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浩一

作者: 香月日向

 老治市の酒屋はバーとも居酒屋とも違っていた。間口が狭く奥行がある。店内にはカウンター席以外には粗末な椅子と卓が数脚並べてあるのみだ。店に来る客は大抵が工場勤めの作業員で、つなぎ姿のままチビチビやる。


 私はこの店に十五から務めている。生来の不勉強ゆえに高校には通わなかったのだ。私は不勉強なうえにぼうっとした奴だったので、厨房は任せてもらえず表で品のない客の相手をさせられた。面倒な奴もたくさんいた。私が酒を燗しているのをじっと見ては、酒に湯を混ぜていないか確認するのだ。おまけになんだかんだ言い訳してはつけてくれるよう頼む。年下の私は押しに負けて代金を取り損なう。主人にはいつも酷く叱られる。


 酒屋の仕事は面白いものではなかったが、私が唯一声をあげて笑うことができる時があった。それは浩一という客が来た時だ。つなぎ姿の客の中で浩一は唯一背広を着ていた。しかし彼は会社勤めでもないらしい。浩一は何とか大とか言う首都圏の有名私立大学の受験を目指す浪人生なのだ。それも将来は文科省の官僚を目指しているという、もう十何年も。


「私が文科省に入ったら、この国の教育を変えてやる。この国の教育は間違っているとは思わんか諸君」


「また始まったよ」


「文科省の前にまず大学に入ったらどうだ」


「お前は何年受験生してるんだ」


 浩一が店に来て教育論を語りだすと、皆そろって浩一を馬鹿にしだす。しかし浩一はくじけない。こんな連中は所詮学がないから私の言葉が響かないのだ、これも教育の腐っているためだと一人理由付け納得する。それをまたみんな馬鹿にする。それで誰かが「万年浪人」だの「ニート」だの地雷を踏むと真っ赤になって癇癪を起す。それでまた皆で笑う。


 今日も今日とて、浩一の教育論の演説が始まる。内容など私も店の客もさっぱりわからない。しかしそれでも語る浩一の姿が、七面鳥の群れを相手に聖書を読む宣教師のように見えて一層滑稽なのだ。皆笑う。


 ひとしきり笑うと、すっかり飽きてしまった様子で客たちは競馬の話をしだした。


「全く、日本に知無し!」


 誰の相手にもされていないことにしばらくたってから気付いた浩一は吐き捨てるように言うと、実に不機嫌な様子でカウンターに向かった。


「なあ、君はこの国の教育をどう思う?」


 浩一は私に尋ねる。しかし私は答えてやる気もなければ、答えるだけの学もないので無視をする。どうせバカにしたいだけだ。浩一は愉快な奴ではあるが、自分より能力の低い者を見下したがる嫌な性根を持っている。客たちとは違ってぼうっとした間抜けな私は、浩一の恰好の餌食である。


「浩一さん、まず何か注文したらどうだい」


 浩一はまだ何も頼んでない。たまに店に入ってきて騒ぐだけ騒いで一銭も金を使わずに出ていく客がいる。こういうのは迷惑極まりなく、放っておけばまた主人に怒られる。浩一にも、店に来たのだから金を使ってもらおう。


「じゃあ熱燗をもらおうか」


 私はカウンターから見える位置で酒を燗する。そうしている間にも浩一は何やら講釈を垂れている。本人としては私に何か教えを説いているつもりなのだろうが、私は聞いていない。


「君はどうして高校に入らなかった?」


 浩一は私が熱燗を彼の前に置いた時、また質問をした。私はこれも無視するつもりだった。私の学のないのを馬鹿にしたいだけだろう。


「高校に通わなかったのは正解だ。あんな俗悪な所に居ればすぐ馬鹿になってしまう。それに、あることをすれば、高校を卒業したことになるんだ。君も自分の店を持つ時にきっと役に立つはずだから覚えておくと良い」


 私は別段、独立して店を出したいとは思っていない。無視して別の客が頼んだつまみの目刺しを炙る。厨房でなくても、簡単な調理はカウンターの内側で済ませてしまうのが私の店のきまりだった。


「教えてやろう、高校に通わなくたって高校卒業となる方法を」


 浩一はもったいぶったような口調で言う。脱獄犯がどうやって刑務所から抜け出したのか自慢するかのようなその言い方がやけに癇に障る。


「鬱陶しいな! 高卒認定試験だろ、そのくらい分かるよ」


 無視を決め込んでいた私が急に答えたのが意外だったらしく、浩一は驚いたような顔をする。そして、いよいよ私の注意を引くことができたぞとしたり顔をして見せる。その浩一の顔に無性に腹が立った。


「そんな事より浩一さん。 この間あんたに貸した漫画本、あれいつになったら返してくれるんだよ」


 私は腹が立ったついでに浩一に貸していた漫画本のことを聞いた。


「ああそれか。悪いな、今日は持ってきていないんだ。また今度持ってくるよ」


 結局その日は、浩一は熱燗を一杯ひっかけると帰ってしまった。



 浩一に関して一つ気付いたことがある。彼の頼むものが来るごとに安いものになっていくのだ。半年ほど前はビールを何杯か飲んでつまみに焼き鳥まで頼んでいたのが、今では熱燗一杯である。いくら何とか大の受験生と言えども、暮らし向きはよくないのだろうか。近頃は景気が悪く客も減っている。浩一も例外ではないのだろう。


 そんな折、彼の母親が死んだらしいという噂を聞いた。浩一本人が来た時ならまだしも、浩一の話が客たちの間で出るのは珍しいことであった。



 随分と寒くなったある日、浩一が久々に店に顔を出した。いつものような背広姿ではなく、ダボダボのジャージにパーカーを羽織っただけのだらしない恰好だった。コートさえ来ていないのでがくがく震えていた。浩一はいつものような演説はせず、真っ直ぐにカウンターに来ると熱燗を一杯頼んだ。


 浩一に酒を持って行ったあと、私は浩一に彼の母親のことを尋ねようか迷って突っ立っていた。


「ああそうだ。君に借りた漫画を返しに来たよ」


 熱い酒の入った湯飲みで手を温めながら浩一は言う。私はついに母親のことを尋ねることはできなかった。私がまごまごしているうちに浩一はバッグをがさごそやって数冊の漫画本を取り出した。私は漫画本を受け取り、貸した本が全てあるか確認した。すると、ある漫画の四巻だけがなかった。


「すまない、四巻は家に置いてきてしまった。また次返しに来るよ」


 浩一も四巻を返し忘れたことに気付いた。その日は結局、浩一は熱燗を飲み終えるとさっさと帰ってしまった。



 次に浩一の姿を見たのは、店が労働者たちの汗の臭いと湿気に満たされるようになるころだった。その時浩一は、もう背広を着ていなかった。労働者たちとは違う、運送会社のロゴ入りのつなぎを着て、荷物を以て店の裏にやってきたのだ。私は彼に声をかけることはできなかった。荷物を渡しハンコをもらうと、彼は私に一瞥もくれることもなく去っていった。



 漫画本は今でも一巻、二巻、三巻、五巻と並んでいる。四巻は戻ってこなかった。帰省できない外国人労働者が店に来るようになるころには、隙間を埋めるように買った古本の四巻が収まっていた。



 日本の教育を嘆く浪人生は、もう姿を見せなかった。


魯迅の『孔乙己コンイーチー』を原作にした二次創作です。

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