そうですか? 有難う、ございます…嬉しいです』


 目を覚ます。寒い、寒すぎる。

 冬だと言うのに、顎からしとどに汗が伝い落ちる。変な夢を見た、で済ませられない位はっきりとしたあの映像は恐らく〝記憶〟だ。


 私は職場で、いじめを受けていた。本当の私は、いじめられる側の人間だった?


 ――何故かその事実を、認めたくなくて、認める訳には行かないと思えてしまって。視界が黒く染まっていく。

 テレビの砂嵐の様なものが現れる。ふと意識を手放しそうになった時、


「アンタ、大丈夫か?」


 透君が、視界に現れた。それまで沈みかけていた私の意識は簡単に引き戻され、気づけば貧血の様な症状も消えていた。


「凪が朝ごはん作ってくれたぞ。食えるか?」


 ごはんに反応した私の腹が盛大な音を立てて鳴る。

 一瞬の沈黙、そして透君が吹き出した。その音は台所に立つ凪君にも聞こえてしまっていた様で、「お代わりはあるので遠慮なく食べて下さいね!」と言う声が投げかけられた。大の大人が情けない。有難う、と返して布団から出る。ちゃぶ台の上には白米に味噌汁、サバという日本の朝ごはんの王道が並んでいて思わずもう一度腹の虫が鳴った。


「嫌な夢でも見たのか? 凄い汗かいてたけど」


 食事中、何でもない会話の話題としては触れられたくない部分を切り込まれる。けれど嘘を吐くよりは手掛かりになれば、という思いで私は今日見た夢の内容を包み隠さずに話す事に決めた。途中、凪君が顔を歪ませる。透君も、神妙な面持ちで口元に手を当てて聞いてくれていた。


「――という内容なんだけど、夢、というよりかは記憶みたいな感じがして、無視できなくて」

「…そうか。言ってくれてサンキュ。記憶が戻ったら、今後どうするとかも決めないとだな」

「え…?」


 透君が言った言葉の意味が分からず呆然としていると、透君も目をぱちくりさせて私を見つめる。


「御前…、もし今働いてる職場でいじめられてるだとしたら、そんな所絶対辞めた方が良いって。転職が大変とか逃げてるみたいだとか、そんな事は考えんな。とにかく環境変えろ」

「嗚呼、成程…。まさかそんな後の事迄考えてくれてるなんて…申し訳ないな」

「遠慮すんな。後の事は俺らが考えたくてやってるだけの事なんだから。それより今日は団地の案内をしようと思ってんだけど、大丈夫?」

「あ、うん。是非、宜しくお願いします」


 手を合わせてごちそうさまでした、と言えば凪君がお皿を片付けてくれる。

 身だしなみを整えて、サンダルを履いて。凪君の部屋を出れば、体の芯から震える様な寒さに思わず腕をさする。その様子に凪君も透君も苦笑いを浮かべていた。


 実は二人が上着を貸そうか、と朝クローゼットを漁ったのだが、残念ながら私のサイズより一回り小さいものしかなかったのだ。家に居候させて貰ってごはんや風呂迄提供してくれているのだ。これ以上は本当に申し訳ない。大丈夫だから、と断ったのだが自然はそんな私の事情等露知らずで寒さを運んでくる。


 今日は暖かい場所に行こうか、と優しい透君が連れてきたのは、商業エリアだった。


 何時までも血まみれのスーツを着て貰っているのは申し訳ないから、私に合う服を何着か見繕ってくれるのだと言う。彼等が天使か。至れり尽くせりな二人の後に続いて落ち着いた雰囲気のアパレルショップに入れば、早速二人が選んだ服を試着していく。


 全身コーデをしてくれるのは楽しかった。一つのコーデにこれを合わせたらどうなるかとか、じゃあさっきのと合わせて見ませんかとか言ってくれるものだから、たっぷり三時間。


 私は二人の着せ替え人形となり、ようやく購入する服を決めて貰えたのだ。不思議とその時間は疲れる事もなく、意気揚々とレジに向かえば、その一部始終を見ていたらしいイケメンの店員さんと目が合う。

 ブロンドの髪にグリーンアイという珍しい見た目だ。彼はにこりと笑って、


「トールちゃんにナギちゃん、いらっしゃい。…そちらの方は友人?」


 と、気さくに話し掛けてきた。


「カナさん、こちらヤマダさんです! 記憶喪失で帰る場所が分からないので、お手伝いしてるんですよ。ヤマダさん、こちら椿木つばきカナさん! この店のバイトさんです!」

「宜しくね、ヤマダちゃん」

「あ、宜しくお願いします!」


 見れば見る程、綺麗な男性だった。繋君とはまた別の、整った顔立ちをしている。カナさんはそんな私の視線に気づいたのか、視線を流して妖艶に微笑んだ。どきり、と胸が高鳴る。いや、決してそんな趣味は!と頭を振るえば、そんな事もお見通しかの様にカナさんは悪戯っぽく笑った。


「…て事は、ひょっとしてまたツナグの押し付け? 本当に良くやるねぇ、放っとけばいいのに」

「まぁ、団地内ここで餓死されたら目覚め悪いですし、連れて来られたモンは仕方なくて」


 お人好しだねぇ、と持ってきた服のバーコードを通しながら呟く。そして不意に、こんな話題を口にした。


「そう言えば知ってる? 呂棟で、女が殺されたんだって」

「え? 殺人事件ですか…? いつ…」


 凪君が怯えた様に問いかける。カナさんは服を畳みながら、事件の詳細を話してくれた。


「今朝。呂棟の女の部屋からすっごい血の匂いがしたから、不審に思った隣の人が鍵開けて中見てみたら死体が転がってたってさ。死後一日経ってて、女の腹部がメチャクチャにされてたって話だよ」

「怖いっすね。それ」

「犯人はまだ特定されてないらしいよ、争った形跡はあるから強盗とかの仕業かなって言われてるけど。でも異様さがさ、あれみたいじゃない?」


 途端、二人の表情が強張った。何の事だか分からずに戸惑う私に、カナさんは「ああ、記憶喪失だから分かんないか」と言ってスマートフォンをいじる。そして一つのニュース記事を私に見せてくれた。


「〝化野団地に蔓延る薬物の闇、その名は玖泉きゅうせん〟」


 二十年前から、突如として出回り始めた謎の薬物であり、その成分は一切不明。


 噂によれば〝一度服用したら最期、死ぬまでその薬から逃れる事は出来ない〟と言われているらしい。症状は一般的に薬物中毒者に現れる症状と同じだが、全身の寒気に加え時折目が見えなくなったりするらしい。


 そしてこちらは誰が言い出したか分からない位信憑性の低い仮説だそうだが、玖泉を服用した人間は〝常軌を逸した行動、抑えきれない破壊衝動に乗っ取られ自我を崩壊させていく〟らしい。


「ファンタジーな話だよね。多分、ネットの誰かがデマを書き込んだんだろうけどさ。――でも、」


 カナさんはカウンターから身を乗り出して凪君の両耳を塞いだ。

 そして口元を歪ませてこう告げる。



「普通に女を恨んでた人間であってもさ、腹部から子宮を引きずり出してそれに噛み付いたり、ぶっかけたりすると思う?」



 ――思わず、口元を覆う。それは透君も同じだった様で、青い顔をして目線を逸らして耐えていた。

 勿論耳を塞がれていた凪君は何が何だか分からず、カナさんや私に何て言ったんですか?!と詰め寄っていたけれど、それを言葉にするのは流石に耐え難かった。


「〝常軌を逸した行動〟ってね、まぁ殆どファンタジーな話だから気にしないで。さっき言った事件内容は事実だけど」

「そんな…」

「はい、商品。……お客さん増えてきちゃった、ごめんね。またのご来店をお待ちしておりま~す」


 カナさんの小声の囁きに辺りを見回せば、何時の間にか三組ほど客が来店していた。レジで喋ってしまっていては迷惑極まりない。未だに青い顔をしている透君を連れて、一旦店の外へと足を運ぶ。


「透君、大丈夫? …ここら辺に休める場所とかあるかな」


 きょろきょろと周りを見渡しても、廊下の先は程良く暗くて何があるかは分からない。すると凪君が思いついた様に上を指さした。


「あっ、一階上がった所にカフェがありますよ!  静かな場所なので、一息つきましょう!」

「助かるよ。透君、そこまで行ける?」


 表情は暗かったが、嗚呼、と声を振り絞ったのが聞こえた。流石にあんな考えられない事件内容を聞いたら誰だってそうなる。自分でも気持ち悪さにえづいてしまったのだ。優しく背中をさすりながらゆっくり凪君の案内の元歩いて行けば、レンガ調の壁で看板に『館星たてぼし珈琲店』と書かれたカフェが姿を現した。


