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天風の唄 -還魂師 蘭桂-

作者: 天瀬佑弥

 深更。

 宮城の奥。後宮の、今は誰もいない房で、からからと糸車が回る。

 糸を紡ぐ手も、紡がれる糸もなく、ただ、糸車だけがからからと回り続ける。

 その音はどこか悲しげで、哀れである。人が住まうことがなくなった所為もあるのだろうか? からからと軽い音に反して、その房の空気はどことなく重い。

 重く澱む空気は密に凝って形を成す。

 人に似た姿をとり、ゆうらりと動き始める。

 何かを探し求めるように後宮の内部を彷徨うその影は、後宮に勤める女官の目に触れ怪異となる--。



   一


 王都の西、市が立ち賑わう界隈に、ひっそりと黒衣の少年が座している。漆黒の髪を小さく髷にして結い上げてはいるものの、中性めいた貌立ちが男装の少女を思わせる。が、無表情に通りを見遣るその姿は、路を行く多くの者に、どことなく近寄りがたいものを感じさせた。

 彼はそこで、筮竹を手に卜占を行っている。喧騒を避け、路地裏に小さな店を構えているが、それでも、評判を聞きつけた客が時折訪れているようだ。

 しかも、毎日店を開いているわけではない。気まぐれに現れるだけだ。不在の折には、日参してくる客もいる。

 それほど、よく当たるらしい。

 失物、尋人、商向きのことまで、ぴたりと当てるという。

「蘭桂、ちょっと見てくれや」

 気安く声をかけながら、どっかりと蘭桂の前に腰を下ろすのは、この界隈を仕切っている男で、名を柳桓という。ここに店を出す際に世話になっており、その後もなにかと蘭桂姉弟のことを気に掛けてくれていた。

 柳桓が座ると同時に、蘭桂は筮竹をざらりと広げる。

「お待ちにのお客人は、渡し場で雨に降られて到着が数日遅れることになったようですよ。明後日の昼頃、到着されます」

 柳桓が尋ねようとした内容まで当てて、淡々と告げる。

「そうかい。ありがとよ」

 占料だと銭数枚を卓に置き、すっと立ち上がる。

「これでは多すぎますよ、柳桓さん」

 呼び止め、規定の占料分のみを手元に残して余分な銭を柳桓の方へと押しやる。親切な柳桓の気遣いなのだろうが、蘭桂にはそれに甘える気はないようだ。

 が、柳桓も

「いや、いいんだよ」

 一度出した銭を、再度懐に収める気はないとばかりにそのまま立ち去ろうとしたのだが、ふとなにか思い出したように立ち止まって振り返る。

「そう言えば、蘭桂。近所の娘さんが後宮の下働きをしていたんだが、最近戻って来ててな」

 脈絡なく、そんなことを言い始める。

「出る、っていうんだ。後宮に」

 何が、とは問わない。

「後宮なんて、もともと怪談のひとつやふたつあるものじゃないですか」

 寵を競う女たちが集まる場所だ。不審な死を遂げた者もいれば、いつの間にか居なくなる者も居る。そう言う場所であればこそ、怪談などもひとつやふたつどころか、掃いて捨てるほど転がっているはずだ。

 後宮に下働きとして勤める者なら、最初からそれくらいは覚悟していることだろう。

「まぁ、そうなんだけどな。その……あれだよ。化け物を見ちまったとかで、えらく怯えてよ。房に籠ったきり、出て来やしない。身内が心配して、気分転換に外へ連れ出そうとしても、嫌だ、怖いの一点張りだそうだ」

 溜息混じりに語るその口調には、真実、その娘を心配する思いが滲んでいた。元来、他人のことを放っておけない性分の漢なのであろう。だからこそ、突然ふらりと現れた蘭桂の素性を詮索することなくこうして居場所を用意してくれたのだとも言える。

