人生の転機
『隼人!大丈夫?どうしたの?』
風呂上がりでパジャマ姿の鏡子は、急いで妹の恵美を呼び、2人で隼人を抱えリビングに運んだ。抱えられながらも歩ける隼人はどうやら骨折はしてないようである。しかし隼人の顔面から流れてくる血が鏡子のパジャマにじわじわと染まる。
『母さん、救急箱‼︎』
何事か?とキッチンで洗い物をしていた母が、急いで救急箱を持ち、ソファーに座っている息子をみるなり
『隼人何があったの⁈大丈夫なの⁈』
と動揺している。
鏡子はとりあえず隼人をソファーに寝かせて、出血している額や顔、腕や手を消毒液で血を拭き取りながら傷が深くないか確認した。血が苦手な自分が傷の処置をしている…信じられない行動だった。
どうやら深い傷は見当たらない。絆創膏を貼りながら隼人に何があったのか聞いた。
『バイク乗っててスピード出し過ぎて、カーブ曲がれなくてそのまま路外に突っ込んだ』
と隼人。幸い突っ込んだ場所には木が生い茂っていたが、木と木の間に突っ込んだらしい。小枝に引っ掛かり怪我を負ったとの事だった。
『何やってんの隼人〜ぉ あんた無免許でしょ?
木に激突して命落としたらどうすんの⁈』
母が叱る。しかし当の本人は、バイクでつるんでた友人とバイクを押しながら笑い話にして帰ってきたそうだ。
自宅に着くと脱力感で玄関から先には動けなくなってる所に鏡子が遭遇し…現在に至る。
隼人は高校1年でヤンチャな所もあるが、根は優しい弟。3人姉弟の末っ子でワガママな所が玉に瑕だが、母は特に息子の隼人を可愛がっていた。まぁ、それがワガママになった原因だろうと妹と私は思っていた。
『てか、お姉 血見ても平気なの⁈』
妹の恵美が心配してきた。血を見ただけで貧血を起こす自分を知ってるだけに驚いたな表情だ。
『なんか無意識に助けたくて手が動いてたよ』
鏡子は自分の出来る事をしようと無我夢中だったが何故血を見ても倒れなかったか不思議で苦笑いをした。
そして
〝自分が看護婦だったら…‼︎〟
と言う気持ちが膨らんでいたのも確かだった。
※ 当時は男性を〝看護士〟女性を〝看護婦〟と呼ばれていた。2001年の法改正で男女とも〝看護師〟と名称が統一される事になる。
処置も終わり、思ったより元気そうな弟を見ながら
『アタシ、看護婦になろうかな〜』
と鏡子が口にすると 母も妹も弟も
『え〜⁈』
とわざとか?と思う程同時に返してくる。
(ダメかよ⁈)
と言いそうだったが鏡子はその言葉を飲み込んだ。
それほど、アタシが看護婦を目指す事が信じられないのだ。昔から血の苦手な自分だからそう思われても仕方ないのだが。
しかも、学歴も低いし看護学校に行ける様な頭も無い。それは自分が一番わかっている。
でも 僅かでも希望があるならチャレンジしたい
その思いを話したら母も妹も弟も、いつの間にかリビングに集まって来た父も祖母も
『良いんじゃない?鏡子の人生なんだし』
『まぁ勉強頑張って!』
『俺のお陰で血は克服したな』
『鏡子看護婦になりたいのか?大丈夫か?まぁ良いんじゃないか?』
『鏡子が看護婦かい?ばぁちゃんの親戚に医者居るから話してみるかい?』
『え⁈ばぁちゃん、親戚に医者居るの⁈初耳なんだけど』
(なんちゅ〜展開‼︎)
祖母の姪の息子が、地元から3時間かかる川内市で個人病院を運営してるらしい。鏡子はその息子に会った事も無いのに大丈夫か?と思ったが、調べてみると川内市には医師会附属准看護学校があり、そこから正看護学校に進学出来る事がわかった。
『看護婦を目指すならやっぱ正看だな!』
と鏡子の夢は大きくなっていた。
鏡子の地元には総合病院附属の正看護学校と、医師会附属准看護学校があったが、鏡子の頭では総合病院附属の正看護学校は倍率が高いし、合格は絶対無理だろう…と最初から諦めていた。かと言って医師会附属の准看護学校…う〜ん…どうせ資格取るなら正看護婦の免許が欲しい。
鏡子は川内市に行く事を前提に、ダメ元で祖母にその親戚の医者に連絡して貰う事を頼み、鏡子自身の準備として仕事しながら、夜間は地元の看護予備校に通う事に決めた。
◇◇◇◇◇
鏡子が山元病院に勤めて1年が経つ頃、週末はもっぱら とあるグループと遊ぶ事が日課の様になっていた。
