王子と王女の婚約締結
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「――キリル・イヴァーナヴィチ。君との婚約を締結させたぞ」
彼は、紳士のように微笑んでいた。
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キリル・イヴァーナヴィチ・ライコフという男を言い表すのは難しい。
僕にとっての彼は、兄弟のように育った従弟で、復讐したい男の息子で、誰より信頼した親友で、許すことのできない裏切り者で、大切な婚約者で、この手で葬るべき怨敵だからだ。
彼にとっての僕が何者であったかは、この際どうでもいい。それは彼が決めることであり、いちいち僕が考えたって仕方ないだろう。
けれどただ一つだけ、僕にも言えることがある――――許し合うこともできずに過ぎた時間は、二度と巻き戻せはしない。
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僕には名前が二つある。アルトゥール・ミハイロヴィチ・セロフと、アンゲリーナ・ミハイロヴナ・セロヴァだ。前者は生まれた時に父上から贈られた祝福の名で、後者は十五歳の時に怨敵がつけた侮蔑の名だった。
自分の身体がおかしいと思ったことは、それまで一度もなかった。
自分の身体についているものはどうやら女性の象徴らしい、と察しても、特に驚いたりはしなかった。そのうち生えて、取れる。そういうものだと思っていた。だって人は女性から生まれるんだ。女性から生まれたモノが、最初に女性の形をしていてもいいじゃないか。そしてその中に、そのまま女になるモノと、成長していくにつれて男になるモノと、最初から男だったモノがいるんだ。
子供のうちは誰もがそうなのだと、疑うことなく信じ込んでいた。だって、僕は王子だったのだから。それが、母上以外の女性を生涯愛することはないと誓った父上の業だったなんて、誰も教えてくれなかった。
自分が紛うことなき女だと突きつけられたのは、十一歳の冬だった。父上が僕を王位継承者に指名してすぐ、叔父が反旗を翻した――――男装の王女が王位を得るのは認められない、と。
はじめ、何を言われたのかわからなかった。僕がまだ男の形になれていないから、未熟な僕に王太子は無理だと言いたいのだろうか。だから僕は「確かに今はまだだが、僕はすぐに男になる」と堂々と言い返してしまった。そのたった一言の、けれどとても大きな失言が、宮廷中に波紋を呼んだ。
服はすぐに返されたが、多くの貴族達が見守る中で着ていた服を脱がされるのは屈辱の極みだった。僕の身体に何があって何がないのか、それを知った貴族は二つの派閥に割れた。
法の改正を訴えた現王擁するセロフ派と、法の遵守を叫んだ王弟率いるライコフ派。血で血を洗う四年間の抗争の果て、勝利を収めたのはライコフ派だった。
僕は、両家の戦争の緒戦において初陣を済ませていた。あの臆病なキリルとは違う。叔父に僕の秘密を告げたのがキリルだと知った時、僕の憎しみは彼に向かった。
戦場で会いまみえることがあれば、この手で彼を葬ることも辞さなかった。だってキリルが叔父に余計なことを言わなければ、キリルが僕すら知らなかった真実に気づかなければ、こんな戦争が始まることもなかったのに。
結局キリルは一度も戦場に現れないまま、セロフ派の旗印だった父上が殺された。
敗走の果て、叔父に捕らえられてひどい侮辱を受けてから処刑されたらしい。遺体はそのまま叔父の命令によってもてあそばれたため、僕のもとには遺髪しか返ってこなかった。
父上の代わりに僕が派閥を率いることもできたはずで、けれど結局僕は一度だってセロフ派の旗印にはなれなかった。父上の死により四散したセロフ派を、叔父は見逃さなかったからだ。