 店内もシックな作りになっていて、昼時を過ぎたからか人はまばらだった。奥の席に座り、それぞれ珈琲を頼む。茶髪の女性が頼んでいたものを手際よく運んで来るのを見て――そう言えば夢で珈琲を頭から被っていたなぁ、と他人事の様に考えながら、ソファに座り込む透君を見遣った。瞼を伏せて何かを耐えるその表情に、胸が締め付けられる。

 そっと手を取れば体温が下がっているのか、温度の無い指が絡んだ。と、


「あ、悪い」


 我に返った透君がぱっと手を離す。頭を掻いて水を飲めばやっと落ち着いたのか、大きく息を吐いた。


「大丈夫? 透君」

「嗚呼、悪かったな。凪もごめん、気を遣わせちゃって」

「いえ、兄貴がそんなになる位の話、多分オレが聞いたら吐いちゃいそうなんで無理ないっすよ!」


 そんな事を言いながらイチゴパフェを頬張る凪君の様子に、透君もふと表情を緩めて会話を重ねる。


「まぁ絶対吐くな。良かったよ、カナさんが分かってくれてる人で」

「気にはなりますけどね。あ、ところでこれから――」


 二人の声を聞きながら私はおもむろに窓の外を見遣った。ここから見える棟は確か、管理の厳しい部棟だ。


 あそこだけ空気がまるで違う。下に下る程、霧がかって全貌が見えない。こんなにも棟で違いが現れるものなのか、と思いながら何処か懐かしんでいる自分が居た。


 ――あそこにあるのは、花街だ。


「ヤマダさん?」


 凪君が私を呼ぶ。その声に、私はどう返しただろうか。ただ妙に心は冷静で、落ち着いていて。

 彼の方に視線をやれば、何でもないよ、と微笑んで珈琲を飲み干した。






 時間は遡り凪達が服を選んでいる頃、呂棟殺害現場。

 繋は神妙な面持ちで部屋を注意深く観察していた。管理局直々に頼まれた大型案件は断れない。――例えそれが、遺体から引きずり出された子宮に噛み跡や精液を掛けられた異質で奇妙な事件であったとしても。


 殺されたのは二宮庵里にのみやいおり、大手企業に勤めていた一般女性だ。死亡推定時刻が昨日の夜中だった事、スーツ姿のまま息絶えていた事、部屋を荒らした形跡はあるものの金品は盗まれていなかった事から顔見知りの犯行とみて、捜査線上に二宮の元同僚で現在行方不明になっている露木藍生つゆきあおいという男性が浮上した。


 写真を見せて貰えば、彼は記憶喪失の男に瓜二つだった。


「まさかこんな所で繋がるとはね…」


 改めて二宮の部屋に視線を向ける。モノクロで統一されたシンプルな部屋だ。女性らしさは余り感じない。荒らされていない引き出しの一つを覗けば、綺麗に整頓されていて男物のアクセサリーが隙間なく配置されていた。几帳面で真面目な性格だった事も伺える。


 そんな彼女の部屋の床に散らばった黒や白の下着は無残に切り裂かれていたり、血の海に沈んでいたりと様々だ。探しても無事な下着は一着も見当たらなかった。となると犯人はわざわざ、彼女を殺して彼女の部屋の全ての下着を引っ張り出し切り裂いた事になる。



 ――特殊性癖の持ち主か、或いは何かの意思表示か。


 

 繋は次いで彼女のスマートフォンに触れる。画面には可愛らしい背景が映っていた。ロックは掛かっておらず、電話アプリのキーパッド画面が表示されており、恐らく襲われている時に助けを呼ぼうとしたのだろう状況が想像できた。慣れた手つきでメールの履歴、写真、そしてMINEのトークを漁る。


 と、一つ気になるトークが目に入った。 女子会、と名称付けられた三人程のグループに露木の名前が入っていたのだ。それだけでも理解が追い付かないが、とにかくトーク履歴を一から見直していく。


 一番最初のメッセージは露木だった。


 『黙っていてくれて有難う、これからもよろしくね』と打ち込まれた露木の言葉に二宮は『勿論! 世の中にはそういう人もいるからね』と返している。それからは良くあるコスメの話だったりカフェの話だったり。何気なく見ていると、半年前から三人の雲行きが怪しくなってくる記述が見て取れた。


 『誰が話したの』だとか『どうしてこんな事』だとか。露木の打ち込んだメッセージには既読は付いているものの、返信は無かった。しかしその一か月後の日付、二宮が『亜衣梨をどうしたの?!』というメッセージを送っていた。亜衣梨、というのは女子会のグループに参加していたもう一人の女性だろう。それに露木の返信はなく最後のメッセージは二日前、彼が記憶喪失となって現れる前の日に露木から送られていた。



『団地に逃げても無駄だ』



 そしてそれ以降のメッセージのやり取りは無い。繋はスマートフォンを管理局の人間に渡せば、溜息を吐いて堪らずぼやく。


「…この女性から、彼に繋がる何かを見つけないといけないな」


 外に出れば緋狼がぼんやりスマートフォンを見ていて繋に気付くと慌てて駆け寄って来る。


「お疲れ様です繋さん、何か分かりました?」

「まぁ色々ね。それより緋狼君、今から管理局に行くよ」


 繋は緋狼から鞄を受け取ると、軽い足取りで階段を降りて行く。


「管理局? 何か調べものですか?」

「俺は遺体を見せて貰う。緋狼君は管理局で、二宮庵里の入居時の資料を貰って欲しいんだ」


 ここ化野団地に入居する際、管理局――つまり連龍会側にどうしてここに入居したいのか、自分が何者なのかを話す必要がある。そして先程のトーク内容から察するに、二宮は最近団地に逃げ込んできたと考えられる。露木から逃げる為だったとしたら、そこに何か手掛かりがあるのかも知れない。繋がそう説明すれば緋狼は目を輝かせて「成程…! 分かりました!」と勢いのある返事を返した。


 その様子ににこりと微笑んで、繋はスマートフォンを操作し出した。MINEアプリを開いて萩原透にメッセージを打ち込む。


 ――『今朝方呂棟で遺体が発見された。容疑者は露木藍生、その記憶喪失の男だから目を離さないでいて』


 管理局内は今朝の事件で大忙しだった。警察が介入出来ない団地内での事件事故の捜査は、基本的に連龍会が運営する管理局から警備隊を派遣して行うものなのだが、探偵や元刑事、現役の警察官の入居者に協力を仰ぐ事もある。繋も例外なくその協力者だ。だから管理局内での融通は利くし、少しだけ内部の情報も教えて貰える。


 ――今回の様に遺体をしっかり調べる事も可能なのだ。


「初音さんどうぞ、こちらです」


 職員に案内され、遺体の置かれている部屋へ向かう。今朝現場から回収した、言えばまだ〝誰も弄っていない遺体〟だ。事件当時の状況と重ね合わせて見るには最適な保存状態と言える。けれど。


「警備隊さぁ…俺が来るって連絡ちゃんと受け取ってくれてたら、生の現場見れたのに何で回収しちゃうかな」


 そんな事を呟いた。


 繋に連絡があったのは事件発覚から一時間程度経った後の事で。急いで現場に向かった頃にはもう、警備隊が遺体を管理局に運び出した後だったのだ。


「この前も同じ事して俺が怒ったのに、何の反省もしてなくない? 呂棟での事件は初音繋が請け負うんだからしっかり覚えといてよ」

「す、すみません、後で通達しておきますので…」


 慌てて謝る職員を尻目に消毒を済ませ、手術衣を着て中に入る。手術台の様な場所に寝かせられた遺体にはブルーシートが被さっており、繋はそれを躊躇なく捲り落とした。途端に血の匂いが辺りに広がる。

その匂いに少しだけ目を細めては、手を合わせてそれと対面した。


 彼女は鬼気迫る表情で最期を迎えていた。全身に青あざが広がり、涙の跡が伺える事からまずは暴力を振るわれ続けたのだろう。そして首には扼痕やくこんが残されており、暴れる彼女の首を押さえつけ腹を切った。――と言った所か、と繋は推測する。