 その恩があるから、蘭桂も柳桓のこの言を無下に断ることもできない。

「まだ若いのによぅ、かわいそうな話じゃねぇか。蘭桂、手が空いたらでいいから、ちょっと話でも聞いてやってくんねぇか」

 畳み掛けるように続けるのに、僅かに困惑を滲ませた声音で蘭桂が答える。

「柳桓さんがそう仰るのなら、それは、構いませんが……僕が話を聞いて、何かお役に立てるのでしょうか」

 蘭桂は、あくまで占術師だ。未来を占うことはできても、化け物は専門外である。それとも、柳桓には何か他に考えがあるとでも言うのだろうか。

「そうしてくれるか? ウチの者には話しとくから、近いうちに来てくれや」

 助かるよ、と拝む形に片手を上げると、今度こそ忙しそうに去っていった。

「……後宮の怪、か」

 柳桓を見送った蘭桂が、ぽつりと呟いた。




 半刻の後、蘭桂は柳桓の告げた娘の両親を訪ねていた。その蘭桂の傍らには、儚げな娘が影のように添うている。

 蘭桂の姉で、名を翠玉という。名前のままの翡翠色の襦裙に身を包む彼女の、結い上げずに背に流したゆるく波打つ髪は、弟であるはずの蘭桂とははっきりと違う明るい色をしていた。

 その髪が目立つからか、それとも他に理由があるのか、外に出てくることが稀な彼女とは、柳桓でさえあまり顔を合わせることがない。

 自室に籠ってしまった娘の話を聴くために、わざわざ同じ年頃の娘である姉を伴って来たのだ。蘭桂自身はまだ少年と呼ばれる年齢だとはいえ、妙齢の女性の寝所に入るのは憚られた。

 富裕な商家だけあって、家の奥まった場所にある娘の房は広く豪奢だった。

 下働き、と柳桓は言っていたが、下女ではなく侍女だったようだ。おそらく後宮へと勤めに出ていたのは、収入よりも花嫁修業が目的だろう。後宮で勤めることができた、というだけで箔がつく。家柄も容姿も良くなければ採用されないからだ。

 娘は榻子に腰掛けて花窓の外をぼんやりとみつめていた。

「玉蓮」

 母が娘に声をかけながら、房内に翠玉を招き入れる。

 呼び掛けに振り向いた玉蓮は、戸口におどおどとした視線を向けた。

「玉蓮さん」

 翠玉が名を呼ぶと、びくりと身を震わせる。

「だれ?」

 小さな声で、問う。

「わたしは、翠玉。あなたのこわいものを追い払ってあげたいの」

 まるで幼い子供の相手をするようにゆっくりと告げ、穏やかに笑いかける。

 玉蓮は、少しでも目を離せば翠玉が恐ろしい存在になるとでも思っているのか、翠玉の動きをじっと見ている。警戒しているのがありありと判る、そんな表情だった。

 そんな彼女を驚かせないよう、ことさら緩やかな動きで玉蓮に歩み寄る。

 玉蘭の座る榻子と対で置かれた榻子に腰を下ろした。翠玉自身も緊張していたのだが、悲鳴を上げられることもなく、小さく安堵の息を吐いた。

「何を見ていたの?」

 やさしく問いかける。小さいが澄んだ声は、耳に心地よい。

「……あの……」

「なぁに?」

 おっとりと首を傾げる。

「私を助けてくださるんですか?」

 おずおずと、尋ねた。こわいものを追い払う、と翠玉は言った。それはいったい、どういうことなのだろう。玉蓮には良くわからないが、少なくとも、この、花のようにおっとりと微笑む人は怖くないということは判る。

「そうね。そうしたいと思っているわ。でも、まずあなたが何に怯えているのかを話してくださらないと、わたしたちには何もできないわ」

「わたし、たち?」

「そう。わたしの……弟が一緒に来ているの。弟も、あなたのことを心配しているわ」

 弟という言葉が出てくるまでに、僅かに間があった。が、玉蓮は気付かない。そのようなことに気付く余裕など、玉蓮にはなかった。

「弟、さん?」

「ええ。弟がね、あなたのご両親のお知り合いに頼まれたのよ」

 玉蓮が戸口に佇んだままの母に窺う様な目を向けると、彼女ははっきりと肯いた。

 それだけで、この人はここへ来て、玉蓮に手を差し伸べてくれているのか。

「ほんとうに、たすけてくださいます?」

 翠玉は、小さく肯いた。

「だから、話してちょうだい。あなたのこわいもののこと」



   二


 宮城の最奥。帝の為だけに用意された広大な宮。ここに住まうのは、いくつかの例外を除いて女性ばかり。帝の身内でさえも、男性であるというだけで立ち入りを制限されるここは、通常、後宮と呼ばれる。