セロフ派の主たる拠点は占拠された。重鎮の貴族もライコフ派に寝返った。母上の故郷だった隣国は、最初は援助してくれたものの、敗戦の気配を察して早々に手を引いた。一国の王太子だったはずの僕は、自分では何もできないままその場から引きずり下ろされたのだ。
「まだ男の装いをしているのか、元王子よ。……お前の父は、お前に女の名さえ与えなかったらしいな。おかげでお前のことを何と呼べばいいのかわからない」
虜囚の身となり引き立てられたその場所で、叔父は僕を見て嗤った。叔父の横に立ったキリルは、跪く僕を青ざめた顔で見下ろしていた。
四年ぶりに見たキリルは、もう子供の頃のキリルではなかった。彼は、僕のような偽物の男とは違うのだ。骨ばった手と、しっかりした肩幅。きっと身長も追い抜かされているだろう。けれどその優男めいた顔立ちは、態度がおどおどしていて眉が頼りなさげに下がっているせいで、ただの軟弱にも見えた。
「アルトゥール・ミハイロヴィチ・セロフ。お前は今日からアンゲリーナ・ミハイロヴナ・セロヴァと名乗れ。お前にふさわしい名だろう」
何をもって、叔父はその名が僕に“ふさわしい”と言ったのか。きっと、男を惑わせる魔女アンゲリーナから取った名だからだろう。彼女は聖書に登場する、男のふりをして男に混じり、世界をひっかきまわす悪女だ。
いっそその忌まわしき名の通り、宮廷中の男を籠絡してやろうか。悔しさのあまりこぶしをぎゅっと握りしめた。この男は、一体どれだけ僕の一族を馬鹿にすれば気が済むのだろう。
「そしてここに、アンゲリーナ・ミハイロヴナとキリル・イヴァーナヴィチの婚約を宣言する。これをもってライコフ家とセロフ家の和睦の証としよう。セロフの血は、ライコフ朝の中で生き続けるのだ!」
わっと喝采が沸き上がる中、僕とキリルの視線が交わった。彼の鈍色の瞳は絶望に見開かれ、唇はわなわなと震えていた。
「アーチャ、」
「僕を二度とそう呼ぶな。今しがた、君のお父上がおっしゃっただろう。僕の名はアンゲリーナ・ミハイロヴナだと」
伸ばされた手を、言葉でぴしゃりとはねのける。
キリルにとっての僕は政略の道具で、みじめな負け犬で、都合のいい女に過ぎない――――何があっても友達だと誓った二人なんて、もうどこにもいないのだ。
*
僕はずっと男として育てられてきた。今さらお前は女だったのだと言われても困る。けれどコレが女の身体なのだと言われてみれば、わざわざ男として振る舞うのも変な気はした。
男の裸体を見ても、女の裸体を見ても、別にこれといって思うことはなかった。特にキリルのことは友達としか考えていなかったから、仮に両家の確執がなかったとしても彼を恋愛対象として見ることができたのかはわからない。もしかしたらキリルは、違ったのかもしれないけど。
自分が男なのか女なのか、異性愛者なのか同性愛者なのか、あるいは両性愛者なのか無性愛者なのか、僕自身にすらよくわからなかった――――だから、僕は、僕でしかない。
「こんにちは、エーリャ。今日は、貴方が前に読んでいた本の新しい巻を持ってきたんだ」
「これはこれは、ご親切にありがとう。君が持ってきたのなら、僕はもうその本を読むこともできないじゃないか。それは、君が自分で読むといい。キーラには少し刺激の強い話だろうけど」
キリルははにかみ、ぴかぴかの本を差し出してくる。一瞥をくれて冷たい言葉を吐くと、キリルは残念そうな顔で本を手元に置いた。
キリルは多分、およそ婚約者としては及第点の男なのだろう。家柄がよく、顔も整っていて、意気地なしだが性格自体は悪くない。僕よりよほど素敵で可愛らしい令嬢なんて掃いて捨てるほどいる。キリルは、そういう女の子と婚約すべきだったのだ。