 腹部が鋭利なもので切り裂かれ胃や大腸などの臓器も露わになる中、恐らく無理矢理引きずり出されたであろう子宮が一際いびつな形で体外に飛び出ていた。よくよく観察すれば人間の歯形が何か所も残っている。指で握りつぶしたり、挙句の果てには乾いた白っぽい液体が掛けられていて。


 これ程迄に〝子宮〟に執着する意味が、繋にはまだ理解出来なかった。


「話には聞いてたけど、生で見るとまじで気持ち悪いねこれ、…あ? 嘘」


 繋が何気なく股下を覗いた時だった。膣口付近に子宮に掛けられていたものを同じ液体が残って固まっていたのだ。子宮が引きずり出された事で膣が引っ張られ、形が歪んでしまっている。


「暴力、レイプ、子宮への痛めつけって事かな。あー…俺でも気分悪くなってきちゃったかも」

「だ、大丈夫ですか…」


 見れば案内をしてくれた職員も、まさに吐きそうな顔をしてその場に立ち尽くしている。その様子に繋は思わず吹き出してマスクを外して告げた。


「君の方が顔死んでるよ。案内有難うね、もう良いや…後でDNA鑑定とかすればまず間違いなく露木藍生と一致するだろうし、これ以上二宮さんの遺体に触れるのは辞めておくよ」


 ブルーシートを掛け直し、改めて手を合わせる。今の所の情報だけでは、彼等に何があってこんな事件に発展したのかはまるで分からない。叶うならば職場や呂棟周辺の聞き込みもしたい所だが。


「…犯人と、行動させちゃってる二人が危険に晒されてるんだよねぇ」


 未だに連絡のないスマートフォンの画面をつまらなそうに見れば、繋は緋狼が居るであろう管理局の受付へと向かった。緋狼は既に調査を終えていた様で繋を発見すると、見慣れない茶封筒を抱えて走り寄って来る。


「お疲れ様です繋さん。二宮さんの入居時の資料、コピーして貰えました」

「流石、仕事が早いね緋狼君。見せて貰っていい?」


 緋狼から茶封筒を受け取れば待合の椅子に座って目を通していく。


 二宮庵里、三十四歳。独身で入居してきたのは凡そ一か月前。

 ――亜衣梨、という女性をどこへやったのかと二宮がメッセージを送った辺りだ。入居面談の際、彼女は「ここなら部屋を簡単に特定されなさそうだと思ったから」と話していたらしい。詳しく聞けば、ストーカー被害に遭っていて、職場を変えても住居を変えてもついてくるのだそうだ。命の保証などは出来ない旨を話せば、「それでもここしかもう頼れない」と疲れ切った表情で答えたらしい。


 そしてもう一枚の資料には、露木藍生の名前が書かれていた。


「昨日、萩原さん達が来た時に探してくれと言われた資料だそうです。虵甲さんが殺人事件の連絡を聞いて、露木藍生が怪しいって彼の写真を見せて貰った時、記憶喪失の男と一致したみたいで。ついでに萩原さん達に連絡しといて欲しいって」

「連絡位そっちがやってよね…まぁ良いんだけど今繋がるかな」

「さっきお二人の携帯に電話掛けたんですけど、繋がりませんでした」

「団地内案内してるんだろうなぁ。管理局が見つけて捕まえてくんないかなぁ……てか、露木も入居してたんだね。日付は二週間前か。団地に住んでるって突き止めて探しまくって二日前に見つけ出したって所かな」


 露木藍生、三十七歳。独身で入居してきたのは二週間前。入居面談の際「住み心地が良さそうだから」と話していた。そしてもう一つ、職員による案内の際に花街があると聞けば、色々と行き方や費用等をしつこく聞いてきたらしい。


「花街に行ってたりしたのかな。まぁ女に対して何かしらの執着があるんなら、子宮にぶっかけしたのも納得はいく…かも?」

「いくんですか? …オレは良く分かりません」

「まぁ俺も良く分かんないよ。…ただ露木藍生は確実に二宮庵里のストーカーだ。それに亜衣梨という女性も気になる。緋狼君は二宮庵里の職場の同僚とか友人に話を聞いてみて、後亜衣梨についても何か分かれば」

「……繋さんは?」

「俺は花街に行ってくるよ。何か分かるかもしれない、夜には帰るからそのつもりで」


 緋狼がこくりと頷いて踵を返す。それを見送ってから、待合で暫く座り込んでいた繋だったが意を決して立ち上がった。


「正直、あんまり行きたくないんだけどねぇ」






 そんな事をぼやきながら、花街の入り口――部棟の七階へと歩き始めた。 化野団地内で、一番治安が悪いとされているのは部棟と止棟だ。


 連龍会の人間に管理されている場所であっても、彼等が大人しく賭け事や営業をしているとは限らない。実際に殴り合いや殺しも起きているらしいが、それらは全てその棟内で片付けられる。ある種独立した統制が図られている様なものだ。そしてここ二つの棟で起こった事件事故に関しては全て〝仕方ない事〟として処理される。


 簡単に言えば、他の住居エリアからここに遊びに来て、もし何かが起こったとしてもそれは〝仕方ない事〟として片付けられ、被害者は何も言う事は出来ないのだ。


 ここでは探偵や元刑事、現役警察官も一般人の立場だ。繋自身も――危険に晒される。


「…まぁ、こんな所で俺に盾突く奴居ないと思うけど」


 提灯の光が怪しく浮かぶ、花街通りを歩く。棟の内装はさながら吉原だ、朱色の柱で隔てられた小さなスペースに所せましと店歯並び、格子の向こうで遊女が妖しく微笑んでいる。客の出入りは激しい、向こうには遊女に気に入られず店を追い出される男も居る。この花街はかつて江戸時代等に存在した遊郭と同じ、遊女にも教養やマナーが備わっている。ただ行けば体を重ねて貰えると思ったら大間違いなのだ。そして値段も破格に高い。


 ――この花街は、だが。


 大通りから少し折れて棟の渡り廊下を歩く。部棟とは打って変わって静かな、止棟の赤い絨毯が敷かれた廊下を歩いていく。そうして重たい非常扉を開ければ、裏の世界が眼前に広がった。


 花街が文化として重んじられたものならば、果たしてここは何なのだろうか。ガラクタの積み上がった通りは、何か酸っぱい匂いが蔓延していて思わず鼻を覆う。近くで子供が泣いている、大人の怒号、喘ぎ声、悲鳴、それらが重なり合って不協和音を奏でている。三歩に一回、異様な目をした男女のキャッチに声を掛けられる。


 それら全てをスルーして上層の階段を上れば、やっと幾分かマシな店に辿り着いた。


「はぁ、酒くっさ…吐いた跡も片付けないで、早く帰りたいな…」


 この階層もきつい香水の匂いは漂うが、下に比べれば天国だ。幾ら連龍会が管理をしていると言っても所詮臭い物に蓋をしているだけ。本当の所は連龍会も監視が行き届いていないのだろう、この世の醜悪を詰め込んで煮込んだ様な場所だ、繋は人知れずそんな事を思い口元を緩める。

 と、


「あらぁ、繋ちゃん。久し振りじゃない」


 軽やかな声がして繋に歩み寄って来たのは、すらりとした長身に華やかな衣装、鮮やかな黒髪をポニーテールに結った――男性だった。彼は煙管を吸いながら滑らかな動作で繋の腰を抱く。


「どうしたの? とうとうプライベートで遊びに来た? アタシのお店に」

「冗談。風俗なんて行かなくても発散出来る交友関係は持ってるよ。…そんな事より、止棟の店全体と繋がってるグイさんに教えて欲しいんだけど。この男ってここ二週間で来た記憶ある?」


 すかさず鬼の手を払って距離を取る。鬼はふん、と面白くなさそうに鼻を鳴らしたがスマートフォンに映る露木の顔を見た途端、「ああ、コイツなら知ってるわよ」と手近な店の襖を開け、誰かを呼んだ。暫くして出てきたのは頬にガーゼを当てた男娼だった。――ふと二宮庵里の面影を感じたのは気の所為だろうか。