そのグループとは、高校の同級生だった沙紀が女子短期大学に進学し、隣町の工業大学との合コンで知り合った男女で、グループ交際をしていたのだか、鏡子も沙紀に誘われその男女大学生グループに入る事になった。
母校からの僅かな進学組である沙紀は、高校当時、クラスの中でも成績が良く、天然パーマのロングヘアが似合い お嬢様のような容姿なのに気さくで天然な人柄で、男子からモテる娘だった。何故か人見知りな鏡子と仲良くなり、由美と共につるんでいた親友である。 ただスナックのバイトはさすがに気が引けて誘う事は出来なかった。
高校卒業後は自分は仕事、沙紀は短大生で中々会う事は無かったが、山元病院就職直前に彼氏に振られた事を愚痴り、慰めてくれたのは沙紀だった。
そんな事もあってか、沙紀から連絡がきて
『鏡子、土日休みなら一緒に遊ぼうよ!』
との誘いから始まり、グループで食事したり、ドライブしたり、カラオケやボーリング、ビリヤード、心霊スポット巡り等々同い年での大人数の遊びを楽しんでいた。
菓子屋で働いていた頃は、先輩達との大人数の遊びを満喫していたが、同い年となるとまた違う感覚になる。
そのお陰でか、別れた彼氏の事は鏡子の頭の片隅にも無かった。
遊び過ぎて気付いたら朝!何て事もあった。
みんなは大学生だが、鏡子は一応社会人。急いで仕事にスッピンで行き、医事課の同僚に
『鏡子顔色わるいよ』
と心配される。
(朝まで遊んでましたから〜)
何て口が裂けても言えない。
『ちょっと体調悪くて…』
(ホントは眠くて仕方ない)
と言うと課長が
『寺田お前はもう帰りなさい』
と言ってくれ、心の中でガッツポーズを作りながらも、申し訳無さそうな顔で早退した。
勿論その後は自宅で爆睡。そんなふざけた勤務は数える程しか…してない はず。
沙紀のお陰で出逢いも広がり、楽しい週末を過ごしながらも、わずかな貯金を看護予備校の入学金にあて、夜間の部に真面目に通っていた。
◇◇◇◇
山元病院に勤め始めて1年半が経つ頃、その日は鏡子は夜勤明けだった。 夜勤と言っても時間外にある電話番と医事課と経理課の部屋掃除…
掛かってくる電話の内容は
『看護婦さ〜ん パンツ何色ぉ?』
とふざけた電話が多く
『私は看護婦ではありません なので切ります。』
とガチャ切りしていた。
夜間は休憩室にあるベッドで寝るのだが、爆睡している時にこんな電話が来ると、思い切り怒鳴ってやろうかと思う。
(ストレス手当ってないのかな…)
そして朝を迎え身支度をし、社食で朝食を食べ通常勤務をするのが事務の夜勤の流れだ。
しかし何故か眠気に襲われながらの仕事になるのは
どこか夜勤中も緊張しているのかもしれない。
そして、看護婦の様に夜勤が終わったら帰れる訳でもなく、その日の17時迄が勤務で、いつも眠気との戦いだ。
やと終わった…と勤務を終え帰宅すると、祖母が
『鏡子、川内の医者んとこと連絡取れたよ。明日午後1時に来れるか?だって。』
『本当⁈明日行けば良いの⁈ばぁちゃんも一緒に行ってくれる?』
『いいよ。どうせ鏡子は自宅知らないでしょ?』
『確かに…じゃ、ばぁちゃん明日お願いね!ありがとうね!』
いよいよ川内市の親戚の医者と会える!助手からで良いから働かせて貰いながら勉強して、看護学校に行けたら良いな〜…と鏡子は胸をときめかせていた。
翌日 中々眠れなかった鏡子は寝坊してしまい
起きたら11時半!
『ヤバ!間に合わないじゃん!』
鏡子は急いで支度して、軽のマイカーの助手席に祖母を乗せ
『ばぁちゃん寝坊してごめんね 高速で向かうね』
と、制限速度超えも気にせず、ブルブルと小刻みに震えてきた車を走らせた。
ばぁちゃんは終始無言だった。
ばぁちゃんの両手は助手席の椅子を掴む様子が何となくわかった。
ばぁちゃんに恐怖心を与えてしまって…なんて祖母不幸な孫なんだ…と反省しながらも、煙草を吸い出したばぁちゃんを横目に
(さすがばぁちゃん!)
と鏡子も煙草に火をつけ川内市を目指した。
(あと30分くらいで川内市に入るかな)
と考えながら…。
しかし この決断が鏡子を苦しめる結果になるとは
この時はまだ想像すらしていなかったのだった。
つづく