けれどキリルが僕と結婚しなければ、ライコフ朝がおびやかされる。何よりあのキリルが、父親に逆らえるはずがない。だから僕らは、歪な婚約者同士でなければいけなかった。
僕がどれだけ拒絶の意を示しても、キリルは諦めずに僕の機嫌を取ろうとする。僕が嫌だと言う場所には決して連れて行かず、一方で芝居やらサーカスやら祭りやらといった少しでも僕の興味を引けそうなものがあればチケットやビラを手にしておずおずと誘った。一つとして、行ったことはなかったけれど。
キリルから贈られる服やアクセサリーは、まだ僕がアルトゥールだった時に好きだと言った青い色が中心で。手土産の菓子はかつての僕達がおやつの時間によく食べていたものばかりだった。
おまけに、僕が軟禁されている屋敷には、ことあるごとにキリルから薔薇やらなにやらの花が届くらしい。それについてはよく知らなかったが、もしかしたら花瓶に生けてある花がそうなのだろうか。
けれど僕は、キリルの好意をすべて否定した。引き裂き、ずたずたにし、ときには彼の目の前で嘲笑った。僕より先に僕が女だと知っていたキリル。セロフ家の秘密を暴き、セロフ家に破滅をもたらしたキリル。そのキリルには、恋愛対象として扱われたくなかった。
アルトゥールだった時、キリルはそんなことをしなかった。もちろん、手土産と称して彼がおやつを持ってきたり、彼から遊びに誘われたりするぐらいのことはあった。けれどアンゲリーナになってからキリルにされる数々の行為は、あの時のものとはまったく違う意味を孕んでいるのだ。
キリルは僕に対して、婚前交渉を迫ることはもちろん、キスや抱擁すらしなかった。アーチャとキーラだった時にはあった、友人同士で行うような、挨拶程度の軽いものもない。たとえ戯れでも「愛している」など口にすることすらないのだ。
だから実際のところ、キリルが僕のことをどう思っているかは定かではなかった。いつまでも心を軟化させない僕を嫌っているのかもしれないし、嘲っているのかもしれない。
何よりも、キリルは叔父の子なのだ。残忍で冷酷なあの男の直系の息子。叔父の中にくすぶる野心を燃え上がらせた元凶。そのことを思うと、彼の血を憎み彼の心を踏み躙ることに罪悪感など湧かなかった。
――――アンゲリーナ・ミハイロヴナ・セロヴァは、キリル・イヴァーナヴィチ・ライコフを愛してはいけないし、そもそも彼のことなんてこれっぽっちも愛してなどいないのだ。
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「あるじさま、こちらを」
叔父が用意した屋敷に軟禁され、継承権を剥奪されたうえでキリルと婚約させられても、まだ僕は何一つとして諦めていない。
メイドに扮した僕の右腕が差し出すのは、ずっと待っていた母方の祖父からの手紙だった。彼こそ隣国の盟主だ。その血統を遡れば、セロフ家の血も流れている。今は亡き隣国の王太后……僕にとっての曾祖母にあたる人物が、嫁いでいったセロフの王女だからだ。
望むのは復興と復讐。そのためならば、どれだけの血が流れることになっても構わなかった。あらゆるすべてを差し出す覚悟があった。地獄に堕ちる時は、憎い仇の名も一緒だ。
「ご苦労。……どさくさに紛れて僕の後見人になろうとするとは、あの王も中々足元を見てくるじゃないか。わかってはいたが、ここまで見え透いた傀儡扱いを受けるなんてな。だが、確かに強力な後ろ盾は必要だ……」
叔父は父上の権威を剥ぎ取って自分が着ることに夢中で、僕のことはさほど関心がないようだった。よほど父上のことが羨ましかったのだろう。