 一見華やかで典雅ではあるが、政治の表舞台である政庁よりよほど陰湿な駆引きが日常的に行われているのも、ここである。表向きは婉然と微笑み交わされる会話の裏には嫌味が、妍を競うその陰では、相手を陥れようと暗に策謀をめぐらせている。

 その容姿を誇り美しく飾る女性たちに艶めき華やぐ宮のそこここで、どろどろとした怨念や執念が凝って、独特の空気を生じさせているのだった。

 その後宮に住まう寵姫の一人、碧春の下に、新しく侍女が雇い入れられた。

 先日、体調を崩して実家へと帰ってしまった娘の、その家族が迷惑を掛けた代わりにと推挙してきたらしい。素性の知れない者を後宮に入れる訳にはいかないが、人手が足りないことも、また、身許の保証がしっかりしていたこともあり、侍女として迎えたのだ。

「翠玉さんは、玉蓮さんのお身内なんですよね?」

 侍女頭の春花が新しく入ってきた侍女に、声をかける。碧春の侍女を取り仕切る彼女は、碧春の乳兄弟でもあった。

「はい。玉蓮さんとは遠縁ですが親類でございます」

「玉蓮さんのお加減は、如何ですか」

「……あの……こちらに参る前に一度お会いしてきたのですが、お顔のお色も随分良くなられて、でも……」

「でも?」

「あ、……なんでも、ありません」

 おどおどとした態度で、言いかけた言葉を取り消した。

 玉蓮は、どちらかというとはきはきとした陽気な娘であった。その代わりとしてやってきたにしては、どうも態度がびくついている。このような場所に来て緊張しているのだろうが、どうにも扱い難そうな娘だと、春花は袖の陰で小さく嘆息した。

 玉蓮には、碧春の身の回りの世話のうち、着替の用意やお茶の支度を手伝わせていた。が、入ってきたばかりの娘に飲食物を扱わせるのは不用意である。いくら信頼できる筋からの紹介であったとしても、どんな裏を持っているか知れたものではない。まず、疑って掛かる。それがここでの流儀であった。

 衣装や髪を扱わせるにしても、この新しく来た侍女はせっかくの艶やかな黒髪を地味に纏め、無難な色調の襦裙を着ているだけだ。意匠を凝らした髪型にし、目立ち過ぎはしないが華のある装いをしていた玉蓮とはやはり違う。こちらの仕事も、任せ難い。

 それでも、春花は自身の責任を果たすべく、彼女に一通りの仕事の内容を説明する。ここでの流儀は他の侍女に従って少しずつ憶えてくれればいいからと、微笑んでみせた。


 翠玉と名乗る侍女が碧春の宮に来てから数日が経った。地味な見た目とおどおどとした態度は相変わらずだが、黙々と働く彼女は存外に気が利いた。

 最初の二日間で一通りの流れを憶えたらしく、先回りするように仕事をこなしていく。どこか遠慮がちなおどついた態度からは想像できない働きぶりを見せている。むしろ、静かに淡々と仕事をこなす彼女は、この短期間で宮内の他の侍女たちの信頼をも得ているようだった。

 通常ならば余人よりも抜きん出た才を見せる侍女は妬みを受けるものだが、彼女に限ってはそれも見られない。どうやら控目に過ぎるその態度が、妬みよりも親しみを感じさせるようだった。

「翠玉さんも、もっとお着物や髪の形を工夫なさればいいのに」

 そう言い出したのは誰だったのか。

 碧春が、少し休みたいからと人払いしたため、各人が退屈していたせいもあるのだろう。

 その場にいた侍女たちが同意して、それぞれの着物や装飾品を持ち寄り始めた。鮮やかな色彩の襦裙や華やかな簪、煌びやかな飾り玉や帯を翠玉に合わせる。

 紅、濃緑、山吹……。あれが似合う、こちらの方がよいと、次々にあてがってはあれこれと言い合う。そこに翠玉の意志はない。

「玉蓮さんでしたら、一番よくお似合いになるお色を選んでくださったでしょうに」

 ほう、と溜息を落とした侍女の一人が、ふとなにかを思い出した様な表情を見せる。玉蓮と親しくしていた侍女で名を美芳と言った。同じ様な育ちの商家の娘で境遇が似ていることから親しくなったらしい。玉蓮の親戚と聞いて翠玉をなにかと構い立てたのも彼女だった。

