表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

一般向けのエッセイ

園子温と塚本晋也の「痛み」への指向  

 園子温の映画を見ていました。塚本晋也の「斬、」も見ました。

 

 園子温にも塚本晋也にもそれぞれ言いたい事というか、どうだろうなあ…という思う点もありますが、そこは置いといて、この文章ではある一点だけ取り上げます。全体的な評価ではないです。

 

 塚本晋也の「斬、」という映画はその名の通り、「斬る」という事を描いた映画です。それだけかと言われると、まあそれだけと言ってもいいように思います。時代劇風になっていますが、実際にはあくまでも「塚本晋也の映画」であって、時代劇としてちゃんと時代考証していないといった批判は、私は少し違うと思います。そういう所はそもそも目指されてはいないからです。

 

 では、どういう所が目指されているのでしょうか。塚本晋也は作中、「斬る」という事にフォーカスしています。それは暴力であり、痛みです。斬られれば、痛いです。こんな当たり前な事も、現代、わかっているかと言うとわかっていないのではないか。おそらく、そこに塚本晋也の着眼点があるのでしょう。この視点をもっと伸ばして大きくするとハネケの「ファニーゲーム」のような作品になると思います。ハネケの場合、私はサド・パゾリーニ的なものを感じるし、神の不在云々というヨーロッパ知識人の問題も絡んでくる気がします。そう感じさせるというのは、ハネケがそこまで徹底して描けているからこそですが、塚本晋也や園子温はそれに近いイデーはあっても、そういう歴史性までは感じませんでした。

 

 「斬、」で一対一の決闘をする場面があります。お互い刀を持って向き合います。普通のチャンバラなら、刀を振り回してキンキンやる場面、燃える場面ですが、わざと塚本はそういう場面を作りません。勝負は一瞬で決まり、片方の手の甲の一部分がバックリと切られていて、肉がのぞきます。それで勝負はついたという事です。ここにはチャンバラ的な快さがありません。

 

 「斬、」という映画自体が、こんな風にアンチ・カタルシスにできています。作品は、主人公が江戸に行って、剣技で一旗揚げようとするところから始まるのですが、とうとう江戸に行かないまま話は終わっています。「斬、」は普通の少年漫画のちょうど反対にできていて、エンタメ作品ならみんなが喜びそうな、お約束的に盛り上がる部分が尽く盛り上がらないようにできています。アマゾンについている低評価もそういう意味では、計算づくとも見えます。もっともこの「嫌がらせ」は私はもっと露骨に、露悪的にやっても良かった気もしています。

 

 「斬、」はそういう映画です。要するにこの映画では何が語られようとしているのか。答えは簡単で、「斬る」というのは暴力だという事。そして暴力とは「痛い」のだという事です。そんな事はわかっている、わかりきっている、と人は言うかもしれませんが、果たしてそうだろうか、というのが作品の出す問いに見えます。エンタメ作品において、私達は暴力を娯楽物として消費する事に馴れきってしまいました。肉を斬る手、その手も斬られる肉と同じものである。そういう当たり前の事が果たして骨身に染みているか。戦争とは実は、麻酔された平和が生み出すのかもしれません。あるいは、逆説的にこうも言えましょう。「人は平和の意味を知る為に、戦争を行う」 こういう言葉を覆したければ、ある認識が必要となってきます。

 

 あるいはこれも間違いかもしれません。自分の肉の痛みを生の喜びと感じられる人は、そういう人であれば、心から暴力を肯定する事が論理的には可能なはずです。それならそれは一考の価値がある思想ですが、しかし、まずは痛みの認識から人は始めるべきだと私は思います。

 