 まだ二十歳もいっていなさそうな顔立ちの少年に露木の写真を見せれば、眉間に皺を寄せて舌打ちをした。そうして恨めしそうに話し出す。


「…コイツ、一回ヤった後にいきなり肩を掴んできて僕を殴って来て。どうして、何でだとか叫びながら顔まで殴って来たから良く覚えてるよ」

「それはお気の毒に…。露木と何か話した? 印象に残ってる事でも良いんだけど」

「…さぁ、何か探してる人が居てとか言ってた。自分がどっちか分からないからまず相手をしてほしいとも。だから相手してやったらこれだよ…」

「……君は挿入いれられた方?」

「いや、挿入いれた。初めてって言うんだもん、結局後ろだけじゃイケなくて扱いてやったけど」

「ふぅん…」

「この店に来ていきなり篠月しのづきを指名したのよねぇ。やっぱり可愛い子がタイプだったのかしら」


 そりゃ誰だって好みはあるでしょ、と繋がすかさず突っ込むものの、脳内では幾分か整理がついていた。篠月と二宮庵里の顔立ちが似ている。――その面影に惹かれて、指名したとは考えられないだろうか? 篠月は次の指名があるから、とそそくさと店の中に入っていった。


「まぁ、ヤり終わってやっぱり男女間での性行為の方がしっくり来ちゃったのかもねぇ。そういうの意外と良くあるから」

「へぇ、成程…」

「あら? アタシの店にも良く来るのよ、自分は男だけど男を好きになっちゃって、でもヤったら何か違うなって相談に来る子。自分の中の性自認が未だちゃんと纏まってない子とかね」

「……性自認…」

「そんな事より! 繋ちゃんもそろそろアタシと遊びましょうよ、ヤってみたら意外とハマるかも知れないわよ?」


 そう言って考え込む繋の肩を組んで顎を掬う。唇が触れ合いそうになる距離迄近づけば、その細い瞳が繋を見据える。――繋は、そんな鬼の頬を、思い切り捻り上げた。


「いっったぁい! 暴力反対っ」

「だから、俺は男と寝る趣味は無いの。そんなに客が来ないなら知り合いの男でも紹介しようか」

「繋ちゃんと寝なきゃ意味ないじゃないのっ、折角誘ってるのに!」


 ぷんすか、という擬音が似合いそうな鬼の表情を一瞥して、繋は踵を返した。後ろでは鬼が未だに怒っていたが、宥めるのも労力が要る。階段をさっさと降りて部棟から退散すれば、外の空気がいやに美味しく感じた。


「おかえりなさい繋さん、…珈琲淹れましょうか」


 呂棟の事務所に帰って来れば、緋狼が事務所内の掃除をしていた。ああ、と返事をして上着を脱げば勢いのままソファに座り込む。肺の中にまだ気持ち悪い匂いが残っている様な気がして、夕昏時ではあったが何も食べる気にはならなかった。


「どうぞ、熱いのでお気をつけて」

「ん、有難うね。…さて、緋狼君の方は収穫どうだった?」

「あ、はい。こちらが聞き込みをしたまとめの資料です」


 緋狼は慣れた手つきで資料を並べて説明を始める。 


「露木と二宮さんが勤めていた職場…大手企業ですが、そこでいじめがあったらしいと。切っ掛けは今から半年前、露木藍生が化粧や女装をして街を歩いているという旨の告発文がオフィス中にばら撒かれたそうです。御丁寧に写真付きで。そこから彼は笑い者にされて酷いいじめを受けていたそうです。そして、二宮さんの友人に聞き込みを行った結果ですが、彼女は露木の化粧や女装を認めていて、休日には他一人の友人――おそらく亜衣梨さんだと思いますが、三人で買い物に行く位仲が良かったそうです」

「認めてたんだ。でもまぁ、状況的に彼女がばら撒いた可能性が高いよねぇ」

「恐らく。…あ、後亜衣梨さんについてですが、確認が取れました。水野亜衣梨みずのあいりさん、有名なコスメブランドの店員をしていて露木の紹介で二宮さんとも仲が良くなったみたいです、それで、えと」


「最近になって、団地内で階段から転落死した遺体。あれ、水野亜衣梨さんらしかったんです。亜衣梨さんの事を聞いてる内に、亜衣梨さんの御友人と会えて…この前お葬式をあげたって…」

「…成程、大体は分かって来たけどやっぱり、問い詰めなくちゃ真相には辿り着けないかもね。…万が一犯人でなくても、彼に二人について深く聞き出さないと……、お」


 その時、繋のスマートフォンが鳴る。液晶画面には萩原透と書かれていた。スライドして電話に出れば、息切れをしているのか途切れ途切れの言葉が聞こえてくる。


「ね~え、遅いんだけど。今何時か分かる? もうちょっと早く電話し」


 何時もの様につらつらと並べられていく繋の小言が、透の一言で制された。




「凪が消えた」




 一瞬、思考が追い付かずに固まってしまう。しかしすぐに我に返れば、一番肯定して欲しくない結末の口にした。


「もしかして、…あの男も一緒に消えてるとか、ないよね?」






 呂棟の事務所に飛び込んできた透は、入って来るなり繋に掴みかかる。


「おいッ! お前の所為で…っ、凪が危ない目に遭ったらどうしてくれんだ?!」


 ガタガタと机が揺れる。ローテーブルに置いていた珈琲カップが倒れ、資料に染みを作っていく。胸倉を掴み上げられた繋は、それでも冷静に微笑んで透を見つめ返していた。


「早まんないでよ。…俺だってまさかこの殺人事件と彼が繋がってるなんて思わなかったんだ、凪君が消えた時の事詳しく話してくれる?」

「……クソッ」


 行き場のない怒りをぶつけながら、透はソファにどかりと座ればこれまでの経緯を話し始めた。

 昼過ぎにカフェで休んだ後、商業エリアを回っていたのだがトイレに行くと言って数十分。何時まで経っても彼が帰って来なかったので透が見に行けば、いきなり個室に引き込まれ頭を殴られたのだと言う。時間にして凡そ二十分程、目を覚ましてすぐに凪に待っていてと言った場所に行ってみたが居なかったらしい。エリアをくまなく探し、部棟の門番にも確認を取ったが通っていないと言われてしまった。スマートフォンは通知を切ってしまっていて見るのが遅くなった、との事。


 時計を見遣れば時刻は午後六時。四時間の間に凪が殺されていても全くおかしくないのだ。一瞬にして室内に緊張が走る。


「まぁ…、面倒臭いからって押し付けた俺の責任もあるしね。管理局で監視カメラの映像を見せて貰おう? 後位は追えるかも」

「……ああ、分かった」

「もう、あからさまに落ち込まないでくれる? やる気ない人と一緒に行動したくないよ俺。… 緋狼君はここに居て、もし返ってきたら連絡してくれる?」

「分かりました! 一応、友達にも声かけときます」


 ほら立って、と繋が肩を叩けば透はふらふらと重い腰を上げた。とにかく今は何もされていない事を祈るしかない。漸く事件の大まかな形が見えてきたと言うのに、急展開過ぎる。繋が溜息を吐けば、横を歩いていた透の足が止まった。別に今のは、と釈明しようと口を開く前に、透が言葉を絞り出す。


「…あのさ、その露木って男。……玖泉とか、服用してないか?」

「……は? 何いきなり。玖泉ってアレ? 飲めば二度と元に戻らなくなっちゃう奴?」


 繋の問いかけに、透が頷いた。そして、今にも泣きだしそうな表情で続ける。


「聞いたんだ、今日。知り合いに…それを飲んだら、〝常軌を逸した行動、抑えきれない破壊衝動に乗っ取られ自我を崩壊させていく〟って噂があるって」

「何が言いたい訳?」

「もし、もう…手遅れだったら、……凪も、腹を裂かれて…」

「あのさぁ!」


 震える透の胸倉を掴んで、今度は繋が捲し立てる。


「いちいちそんな事考えたって、意味ないでしょ? こうしている間にも凪君がもし生きてて、怖くて震えてたらどうすんの。それこそお前は助けなきゃって思うんでしょ。だったら馬鹿な事言ってないで足を動かしなよ。うだうだ考えんのはその後!」


 突然の大声に、透はぱちぱちと瞬きを繰り返した。繋にとっては別に、命を懸けて迄救いたいと思う人間ではない。けれど、彼が危険に晒された原因の一端は自分にある。言い様のない少しの罪悪感は、透にしっかり伝わった様だった。


 ごめん、と呟けば目元を拭い、そして。


「ありがと、お前実はいい奴なんだな。…言い方がへたくそなだけで」


 と、歯を見せて悪戯っぽく微笑んだ。

 一瞬の静寂の後、繋が表情を引きつらせて口喧嘩を勃発させたのは言うまでもない。


 管理局に着いたのは午後六時半だった。繋が用件を伝えればすぐに監視室に通され、二人は何百ものモニターが並んだ部屋に足を踏み入れる。職員に場所と時刻を伝え、探して欲しい二人の写真を見せると簡単に二人は見つかった。