「あの簪、お似合いになるんじゃないかしら?」

「どの簪?」

「玉蓮さんがくださった簪なんですけど、白銀だからきっとその髪に映えると思うんです。ちょっとお待ちくださいね」

 翠玉の艶のある漆黒の髪をうっとりと見上げて微笑むと、他の侍女に断わっていそいそと簪を取りに行く。美芳が持ってきた白銀の簪は、細やかな細工が施されてはいるものの華美には過ぎず、たしかに翠玉の髪に映えた。

「思った通りですわ」

 満足げな美芳に、同僚たちが感嘆を交えて同意する。

「皆さん、何をなさっているの?」

 集まり楽しげにさざめく侍女たちに春花が声をかける。碧春の傍に誰もいないのを訝しんで様子を見に来たようだった。

「春花さま。翠玉さんを飾ってみておりましたの」

「だからといって碧春さまの房室を空けては仕事に差し障りがありますわ」

「でも……春花さま。碧春さまがお人払いをなさったのですわ。私ども、それでこちらの房室に集まっておりましたの」

 侍女たちは手を止めそそくさと拱手の礼を執り、口々に言い立てた。どれほど良家の子女が集められてはいてもそこは若い娘のこと。喧しいのはここでも同じであった。

「申し訳ありません」

 見違えるほど艶やかな翠玉も、俯いて謝罪の言葉を述べる。頭を動かした拍子に簪の飾りがしゃらりと涼やかな音を立てた。

 音に惹かれたようにちらと春花が簪を見遣り、僅かに目を瞠る。が、さりげなく視線を逸らし、

「では、皆さん、お仕事に戻って頂けますか」

 柔らかい微笑を浮かべた。

「この衣装は……」

「今日はそのままでいらっしゃいな」

「そうよ、せっかくお似合いですもの」

「今度は違うお色目を試してみましょうね」

 衣装は如何しましょうか、と翠玉が言いかけるのをそれぞれがやんわりと制する。

 春花への礼を残し、各々が自分の担当する仕事へと戻ってゆく。ただ、人払いを受けている碧春の元へは行きづらいのか、何名かが春花の指示を仰ぐためにその場に残った。春花もさすがにそれは咎め立てず、代わりに碧春の衣装や装飾品の整理を彼女らに指示していた。

 その後。

「美芳さん、ちょっといらしてください」

 春花が呼ぶのを、気にする者はなかった。



   三


 夜になり、碧春が床につき、侍女たちもそれぞれの房に引き取る刻となっても、美芳はその房へと戻らなかった。

 そして、翠玉の房では--。

「戻ってないわ」

 房の中には、蘭桂と翠玉がいた。

 後宮に紛れ込むための審査中は翠玉が、入ってからは蘭桂が翠玉と名乗り立ち働いている。もちろん、偽りに気付かれてしまえば、ただでは済まされないだろう。

「それにしても、蘭桂ってば、似合うわねぇ」

 昼間着せられた衣装を脱ごうと帯に手を掛けた蘭桂に向かって翠玉がしみじみと言った。

「仕方ないだろ」

 無愛想に応える蘭桂に、

「褒めてるのに……」

 溜息を一つ落とした。

 結い上げられた髪は既に解いて背に流し、美芳の簪は卓上に置かれている。翠玉がそれを取り上げ、揺らす。

「綺麗ね」

 ちりちりと飾りが揺れ、灯火を反射して煌めく。この白銀の簪は慥かに蘭桂の髪に映えていた。

「綺麗だけど……ね」

 すっかり着替えた蘭桂が、翠玉の手から取り上げたそれをそっと布で包んで懐にしまった。黒い長衣を羽織り、髪は結わずに軽く束ねて背に流す。娘たちの羨むこの髪の持主が少年だと知ったら、彼女たちはどう思うだろう。