 塚本晋也なんかは「野火」も含めて、人道派に属するタイプの人だと思います。平和主義と言ってもいいでしょう。しかし、平和主義自体は、戦争映画を作る上では、決定的な問題とは言えません。というのは、仮に監督が平和を訴える為の映画を作ったとしても、その為にはどうしても戦争それ自体をきちんと描く必要がある。その過程で、戦争の悲惨さを適切に描き出せれば、作者の戦争批判のイデーが表現として定着されたかに思えますが、しかし良い映画であればある程、これを裏側からも見る事ができるようにもなります。つまり、戦争の悲惨さそれ自体が戦争の崇高さにも見える、そういう見方もできるようになる。そういう事があると思います。

 

 重要な事は、オスカー・ワイルドの言う通り、良い作品であればあるほど、その作品に対する評論や解釈は多方向に分かれるという事です。岡本喜八の戦争映画は戦争の悲惨を描いていますが、それと同時に、軍人のかっこよさや男らしさを描いているとも言えてしまうでしょう。作者は、最初、イデーを持って現実に近づいていきますが、良い作品を作ろうとする意志は、作者のイデーを越えて、現実を描き出す。現実は複雑多様なものですから、この複雑多様から人はまた議論を始める事ができます。人が、ある方向に単純化しようとする逆側にこそ、芸術家は動いていくべきだと私は思います。今のアーティストの多くがつまらないのは、肯定にしろ批判にしろ、自分のイデーを単純化させるような、漫画的な表現しかできないからだと考えられます。単純に、「痛み」という現実すらきちんと掴んでいないのです。

 

 塚本晋也は「痛み」にフォーカスした「斬、」という映画を作りました。この作品が素晴らしい作品かどうか、私もはっきり言い切れないのですが、今の時勢に痛みというものをもう一度、リアリティある表現で描く事は意味のある事だと思います。人は、暴力とか痛みをわかっているようでわかっていない。エンタメ作品で満足している人は、「現実とフィクションは違うとわかっている」とは口では言いますが、現実とフィクションを見る目は一つでしかないので、その一つの目が現実を漫画的に歪めていくというのは十分ありえる話でしょう。今のネットの言説などは私にはほとんどがそういうものに見えます。軽い考えだけで生きていく事は、その考えによって現実を歪めていく事に通じます。ここでは「痛み」という単純な概念も、忘れられがちになる。銃で撃たれれば痛いし、刺されれば痛い。それは普通の事ですが、かっこいいヒロイズムの影に暴力が消えていくのは今や普通になりつつあります。

 

 園子温と塚本晋也は、かなりタイプの違う映画監督ですが、園子温「冷たい熱帯魚」でも「痛み」という問題を扱っていました。「冷たい熱帯魚」がいい作品かどうか、私も疑っている側面がありますが、それは置いておきます。塚本晋也と園子温という先鋭的な映画監督が、共に「痛み」の問題を持ち出したのはある意味があると私は考えたい。

 

 「冷たい熱帯魚」のラストでは、(いきなりネタバレしますが)社本という主人公が娘を包丁で軽く刺します。そうして「痛いか? 痛いか?」と聞いた後、「人生っていうのはなあ、痛いんだよー!」と叫んで自分を切りつけて殺します。

 

 まあ、園子温のいつもの感じで、血ブシャー、死体グジャー、みたいな子供っぽいところに飛び込んでしまうのが難点なんですが、園子温がこの作品で言いたい事は明瞭でしょう。つまり人生とは「痛い」のだ、痛みという事です。

 

 ここでも、塚本晋也と同じく、両監督が本当に痛みを描き出せているか、疑問に思う部分がありますが、現代の先鋭的な監督が二人共、「痛み」をテーマとしたのは、健全たらんとしてむしろ病的に陥っているエンタメ的世界観に対する抵抗と見る事ができるでしょう。園子温や塚本晋也の作品が、意図して病んでいる、エログロ的な所にむしろ率先して飛び込んでいくのは彼らにある種の誠実さと、芸術家としての本能があるからではないでしょうか。そういう観点から、二人の「痛み」をフォーカスしていく態度は、むしろ逆に、健全であるはずの大多数がどのようなものを欠いてきているかを裏側から暗示しているように、私には思えます。

 

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