 二時過ぎ、一人でトイレから出てきた露木が凪に何かを話し、二人で商業エリアを出て行く。そこからは点々と棟内を移動していき、人気のない廊下で彼は凪を後ろから殴って気絶させた。スマートフォンや財布など、所持品は全てそこに捨て置かれた様だ。この時点で午後五時半。そうして辿り着いた先は――


「……呂棟の、伍〇肆号室。…露木の部屋だ。彼、記憶喪失が治ったのか。だとすると、やばいな」

「今から向かっても三十分は掛かる! 劉に言って抑えて貰うとか…」

「やめてよ。緋狼君はまだ高校生で、何の術も持たない一般人だよ。下手すりゃ二人共殺される」

「だったらどうやって!」


 ガン、と壁を殴る透。一方の繋も、言い合いをしながら必死に解決策を考えていた。

 走って行ったとしても入り組んだこの団地内でショートカットは期待出来ない。呂棟付近には管理局の支部も無く、どう頑張っても同じ様に三十分は掛かる。まさかこんな所で詰むなんて。

 繋が唇を噛み締めたその時、


「五分で、そこに辿り着けるよ。連れて行こうか?」


 朗らかな声が聞こえた。二人共顔を上げて入り口を見遣る。そこには青丹色の髪に赤と黄のメッシュを入れた青年――連龍会直参奉日本組組長、奉日本乱たかもとらんが立っていた。からん、と天狗下駄を擦りながら歩み寄る。


「緊急事態っぽいし、俺がついてくから安心しなよ。オトモダチは殺させないから」

「で、でも呂棟に五分って、そんなの可能なんですかッ?!」


 まだ慌てた様子で透が問いかけるも、彼は至って冷静だった。唇に人差し指を当てて、しーっと声を静める。反射的に透も口を塞げば、にこやかに微笑んで答えた。


「行ける。だから早く決めて、行くか行かないか」

「……」


 声に込められた確かな圧が、二人を委縮させる。しかし迷っている暇などない、二人がこくりと頷けば乱は「よし、じゃあついてきて」と言って監視室を早々に出て行った。次いで二人も走って行く。


 管理局のエレベーターに乗り込むと、彼はスマートフォンを操作した。途端にがくりとエレベーターが揺れ――それが急加速した。声を上げる暇も無く今度は下に下がり続ける。

 まるで安全レバーのないジェットコースターの様だ。五分もすればエレベーターの扉が開き、外には呂棟の案内板が掲げられているのが分かる。一階に設置してあるものだ。本当に五分で呂棟に到着したのだ、と体を動かす余裕も無くぼんやり突っ立っていれば乱が急かす様に声を掛ける。


「ほら、早く。何ぼさっとしてるの」

「ッ、あ、すいませんっ!」

「おえ……、こんなの団地中にあるんだ……使う方もエレベーター酔い必須でしょ…」


 繋がぼやく。

 その独り言を聞いたか否か、乱はまた微笑んで「これは内緒ね」と言えばさっさと階段を上がり始めた。透と、少し遅れて繋が続く。目的の場所迄は後少しだ。






 呂棟伍〇肆号室、凪はガタガタと己の身体を震わせていた。痛む頭からは赤い血が流れ落ちている、しかし、それを気にする以上に異様な光景が目の前に広がっていた。ピンクの物で埋め尽くされた部屋の、壁一面に貼り付けられた様々なグラビアアイドルの写真、並べられたコスメ、女物の服に下着、――全てを愛おしそうに撫でつけて、露木は立っていた。


「凪君、痛かったね。御免ね…手当しようか」

「ッ……」


 伸ばされた手に、反射的にびくついてしまう。露木は困った様に微笑んで、独り言のように話し始めた。


「凪君は、〝可愛い〟よねぇ…」

「…え?」

「私はさ、分からなかったんだ」


「自分が、男であるべきのか、女になりたいのか、…分からなかったんだ」


 私は、生まれた頃から自分の性に違和感を持っていた。鬼ごっこやスポーツよりもお人形遊びや裁縫が好き、格好良いものやロボットアニメよりも可愛いものを集めたかったし魔法少女に憧れた。その内、自分の体にも違和感を持ち始めた。何故、こんなに体ががっしりしていくのだろうか、声が低くなっていくのだろうか、私は私の体に嫌悪感を募らせていった。


 けれど、厳しい家庭環境の中そんな事を告白出来る勇気も無くて、家では常に男らしく居た。父親は土木の作業員で男らしい、そして男なら力をしっかりつけなさいと、小さい頃からよく言われていたのだ。私は吐き気がした。男らしく、なんて人生で一番聞きたくない言葉なんだから。


 高校に入って、でも私は何故か女の子に恋をした。ここから私は私の性が定まらなくなっていった。心は女である筈なのに、女の子に恋をして女の子に抱かれたいと思った。私自身、何がどうなっているのか分からなかった。ネットで必死に勉強もして、自分の性自認がどんな傾向なのかも理解した。


 到底こんな事誰にも言えなくて。

 もやもやを抱えて過ごしていたある日、ネットの検索履歴から家族に性について悩んでいる事がバレてしまった。父親は当然怒鳴り散らした。


 ――気持ち悪いと。男は男であるべきだと。

 母親も、お願いだから普通にしてくれと泣いて頼んできた。




 苦しかった。

 辛かった。

 何故、私は女の体で産まれなかったのか。怒りの矛先はそこに向いた。




 結局大学を気に一人暮らしを始めて家族とは絶縁状態になってしまったけれど、何も言われず気楽な生活を送る事が出来て逆に私は解放された気分だった。大学ではなるべく目立たない様に努力した。好きになった女の子が居ても、告白はおろか話しかける事も出来なかった。たまに私を好きだと言ってくれた女の子も居たが、男として見られているのか、と思えば悲しい気持ちになった。


 月日は流れて、私はどんどん男らしくなっていく。高校生の頃はまだ体格的に女の子の服を着る事は出来た。しかし社会人になった今、父親譲りのでかい図体だけが目立っていく。このまま一生、ずるずると悩みを抱えて生きていくのかと諦めていた時の事だ。



 ――『あ、いい匂い! 露木さんも、あのシャンプー使ってるんですか?』



 同じ部署の二宮庵里に、話し掛けられた。女装は出来なくても、肌のケアや身だしなみには女性ものの商品を使用していた。バレるのは必然だが、男が女性ものの商品を使う事は良くある。そういう流れで話せば良いのだと思っていたら、その話を聞いていた同僚の男性が『え、露木女物のシャンプー使ってんの?! 気持ち悪っ』と声を上げてきた。心臓が冷える感覚、言い訳をしなければと焦る私より早く、二宮さんが動いた。


 ――『何言ってるんですか? 男性が女物のシャンプー使って何が悪いんです? 逆にしっかり身だしなみを気にされてるって好感持てますけど』


 言い放たれた言葉に男性は何も言えなくなったのか、微妙な顔をしながらパソコンに向き直った。…初めてだった。彼女は気にしちゃだめですよ、と言ってから仕事に戻って行った。…こんなの、初めてだった。


 それから会話を重ねて行けば、彼女は男物の服やアクセサリーを好んで付けるそうで、女性らしいワンピースより格好良いパンツの方が好きなのだと言う。――だからだろうか。私生まれ変わるなら男になってみたかったな、という彼女の言葉に『私は、女になりたかったよ』と、言葉を漏らしてしまったのだ。


 そう呟いてはっとして。彼女の方を見れば、彼女はにこりと微笑んでこう告げた。


 ――『露木さんが女の人だったら、超絶美人になりそうですよね!』


 私は、全てを話した。自分の性が分からない事、心は女なのに女の子に恋をして女の子の体で抱かれたいと思う事、彼女は真剣に最後まで聞いてくれた。そうして全てを話し終えた時、彼女は私の手を握り込んで、やっぱり微笑んでくれた。


 ――『私、気持ち悪いなんて思いません。露木さんは露木さんのままで良いと思います』


 それからは幸せな毎日が続いた。暫くして、良く行く店の店員で化粧品などのアドバイスをしてくれる水野亜衣梨さんを紹介した。水野さんには心は女だと言う話だけしていた。二宮さんとも意気投合して三人でショッピングに行ったり女子会をしたり。本当に二人の前だと、私も女として振る舞えて凄く楽だった。ここが私の居場所なのだと理解した。