 さらに羨むか、もったいないと思うか。

 この場所に限れば、要らぬ恨みを買うかもしれない。どれだけ望んでも寵を得られぬ、十人並みの容姿しか持たぬ娘にとっては、美しい髪は憧れのみでは済まないものだろう。

 そんな思いが、宮城には満ち溢れている。

「行くの?」

 返事の代わりに長衣の裾を翻し、房の長窓を開けた。


 からからからからからからからからからから……

 しん、と静かな暗い廊下の奥から、その小さな音は微かに、しかしはっきりと響いていた。文目も判らぬ筈の闇の中を、蘭桂は音のする方へとまっすぐ歩いてゆく。

 日中は閉め切られていた房のひとつ、その長窓が僅かに開いている。からからと音が漏れるのはその房からだった。

 蘭桂が足を止め覗くと、闇に浮かび上がる白い影。

 ふわり、ふわりと漂うように揺らめく。

 揺らめく影が、からからと糸車を繰っているのだ。

「……果たして、くださいましたか……?」

 ともすれば糸車の音に消されそうな幽かな声が言う。

「……もう……果たしてくださいましたか……?」

 影がゆるゆると人の形を成す。

 漆黒の髪が麗しい、少女。後宮で人目を惹きつける華やかさこそないが、清楚な美しさが派手やかな女性に飽いた者の目には新鮮に映るかもしれない。

「何を?」

 蘭桂が問う。

「彼の者らに……死を……どうか私と同じ目に……」

 俯き、幽かな声で告げるのは、恨み。蘭桂が今、懐に持つ簪は、かつてこの少女の髪を飾っていた。簪は、彼女の髪に映えるものをと時の帝が誂えさせた、彼女が寵を得た証左だったのだ。そのことが、彼女へと他の寵姫の恨みを向けさせた。ほつりほつりと幽鬼の口から語られる。

「殺された、のか?」

「……判りませぬ……もう、判りませぬ……」

 恨みを向けられた記憶はある。が、その恨みによって殺されたのか、それとも、恨みの気に負けてその命を縮めたのか。今となっては彼女自身にも判らぬらしい。

「判らないのに、同じ目に?」

「……もう、私を……ここから……」

「ここから?」

 問う、声。蘭桂のそれではなく、若い女性が蘭桂の背後から問いかけている。

「ここから、どこへ行こうと言うのかしら?」

「……ここではない、どこかへ……もう……」

 人ではない存在が、その声に怯えた気配を見せる。

「こんなところで、何をなさっているのですか? 翠玉さん」

 声の主は、春花だった。

 翠玉--蘭桂が身に纏うのは侍女の色鮮やかな襦裙ではなく、黒い衣。その姿も声も、もう少女ではなく、紛う事なき少年のものだった。それでも、春花は翠玉と呼んだ。訝しむわけでも、曲者と悲鳴を上げるわけでもなく、仕事中に侍女を咎めるのと同じ口調で静かに。

 そもそも、一つの宮を与えられる寵姫の侍女の長が深夜に人気のない房を一人訪れていることが、ふつうではない。そして、幽鬼を相手に言葉を交わすことも、また、常ではあり得ない。

