初めての成功体験
ゼンイチはマンションに戻ると、階上の住人であるハーフエルフに声をかけた。
「ちょっと頼みがあるんだけど、漏水があった配管、貸してもらえないかな?」
「ん? ああ、どうせ詰まってて使えやしねぇし、好きにすりゃいいよ」
無精ひげの浮いた顔でそう言った彼――名前はラニスというらしい。エルフとしては珍しく体毛が濃く、覇気のない目をしている男だった。
ゼンイチは手袋をはめ、作業服に着替えると、ティアとともに玄関横の点検扉から天井裏へと登った。配管を固定する金具がちょうどよい足場になり、思ったよりも簡単に身体を押し上げることができた。
天井裏には、中腰になれば動けるほどの空間が広がっていた。そこには、古びた排水管がむき出しのまま這うように設置されている。
「よし、取り外すよ」
レンチを回して外した配管の口を覗き込むと、案の定だった。
「うわっ……これ……」
ティアは顔をしかめて青ざめた。
「油の塊に、ぬめりによるヘドロ……あと、これ、毛?」
「うん、毛だね。ラニスさん、結構……濃いから」
「……聞きたくなかったです」
ティアが一歩引く一方で、ゼンイチは微動だにせず、むしろ感心したようにうなずいた。
「まあ、このくらいなら平気。汚水管の詰まりとか、現場で何度も対処してきたからね」
配管を丁寧に取り外し、慎重に運び出す。
数回の往復の末、マンションの裏庭に配管を並べ、角で作ったパッキンを挟んでしっかりと固定する。ティアが魔力の準備を整えたのを確認して、ゼンイチは静かにうなずいた。
「じゃあ、テストをしようか!」
ティアが構えを取り、魔力をパッキンの突起部分へと流し込む。魔力が配管内に伝わると、わずかな震えの後、パッキンの内側から水魔法が発動した。
……しかし、期待したような勢いはなかった。
しばらくして、ようやくゴミ混じりの水がチョロチョロと流れ出してきたが、その量は驚くほど少なかった。
「うーん……ヘドロが多すぎて、出力が制限されるみたいです」
「なるほど、水分の供給が追い付かないからか……質量保存の法則ってやつだね」
しかも、そのわずかな水流のせいで、配管内にこびりついていたヘドロが乾燥して固まってしまったらしく、粘着質のゴミが余計に取りにくくなってしまっていた。
「やっぱり、そう簡単にはいかないか……」
二人は肩を落とす。
次に、ティアが風魔法を試した。配管の片側に手をかざし、一方方向に強風を送り込む。
「風、行きます!」
ブブッ、と嫌な音が鳴った。配管の口から、毛や埃のようなゴミが数片、飛び出しただけだった。
「うう……なんか嫌な音だな……というか実際の配管はもっと長いし、あまり圧力掛けると破損してしまうかもな……」
ゼンイチがため息をつくと、ティアも首をひねりながら言った。
「うーん……やっぱり、基本魔法では限界があるのかもしれませんね」
「というと?」
「ゼンイチさんの“スチーム”――あれみたいな、“物質そのもの”に作用する特殊な魔法を使うのがいいかもしれません」
「えっ、スチームって……あれ、特殊魔法なの?」
ゼンイチが驚いたようにティアを見る。
「はい。通常の水魔法では、水を流したり、圧縮して撃ち出したりはできます。でも、ゼンイチさんみたいに“水分子”に直接働きかけて加熱させたり、冷却させたりするのは……普通、できないんです。私も、氷を作れる人を一人だけ知っていますが、スチームは正直驚きましたよ。」
「分子って目に見えないから、普通は挙動をイメージできないんです」
「なるほど……もしかしたら、よく化学を勉強していた時にCGで作られたイメージ動画を見ていたせいかもしれないな……」
「CG?……なんだか分かりませんけど、ゼンイチさんがそうやってイメージできたなら、きっとそのおかげですね」
ゼンイチは配管を見つめながら、何かを思案するようにうなずいた。
そして、排水管に残ったヘドロをそっと指ですくい上げた。
「うわ……こりゃ本格的に詰まってるな」
指先にまとわりつく粘着質な塊を見つめ、ふっと息を吐いて目を閉じる。
ティアはその様子を少し引いた目で見つめながらも、黙って見守った。
しばらくの沈黙のあと、ゼンイチが目を開けて言った。
「……もしかしたら、いけるかもしれない」
そう言って、配管に取り付けたパッキン部分へそっと手を当てた。そして、ティアの方を向いて軽くうなずく。
「ティア、水を流してみてくれる?」
「はいっ」
ティアは合図に従って魔力を注ぎ、水魔法で排水管の端から水を流し込んだ。
数秒の沈黙――そして、配管の口から、ドロリとしたヘドロが水に押し流されるようにして流れ出してきた。
「……出た!」
ティアが驚きの声を上げる。
「どうやったんですか? 今の……」
ゼンイチは少し照れくさそうに笑いながら答えた。
「正直、どっちが効いたのかは分からないんだけど、二つの魔法のイメージを同時に送り込んでみたんだ」
「二つ?」
「うん。一つ目は――水をアルカリ電解水に変えるイメージ。電解には本来電気が必要だけど、そこは雰囲気でなんとか……」
「電解水……?」
「まあ、ざっくり言うと、汚れを落としやすくする特別な水だよ。で、もう一つは――ヘドロの表面に水と馴染みやすい性質を持たせるイメージを送った。具体的には、ゴミの表面に水酸基を作る感じで……親水性を持たせたら、水と一緒に流れやすくなるかと思って」
ティアは驚いたように目を見開いた。
「そんなイメージで……魔法って、そこまで応用が利くんですね」
「うーん、理屈はさておき、結果としては流れてくれたってだけ。実際にどっちが作用したのかは、もう少し検証しないと分からない。でも……魔法で洗浄ができるってだけでも、大きな収穫だよ」
ゼンイチは、配管の中を見つめながら興奮気味にそう言った。
その横顔を見て、ティアは少し目を細める。
(ゼンイチさんって、こういう時、すごくいい顔するんですね……)
この世界に来て、初めて“自分の知識”が役に立った。そんな小さな成功体験が、ゼンイチの胸を大きく躍らせていた。
ゴールデンウイークのため、しばし休みます。頑張って書いていきますので、また読んでいただけると嬉しいです。^^