 ――でも、全ては。

 水野さんの所為で崩壊した。


 切っ掛けは半年前、私と二宮さんが夜の公園で話していた時の会話を水野さんに聞かれていたんだ。


 数年前から私は彼女と付き合っていた。そう言った行為は出来なくとも、彼女と居ると本当に幸せだった。だから意を決して告白をして…彼女も笑顔で応えてくれた。その日に話していたのは、確か記念日に何処へ行くかの話とか指輪の話だったと思う。これを聞いた水野さんは焦ったと思う。


 ――私が心は女だと言っていたのに、女性と付き合っているんだから。水野さんに呼び出されてその事を問い詰められた時、私はきっと分かってくれるなんて馬鹿な事を考えて…水野さんに全てを話した。


 ――『はぁ?! きっしょ……オカマだって事は分かるけど、何? レズのオカマ? 意味わかんなくね?!』


 結果は最悪だった。


 その次の日には私の女装した時の写真や部屋の写真と共に告発文、MINEのメッセージ内容が赤裸々にオフィス中に貼り出されていて。その時に私は水野さんに言われて二宮さんが貼ったものだと考えた、オフィスには関係者は立ち入れないから。けれど彼女は二人きりの時に『私はやってない』と涙ながらに訴えてきたのだ。信じるしかなかった。彼女に迷惑が掛からない様に、職場では話す事を辞め、その代わりに私は笑い者にされ部署内で酷いいじめに遭った。


 話せば色々あるが、聞いていて気持ちの良い内容でもないから態々話すのは辞めよう。


 兎に角、人間としての尊厳を潰され私はすぐに退職した。ふらふらと街を彷徨い歩く中で、私は水野さんと話をしたくて店に通い詰めた。本当にあの貼り紙を貼ったのは水野さんなのか、聞きたかったからだ。一か月前、店から出てきた水野さんに声を掛ければやっぱり逃げられて。団地の中に迄入ってしまって、もう追うのを諦めてしまおうかと思った時だ。


 水野さんが、階段から足を滑らせ下の階層のゴミ捨て場に転落したのだ。不自然な方向に手足が歪み、一目見てこれはもう助からないと思ったが兎に角管理局に連絡をしないと、とスマートフォンを起動した時だ。水野さんの声が聞こえてきた。


 ――『庵里が……、庵里がやろうって言い出したの…。私が、庵里にも文句、言おうと思って電話したら…、〝ずっときもいと思ってた。別れられるいい口実に、なるから〟って…だ、だから…私だけが悪い訳じゃ……』


 そう言って助けを求めたが、私は一瞥してすぐに踵を返した。そんなの信じられる訳が無かったのだ。だって彼女は何時も私に優しく接してくれて、笑顔で私の隣に居てくれた。彼女の連絡で今日は隣町の居酒屋で友人と飲みに行っていると言っていた為、ダメ元でその居酒屋に向かう。そこに人が居ようが居なかろうが、兎に角会って話をしたかったのだ。

 彼女の口から、そんな訳ないと言って欲しかった。


 ――『あたし、露木と付き合ってたんだけどアイツ超きもくてさ! ちょっと性自認のアレに寛容があるからって馴れ馴れしくしてきてさぁ、沢山貢いで貰ったからそろそろポイしようと思ってたんだよねぇ』


 目の前が、ぐらぐらと揺れる。音が遠い。自分だけ世界に取り残された様な感覚がして。この時に、決心した。


 ――嗚呼、アイツを殺さなきゃって。


 結局全員同じだったのだ。

 心の中では私の事を全員嘲笑っていたのだ。だったら、分からせてやるしかない。


 しかし二宮さんは用意周到だった。元々頭の良い彼女だったから、私がどこかしらで彼女の本心を聞いている可能性を踏まえて、MINEのトークにそれらしい侮辱の言葉は残さず、社外では絶対に一人にならない様にしていた。けれどもう遅い。


 彼女の用心棒らしき男も始末した。彼女のアパートに再三手紙も出した。ただ話をしたい、その願いは聞き入れられず、彼女が水野さんの失踪に気付いて奇しくも化野団地に逃げ込んだ時は、好機とばかりに化野団地に引っ越した。その時、ふと私の中にある疑問が思い浮かんだ。


 ――一度も考えていなかった事だが、自分は男の体で抱かれる事を本当に嫌だと思うのか。何時も女の子の体になりたい、抱かれたいと願望を口にしていたが女の様に抱かれれば男の体でも関係ないのか。


 私は早速花街へ向かった。陰間茶屋かげまちゃやと呼ばれる場所へ赴けば、二宮さんに良く似た少年が目に入る。この思考はどうにかしていたのかも知れない。それでも私は、彼――篠月を指名して、一夜を共にする事になった。考えれば、二宮さんが男の体になって私を抱く、というイメージだ。彼女に良く似た顔であれば気持ち良くなれるのではないか、そう思った。


 結論からすれば、普通に無理だった。


 幾ら大好きだった女の顔をしていても、私の体は男である事は変わりないし生理現象で射精したとは言え、気持ち良いかと聞かれれば微妙だった。何でこんな分かり切った事を今更試そうとしたのか、自分のぐちゃぐちゃな思考回路に嫌気がさした。――そして彼女に良く似た、彼の存在にもふつふつと怒りが湧いてきた。


 気付けば私は彼に馬乗りになって、その顔を何度も殴っていた。どうして騙したのか、どうして私の思いを踏みにじる様な事をしたのか…結局私は店員達に止められ、花街を出禁になった。

 彼には酷い事をしたと思う、謝ろうとは思わないが。


 花街を出て、私の決意は形になった。本当に私がやりたい事は復讐だ。


 二宮庵里に私の尊厳を踏みにじった罪を償わせる。思えばもう、水野亜衣梨を殺した時から戻れないのだ。この気持ちは誰にも理解されない。足りないものを他のもので補えもしない。それが良く分かった。



 だから、殺しそうとしたのだ。

部屋に押し入り、彼女の首に手を掛けた。然し暴れる彼女の力は想像以上で、振り払われた私は窓柵にぶつかり、――老朽化でそれがへしゃげて外へと身体を放り出した。


 落ちていく中で、二宮庵里と目が合う。

 彼女は、――笑っていた。


 こんな終わりで、良いのか。

 結局自分は恋人にも家族にも同僚にも、馬鹿にされたまま終わる。


 目を閉じて運命を受け入れようとしたその時。

 頭を下にあったゴミ捨て場に叩き付けるその直前、脳内に声が響いた。






 ――還っておいで。






気付けば、私はゴミ捨て場に寝ていた。慌てて辺りを確認したけれど、地面やゴミ袋には夥しい血がべっとりとついていたにも関わらず、私は平然と身体を動かせていたのだ。

何が起こったのかは分からなかったが、私の心の中にあったのは二宮庵里を殺す事だけだった。


まるでそれは、自分の使命なのだと言わんばかりに心の中を埋め尽くしていた。


部屋に戻って鍵を壊す。

彼女もまさかここから落ちて助かるとは思っていなかったらしい。

震えながら後退るその身体を引っ掴み、最後に言いたい事はあるかと尋ねれば彼女は思いの丈を私にぶつけてきた。


 ――何時も気持ち悪いと思っていた。男が女の真似事なんて。

 ――可愛い顔した小柄な男の子ならまだ許せた。けど御前は普通に男だろ。

 ――可哀想な奴! 女にも男にもなれないで、どっちつかず!

 ――アンタを見てると、女の心のまま女の体に生まれて良かったって思ったよ!