「どのように、こちらへ?」

 蘭桂に問いかける春花はどこか醒めた微笑を浮かべていた。まるで、仮面のようなつくりものめいた微笑。

「美芳を探していたら、こちらの方に呼ばれたので」

 白い幽鬼を指し示し、春花をじっと見据える。

「美芳はあなたが連れて行かれたのでしょう?」

「美芳さんは、ご自分の房室でお寝みですわ。それよりも、私、あなたに用がありましてよ。翠玉さん」

 す、としずかに歩み寄り、掌を上にして右手を差し出した。

「簪、お持ちなんでしょう? 渡してくださるかしら」

「渡せない」

「どうして?」

「あなたには、渡せない」

「渡して!」

 眦をつり上げ、語気を荒げる。

 が、蘭桂は一歩も退かず、静かに春花を見据える。

「この簪は、そちらの方にお返ししますよ」

 幽鬼の少女を示すと、春花の手首を掴んで言った。

「あなたも、ここで誰かを殺したのですね」

 少女の周りに、ふわふわと白い影が浮かび上がっている。徐々に増える、それらの影もまた、朧ながら人の姿をとりつつあった。

「ほら、ここで恨みを残したまま命を失った魂たちが、喚ばれて集まっている」

 春花の罪を糾弾する蘭桂の声は冷静だ。

「この簪で、他の寵姫を殺めた者があった。殺された寵姫は、恨みをこの場に残した。その恨みがさらに他の寵姫を殺めるよう、ここに来る娘を唆し続けた」

「そしてあなたも……碧春のために、誰かを殺めたのではないですか? この、簪で……」

 懐から取り出した簪を、春花の眼前に突き付ける。その簪の髪に挿す先は、そこだけ銀の輝きが曇っていた。幾人もの血を吸った刀剣のように。

 玉蓮が見た、怪異の正体。

 玉蓮は見たのだ。春花が人を殺める現場を。見てしまったから、春花に自分が殺されることを恐れて逃げた。

 幽鬼は、居た。

 不当にその生を断ち切られた幽鬼の恨みが生きた人の心の裡に棲む悪意を操り、恨みの連鎖を繋げていた。が、玉蘭が恐れたのは、幽鬼ではなく人。幽鬼に付け入る隙を与え実際に手を下す、人の悪意。

 ここで糸車を回し続ける少女は、その恨みの犠牲者。平凡な生まれの少女は、時の皇帝に見初められたのか、誰かに買われ献上されたのか。

 それまでに生きてきた世界を奪われ、昔を懐かしみ、宮城でも糸を紡ぎ続けていた少女は、その命を失っても尚、ここで糸を紡ぎ続けた。彼女を殺した恨みに縛られ、彼女自身の恨みの糸を。

 彼女も恨みの犠牲者であり、彼女もこの宮城で犯された罪の責任を負っている。が、蘭桂はここでこれまでに犯された罪の数々を、ここでひとつひとつ挙げるつもりはない。ただ、その犠牲となった者たちを哀れに思う。

「私を、どうするおつもり?」

 春花が蘭桂を睨み付ける。

「どうやってこちらにいらしたのかは存じませんが、翠玉さんは男性でしょう? ここにいたことが知れればあなたも生きてここからは出られなくなってよ」

 言外に、訴えたら巻き添えにすると匂わせる。

「翠玉は、僕ではありませんから」

「そう、翠玉は、わたし」

 本物の翠玉が、闇の中から姿を見せる。その背後には蒼白い光をいくつも漂わせていた。

「集めてきたわよ、蘭桂」

「それで全員?」

「たぶんね。ここ広すぎるけど、そこに集まってる人たちがもうたくさんいるから」

 白い影たちを指し示す。蒼白い光も白い影も、すべてがこの宮城に拘らわれた幽鬼たち。ここで命を奪われた者らの成れの果ての姿だった。

 翠玉はふわりと襦裙の裾をひらめかせて蘭桂の隣へと回り込むと、春花に微笑みかけた。

「この宮城に入れてもらったのは、わたし。調べられても、翠玉は私だから平気なのよ」

 翠玉は蘭桂を見、

「蘭桂とは入れてもらってから入れ替わってたの。わたしには仕事なんてできないんですもの」

「それで?」

「どうもしないわ、わたしは。それよりも、春花さんはどうなさりたいの?」

 澄み切った瞳で春花をみつめて、翠玉はただ静かに問いかける。

「あなたが誰かを殺めたのは、あなたの意志? それとも、幽鬼に唆されたせい?」

「私はっ……!」

 幽鬼に操られたとは思いたくない。しかし、春花自身の意志であったと認めてしまえば、罪に問われる。それが余人に知られることがあれば、春花のみならず、碧春もまた、何らかの責を負うことになるだろう。