長男に世継ぎがいた今、宮殿も玉座も王冠も、次男の彼ではよほどのことがない限り手に入れることができない。だから彼はその“よほどのこと”を起こした。そして今は宮殿の中で、手に入れたそれを守ることに躍起になっている。僕のことは自分の息子に丸投げだ。おかげで僕は、それなりに自由に動くことができた。もちろん、多少の危険は冒しているが。
兵を募り、金を集め、民を導く。やがてそれは国を動かす大きなうねりとなるだろう。この国がそれに飲み込まれた時、玉座を奪い取った者は己の罪と下される裁きの名を知るのだ。
*
「セロフの名のもとに舞い戻りし勇士達よ! あの日梟によって不当に奪われた空と森を、奪い返す時が来た!」
群衆は、揃ってみな高揚していた。セロフ派の残党、ライコフ朝のイヴァン五世に疑問を抱く者、そして隣国からの援軍。彼らの旗印こそこの僕だ。
「僕が正統でないというのなら、何故神は僕に死の罰を与えなかった? 僕が今ここにいることこそ、神が僕を赦し、セロフを認めた証だ! ゆえに決して恐れるな、正義は僕らとともに在る!」
この反乱軍は、いずれ革命軍と呼ばれるだろう。必ずやそうさせる。二年前のあの日、この宮殿で生まれ育った叔父がここを陥落させてみせたように。今度は僕が、奴らを追い立て狩る番だ。
キリルの姿が見当たらなかった。一体彼はどこにいるのだろう。ライコフ家の人間は勝手に殺すなと厳命しているから、僕の知らないところで殺されてはいないはずだ。その希望的観測だけがよりどころだった。
「王太子殿下は臆病者だ。きっと、何もかもを見捨てて一人だけ逃げ出したのさ」
焦燥を悟られまいと嘲笑する。引き連れた騎士達も、膝を打って嗤った。
あらゆる部隊を散開させる。外に行かせる者、奥まった場所に行く僕についてこさせる者。編成をし直して、僕は歩みを進めた。
果たしてキリルは、人気のない階段の踊り場に悠然と佇んでいた。階下を見下ろす彼の鈍色の目は、ここではないどこか遠くを映しているようだった。
この階段は、幼い僕らの遊び場の一つだ。怪我をするのが嫌で、自分から積極的に危ないことはしたがらないキリルにしては珍しく、ここではかなり活動的に振る舞っていたように思う。多分、彼にとってここは度胸試しの修練場だったのだろう。
「ごきげんよう、キリル・イヴァーナヴィチ殿下」
「……思ったよりも遅かったな、エーリャ」
敬礼した僕に、キリルは微笑を返した。奇妙なことに、その声に恐怖の色は宿っていなかった。少し固い声音ではあったが、佇まいには過度なおびえや焦燥は見られない。
まさか現状の意味が掴めていないわけでもないだろう。血の気の失せた蒼白な顔で、ぶるぶる震えながら逃げまどっているとばかり思っていたのに。なんだか拍子抜けだった。
「臆病な殿下なら、まっさきに宮殿の外に逃げ出すと見当をつけていたんだよ。だから外にも追手を手配していたんだ。それがまさか、こんな何もない奥まったところにいたとは当てが外れた。腰でも抜けていたのかい?」
サーベルを抜き放って、切っ先をキリルへと向ける。キリルは答えなかった。それは答えられないのではなく、あえて答えないようにも見えた。
ちょうど上の階から別の部隊がやってくる。これでキリルは完全に包囲された。それでもキリルは、変わった様子も見せなかった。それが無性に腹立たしい。
「さあ、もうどこにも逃げ場はない。……最期に何か言い残したことでもあれば、聞いてあげてもいいぜ?」
さあ、命乞いをすればいい。その余裕を湛えた微笑の仮面を放り投げ、みじめに跪いて許しを乞え。泣きながら犯したすべての罪を悔い、僕に服従を誓うんだ。
「それでは一つだけ――アンゲリーナ・ミハイロヴナ。貴方との婚約を破棄しよう」
どうして。
そんなことを、聞きたいわけではなかった。