 女の体。一瞬動きが止まる。そうか、二宮庵里は女の体に誇りを持っていたのか。

 なら私がその尊厳を踏みにじってやる。――そうして私は人生で初めて女を抱いた。私が憧れてやまなかった女の体を思うままに嬲って、犯して、傷つけた。彼女は泣きながら謝っていたが、そんな事はもうどうでも良い。女の象徴である子宮を引きずり出して思いつく限りに痛めつける。そうしていれば何故か体が興奮して、見ればどうにも使い物にならなかった男の性器がはちきれんばかりに起立していた。これが快楽なのだ、と初めて学んだ。


 彼女を殺せば、下着を全て床にぶちまける。女の体に生まれなければ身に付けられないもの、クソだ。全部切り捨てて燃やしてしまいたい。無くなってしまえ、何もかも。――暫くして、今迄のストレスを全部ぶつけ終われば大きく息を吐いた。



 還ろう。



 頭の中にはそれしかなかった。

何故それが出てきたのかは分からなかった。

 ただ、還らなければならない気がした。






 だからは私は、もう一度飛び降りた。






「吃驚したよ、五階の高さから落ちたはずなのに傷は治ってたんだから」


 彼は微笑みを絶やさずに後頭部に触れる。あの襟元に着いた血液は、紛れもなく彼のものだったのだ。何の原理で傷が塞がったのかは分からないが。そこで漸く、怯える凪が口を開いた。


「何時から、記憶喪失が治っていたんですか…?」


 その問いに、露木は頭に手を当てて少し考える。


「…最初の方は本当に何も分からなかったけど、夢で私がいじめられていた事。後はカフェから見えた花街の棟を見た事で、じわじわと。そう言えばそんな事もあったなぁって思いながら、こうして部屋に帰って来て全部思い出したんだ」

「…お、お願いですヤマダさん……自首してください…」


 震える声で凪が縋る。未だに自分の事をヤマダと呼んでくれる彼に、露木は心底幸せそうに微笑んだ。それでも、その口から分かった、という言葉が出てくるはずも無く。


「? 嫌だよ。私は君を殺さなきゃいけない」


 そう言って、鈍く光る包丁を手に取り彼に歩み寄った。


「…え、?」

「私はこんなにも男らしい顔に、体になってしまった。もう二度と手に入らない、君の様な小柄な体に可愛らしい顔つき…その優しい性格全て。二宮さんにも言われたよ。〝可愛い顔した小柄な男の子ならまだ許せた。けど御前は普通に男だろ。〟って。嗚呼、安心して。君を殺した後に花街で私に挿入いれた可愛い男の子もすぐに同じ所に送ってあげる。後は初音さんの所に居たあの緋狼君という少年も。…許せないよね、愛らしい見た目を持って産まれてきて、私が愛していた女性に許されて、なのに私は許されなくて、本当に」


 なす術なく体を押さえつけられる。屈強な男の力に、小さな凪が反発出来る訳も無くばたばたと手足を動かすだけで精一杯だった。赤子を宥めるかの様に、彼の頭を撫ぜれば露木は包丁を握り直し、


 ――躊躇なくその腹に突き刺した。ぐちゃ、と肉と血が音を立てて噴き出す。


 痛ましい悲鳴が部屋に響いたと同時に、玄関のドアが開けられる。


「凪ッ――!」


 透が声を発したのとほぼ同じタイミング。

 彼は凪の腹から包丁を引き抜き、彼等に体を見せるのと同時に凪を抱えてその首に包丁を突き付けた。彼はただの会社員だった筈だ、幾ら人を殺したからと言ってすぐに手慣れた行動を身に付けられる訳が無い。


 ――乱は冷静に状況を把握しながら懐に忍ばせた拳銃を握り締めた。


 恐らく彼に、説得も交渉も通じない。会話を長引かせる気もないだろう、すぐに彼は凪の首を掻っ切る。にらみ合いの中誰が一番に行動するか、四人の間に重い空気が流れた。刹那、




 がしゃん、と窓ガラスが粉砕する。




 それを皮切りに突入してきたのは夥しい数の蝙蝠だった。彼等はまっすぐに露木の元へ向かってその羽をばたつかせ、爪を彼の体に立てた。


「うわっ、何だこいつら?!」


 思わず凪の体を離して蝙蝠達を手で避ける。

 ――その好機を、三人は見逃さなかった。


 乱が二発、露木の包丁を持つ手と肩口に発砲する。弾かれた包丁は繋が受け止め、その隙に透が凪の体を抱え上げた。止め処なく溢れる血が服を、床を汚していく。凪の顔色は真っ青で、一刻の猶予も許されない事だけが理解出来た。すぐに繋が叫ぶ。


「早く管理局に連絡! ここから連れて逃げて!」


 透は二人の間を縫い、外へと走って出て行った。こうなれば後は犯人を追い詰めるだけ、そう思っていた。繋がふと露木の方を見れば、彼は唸り声をあげて頭を抱えていた。


 ――その後頭部から、何か黒いもやの様なものが滲み出している。


「な、何…? 何かあれ、やばくない?」


 繋の言葉に、乱は一歩前に出る。銃弾をリロードし直せば、露木の方を向いたまま繋に声を掛ける。

 これが何であるか、彼は良く知っていた。


「繋君はさぁ、二十年前に出回り始めた玖泉の噂、知ってる?」

「…服用したら二度と元に戻れない奴って話ですか…? それとも、〝常軌を逸した行動、抑えきれない破壊衝動に乗っ取られ自我を崩壊させていく〟…って、奴ですか?」

「後者の方だね。…二日前に透君達が本部に来てたでしょ、だから俺も気になって調べちゃったんだ…実は化野団地内で、こういうケースって稀にあってね、――こんな」


 バキバキ、と露木の体が歪に折れ曲がる。逞しかった体は細く窶れて行き、髪は長く伸び、爪には赤黒い何かがこびりついて、胸が膨らんでいく。図体は普通の人間の数倍にも膨れ上がっていく。そんな彼の唇から絶えず流れる透明な液体は生臭い。匂いが部屋中に充満して、二人共思わず口元を覆った。


 まるで本物の女性の様な体に変貌した、醜い彼は正気を失った瞳で二人を睨み付けた。


「加害者側の人間が化け物に変貌して、見境なく人を襲うケースが」


 乱が拳銃を構える。それを見て反射的に繋も、ポケットから小型ナイフを取り出した。

 一瞬の静寂。


 ――狭い部屋で露木が、動いた。


 髪を振り乱し、拳銃を持っている乱を危険対象に捉えたのか、その細くしなびた指で彼の体を薙ぎ払おうとする。小物が飛び散り、棚やアクセサリーのガラスが砕けて、舞う。それらを肌で受け止めながら乱は露木が仕掛ける攻撃を難なく避け続けた。


 そうして出来た隙を見計らって、繋がナイフを突き立てる。痛みに悲鳴を上げ、腕を無茶苦茶に振り回した露木は、それが自分の体をも傷つけているとは知らず。


 苦しそうに呻く彼を横目に、乱は動きを止めて話し始めた。


「…最近になって増えてきたんだけどさ、自分がトラウマ、及びコンプレックスに感じてた事とかものとかに大体は変貌する訳。彼は女性になりたいって執着からあんな見た目に変わったみたいだけど、やばいものなら人魚とか、それこそ熊とかでかい虫に姿を変える人間もいる。…あ、信じてないって顔してるね」

「いきなりそんなファンタジーみたいな事言われても…」

「でもねぇ、ここからが面白い所。こうなった以上もう人間に戻す手立てはないから〝排除〟しちゃうんだけど、全員玖泉の服用者かどうか、その遺体を調べてみたらさ。二割は服用者じゃなかったんだよねぇ」

「は?」


 思わず繋の動きが止まる。その隙を狙った露木の渾身の攻撃は、乱の射撃によって防がれた。 次いで頭を狙おうとするが、露木はそれを察知したのか腕を上げて頭を隠す。


 それ位の知能はある様だ――乱は鼻で笑って、繋に向き直った。


「玖泉を服用しないと、そうならない。…その常識が崩れちゃったって訳。そうやって服用者じゃない遺体を調べている内に、俺達はある仮説に辿り着いた」

「……仮説?」


 ぐわり、と伸びてきた指をナイフで切り落とす。その断面から、人間のものではない黒い血が噴き出した。痛みに低い呻き声をあげた露木は、その場に蹲る。

 体中に弾丸を浴びせられ、切り刻まれ。もう体力は残っていなかったのだろう、それ以上動く様子も見せなかった。


 息を整えて、乱が口を開く。


「〝真夜中〟に、〝頭を打って〟、その傷が〝致命傷〟であれば、何故か傷が治り生きられるけど玖泉と同じ様に症状が現れるんだ。実際に服用者じゃない人達は後頭部にたんこぶが出来てたり、調査したら真夜中大きな事故に遭遇して頭を打った事がある、と昔、他の友人とかに話してたらしい。ね、さっき聞こえてきた話からして、なーんか同じじゃない?」


 そう言われて、虫の息の露木を見遣る。彼は二日前の真夜中に二宮庵里を殺害しようとして、窓から落ちた。然し傷が治り、今度は本当に殺害。

そしてもう一度、今度は自分の意思で飛び降りて記憶喪失となり繋と出会った。襟元についた夥しい血液、あれが本当は頭に致命傷を負った際流したものだとしたら。


「…服用者でないにも関わらず、玖泉と同じ症状が現れて化け物になった…」

「そういう事、後監視カメラの映像を見てたんだけど、彼二週間前からずっと部屋に籠っててさ。外に出たのも花街に赴いた時位だし売人に会ってない訳なんだよね、つまり手に入れる機会も無かった」


