2.
彼女の住むマンションに着いたのは大体七時三〇分頃だった。
このマンションの二六六号室が、彼女の部屋だった。エレベータの遅さが恨めしい。
ふと外を見ると、きらきら輝く夜景が見えた。
この都市の夜景を、百億ドルの夜景なんて例えた文句があったっけ。
彼女との会話を思い出す。
彼女は、その例についての話を聞いて、「実際にそれだけお金がかかっているのかもね」と笑っていた。
確かにきれいではあるけれど、光るだけでは芸術性に欠けるわ。
彼女はこうも言っていた。僕はこの夜景が結構好きだったので、軽く論争にもなってしまったっけ。
ポーンという、目的階に到着したことを知らせるチャイムが鳴り、僕は思考回路を現実に切り替え、エレベータから飛び出した。
彼女の部屋の前。シックな黒いドアの前に立ち、インターホンを鳴らす。
やや間が開いてから、「入って」という湿った声が聞こえた。
ドアノブを引き、室内に入る。
きれいに整頓された部屋の隅で、彼女は小さくうずくまっていた。
ひどく、沈んだ表情だった。
僕には、彼女は落ち込んでいるというよりも、思い詰めているというような印象を受けた。
大丈夫?
どうしたの?
──なんて。
そんなありきたりな言葉をかけてはいけないような、そんな雰囲気を感じた。
僕はそっと、彼女に触れた。
冷たい。
冬の雪に曝された鉄に触れたように、彼女は冷たかった。
「……ごめんね」
何が、と訊き返しそうになって僕は首を振った。
いいよ。
そう言ってから、話してごらんよ、と彼女を促した。
「……たぶん、もう知っていると思うけど、伯父さんが、今日廃棄されちゃったの」
うん、と僕は頷いた。
「でもね、伯父さん、悪いことはしていないはずなの。ただ、昨日ね、私のお父さんが、また調子を崩しちゃって、診断してもらって、そしたら──」
彼女の声が、止まる。
僕は一つ頷いて、彼女の言葉を待った。
しばらくして、彼女は震える声で再び話し始めた。
「もう、なおすことはできない、都市の外に廃棄するしかないって言われて──。それでね、今朝、それを知った伯父さんが、王様に直談判してくるって言って、それで──」
彼女の下に、伯父に関する知らせが届いたのは、今日の昼過ぎ。Lという店に着いてすぐのことだったようだ。
父親に回復の見込みがないと知って、それに追い打ちをかけるような伯父さんの一件だ。
大変だったろう。
つらかったろう、苦しかったろう。
彼女に同情すると同時に、僕の中で、ふつふつと湧き上がるものがあった。
僕はそっと立ち上がった。
彼女が、驚いたように、怯えたように顔を上げる。
僕は、彼女に優しく布団をかけてあげた。温かくしておいで、また明日来るからね。
そのまま、静かに彼女の部屋を後にする。
はらわたが煮えくり返るというのは、きっとこういう状態なのだろう。
彼女が、いったい何をしたというのだ。彼女が王に、何をしたというのだ。
だのに、王は彼女に何をした?
脳内回路が、焼き切れそうなほど、体が熱を持っている。
怒り。そう、怒りだ。
こんな感情を持ったまま、彼女のそばに居続けたくはなかった。
怒りで、どうにかしてしまいそうだ。
誰が悪い? なんで彼女が悲しんでいる?
答えは一つだ。
ああ、もしかしたら僕の脳内回路は、さっきの一瞬で焼き切れてしまったのかもしれない。