「愚かな女だ、せっかく救ってやったのに。私が貴方を見初めていなかったら、父上は早々に貴方を殺していただろう。それをわきまえず、恩を仇で返すとは。残念だよ、アンゲリーナ」
殺さないでと、ただ一言。彼にそう言わせるための猶予だったのに。
どうしてキリルは、こんな馬鹿げたことを言ったのだろう。これじゃあまるで、道化の悪役みたいじゃないか。
「聴いたか、お前達!」
だめだ、動揺を悟られるな。
笑え。美しく、気高く、力強く。
「ついに貪欲な黒梟は、むしり取った白き羽をくちばしから取りこぼした!」
従ってくれる騎士達から士気を奪ってはいけない。大仰な言葉ですべてを塗りつぶせ。
考えろ、どんな台詞が両家の因縁の幕引きにふさわしいか。
「もはやライコフ朝に正統性はない! 今こそセロフの鴉の白き翼を、梟の血で赤く染める時だ!」
騎士達の雄たけびは、僕が間違っていなかったことの証明だった。
キリル・イヴァーナヴィチ・ライコフは臆病な少年だ。生まれた時から一緒だったと言っても過言ではないほど、長い時を共有してきたのだ。だから僕は、キリルという友人がどんな男か、わかっているつもりだった。
追い詰められれば、必ず逃げると思っていた。矜持よりも命を取る、こざかしくも正しい選択をできる奴だと考えていた。キリルなら、僕が何を考えているか目だけで通じ合えると楽観視していた。だって実際に、子供のころはそうだったのだ。
仮にキリルが、僕に対して命乞いをしてくれれば。額ずいて、何もかもを僕に返すから命だけは助けてほしいと懇願してくれれば。まだ死にたくないと、顔を涙と鼻水で汚してみっともなく訴えてくれれば。そうすれば、僕は彼のその軟弱さを騎士達と共に嘲り軽蔑し、殺す価値もないと言って剣を収めることができたのだ。
命惜しさに自ら白旗を上げる王太子を、誰が旗印にしたいと思うだろう。生かしたところでキリルは何の脅威にもなりえない。だから、どこか適当な場所に幽閉してしまえばそれで終わりだった。
時間が両家のわだかまりを解消させ、人の心の整理がついたなら、そこから出してやることだってできた。あるいはわざわざ幽閉せずとも、領地を没収してから辺境の痩せた土地を与えて、そこで慎ましやかに暮らすことを許してもいい。
無様に一人生き余って、悲嘆に暮れながらみじめな生を送るキリルを嘲笑う。それもまた、一つの復讐の形だった。
だから、僕がここでキリルの命を奪わなければいけない理由は、何もなかったのだ。キリルが僕達の婚約を破棄するまでは――――反旗を翻した僕に、宣戦布告をするまでは。
叔父が、僕を殺さずに政略的な価値を見出したように。僕には、キリルを見逃す用意ができていた。
憎い憎い仇の子。僕の秘密を暴いた裏切り者。けれど、ああ、どうして、そんな彼に、逃げ道を用意したんだろう。それは本当に、彼を見世物にして辱しめたいからだったのだろうか。
覚悟ができていたはずじゃなかったか? どれほどの血を流しても、どれほどの血を浴びてもよかっただろう? それなのに、どうして今さら、キリル一人に心が揺さぶられる? キリルのことなんて、僕は何とも思ってなかったのに。
アーチャと僕を呼ぶ幼い声が聴こえる。エーリャと僕を呼ぶ柔らかい声が聴こえる――――ああ、そうか。
僕はただ、あの頃に戻りたかっただけだったんだ。変わってしまったものさえ取り除けば、彼とまた無邪気に笑い合えると思っていたんだ。取り除こうとしたのがキリルその人だということの重さを、ちっとも理解しないまま。
キリルの胸に紅い花が咲いた。キリルの後ろにいた騎士が、キリルの胸を貫いたのだ。
キリルはよろめき、腕を伸ばした。その手は何も掴めないまま、彼は階段を転がり落ちていく。
「エー……リャ……」