 しかし、思う。

 本当に碧春のためと寵を競う娘を殺めたのは、自分の意志だったのか。碧春が寵を得るためとはいえ、果たしてその娘の命を奪う必要があったのか。

「この、簪ですよね。この簪がないと、あなたは殺せなかったんですよね?」

 蘭桂が言う。

「……」

「あなたはこの簪を落としてしまった。それを美芳が持っていた。あなたが誰かを……そう、こちらの方を殺めるのを、美芳に見られたと思ったのではないですか?」

 辺りに漂う蒼白い光がひとつ、朧な人の姿を形作る。春花がその首筋に簪を突き立てた、娘の姿を。

「美芳さんを、どうされましたか?」

「殺して……ないわ……美芳さんは房室に……」

 そう。殺せなかった。あの簪でないと、殺せない。眠らせた美芳に刃物を突き立てることはできなかった。

「あなたがその方にこの簪を刺すのを見たのは、玉蓮だったのですよ」

 淡々と告げる。その口調は糾弾するものではない。

「あなたは、どうしたいのですか?」

「私は……」

「僕には、あなたを殺して差し上げることだってできますよ」

「私は……死にたくない……私は……碧春さまのお側にずっと……」

 春花は唇をかみ締め、首を横に振り続ける。

「他人の命を奪ったあなたが、生きることを望むのですね」

 蘭桂は呟き、小さく苦笑を漏らした。

「あなたが生き続けるか、それとも生を奪われるか。それは、あなたが命を奪った人たちに決めて頂きましょう」

 春花の首筋に手刀を入れ、気を失いくたりと首を垂れる彼女を、糸車の前に据えられた榻子に座らせる。簪は幽鬼の少女の手に返した。

 からからと回る糸車の横を通り過ぎ、庭へと開く長窓を開け放つと、庭へと降り立った。

 懐から小さな笛を取り出し、

「翠玉、おまえも行ってもいいんだからね」

 言って、口許に運んだ。

 夜更けの宮城に、澄んだ笛の音が響く。

 高く、遠くへと。

 笛の音が風を喚び、蘭桂の長衣がはためく。

 風は、天へと舞い上がる。

 笛は天の唄を歌い、風は唄を響かせる。

 天の唄を風に乗せ、迷える魂を、あるべき場所に還す。

 それが、蘭桂の--還魂師の力だった。

 そして、翠玉は。

 その名と同じ翡翠の色をした鳥へと姿を変える。

 仮初めに人の姿をとっていたのか、それとも、この鳥の姿が仮のものなのか。もう、本人すら覚えていないのだという。ただ、蘭桂の笛の音を聴くと姿を変じることができるのだ。

 蘭桂の、還魂の笛の音によって--。

 一声啼いて羽ばたくと、蘭桂の頭上をくるりと回り、空へと飛翔した。蒼白い光を従えて、夜空を舞う。

 生を終えた魂のあるべき場所へと向かって。

 蘭桂の笛の音が、彼らの往く先を示すのだ。

 簪を手にした少女はしばし躊躇い、だが、蘭桂に拱手すると蒼白い光となって夜空へと舞い上がった。

 春花の魂のあるべき場所は、現世なのか、それとも彼岸なのか。彼女が彼岸に行くべきならば、この宮城を彷徨っていた多くの魂がともに連れて往くだろう。

 翠玉もまた、この世を彷徨う魂だった。彼女も、あるべき場所へと還ることを願っていた。だが、蘭桂の笛の音に依っても、どういう訳か一人ではどうしても辿り着けない。いつか還ることの叶うその日を、蘭桂の傍で待ち続けていた。

 これだけ多くの魂となら、彼女も彼岸に受け入れられるのではなかろうか。


 夜明けまで、蘭桂は還魂の笛を吹き続けていた。

 いつしか糸車の音は止み、もう、風は凪いでいた。

「往ったか」

 一抹の寂寥を感じつつ、白む空を見遣る。

 明けゆく空に、小さな影が差した。影はみるみる大きくなり、まっすぐ、蘭桂の元へと舞い降りる。

「翠玉……」

 舞い降りた鳥はまた、人の姿をとる。翡翠色の襦裙を纏う少女の姿を。

「また、戻って来ちゃった」

 かるく首を傾げ、上目遣いに小さく笑う。

「わたしが居ないと、蘭桂、寂しいでしょう?」

「……そうだね」

 蘭桂は苦笑を浮かべて頷く。

「もうちょっと、一緒にいてあげるよ」

 いつか。

 いつか、その日が来るまで--。


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