 自分の復讐が終って飛び降りたはずなのに、特殊な条件が出揃って死ねず終い、更には無関係の人間にまで手を掛けようとして。――つくづく救えない奴だ、と繋は人知れず心の中で毒を吐いた。


「まぁ、彼も本当に裏切られ続けてこういう思考回路に至っちゃった訳だしね。…ただ、理解してくれる人が欲しかったんじゃない。一人でも裏切らずに傍に居てくれてたら、彼だってこんな事しなかったよ」


 乱はそう言って彼の項に銃口を当て、引き金を引く。乾いた音が鳴り響き、露木の身体は桜の花びらの様にぼろぼろと崩れ落ち――やがて、跡形もなく溶けた。

 可哀想にね、そう言葉を落とす乱に同意こそしなかったものの、繋はせめてもの情けに手を合わせた。


 男にもなりきれず、女にもなれなかった露木藍生は、ただ〝露木藍生〟として誰かに受け入れて欲しかっただけだった。



 それだけだったのだ。






「お疲れ様ー」


 からん、と小気味のいいカップを打ち付ける音が響く。場所は化野団地仁棟のとある居酒屋、そこには繋と緋狼、凪と透とカナが居た。あれからすぐに弥勒の処置を受けた凪は傷も浅かったらしく二週間で退院する事が出来た。ぷは、と酒をあおって透が笑う。


「凪、遠慮せずに食っていいからな。今日はこの戦犯野郎の奢りだから」


 そう言って繋を見遣る。当の本人は話を振られれば、一瞬動きを止め。しかし、相変わらずの口調でぴしゃりと言い放つ。


「良く言うよ。凪君が攫われた時はどうしようどうしようって慌てる事しか出来なかった癖に。勝負師ならそういう大事な場面こそポーカーフェイスなんじゃないの。負け無しのギャンブラーが聞いて呆れるよね」

「うるせ、凪の事になったら嫌でも焦るんだよ。ったく…」


 二人の言い合いをよそに、カナは凪の肩を優しく抱いて微笑む。見れば顔が赤い、机の上には空になったウイスキーの瓶が四、五本散らばっており、乾杯から立て続けに酒を飲みまくっている様だった。


「でも本当に無事で良かったよぉ、凪君~。ちょっとは俺の力も役に立ったのかなぁ、こんな可愛い子に包丁向けるなんて、酷い処じゃ済まされないよね、ね~?」

「え、ええと…」

「あっ、カナさん飲み過ぎです! 昴流すばるさんに報告しますよ!」


 困る凪にすかさず、緋狼の助け舟が出る。サラダを取り分け、注文をまとめては酒を片付け…。飲む事しか考えていない三人の大人よりも余程気配りが出来る。カナは止められればむ、と頬を膨らませたものの、すぐに笑って次のウイスキーを注文した。と、


「嗚呼、そうだ。それで、打ち上げついでに四人に、言っときたい話があって」


 繋が一声掛ける。その目は至って真剣だ。四人とも、ぴたりと動きを止めて無意識に背を伸ばした。


「今回の事件、緋狼君にはもう伝えたけど。……玖泉の服用者じゃなかったらしいんだよね」

「…え? じゃあ、あの異常な事件は普通にその、人間の思考って事?」

「……それがそうでもない。彼は二宮庵里に突き飛ばされて確かに死んだ。けれど死ななかった。…皆は見てないから、今から言う事は信じられないかも知れないんだけど、まぁ信じて欲しい」


 そうして繋は話し始めた。

 真夜中に頭を打ち、その傷が致命傷であれば、何故か傷が治り生き永らえるが玖泉を服用した時と同じ症状が出る事。そして、玖泉を服用した者、そうでない者の中で稀に化け物となり見境なく人を襲うケースがあると言う事。


「確か玖泉って、一般的な麻薬とかの中毒症状の他に、全身の寒気とか時折目が見えなくなったりするらしいよね。そして常軌を逸した行動、抑えきれない破壊衝動に乗っ取られ自我を崩壊させていく…と、言われている」


 カナがぽつりぽつりと話し出す。それに頷いて繋は話を続けていく。


「恐らく後者の噂は、露木藍生のケースの場合は愛した女が許した顔の可愛い男の子を殴ったり殺そうとしたりした行動が当てはまると思う。噂が本当だって事、伝えときたくて」

「…じゃ、じゃあその、化け物に会ったらどうしたら……」


 凪が声を震わせて問う。彼にとって服用者は皆恐怖の対象だ、実際に殺されそうになったのだから。


「奉日本さんが教えてくれた。服用者だと分かれば、もう二度と元の生活には戻せないから脳幹 …頭の中枢神経系を構成する器官集合体、中脳、橋、延髄の事なんだけど、そこを攻撃する。… 化け物が暴れていれば、必ず管理局に連絡が行く筈だから、出くわしたら見つからない場所に逃げて欲しい、とも」


 ――つまり一般人に化け物を対処する方法はない、と遠回しに言う様なものだ。それでも凪は「…分かりました」と潔く身を引いた。不安なのだろう、気持ちは良く分かる。


 繋だって銃を所持していない一般人なのだから。


「まぁ、そんな機会は稀だし。今迄生きてきて今日初めて出くわしたんなら、これから連続で出くわす可能性はかなり低いって。ね、凪君」


 その場しのぎの苦しい言葉ではあったが、彼はふにゃりと笑った。彼の表情を見て、五人の間に流れる空気が幾分か柔らかいものとなる。それを見逃さなかったカナが手を叩いて空気を区切った。


 提灯の灯りは絶えずゴミだらけの廊下を照らし出す。暗く澱んだ空気は、店から流れる料理の匂いで暫くは掻き消されるだろう。空は見えない。今が曇っているのか、星が瞬いているのか。

 それでも。





 化野団地にまた朝が来るのはもう少し先の話だ。



























 「それでは、面談を始めましょうか。そちらにお掛け下さい」


 窓一つない、取調室の様な場所に通される。眼鏡を掛け髪の毛を七三分けにした、いかにも職員ですと言った風貌の男性が何枚かの資料に目を通しながら、一つ一つ質問していく。


「単刀直入に伺います。何故この団地に入居したいと思われたのですか?」


 そうして彼等は様々な理由を述べていく。



 ――ストーカー被害に遭っていて、警察も動いてくれないから。

 ――ここに、本当の親が居ると聞いて。会って話がしたいから。

 ――お金が無くて。花街なら沢山稼げると思ったから。

 ――警察から逃げていて、ここなら隠れられると思ったから。

 ――怪しい薬の噂を聞いて、取材しようと思ったから。

 ――親に反対されたけど、駆け落ちして住む場所に困っていたから。



「成程、分かりました。化野団地は敷金礼金一切なし、家賃は一万円からとなっております。光熱費、電気代、水道代等は別途使用料が発生しますが、節約をしたければ別棟にあるランドリーや銭湯、料理店、ネットカフェ、ホテルなどをご利用下さい。入居者は全ての料金が三割引きとなっております。…それでは入居条件について幾つか説明させて頂きます」



 〝壱、化野団地内の連龍会が所有するいかなる備品も壊すべからず〟

 〝弐、入居前の前科については不問とするが、団地内で起こしたあらゆる犯罪については別途処分を下す事がある〟


 〝参、化野団地内で起こったいかなる事件事故も警察組織に連絡するべからず〟



「こちら三つの約束事がございます。もしあなたが、絶対に約束を守れると自信がおありでしたらすぐに書類にサインをしてしまって構いません。お部屋の内見や棟に何があるかを先に見たければ、今から早速ご案内させて頂きます。わたくしとしましては、団地の中を見てからの方が良いかと…――」


 言い終わらない内に、すらすらとボールペンにサインを走らせる。ここに入居するほとんどの人間は、後がない。やっぱりやめておきますなど、言える状況ではないのだ。覚悟を持った瞳が男性を捉えた。


 男性はふと微笑んで、書類を片付け始める。


「契約、有難うございます。今からあなたは化野団地の住人です。何か不都合な事などがありましたら、お気軽に管理局の方へご連絡下さい。お客様の部屋の鍵はこちらです。〝伊棟 参〇参号室〟ですね。今からご案内させて頂きます」


 簡素なプレートタグがついた鍵を渡される。がたりと椅子を揺らして立ち上がれば、男性はにこやかな笑みを携えてこう告げた。








「ようこそ、化野団地へ」





評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