血と共に彼の口からあふれ出たのは、僕の名前だった。キリルは、キーラは、潤んだ瞳を細めて優しく笑っていた。彼は今、何を考えているのだろう。
最期の一言の重要性を、彼だってわかっていただろう。それがたとえ命乞いでなかったとしても、もっとふさわしい言葉があったはずだ。やり残したことへの後悔とか、恨み言とか、あるいは――――僕への、感情の吐露とか。
「……大丈夫だよ。僕が楽にしてやるからさ」
剣をかざす。視界が涙でにじんでいるせいで、手元が狂いそうだった。けれど失敗は許されない。だってキーラは、痛いことが嫌いなんだから。
一度で終わらせる。これ以上苦しみは長引かせない。誰にも、キリルは殺させない。
「さよなら、キーラ。僕は、君を――」
続く言葉は飲み込んだ。
そして永遠を誓う口づけのように、その首を刎ねた。
* * *
「少し、一人にしてくれ」
側近達に命じると、彼らは心得たように引き下がった。
ここは王家の所領の、静かな森だ。人を襲うような獣はいない。ここは子供の時によく遊んだ遊び場の一つだった。夏になると、よくこの森にある川に行ったっけ。
「やあ、キーラ。来るのが遅くなって悪かったね。ちょっと法律を変えるのに手間取ってさ。でも、これで僕はこの国史上初の女王になった。次の王には、僕の養子になった隣国の第三王子がなるけどね。まあ、おかげで僕は誰とも結婚しなくて済むわけだけど。一応彼もセロフの血が流れる親戚だ、そう厄介なことにはならないよ」
白亜の石でできた十字の墓標に花を手向ける。その下には、僕が殺した人が眠っていた。
「……約束しただろう、たとえ僕が死んでも、僕らは友達だって。だから、君が死んでも、僕らは友達だ。神に誓ったんだから、今さら取り消せないぜ?」
キリルは、僕を恨んでいるだろうか。都合のいいことを言う僕を、あの木の影から憎しみの目で見つめているだろうか。
どうして、こんなことになってしまったんだろう。
もし彼がライコフ家のキリルでなかったら、あるいは僕がセロフ家のアルトゥールやアンゲリーナでなかったら、僕らはずっと一緒にいられたのだろうか。
……違う。きっと全部、父上のせいだったんだ。僕にアルトゥールという名をつけて、男として育てた父上。亡くなった母上のことを愛するあまり、母上との子である僕にすべてを継がせようと考えてしまった人。もしも僕にアンゲリーナという名をつけたのが父上だったのなら、僕とキリルはもっと健全な仲のいいなずけになれただろう。そしたら僕だって、キリルをちゃんと愛せたのかもしれない。
父上の次は叔父が王になって、セロフ朝の最後の王女がライコフ朝の最初の王子のもとに嫁ぐんだ。そうすれば、今よりずっと平和な形で王位の継承がなされたはずだ。
けれど現実は、愛と、権力と、理想と、復讐に取りつかれた僕達が、誰かを憎んで誰かを殺して嘆き悲しむだけだった。……それは、とても愚かで悲しいことだ。
「僕らは結局、しがらみに踊らされただけだったんだ。運命に流されて、いっときの感情ですべてを奪い尽くしてしまったのさ。……だから、試してみないか? すべて終わった今だからこそ、新しい未来が開拓できるかどうか」
たとえば死後の世界。肉の器や生前の妄執から解放されたそこで、互いに許し合うことができたなら。
たとえば来世。前世のあらゆることを忘れたそこで、因果によって結ばれる奇縁があるなら。
「僕は君への恨みを晴らした。今度は、君が僕への恨みを晴らす番だ――キリル・イヴァーナヴィチ。君との婚約を締結させたぞ」
死に分かれた元婚約者に、いつかどこかで出逢うため。
宿命の糸を固く結ぶ。死後の世界でも、来世でもいい。その時に、現世で叶わなかった何かが成就してくれると信じて。
――――ふとよぎったキリルの幻影は、紳士のように微笑んでいた。